第三十三話 白い粉は、飯の顔を変える
白い粉が、頭から離れなかった。
米なら、湿れば重くなる。
味噌なら、酸くなれば匂いが立つ。
竹皮なら、切れば跡が残る。
川なら、流れが変われば水面のしわが変わる。
だが、粉は違う。
少し混ぜれば、見えなくなる。
味噌に入れば味噌の中へ隠れる。
米にまぶせば米粒の間へ紛れる。
竹皮に包めば、ただの荷に見える。
水に落ちれば流れてしまう。
それなのに、腹には届く。
悪い粉が飯に混じれば、兵の腹へ入る。
そう思うと、夜の清洲蔵で食べた粥の湯気まで、少し疑わしく見えた。
「清吉、椀を睨まない」
かやが言った。
「粥が悪いわけじゃないよ」
「分かってる」
「分かってない顔」
「粉のことを考えてた」
「顔に出てた。粉に負けそうな顔」
粉に負けそうな顔とは何だ。
だが、否定できない。
右足を引きずる男。
竹皮一束。
小箱。
渡しを断られ、上流の浅瀬へ向かった足跡。
泥に残った白い粉。
あれが、ただの臭い消しなのか。
古い味噌をごまかすためのものなのか。
それとも、もっと悪いものなのか。
分からない。
分からないものが、飯に近づいている。
それが一番怖かった。
翌朝、弥助殿から指示が出た。
「今日は渡し場周辺を調べる」
「右足の男を追うんですか」
「追うというより、足跡の周りを見る。誰が竹皮を売ったか。誰が小箱を持たせたか。どこで粉を手に入れたか。渡しの周辺に、旅人や商人が集まる場所がある」
「俺も行くのですか」
「粉と味噌の話だ。おまえと佐助の鼻が要る」
佐助が隣で息を呑んだ。
外へ出ることに、まだ慣れていないのだろう。
けれど、逃げる顔ではなかった。
「行きます」
佐助は小さく言った。
かやも当然のように荷をまとめている。
「竹皮の出どころは、あたしが見る」
「分かるのか」
「売る人によって、束ね方が違う。川筋の竹皮か、村の竹皮か、商人がまとめたものか。完璧には分からないけど、手がかりにはなる」
伊三郎は清洲に残り、小帳面を用意してくれた。
今回はさらに印が増えている。
竹皮の印。
粉の印。
味噌売りの印。
旅人の印。
怪しい、の印。
怪しい、の印は、斜め線が三本ついていた。
「これは?」
「決めつけず、注意する印です」
「便利だな」
「清吉には特に必要です」
「どういう意味だ」
「顔に出るので」
皆、俺の顔を何だと思っているのだろう。
ただ、役に立つなら仕方ない。
俺は小帳面と、佐助が用意した清洲蔵の基準味噌を持った。
味噌の竹筒。
小帳面。
水筒。
竹べら。
布。
そして、かやが握った小さな味噌握り。
「今日は何用だ」
俺が聞くと、かやは答えた。
「聞き込み用」
「握り飯で?」
「腹が空いてる人は口が重い。少し入ると、少し喋る」
飯で人の口を開く。
それは何度も見てきた。
だが、今日は少し難しい。
相手は村人だけではない。
商人。
旅人。
味噌売り。
渡し場に出入りする者。
その中に、敵の目が混じっているかもしれない。
怖い。
だが、粉を見ないままにはできない。
俺たちは清洲を出た。
美濃道へ向かう道は、昨日より少し乾いていた。
ただ、渡しに近づくほど風が湿ってくる。
川の匂い。
泥の匂い。
草の匂い。
それに混じって、どこかで味噌を売っているような匂いがした。
「匂う」
俺が呟くと、佐助も頷いた。
「味噌ですね。でも、清洲の味噌とは違います」
「悪い?」
「まだ分かりません。少し甘い匂いがします」
甘い味噌。
土地によって味噌が違う。
それを悪いと決めつけてはいけない。
佐助の言葉を思い出す。
清洲と違うだけのものもあるはずです。
渡し場に着くと、船頭の喜助が舟の縄を直していた。
