第三十一話 湧き水の社と、見ている影
美濃道で見つけた二つの飯場候補を、ただ帳面に書いて終わりにはできない。
水が良い。
荷が置ける。
火が使える。
地元の者が嫌がる場所を避けられる。
そう思っても、実際に米と味噌を運び、人を動かし、そこで飯を炊いてみなければ分からないことがある。
だから翌朝、俺たちは小規模な輸送試験に出た。
人数は五十。
荷は少なめ。
米二俵。
味噌小樽一つ。
塩小袋。
干し菜。
竹皮。
小釜二つ。
水こし布。
薪は清洲から少しだけ持ち出す。
行き先は、昨日見つけた社裏の湧き水。
あの水は良かった。
冷たく、澄んでいて、腹にすっと落ちる。
だが、社の前を荒らせば村の者が怒る。田の水ではないが、村にとって大切な場所であることは間違いない。
そこに兵を入れて飯場を作る。
小さな試験とはいえ、俺の腹は朝から重かった。
「清吉、今日の顔は何俵?」
かやが荷を見ながら聞いてきた。
「自分で言うのも変だけど、四俵くらい」
「分かってきたね」
「嬉しくない」
「でも今日は四俵で済んでる。美濃道一日目は六俵だった」
「そんなに?」
「見てるこっちが腰を痛めそうだった」
かやは笑いながら、味噌小樽の縄を確かめた。
「味噌は佐助が見た?」
「見ました」
佐助が少し後ろから答えた。
今日は佐助も同行することになった。
味噌を見る目が必要だという理由もあるが、俺が頼んだのだ。
清洲蔵だけでなく、外の道の味噌を佐助にも見てほしかった。
佐助は不安そうだったが、それでも来ると言った。
「この樽は大丈夫です。塩気はやや強めですが、湧き水で粥にするならちょうどいいと思います」
「ありがとう」
「それと、粉の匂いはありません」
佐助は少しだけ声を低くした。
辛い粉。
古い味噌をごまかすための粉。
坂井新八郎様の件でも出た。
その匂いを、佐助は今も気にしている。
俺も忘れていない。
飯に混ぜられる悪意は、目立たないところにある。
だから、見る。
嗅ぐ。
疑う。
けれど、決めつけない。
難しいが、それをしなければ飯は守れない。
伊三郎は清洲に残る。
その代わり、昨日よりもさらに印を増やした小帳面を持たされた。
「清吉。今日は社裏の飯場試験です。村人とのやり取りも記してください」
「村人との?」
「はい。水場や社を使う以上、地元の反応も兵糧の一部です」
地元の反応も兵糧の一部。
伊三郎も、だいぶ飯の道を広く見るようになった。
「分かった」
「それと、佐助の見た味噌の違いも。かやの荷置きの判断も。五郎兵衛殿の兵の様子も」
「全部書けるかな」
「印でいいです。戻ったら聞きます」
「逃げられないな」
「はい」
即答だった。
もう諦めている。
俺は小帳面を懐に入れた。
清洲を出る時、作兵衛が米俵を叩いて言った。
「清吉、向こうの水でこの米がどうなるか見てこい」
「水で変わるか」
「変わる。硬くなる時もあるし、甘くなる時もある。俺の村じゃ井戸が違うだけで飯の顔が違った」
飯の顔。
また良い言葉だ。
俺はすぐ小帳面を出そうとして、かやに止められた。
「歩き出す前から書いてたら、日が暮れるよ」
「後で覚えてるかな」
「今のは覚えられるでしょ。飯の顔」
「うん」
覚える。
飯の顔は、水で変わる。
今日の大事な見方だ。
五十人の小勢は、三百人に比べれば静かだった。
だが、道を進むと、やはり清洲の蔵とは違う緊張がある。
田のあぜ道を通る時は、兵が横へ広がらないよう注意する。荷車は軽くしたが、それでも轍は残る。ぬかるんだ場所では、車輪が少し沈む。
かやがすぐに声を飛ばす。
「そこ、あぜに寄らない! 荷車は真ん中より少し左。右は柔らかい!」
兵の一人がぼやいた。
「娘に道を指図されるとはな」
かやが振り返らずに言う。
「嫌なら米俵ごと田んぼに沈める?」
「……左だな」
「よろしい」
兵たちが笑う。
かやは強い。
でも、その強さはただの気の強さではない。
荷を沈めないための強さだ。
社へ近づくと、昨日の年配の男がいた。
柴を束ねていた男だ。
今日も同じように道端に立っている。
ただ、昨日より目が厳しい。
「本当に来たのか」
