第二十九話 清洲の火は、消えなかった
清洲式、という名がついてから、蔵の中では妙な緊張が続いた。
名がつく前と、やっていることは大きく変わらない。
米を見て、味噌を嗅ぎ、塩を分け、竹皮を数える。
荷札をつけ、帳面に残し、飯場で受け取りを確かめる。
腹を壊した兵の数を聞き、文句も聞き、次の飯に直す。
それだけだ。
それだけなのに、名がついた途端、皆の手つきが少し変わった。
「これ、清洲式だとどうなる?」
「清洲式なら、先荷に回すんじゃねえか」
「清吉、清洲式の味噌ってどれだ?」
「清洲式の顔してるぞ」
最後のは意味が分からない。
だが、蔵の者たちは面白がっていた。
以前は「清吉がまた面倒なことを言っている」だったものが、今では「清洲式だから仕方ない」に変わり始めている。
それは、ありがたいような、怖いような変化だった。
俺の言葉ではなく、やり方そのものが残り始めている。
もし間違っていれば、その間違いも広がる。
だから、軽くはできない。
「清吉、顔が難しい」
かやが竹皮を束ねながら言った。
「難しいことを考えているから」
「清吉が?」
「悪いか」
「いや、成長したなって」
「子供扱いするな」
「最初は空鍋を混ぜてたくせに」
「あれは忘れてくれ」
「忘れない。清洲式空鍋の始まりとして語り継ぐ」
「やめろ」
かやは笑いながら、竹皮を三つに分けた。
すぐ食うもの用。
半日持たせるもの用。
雨用。
最初はただの包みだった竹皮に、今は役目がある。
米も同じだ。
白飯向き。
粥向き。
握り飯向き。
腹を戻す薄粥向き。
味噌も、佐助が分ける。
「この樽は握り飯用です。塩気が強すぎません」
「こっちは?」
「仮飯場の粥用です。火を通すと香りが立ちます。でも長く置くと酸くなります」
「では、先に出す」
「はい」
佐助の声は、もう以前のように細くない。
まだ遠慮はある。
だが、味噌の前では背筋が伸びる。
彼が悪事に使われた知識を、今は蔵を守るために使っている。それを見ていると、俺はいつも思う。
人は、ばつ印をつけるだけでは終われない。
もちろん、人の腹に悪いものを入れる者は止めなければならない。
だが、見極めて使えるところを探すことも、飯を守ることなのだ。
その日の午後、伊三郎が新しい帳面を持ってきた。
表紙に何か書いてある。
俺は目を細めた。
「清……洲……式……」
「読めましたね」
伊三郎が少し嬉しそうに言った。
「そこだけな」
「そこだけでも進歩です」
表紙には『清洲式兵糧覚』と書かれているらしい。
俺はまだ全部は読めない。
だが、その中に自分たちの十日間が詰まっていることは分かる。
湿った米。
抜かれた味噌。
川下の醤油倉。
坂井新八郎の味噌。
百人の試し。
三百人の行軍。
権六の文句。
それらが全部、帳面の中で飯になっている。
「伊三郎」
「はい」
「この帳面、俺が読めるようになるまで残るかな」
「残します」
「俺が読む前に、虫に食われないか」
「食わせません」
伊三郎は真顔で言った。
帳面に関しては、この人は弥助殿より怖い時がある。
「それと、清吉」
「何」
「上様から、夕刻に呼び出しです」
俺の腹が、また一俵重くなった。
「……先に言ってくれ」
「今言いました」
「もっと心の準備が」
「清吉は準備時間が長いほど顔に出ます」
かやが横で頷いた。
「そうそう。直前に言ったほうがいい」
「皆、俺の扱いに慣れすぎてないか」
「清洲式だから」
「その使い方は違う」
文句を言いながらも、俺は手を洗った。
爪の間に入り込んだ米粒を落とす。
味噌の匂いは、少し残った。
完全には消えない。
それでいい。
信長様の前に出る時、この匂いがあるほうが俺らしい。
夕刻、信長様の部屋へ向かった。
呼ばれたのは、俺、かや、伊三郎、五郎兵衛殿、弥助殿、そして坂井蔵人殿だった。
蔵人殿は以前より少し疲れて見えた。
坂井新八郎様の一件は、まだ尾を引いているのだろう。だが、蔵人殿の目は濁っていなかった。
部屋に入ると、信長様は地図を見ていた。
清洲から北へ伸びる道。
その先に、美濃へ続く線がある。
俺はその地図を見た瞬間、腹の奥が冷えた。
清洲の蔵ではない。
清洲の飯場でもない。
その先の道だ。
「来たか」
