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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第三十四話 飯場を囮にする

白い粉を布に包んだ時、俺はそれが米俵より重いものに思えた。


 実際には、ほんの少しだ。


 指先で摘まめるほどの粉。


 けれど、その粉が味噌に混じり、粥に溶け、兵の腹へ入れば、三百人の足を止めるかもしれない。


 米俵を盗まれるより悪い。


 盗まれた米は、足りないと分かる。


 抜かれた味噌も、樽を開ければ分かる。


 だが、飯の顔をした悪い飯は、食うまで分からない。


 それが怖かった。


 その夜、俺たちは信長様の前に出た。


 部屋の中には、信長様、弥助殿、五郎兵衛殿、坂井蔵人殿、伊三郎、かや、佐助がいた。


 佐助はいつも以上に緊張していた。


 白い粉を見分けたのは佐助だ。


 善右衛門殿の下で見たことがある粉。


 古い味噌の酸い匂いをごまかすための粉。


 そして、薬売り藤助が持っていた、さらに強い粉。


 佐助にとって、それは過去の悪い場所へ引き戻される匂いでもあるのだろう。


 俺は佐助の横に座り、膝の上で拳を握っていた。


 信長様は、布に包まれた粉を見た。


 直接触らない。


 顔も近づけない。


 ただ、じっと見ている。


「これが、兵の腹を壊す粉か」


 声は静かだった。


 その静けさが怖い。


 俺は頭を下げた。


「佐助が見ました。以前、古い味噌の匂いをごまかす粉を見たことがあるそうです。ただ、これはそれより強いと」


 信長様の目が佐助へ向く。


「佐助」


「は、はい」


「申せ」


 佐助は喉を鳴らした。


 手が震えている。


 だが、逃げなかった。


「以前、善右衛門様の下で、酸くなった味噌に辛い粉を混ぜるのを見ました。少しなら辛みでごまかせます。でも、多いと腹を下します。今日見つかった粉は、それより鼻に刺さる匂いが強く、薬売りが持つ虫下しや胃薬の粉も混じっているようでした」


「飯に入れればどうなる」


「量によります。少しなら味が変だと思うくらいかもしれません。でも、味噌に混ぜて粥に溶かせば、分かりにくいです。多ければ、腹を下す者が出ます」


 佐助の声は小さかった。


 だが、部屋の中には十分届いた。


 信長様は頷き、次に俺を見た。


「清吉」


「はい」


「飯に混じれば、おまえは分かるか」


 俺はすぐには答えられなかった。


 分かる、と言いたい。


 けれど、軽く言えない。


 相手は、飯の顔を変えようとしている。


 良い味噌の中に混ぜられれば。

 湧き水の味に紛れれば。

 火を通して匂いが変われば。

 腹を空かせた兵に急いで出せば。


 見落とすかもしれない。


「全部は、分かりません」


 俺は言った。


 正直に言うしかなかった。


「匂いが強ければ分かります。味噌に混ぜてあれば、佐助と見れば分かることもあると思います。でも、少しずつ混ぜられたり、強い味噌に紛れたりしたら、見落とすかもしれません」


 部屋が少し静かになる。


 怖かった。


 正式な兵糧見廻り役が「分からない」と言っていいのか。


 だが、信長様は怒らなかった。


「なら、どう防ぐ」


 問いはすぐ来た。


 俺は腹に力を入れた。


「混ぜられた後に見つけるより、混ぜる前に止めます」


「どうやって」


「味噌樽を開ける人を決めます。粉や薬を飯場へ持ち込ませません。味噌を溶く前に、少量を水に溶いて見ます。味噌を持ってくる荷と、薬売りや旅商人の荷を近づけません。あと、飯場の味噌は、佐助が見たものに印を付けます」