男はそう言った。
俺は頭を下げた。
「少しの人数で試します。社の前は荒らしません。兵を座らせる場所も決めます。水は使わせていただきますが、汲み場を泥にしないようにします」
男は俺を見た。
「言うだけなら誰でもできる」
「はい。だから、見ていてください」
自分で言って、腹が少し震えた。
見ていてください。
つまり、失敗すればすぐに分かる。
だが、逃げてはいけない。
地元の腹を見るということは、こちらも見られるということだ。
男はふんと鼻を鳴らした。
「村の若い者も見てる」
周囲を見ると、家の陰や畑の端に数人の村人がいた。
こちらを警戒している。
当然だ。
兵が来る。
荷が来る。
火を使う。
水を汲む。
村人にとって、良いことばかりではない。
俺は五郎兵衛殿を見た。
五郎兵衛殿は静かに頷いた。
怖がったまま、見ろ。
そう言っているようだった。
社裏の湧き水は、今日も澄んでいた。
俺はまず手を洗い、水を少しすくった。
冷たい。
昨日と同じ、腹に落ちる水だ。
だが、今日は五十人が使う。
汲み方を間違えれば、周囲が泥になる。
「水汲みは二人ずつ。足元の石から外へ出ないでください。桶を置く場所はここ。こぼした水は流れへ戻さず、下へ逃がします」
自分でも、少し細かいと思った。
だが、ここで泥を作れば、村の者は二度と信用しない。
かやが荷置き場を決める。
「大木の根の横。直接根の上には置かない。傷めると怒られる。俵の下に板を一枚。味噌樽は石で押さえる」
年配の男がそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
「根を避けるのか」
「根を傷めたら、木が弱ります」
俺が答えると、男は黙った。
何か言いたそうだったが、言わなかった。
それだけで、少しだけ通った気がした。
兵たちは社の前ではなく、少し離れた高い場所に座らせた。
五郎兵衛殿が声をかける。
「社へ近づくな。水場へ勝手に入るな。飯は配る。並ぶ場所は決める」
兵の中には不満そうな者もいた。
だが、五郎兵衛殿の目があるので従った。
飯場の火を作る。
薪は持ってきたものを使う。
地元の落ち枝には手を出さない。
小釜を二つ据え、水を入れる。
湧き水なので濁りは少ないが、それでも一度布でこした。
村の若い男が、それを見てぼそりと言った。
「そんな水までこすのか」
俺は顔を上げた。
「飯場では、なるべく同じやり方にします。水が良くても、まず見る。こす。煮る。そうしておくと、悪い水の時にも手が迷いません」
若い男は少し驚いた顔をした。
「面倒だな」
「面倒です。でも、腹を壊すよりは」
「……それはそうだ」
小さな返事だった。
だが、昨日の「知らん」よりは前に進んでいる。
粥を炊く。
米は清洲から持ってきたもの。
水は社裏の湧き水。
味噌は佐助が選んだ樽。
干し菜を細かく刻む。
塩は少し。
湯気が立ち始めると、空気が変わった。
飯の匂いは、人の警戒を少しだけ緩める。
兵たちの顔も、村人たちの顔も、湯気のほうへ向く。
「清吉」
佐助が小声で言った。
「味噌、少し控えたほうがいいかもしれません」
「なぜ」
「この水、味が柔らかいです。味噌をいつも通り入れると、強く出すぎるかも」
俺は粥を少し小皿に取り、味噌を溶いてみた。
確かに、清洲の水で作る時より味噌が丸く広がる。塩気は立つが、嫌な尖りはない。
少し少なめでいい。
「佐助、よく気づいた」
「水が違うと、味噌の出方が違うんですね」
「うん。俺も今分かった」
水で飯の顔が変わる。
作兵衛の言葉が戻ってきた。
俺は小帳面に、水の印と味噌の印をつけた。
湧き水、味噌少なめ。
これは大事だ。
粥が炊けると、まず兵に配った。
五十人分だから、三百人の時ほど混まない。
それでも、並ぶ場所を間違えると水場へ足が流れる。
かやが誘導する。
「椀を受け取ったら右。水場へ戻らない。食べる場所は上。そこ、社へ背を向けすぎない。村の人が見てるよ」
兵が苦笑する。
「飯食う向きまで言われるのか」
「言われる。清洲式だから」
「便利な言葉だな」
本当に便利になってきた。
少し怖い。