こちらを見るなり、顔をしかめる。
「また来たのか。今日は川は渡さんぞ」
「今日は渡しません」
「じゃあ何だ」
「昨日の右足を引きずる男のことを聞きたいです。それと、粉のことを」
喜助の目が細くなった。
「川を荒らした奴のことなら、俺も腹が立ってる」
その言い方が、少しだけこちら寄りになっていた。
昨日、川を渡した飯を一緒に食ったせいかもしれない。
「右足の男は、渡し場の周りで誰かと話していましたか」
かやが聞く。
喜助は考えた。
「旅籠の横に出る味噌売り婆と話していたな。あと、薬売りみたいな男とも」
「薬売り?」
「小箱をいくつも持った男だ。粉薬だか何だか知らん。旅人に売ってる」
佐助の肩が小さく動いた。
小箱。
粉。
つながる。
「その薬売りは今も?」
「今日は見てねえ。ただ、旅籠の裏に泊まったと聞いた」
弥助殿の部下がすぐに動こうとしたが、五郎兵衛殿が手で止めた。
「まず味噌売りだ」
「なぜですか」
俺が聞くと、五郎兵衛殿は言った。
「粉だけ追うと、粉の使い道を見落とす。飯を腐らせるなら、どこに混ぜるかを見る」
確かに。
粉が問題でも、それが飯に入る場所を見なければ意味がない。
味噌売りの婆は、渡し場から少し離れた道端にいた。
小さな荷台に壺をいくつか並べ、竹のへらで味噌を量って売っている。
客は旅人や、近くの村の女たち。
婆は俺たちを見ると、すぐに目を細めた。
「武士連れかい。味噌に税でもかけに来たのかね」
「違います」
俺は頭を下げた。
「味噌を見たいだけです」
「買うなら見せる。買わないなら見せない」
もっともだ。
俺はかやを見る。
かやは小さく頷き、銭ではなく握り飯を一つ出した。
「味噌入り。こっちの味噌じゃないけど」
婆は握り飯を見た。
「銭じゃなく飯かい」
「飯炊きがいるから」
「変な連中だね」
美濃道周辺では、俺たちは変な者として定着しつつあるらしい。
婆は握り飯を受け取り、代わりに小皿へ味噌を少し取った。
「ほら。味を見るなら見な」
俺と佐助は顔を近づけた。
甘い。
清洲の味噌より、少し柔らかい匂いがする。
塩気は控えめ。
悪くない。
ただ、日持ちは清洲の強い味噌より短いかもしれない。
「良い味噌です」
俺が言うと、婆は鼻を鳴らした。
「当たり前だ。うちの味噌だよ」
「ただ、長く運ぶなら少し弱いかもしれません」
「そりゃそうだ。旅の荷にするなら塩を足すか、火を通す。そんなことも知らないのかい」
「今、知りました」
俺が素直に言うと、婆は目を瞬いた。
「……本当に変な飯炊きだね」
佐助が別の壺を見た。
「こちらは?」
「古い。安い。家で火を通して使うものだよ」
匂いは少し酸い。
だが、腐っているわけではない。
火を通せば使える。
ただし、兵にそのまま出すのは危ない。
「昨日、右足を引きずる男が来ませんでしたか」
かやが聞くと、婆の顔が少し固くなった。
「来たよ」
「何を買った?」
「古い味噌を少し。それと、竹皮を欲しがった」
「竹皮?」
「味噌壺を包むと言ってね。けど、あたしゃ竹皮は売ってない。向こうの竹細工屋に聞けと言った」
かやが小帳面に印をつけるよう、俺を見た。
俺は急いで記す。
右足男。
古味噌少量。
竹皮欲しがる。
竹細工屋へ。
「小箱は持っていましたか」
佐助が聞いた。
「持ってたね。薬売りから買ったようだった」
「中身は?」
「知らないよ。ただ、男が言ってた。『酸い匂いを殺せるか』って」
酸い匂いを殺す。
俺の腹が冷えた。
婆は嫌そうな顔をした。
「味噌の匂いを殺すなんて、ろくな使い方じゃない。だから、あたしゃ言ったんだ。悪い味噌は悪いまま火を通せ。ごまかして売るなって」
この婆は、味噌の人だ。