信長様が言った。
俺たちは頭を下げる。
「面を上げよ」
顔を上げると、信長様の指が地図の上に置かれていた。
「清洲蔵は整った」
信長様は短く言った。
その一言だけで、胸の奥が熱くなった。
整った。
完全ではない。
まだ鼠は出る。
湿気も来る。
悪い荷を狙う者も消えたわけではない。
それでも、信長様は清洲蔵が整ったと言った。
俺たちの十日間が、無駄ではなかったと認められた気がした。
「だが」
信長様の声が低くなる。
「蔵が整えば、次は道だ」
やはり。
俺は腹に力を入れた。
「美濃へ向かう道を見よ」
信長様の指が、地図の上を北へ進んだ。
「すぐに大軍を入れるわけではない。だが、いずれ美濃を取るには、兵を動かす道と飯を動かす道が要る。道が悪ければ、兵は遅れる。飯が遅れれば、兵は止まる」
信長様は俺を見た。
「清吉。おまえは清洲の腹を見た。次は美濃道の腹を見る」
「美濃道の腹……」
「水場、泥、橋、渡し、荷を隠せる場所、盗まれやすい曲がり、飯場に向く空き地。全部見ろ」
全部。
言葉だけで、米俵が十俵くらい背中に乗った気がした。
かやが一歩前に出た。
「上様。川筋も見ますか」
「見る」
「美濃へ向かうなら、川を使える場所と使えない場所で荷の組み方が変わります。舟で運べる米と、背負わせる米を分けないと」
「だから、おまえも行け」
「はい」
かやの返事は早かった。
怖くないわけではないのだろう。
だが、荷の話になると、彼女は逃げない。
信長様は伊三郎へ向いた。
「伊三郎」
「はい」
「おまえは清洲に残り、出る荷と戻る報告を記せ。だが、写しを持たせる。清吉が道で見たものを、印で残せるようにしろ」
「承知しました」
伊三郎は少し悔しそうだった。
現地へ行きたい気持ちもあるのだろう。
だが、清洲で帳面を守る者がいなければ、道で見たものが帰ってきた時に飯にならない。
それを伊三郎も分かっている。
「五郎兵衛」
「はっ」
「清吉を見ろ」
「飯より面倒な荷ですな」
「そうだ」
信長様は少し笑った。
「こやつは米を見ると前へ出る。止めろ」
「承知」
俺は小さく抗議したくなったが、皆が納得している顔だったので黙った。
弥助殿には、護衛と飯場との連絡が命じられた。
坂井蔵人殿は、美濃道沿いの兵糧方や地元の口利きの名を出す役になる。
蔵人殿は深く頭を下げた。
「坂井家の名で開いた穴、坂井家の手で塞ぎます」
信長様は何も言わず、ただ頷いた。
その沈黙が重かった。
蔵人殿はまだ傷を抱えている。
だが、その傷を隠さず、道を塞ぐために使おうとしている。
俺はその姿を見て、少しだけ頭が下がる思いがした。
「清吉」
信長様が俺を呼んだ。
「はい」
「清洲式を持っていけ」
「はい」
「だが、清洲のやり方をそのまま美濃道に押しつけるな」
俺は顔を上げた。
「違うのですか」
「違う」
信長様は即答した。
「清洲の蔵には清洲の腹がある。美濃道には美濃道の腹がある。水も違う。泥も違う。人も違う。そこを見ずに清洲式を振り回せば、清洲式が腐る」
清洲式が腐る。
その言葉に、胸が冷えた。
やり方にも腐りがあるのか。
そうか。
米も、味噌も、帳面も、やり方も。
置き場所を間違えれば腐る。
「では、どうすれば」
「見ろ」
信長様は簡単に言った。
「清洲でやったように見ろ。飯を食わせる前に、水を見ろ。荷を動かす前に、道を見ろ。人を使う前に、腹を見ろ」
「腹」
「その土地の者が何を食っているか。どこで水を汲むか。どの道を嫌がるか。どの橋を信用していないか。地元の腹を見ろ」
地元の腹。
また、新しい腹だ。
だが、不思議と少し分かった。
かやが川筋の老人に握り飯を渡して話を聞いた時のことを思い出す。
あの老人は、川の腹を知っていた。
どこに小舟が入り、どこに荷が隠れるか。
地元の者の腹を見なければ、道は分からない。
「承知しました」
俺は頭を下げた。
「怖いか」
信長様がいつものように聞いた。
「怖いです」
「よし」
なぜか、それでよしと言われる。
もう慣れてきたが、怖いものは怖い。
「ただ」
俺は続けた。
「清洲蔵には、戻る場所があります。伊三郎が帳面を残し、佐助が味噌を見て、蔵の者たちが米を守っています。だから、行けます」