兵たちは粥をすすった。
すぐに一人が言った。
「清洲の粥より、少しうまいな」
俺は驚いた。
「水が違うからかもしれません」
「水でそんなに変わるのか」
「変わります」
言い切った。
さっき分かったばかりだが、腹ではもう納得していた。
別の兵が言う。
「味噌が薄いかと思ったが、これくらいでいい」
佐助が少し嬉しそうにした。
俺も嬉しかった。
水に合わせて味噌を変えた。
それが、兵の腹に届いた。
村人たちにも、少し粥を分けた。
これは、勝手に決めたわけではない。
弥助殿に確認し、五郎兵衛殿にも頷いてもらった。
水を借りた礼だ。
ただし、ばらまくような形にはしない。
年配の男と、近くで見ていた若者二人に、椀で渡す。
「水を使わせていただいたので」
俺が言うと、男は少し迷ってから受け取った。
一口すすり、黙った。
もう一口。
そして、言った。
「味噌が少ない」
俺の腹が一瞬沈んだ。
だが、男は続けた。
「だが、この水ならこれでいい」
胸の奥が、ふっと温かくなった。
「この水をよくご存じなんですね」
「当たり前だ。ここの水で生きてる」
その言葉は重かった。
この水で生きている。
兵が一日使う水ではない。
村人にとっては、毎日の水だ。
俺は頭を下げた。
「今日は、使わせていただきました」
「荒らしてはいない」
男は粥をすすりながら言った。
「今のところはな」
今のところ。
それで十分だった。
完全に信じられたわけではない。
だが、最初よりは進んだ。
飯場試験は、そこまでは順調に見えた。
問題が起きたのは、片づけの時だった。
かやが最初に気づいた。
「清吉」
声が低かった。
「竹皮が一束ない」
「え?」
「予備の竹皮。ここに置いた。今ない」
俺は荷置き場を見た。
確かに、一束足りない。
兵が間違えて持っていったのか。
風で飛んだのか。
いや、束だ。簡単には飛ばない。
かやの目が周囲を走る。
「誰かが触った」
俺の腹が冷える。
竹皮一束。
米や味噌ではない。
だが、飯を包むものだ。
雨になれば、竹皮がないだけで握り飯は崩れる。
「兵に確認します」
五郎兵衛殿がすぐ動いた。
兵たちの荷を見て回る。
だが、出てこない。
村人たちもざわついた。
年配の男が顔をしかめる。
「うちの者を疑うのか」
空気が硬くなった。
まずい。
ここで疑い方を間違えれば、今日積み上げたものが崩れる。
「探しています」
俺は答えた。
「疑う前に、探します」
「同じだろう」
「違います」
声が少し震えた。
でも、言った。
「誰が取ったか分かりません。兵かもしれない。村の人かもしれない。道端に落ちたかもしれない。だから、まず見ます」
男は黙った。
その時、佐助が小さく言った。
「清吉、こっち」
荷置き場の裏。
大木の根の向こう。
竹皮の細い切れ端が落ちていた。
切り口が新しい。
かやが拾い上げる。
「刃物で切ってる」
「村の者?」
護衛の一人が言いかけた。
かやがすぐに首を横に振った。
「違うと思う。村の人なら、束ごと持っていく。これは一度ほどいて、少し切って、また持った跡。使い方を知ってる」
「使い方?」
「荷を包むか、印を隠すか」
俺の背中が冷えた。
印を隠す。
清洲で、悪い荷に偽の印をつけようとしたことがあった。
「敵方の間者か」
弥助殿の部下が低く言った。
周囲がさらに硬くなる。
村人たちの顔にも不安が走った。
自分たちが疑われるのではなく、敵の間者が近くにいるかもしれない。
それもまた恐ろしい。
五郎兵衛殿が周囲を見た。
「騒ぐな。竹皮一束で騒げば、向こうの思うつぼだ」
「でも」
俺は言いかけた。
五郎兵衛殿は俺を見る。
「飯を止めるための小さな穴だ。見つけたなら塞げ」
小さな穴。
そうだ。
竹皮一束でも、穴は穴だ。
だが、大騒ぎすれば飯場そのものが壊れる。
俺は深く息を吸った。
「予備の包みを減らします。今日の帰りは雨の気配が薄いので、一重上覆いを優先。竹皮の不足分は、兵の持ち布ではなく、荷の上覆いを少し切って使います」
かやが頷いた。
「できる。けど、次から竹皮は荷置き場の内側じゃなく、人の目の真ん中に置く。大木の裏は死角になる」