 言いながら、まだ足りないと思った。


 相手は偽印も考えている。


 薄竹皮で印を写す可能性があった。


「それと、印を変えます」


 伊三郎がこちらを見た。


「清洲式の印を、同じまま使い続けると写されます。だから、日ごとに印を変えます。飯場へ伝える時は、先に知らせすぎない。受け取り役も絞ります」


 伊三郎が頷いた。


「可能です。ただし、伝える者が増えると漏れます」


 かやが口を開いた。


「印だけじゃなく、結びも変える。竹皮の包み方も、日で変えればいい。真似されても、全部は合わないようにする」


「できるか」


 信長様が聞いた。


 かやは少し考えた。


「できます。ただ、現場が混乱します。だから、全部を毎日変えるんじゃなく、大事な荷だけ変えるのがいいです。味噌、塩、薬に見えるもの。そこだけは厳しく」


 信長様の目が細くなる。


「飯の守りは、城の守りに似てきたな」


 俺にはよく分からなかったが、弥助殿が低く頷いた。


「入口を増やせば敵も入る。入口を閉めすぎれば味方も動けぬ、ということですな」


「そうだ」


 信長様は粉の包みを見た。


「敵は飯を狙う」


 その一言で、部屋の空気が変わった。


 敵は飯を狙う。


 これまでも分かっていたはずだ。


 米を盗み、味噌を抜き、荷を倒そうとした。


 だが、信長様の口からそう断じられると、ただの蔵の問題ではなくなった。


 戦の問題だ。


 兵の腹を壊し、足を止め、清洲式の信用を壊す。


 敵はそこを狙っている。


「ならば」


 信長様は地図に手を置いた。


「狙わせる」


 俺は一瞬、意味が分からなかった。


「狙わせる、ですか」


「そうだ」


 信長様は、昨日確認した社裏の湧き水の場所に小石を置いた。


「ここは水が良い。飯場に向く。村も、条件付きで使わせる気になっている。敵から見ても、狙いたい場所だ」


 俺の腹が冷えた。


 あの社。


 あの湧き水。


 村の年配の男が「社を荒らすな」と言った場所。


 そこを囮にする。


「上様」


 思わず声が出た。


 信長様の目が俺に向く。


「何だ」


「飯場を囮にすれば、村に迷惑がかかります」


 言ってから、息が止まりそうになった。


 上様に逆らったのかもしれない。


 だが、言わずにはいられなかった。


 あの水は村の水だ。


 あの社は村の社だ。


 清洲式を押しつけるなと言われたばかりなのに、そこを囮にして荒らされたら、俺は何のために地元の腹を見たのか分からない。


 部屋は静かだった。


 かやも黙っている。


 五郎兵衛殿だけが、ほんの少し口元を動かしたように見えた。


 信長様は怒らなかった。


「だから、おまえを呼んでいる」


「俺を?」


「おまえは飯場を守りたい。村も荒らしたくない。なら、その形で囮を作れ」


 形で。


 俺は言葉を失った。


 飯場を囮にする。


 だが、本当の飯場を壊させてはいけない。


 村を巻き込んではいけない。


 兵の腹も壊してはいけない。


 では、どうする。


 かやが地図を覗き込んだ。


「社そのものは使わない」


 信長様の目がかやへ移る。


 かやは続けた。


「社裏の湧き水を使うように見せかけて、実際の飯場は少し離した高い場所に置く。水汲みの道だけ作って、荷置き場は大木の下じゃなく別にする。敵は前に見た荷置き場を狙うはず」


「つまり、偽の荷置き場か」


 弥助殿が言った。


 かやは頷く。


「空の俵と、悪くないけど飯場には使わない古い竹皮を置く。味噌樽に見せかけた空樽も。印はわざと見えやすくする」


 伊三郎がすぐ反応した。


「偽印を写しに来る者を見張るのですね」


「うん。竹皮を盗んだ男が、印を写すなら、次も見える場所へ来る」


 俺は地図を見た。


 社裏の湧き水。

 大木。

 前に荷を置いた場所。

 そこに偽の荷を置く。


 実際の飯場は少し離す。


 水は使うが、汲み場を守る。


 村には先に伝える。


 いや、伝えなければならない。


「村の人には、話しておきたいです」


 俺は言った。


 信長様が問う。


「囮だと?」


「全部は言えないかもしれません。でも、社を荒らさないこと、偽の荷を置くこと、水場を守ることは伝えないと、村の人が怒ります。もし村の人が知らずに近づいたら危ないです」