味噌に誇りがある。
だから、匂いをごまかすことを嫌っている。
「その男、何に使うと言っていましたか」
「兵の飯に混ぜれば、相手は腹を壊すって笑ってたよ」
その場が静まった。
兵の飯に混ぜれば、相手は腹を壊す。
はっきりと出た。
飯を腐らせる策。
敵方が、こちらの飯に悪い粉か古味噌を混ぜようとしている。
俺の手が冷たくなった。
「相手って、織田の兵か」
弥助殿の部下が低く聞く。
婆は肩をすくめた。
「そこまでは知らない。でも、この辺で兵の飯を気にしてるのは、あんたたちだろう」
かやが俺を見た。
佐助の顔は青い。
五郎兵衛殿は表情を変えないが、目だけが鋭くなっている。
「薬売りはどこへ」
俺が聞くと、婆は旅籠の裏を指した。
「昨日は泊まってた。今朝、渡し場のほうをうろついてたがね」
「逃げたかもしれません」
佐助が言った。
俺もそう思った。
だが、五郎兵衛殿が首を横に振る。
「まだ近くにいる可能性がある」
「なぜ」
「策を仕掛ける奴は、結果を見たがる」
結果を見る。
飯に混ぜた粉で兵が腹を壊すか。
荷が止まるか。
飯場が騒ぐか。
それを見たいのか。
嫌な腹だ。
俺たちは竹細工屋へ向かった。
小さな作業場で、若い男が竹籠を編んでいた。
かやが竹皮の切れ端を見せる。
「これ、ここで売ったもの?」
若い男は切れ端を手に取り、すぐに頷いた。
「うちのだ。端の切り方で分かる」
「昨日、右足を引きずる男が買った?」
「買った。けど、妙だった」
「何が」
「竹皮を包みに使うんじゃなく、印を写すために使うみたいだった。薄いところばかり選んでた」
「印を写す?」
俺は聞き返した。
若い男は竹皮を光に透かして見せた。
「薄い竹皮は、下に墨の印があると少し透ける。完全じゃないが、形をなぞれる」
背中が冷えた。
清洲式の印。
荷札の印。
それを写すために、竹皮を盗み、買い足したのか。
「偽の印を作るつもりか」
かやが低く言った。
俺は小帳面に急いで記す。
薄竹皮。
印写し。
偽札の可能性。
若い男は不安そうに俺たちを見た。
「俺、悪いことに使うとは知らなかった」
「分かっています」
俺は言った。
「見たことを教えてくれて助かります」
「本当か」
「はい」
疑う前に見る。
決めつければ、地元の腹を敵にする。
ここでも同じだ。
次に旅籠へ向かった。
旅籠の主は、最初は何も知らないと言った。
だが、かやが握り飯を出す前に、五郎兵衛殿がじっと見ただけで態度を変えた。
五郎兵衛殿の目は、時々粥より効く。
「薬売りの男は泊まった」
旅籠の主は渋々言った。
「名は?」
「藤助と名乗った。本名かどうかは知らん」
「荷は?」
「小箱が多かった。粉薬、胃薬、虫下し、臭い消し、何でも売ると言っていた」
「今はどこに」
「朝、出た。だが荷の一部を納屋に預けている」
俺たちは納屋を見せてもらった。
小箱が二つ。
ひとつは空。
もうひとつには、白い粉が少し残っていた。
佐助が顔を近づける前に、俺は止めた。
「直接嗅ぐな」
佐助がはっとした。
「はい」
布に少し取り、水に溶く。
匂いを遠くから見る。
辛い。
鼻の奥に刺さる。
古い味噌の酸さを隠す粉に似ている。
だが、それだけではない。
苦い匂いもある。
「佐助」
「はい。これは、前に見た辛い粉より強いです。たぶん、胃薬や虫下しに混ぜるものも入ってます。多く入れたら、腹を下します」
「兵の飯に混ぜれば」
「かなり危ないです」
俺は拳を握った。
飯を腐らせるだけではない。
腹を壊す粉を混ぜる。
そんなものを、味噌の臭い消しのように扱っている。
腹が怒る。
だが、焦がすな。
俺は深く息を吸った。