俺は小帳面に印をつけた。
荷置き、大木裏死角。
竹皮一束消失。
切り跡あり。
間者の可能性。
騒がず運用変更。
伊三郎が読んだらまた顔をしかめそうだが、仕方ない。
年配の男が近づいてきた。
「村の者ではない」
その声は硬い。
「まだ分かりません」
俺は言った。
男の顔がさらに険しくなる。
だが、俺は続けた。
「だから、村の者だとも言いません」
男は黙った。
「もし村の人が見慣れない者を見たら、教えてください。米や味噌を盗まれると、兵だけでなく、この道の村にも疑いが向きます。それは避けたいです」
男はしばらく俺を見ていた。
やがて、低く言った。
「昼前、見ない男が社の裏を歩いていた」
腹が冷えた。
「どんな男ですか」
「旅の者のふりをしていた。だが、草鞋が新しすぎた。道を歩いてきた足ではなかった」
かやが反応した。
「どっちへ?」
「渡しのほうだ」
渡し。
昨日見た第二候補のほうだ。
つまり、次の飯場候補も見られているかもしれない。
弥助殿の部下がすぐに動こうとした。
五郎兵衛殿が止める。
「追うな。荷をまとめるのが先だ」
俺も頷いた。
「飯場を崩さず戻ります。追うのは、弥助殿に報告してから」
言いながら、自分が少し変わったことに気づいた。
前なら、追いたい気持ちが勝っていたかもしれない。
だが今は、飯場を崩さないことが先だと腹で分かる。
竹皮一束を奪われても、飯を止めない。
疑いで村を壊さない。
見たことを持ち帰る。
それが今の役だ。
帰り支度を終えると、年配の男が俺に言った。
「飯炊き」
「はい」
「次に来るなら、先に言え」
「いいのですか」
「社を荒らされるよりましだ。水を使うなら、使い方を決める」
それは、許可ではない。
条件だ。
でも、昨日よりずっと前に進んでいる。
俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。次は味噌をもう少しだけ濃くしろ」
かやが横で笑った。
「地元の腹から文句が出たね」
「大事な文句だ」
俺は小帳面に書いた。
村人、味噌やや濃いめ希望。
これも、飯場の記録だ。
清洲へ戻る道で、俺たちはあまり喋らなかった。
竹皮一束。
小さな損だ。
だが、そこに敵の影があった。
美濃道を見ている者がいる。
清洲式の荷を見ている者がいる。
飯場候補を探る者がいる。
俺の腹は重かった。
だが、同時に、今日の粥の味も残っていた。
湧き水で炊いた粥。
味噌を少し控えた粥。
村の男が「この水ならこれでいい」と言った粥。
美濃道の腹に、少しだけ合った飯。
清洲へ戻ると、伊三郎が待っていた。
「どうでしたか」
俺は小帳面を出した。
「良いことと、悪いことがある」
「いつものことですね」
伊三郎は落ち着いていた。
俺は少し笑った。
「まず、水は良かった。味噌は清洲より少なめでいい。村人は警戒していたが、使い方を守れば話はできる。次に、竹皮が一束消えた。切り跡あり。見知らぬ男が渡しのほうへ向かった」
伊三郎の顔が真剣になる。
「間者の可能性」
「あると思う」
伊三郎は帳面を開いた。
俺が話す。
かやが補う。
佐助が水と味噌の違いを話す。
五郎兵衛殿が村人の反応を話す。
記録が増えていく。
美濃道の腹が、少しずつ帳面の中に形を持っていく。
夜、蔵の外で湧き水ではなく清洲の水で粥を炊いた。
同じ米。
同じ味噌。
でも、味が違う。
清洲の水の味だ。
「本当に違うな」
俺が言うと、佐助が頷いた。
「はい。清洲のほうが味噌が立ちます」
かやが椀を見ながら言った。
「じゃあ、美濃道では美濃道の味にしないとだね」
「うん」
清洲式を持っていく。
でも、清洲の味を押しつけない。
その意味が、今日少しだけ分かった気がした。
ただ、敵の影も見えた。
竹皮一束。
小さな穴。
でも、穴は穴だ。
明日は渡し場を見る必要がある。
見知らぬ男が向かった場所。
そこに何があるのか。
俺は粥をすすった。
腹は温かい。
だが、背中には冷たいものが残っていた。
美濃道の腹は、まだ浅くしか見えていない。
そして、その腹のどこかに、こちらを見ている目がある。