 坂井蔵人殿が口を開いた。


「情報が漏れる危険があります」


「はい」


 俺は頷いた。


「でも、村を疑ったまま飯場を置くと、もっと漏れると思います。怒った人は、こちらを守ってくれません」


 蔵人殿は少し黙った。


 それから、静かに言った。


「一理ある」


 信長様は地図の小石を動かした。


「村には、飯場の訓練と伝えよ。社を荒らさぬため、偽の荷で兵の動きを試すとな。間者の話は必要最低限だ」


「はい」


「喜助には」


「伝えたほうがいいです」


 俺はすぐ答えた。


「渡しにも目が向いています。喜助さんは川を見ています。隠すと怒ります」


 信長様が少し笑った。


「おまえ、船頭を怖がるようになったな」


「怖いです。川の上で動くなと言われました」


 部屋に小さな笑いが起きた。


 信長様も少し口元を動かした。


「よし。喜助には弥助から話せ。協力させる。ただし、余計なことは漏らさせるな」


「承知しました」


 弥助殿が頭を下げる。


 話が決まっていく。


 俺の腹はどんどん重くなった。


 飯場を囮にする。


 本物の飯ではなく、偽の荷を狙わせる。


 白い粉を持つ者を、偽印を写そうとする者を、飯場の近くへ誘い出す。


 それは、飯を守るために飯の形を使うということだ。


 嫌だった。


 でも、やらなければ、敵は本物の飯を狙う。


 佐助が小さく言った。


「清吉」


「何」


「粉を見る役、俺も行きます」


 声は震えていた。


 けれど、まっすぐだった。


「怖くないか」


「怖いです。でも、俺が知っている匂いです」


 俺は頷いた。


「頼む」


 佐助は小さく頭を下げた。


 信長様はそれを見ていた。


「佐助」


「はい」


「過去に見た悪事を、今度は防ぐために使え」


「……はい」


 佐助の目が少し潤んだ。


 だが、涙は落ちなかった。


 信長様は、泣かせるつもりではないのだろう。


 ただ、役を与えた。


 それが佐助には一番効いたのだと思う。


 その日のうちに、準備は始まった。


 清洲蔵では、偽の荷を作る。


 空の味噌樽に、少しだけ味噌の匂いをつける。

 中身は水を入れて重さを近づける。

 米俵に見せた袋には、食えない籾殻と藁を詰める。

 竹皮は古いものを束ねる。

 印は、あえて少し見えやすくする。


 俺はその作業を見ながら、腹が落ち着かなかった。


「嫌そうな顔」


 かやが言った。


「嫌だ」


「正直」


「飯の偽物を作るのは、嫌だ」


「でも、本物を守るため」


「分かってる」


 分かっている。


 それでも、空の樽に味噌の匂いをつける作業は、胸の奥をざらつかせた。


 善右衛門殿の藁入り味噌樽を思い出す。


 あれは人を騙して悪いものを食わせるためだった。


 今作っている偽樽は、悪いものを食わせないためだ。


 違う。


 違うはずだ。


 でも、形は似ている。


 五郎兵衛殿が横から言った。


「嫌なら、よく見ておけ」


「何をですか」


「おまえが嫌だと思う境目だ。そこを見失うと、善右衛門と同じになる」


 腹が冷えた。


 だが、大事な言葉だった。


 偽の荷を作る。


 だが、人の腹に入れない。


 帳面に残す。


 誰が何のために作ったかを隠さない。


 終わったら処分する。


 その境目を見失えば、俺たちも飯を汚す側になる。


「帳面に残します」


 俺は言った。


「偽荷。囮用。飯場使用不可。人には食わせない」


 伊三郎がすぐに書いた。


「大きく、ばつ印も付けます」


「お願いします」


 かやも頷いた。


「偽荷の結びは、わざと少し甘くする。でも、本物とは違う結びにする。後で混ざらないように」


「俺にも分かるか」


「分かるようにする」


 佐助は偽味噌樽の匂いをつけながら、苦い顔をしていた。


「佐助」


「はい」


「嫌か」


「嫌です」


「俺も嫌だ」


「でも、これで粉を入れに来るなら、止められます」


「うん」


 嫌な仕事だ。


 だが、必要な仕事だ。


 飯を守る役は、いつも気持ちの良いことだけをするわけではない。