「これは証拠として持ち帰ります。誰にも触らせないでください」
弥助殿の部下が布で包む。
旅籠の主は青い顔をしていた。
「俺は知らなかった」
「帳面に、そう書きます」
俺は言った。
「ただ、次にその男が来たら、知らせてください。黙っていれば、この渡し場の飯が全部疑われます」
主は何度も頷いた。
納屋を出ると、かやが小声で言った。
「清吉、今の言い方、よかった」
「そうか」
「脅しすぎず、逃がしすぎず」
「腹が怒ってた」
「でも焦げてなかった」
少しだけ安心した。
それでも、事態は悪い。
右足の男。
古味噌。
薄竹皮。
偽印。
薬売り藤助の白い粉。
兵の飯に混ぜれば腹を壊す、という言葉。
これは偶然ではない。
明らかに、清洲式の飯を壊しに来ている。
しかも、米俵を奪うのではない。
印を偽り、味噌に混ぜ、腹を壊す。
飯の顔を変える策だ。
夕方近く、喜助の渡し場へ戻ると、喜助が川のほうを見ていた。
「薬売りなら、昼過ぎに上流へ行ったぞ」
「右足の男と一緒に?」
「いや、一人だ。だが、対岸に誰か待っていた」
「渡したんですか」
「断った。今日は川が重い」
「本当に?」
かやが聞くと、喜助は怒った顔をした。
「川のことでは嘘をつかん」
「ごめん。確認」
「……対岸の男は、美濃側へ引っ込んだ。薬売りは上流へ歩いた」
また浅瀬か。
五郎兵衛殿が言った。
「今日は追わん」
「分かっています」
俺は答えた。
悔しい。
だが、今は証拠を持ち帰る。
粉を、話を、痕跡を。
清洲へ帰る道で、佐助はずっと黙っていた。
「佐助」
「はい」
「大丈夫か」
「……粉の匂いを、もっと早く見分けられれば」
「今日は見分けた」
「でも、もし飯に入っていたら」
「だから、入る前に見つける」
佐助は唇を噛んだ。
「俺、ああいう粉を前に見ていました。善右衛門様の下で。もっとちゃんと言っていれば」
「今言っている」
「でも」
「佐助」
俺は足を止めた。
「悪いものを見たことがあるなら、今それを守るために使ってくれ。悔いるのは、飯を止めてからでもできる」
五郎兵衛殿に言われた言葉に似ている。
俺も、誰かに言えるようになったらしい。
佐助はしばらく黙り、それから頷いた。
「はい。見ます」
清洲へ戻ると、伊三郎が待っていた。
俺たちは一気に報告した。
味噌売り婆。
古い味噌。
酸い匂いを殺す粉。
竹細工屋。
薄竹皮で印を写す可能性。
薬売り藤助。
白い粉。
兵の飯に混ぜれば腹を壊すという言葉。
右足の男と美濃側の影。
伊三郎の顔は、どんどん険しくなった。
「これは、兵糧を盗む策ではなく、兵糧を腐らせる策ですね」
「飯の顔を変える策だと思う」
俺が言うと、伊三郎はすぐに書いた。
「飯の顔を変える策」
「また書くのか」
「重要です」
確かに、重要だった。
敵は、飯を消すだけではない。
飯の顔を変える。
良い飯の顔をした悪い飯を、兵の腹へ入れようとしている。
夜、信長様へ報告が上げられることになった。
俺たちは、その前に粥を食べた。
佐助は粉の包みを遠くに置き、何度もちらちら見ている。
かやが言った。
「今日は味、分からないね」
「うん」
俺は粥をすすった。
味はする。
だが、頭の中に白い粉が残っている。
「でも、食べる」
俺は言った。
「食べないと、腹が負ける」
かやは少し笑った。
「清吉らしい」
俺は粥をもう一口すすった。
熱い。
腹に落ちる。
白い粉は怖い。
だが、怖がって飯を疑うだけになれば、こちらの負けだ。
見て、止めて、炊く。
飯を腐らせる策に対して、俺たちは飯を炊き続ける。
火を消さない。
そのために、明日はこの粉を信長様の前へ出す。
飯の戦は、また一つ嫌な形を見せ始めていた。