言ってから、自分で少し驚いた。
以前の俺なら、「俺なんかが行けるでしょうか」と言っていたと思う。
今も怖い。
だが、一人ではない。
それを腹が覚えた。
信長様は少しだけ口元を上げた。
「なら行け」
「はい」
「清洲の火を、美濃道へ持っていけ。ただし、燃やすな。灯せ」
その言葉は、胸に深く残った。
燃やすのではなく、灯す。
清洲式を押しつけるのではない。
その土地の腹に合わせて、火を灯す。
難しい。
でも、たぶんそれが飯を守るということなのだ。
部屋を下がったあと、かやがすぐに言った。
「美濃道だって」
「うん」
「遠いね」
「遠いな」
「川も道も、清洲と違う」
「うん」
「でも、ちょっと面白そう」
俺はかやを見た。
「怖くないのか」
「怖いよ」
「そう見えない」
「強そうにしてる人だからね」
かやは笑った。
「でも、知らない道を見るのは嫌いじゃない。荷がどこで止まるか考えるのも嫌いじゃない」
「俺は胃が痛い」
「清吉はずっと胃が痛いね」
「最近、胃も役持ちになった」
かやが吹き出した。
笑いながら、少しだけ真面目な顔になる。
「でも、清吉。美濃道は清洲より危ないと思う」
「分かってる」
「商人の穴だけじゃない。敵の目もある。地元の人だって、織田に飯を運ぶのを嫌がるかもしれない」
「うん」
「それでも、行く?」
俺は少し黙った。
清洲蔵の匂いを思い出す。
湿った米。
抜かれた味噌。
悪い荷。
川下の醤油倉。
それらを見て、今の清洲式ができた。
美濃道にも、きっと見なければならないものがある。
怖い。
だが、行かなければ飯は届かない。
「行く」
俺は答えた。
「飯が道で止まるなら、見に行く」
かやは少し笑った。
「いい顔」
「米俵何俵?」
「今日は……三俵。でも足がある三俵」
「よく分からない」
「褒めてる」
「ならいい」
清洲蔵へ戻ると、皆が待っていた。
佐助が真っ先に聞く。
「どうでしたか」
「美濃道を見ることになった」
蔵の中が少し静まった。
美濃。
清洲の蔵で働く者たちにとっても、遠い場所だ。
だが、作兵衛が言った。
「なら、米を選ばねえとな」
俺は少し驚いた。
「いいのか」
「いいも何も、清洲式だろ。道へ出す米なら、乾きのいいやつだ」
別の人足も言った。
「味噌は佐助に見せろよ」
「竹皮も足りるか数えねえと」
「水こし布、洗っておくか」
皆が動き出す。
俺が命じる前に。
それを見た時、胸の奥が熱くなった。
清洲式は、俺のものではない。
本当にそうだ。
蔵の皆の手の中にある。
伊三郎の帳面だけでなく、作兵衛の手にも、佐助の鼻にも、かやの縄にも、五郎兵衛殿の目にも、弥助殿の声にも。
それが、次の道へ出る。
「清吉」
佐助が言った。
「俺は蔵に残ります。でも、味噌は見ます。美濃道へ出すなら、酸くなりにくいものを選びます」
「頼む」
「あと、辛い粉が混じっていないかも見ます」
「うん」
佐助は頷いた。
その顔は、以前よりずっと強い。
伊三郎も新しい小帳面を用意してくれた。
「道中用です。字は少なめにします。印を多くしました」
「助かる」
「ただし、帰ったら全部説明してください。清吉の言葉を私が帳面に直します」
「分かった」
「逃げないでください」
「逃げない」
かやが横で言う。
「逃げたら縄で縛る」
「最近それが本気に聞こえる」
「本気だよ」
夜、出立前の準備を終えたあと、俺たちは蔵の外で粥を食べた。
いつもの薄粥だ。
味噌は控えめ。
干し菜は細かい。
塩は少し。
豪華ではない。
だが、清洲蔵の皆で食べると、不思議とうまかった。
五郎兵衛殿が言った。
「第二の腹だな」
「何ですか、それ」
「清洲の腹を整えた。次は美濃道の腹。腹ばっかりだ」
「本当に腹ばかりです」
「おまえ向きだ」
何度目かの言葉だった。
今度は、少しだけ素直に受け取れた。
俺は粥をすすった。
熱い。
腹に落ちる。
清洲の火は、ここにある。
この火を、美濃道へ持っていく。
燃やすのではなく、灯す。
俺は椀を置き、蔵の中の米俵を見た。
清洲蔵は、もうただの米の山ではない。
ここには、皆の目がある。
皆の手がある。
帳面がある。
火がある。
だから、俺は行ける。
怖いまま。
米と味噌と、腹を見に。