 夕方前、俺たちは偽荷と少数の本物の荷を持って社裏へ向かった。


 本物の飯場は、社から少し離れた高台に置く。


 村の年配の男には、弥助殿が先に話していた。


 もちろん、すべてではない。


 飯場の訓練で偽の荷を置く。

 社を荒らさないため、人の流れを見る。

 知らない者が偽荷に近づいたら知らせてほしい。


 男は最初、ひどく嫌な顔をしたらしい。


 だが、最後には言った。


「社を荒らさないなら、見てやる」


 ありがたい。


 同時に、こちらも見られている。


 社裏に着くと、空気が張っていた。


 村人たちは遠巻きに見ている。


 兵は少ない。


 見張りは隠れている。


 偽荷を大木の近く、昨日の荷置き場に置く。


 少し目立つように。


 でも、いかにも目立ちすぎないように。


 難しい。


 かやが配置を直す。


「そこだとわざとらしい。もう少し雑に。清吉、真面目に置きすぎ」


「偽なのに真面目も何も」


「偽だからこそ、普通っぽく」


 偽の普通。


 また難しい言葉だ。


 本物の飯場では、少量の粥を炊く。


 匂いを出すためでもある。


 だが、本物の味噌は佐助が見て、俺が確認したものだけを使う。


 粉を混ぜられないよう、味噌樽から目を離さない。


 日が傾き始める。


 社の木々が長い影を落とす。


 湧き水の音が小さく聞こえる。


 俺の腹は落ち着かない。


 飯場を囮にする。


 敵は来るのか。


 来なければ、それはそれでいいのか。


 いや、粉を持つ者が野放しになるなら、よくない。


 でも、来れば危ない。


 考えが堂々巡りになる。


 かやが小声で言った。


「清吉、鍋を見て」


「え?」


「敵じゃなくて鍋。あんたの役は、来るか来ないかを考え続けることじゃない。飯を焦がさないこと」


 俺は鍋を見た。


 粥が少し煮立ちすぎていた。


 慌てて火を弱める。


「危なかった」


「でしょ」


「ありがとう」


「礼は後で」


 鍋を見ていると、少し落ち着いた。


 粥は嘘をつかない。


 火が強ければ煮えすぎる。


 弱ければ進まない。


 見ていれば応えてくれる。


 その時、村の子供が走ってきた。


 年配の男の孫だろうか。


 息を切らし、小さな声で言った。


「知らないおじさんが、社の裏へ回った」


 五郎兵衛殿の目が変わる。


 弥助殿の部下が、無言で動いた。


 俺の心臓が跳ねた。


「右足?」


 かやが聞く。


 子供は頷いた。


「少し、ひょこって」


 来た。


 右足を引きずる男。


 俺は思わず立ち上がりかけた。


 かやが袖を掴んだ。


「清吉、鍋」


「でも」


「鍋」


 俺は歯を食いしばって座った。


 そうだ。


 俺が走っても捕まえられない。


 味噌樽から目を離せば、本物の飯場が危なくなる。


 俺の役は、ここで火を守ることだ。


 社の裏手で、かすかな物音がした。


 偽荷のほうだ。


 竹皮が擦れる音。


 樽の蓋に触れる音。


 俺の手が震える。


 佐助が隣で息を殺していた。


 しばらくして、低い声が響いた。


「動くな」


 弥助殿の部下の声。


 続いて、草を踏む音。


 誰かが逃げようとした。


 短いもみ合い。


 五郎兵衛殿が駆けた。


 俺は鍋の前で動けなかった。


 いや、動かなかった。


 粥が煮えている。


 本物の味噌は俺の目の前にある。


 それを守る。


 やがて、男が引きずられるように連れてこられた。


 右足を引きずっている。


 旅商人風の格好。


 懐から、薄竹皮に写した印の紙片。


 小箱。


 そして、白い粉。


 佐助が息を呑んだ。


 弥助殿の部下が言った。


「偽の味噌樽に粉を入れようとしていました」


 男は口を閉ざしている。


 顔は青いが、目だけがぎらついていた。


 俺は鍋の火を落とし、立ち上がった。


 足が少し震えた。


「その粉、見てもいいですか」


 弥助殿の部下が小箱を開ける。


 直接は触らない。


 布に少量を取る。


 佐助が遠くから匂いを見る。


「同じです。旅籠で見つけたものと似ています」


 俺も遠くから見る。


 鼻の奥を刺す、嫌な匂い。


 飯の顔を変える匂い。


 腹を壊す匂い。


 俺は男を見た。


「誰に頼まれた」


 男は黙っている。


 五郎兵衛殿が近づいた。


「飯に混ぜる粉を持って、黙っていられると思うな」


 男は唇を歪めた。


「飯炊きが……戦の邪魔をするな」


 その声に、俺の腹が冷えた。


 戦の邪魔。


 飯を守ることが、誰かにとって邪魔なのだ。


「飯を腐らせるほうが、戦の邪魔です」


 俺は言った。


 声は震えた。


 でも、届いたと思う。


 男は笑った。


「腹が壊れれば、兵は進まん。刀を交えずに止められる。賢いやり方だろう」


 吐き気がした。


 理屈としては分かる。


 兵の腹を壊せば、戦わずに止められる。


 だからこそ、敵は飯を狙う。


 でも、その言い方が嫌だった。


 飯を、人の腹を、ただの弱点として笑っている。


「賢くありません」


 俺は言った。


「それは、飯を汚すやり方です」


 男は鼻で笑った。


「飯炊きの理屈だ」


「はい。飯炊きなので」


 その時、年配の村人が近づいてきた。


 じっと男を見ている。


「こいつ、昨日も村の裏を歩いていた」


 男の顔が少し変わった。


 村人は続けた。


「社の水を使う場所に、粉を撒こうとしていたのか」


 男は答えない。


 村人の目が怒りで細くなった。


「よそ者が、うちの水を汚す気だったのか」


 その声には、俺とは違う怒りがあった。


 村の腹の怒りだ。


 水を汚される怒り。


 社を荒らされる怒り。


 飯だけではない。


 敵は村の水も巻き込もうとしていた。


 弥助殿の部下が男を縛る。


 小箱、偽印、薄竹皮、粉。


 すべて証拠として包む。


 俺は偽の味噌樽を見た。


 中は水と少しの味噌の匂いだけ。


 粉は入れられる前に止められた。


 本物の粥は、無事だ。


 火も消えていない。


 膝から力が抜けそうになった。


 かやが小声で言う。


「止まったね」


「うん」


「鍋も焦げてない」


「そこも大事」


「大事」


 俺たちは、その場にいた兵と村人に少しだけ粥を配った。


 囮の後で粥を出すのは、少し変な気分だった。


 だが、飯場が無事だったことを見せるには、それが一番だった。


 年配の男も椀を受け取った。


 一口すすり、言った。


「今日は味噌がちょうどいい」


 俺はほっとした。


「ありがとうございます」


「礼はいい。次から、怪しい奴がいたら知らせる」


「お願いします」


「社の水を汚されちゃ困る」


「はい」


 村は、少しだけこちら側に寄った。


 それは、この日の一番大きな成果だったのかもしれない。


 清洲へ戻ると、信長様への報告が待っていた。


 右足の男を捕らえた。

 白い粉を押収した。

 偽印を写していた。

 社裏の飯場は無事。

 村人の協力を得た。

 本物の飯には混ぜられなかった。


 伊三郎はすべてを書いた。


 最後に、俺が言った言葉も書いた。


「飯場を囮にしたが、本物の飯は守った」


 それだけは、残してほしかった。


 夜、粥を食べながら、俺はまだ少し震えていた。


 飯場を囮にするのは嫌だった。


 今でも嫌だ。


 だが、今日はそれで本物の飯を守れた。


 村の水も守れた。


 敵の粉も止められた。


 境目を見失わなければ、偽の荷でも飯を守るために使える。


 それを、腹で少しだけ理解した。


 かやが椀を持って言った。


「今日の飯は、囮の味?」


「嫌な味だな」


「でも、悪くないでしょ」


「うん。悪くない」


 佐助が静かに言った。


「粉が入らなかった味です」


 それが一番しっくりきた。


 粉が入らなかった味。


 守れた飯の味。


 俺は粥をすすった。


 熱い。


 腹に落ちる。


 火は消えなかった。


 飯の顔は、変えさせなかった。

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