第二十八話 清洲式、上様の軍に組み込まれる
三百人を動かした翌日、清洲蔵の空気は少しだけ違っていた。
米俵は同じように積まれている。
味噌樽も、塩袋も、竹皮の束も、昨日と同じようにそこにある。
けれど、人の目が違った。
「清吉、この俵は前線飯用か?」
「はい。乾きもいいです。握り飯向きです」
「こっちは粥用だな。少し割れてる米が混じってる」
「それは仮飯場へ。よく煮れば腹に収まります」
「味噌はこの樽か?」
「佐助が見たものを」
「はい。この樽は塩気が安定しています。握り飯用に向きます」
佐助が、少し胸を張って答えた。
以前なら、人足たちは彼の言葉を疑うように聞いていた。けれど今は違う。味噌樽のことなら佐助に聞く、という流れができつつあった。
かやは荷車の前で、竹皮の包み方を人足たちに教えていた。
「全部二重にするなって言ったでしょ。雨用と先食い用で分ける。竹皮は無限に湧いてこないんだから」
「でも二重のほうが安心だろ」
「安心と無駄は違う。全部重くしたら、荷が遅れる。遅れた飯は飯じゃなくなる」
その言い方を聞いて、俺は思わず笑いそうになった。
かやの言葉にも、少しずつ飯場の匂いが混じってきている。
伊三郎は帳面の前で、昨日の結果をさらに整理していた。
「出立前薄粥、腹起こし。道中味噌握り、足止め防止。仮陣薄粥、腹戻し。雨用包み、荷崩れ防止」
「伊三郎」
「はい」
「その言葉、全部帳面に残すのか」
「残します。分かりやすいので」
「俺の変な言葉がどんどん残っていく」
「後の者が読むかもしれません」
「余計に恥ずかしい」
「恥ずかしさより実用です」
伊三郎は真面目な顔で言い切った。
この人も、随分と変わったと思う。
最初は、帳面を汚されることを嫌がる堅い人だった。今も帳面を大事にしているのは変わらない。だが、今の伊三郎は、現場の泥や味噌の匂いを帳面に入れることを嫌がらない。
帳面が、蔵の中で息をしている。
そんな感じがした。
昼前、信長様から呼び出しが来た。
もう驚かない――と言いたいところだが、やっぱり腹は重くなった。
正式な兵糧見廻り役になっても、上様の前に出るのは怖い。
それは変わらない。
「顔、出てる」
かやが言った。
「何俵分?」
「今日は二俵。慣れてきたね」
「まだ二俵あるのか」
「清吉にしては軽い」
褒められているのか分からない。
俺は手を洗い、爪の間の米粒をできるだけ落とした。
落としきれない米粒を見ると、なぜか少し落ち着く。
俺は飯炊きだ。
どれだけ役がついても、この手で米を触る。
それを忘れなければ、たぶん大きく間違えない。
信長様の部屋には、すでに人が集まっていた。
坂井蔵人殿。
弥助殿。
五郎兵衛殿。
兵を率いる武士たち。
そして、昨日の三百人に加わっていた権六も、なぜか部屋の隅にいた。
足軽がこの場にいるのは珍しいのだろう。
権六自身も、妙に背筋を伸ばしている。
俺と目が合うと、小さく口だけで言った。
――腹、静か。
この場で笑わせるな。
俺は必死に顔を引き締め、頭を下げた。
「清吉にございます」
「面を上げよ」
信長様は地図の前に座っていた。
地図の上には、清洲から北へ伸びる道、仮飯場の位置、荷の分岐点が石で示されている。
昨日の動きが、もう地図の上に置かれていた。
「昨日の三百、予定より早く仮陣に入った」
「はい」
「腹を壊した者は少ない」
「はい」
「釜が遅れたにもかかわらず、飯場は止まらなかった」
「はい」
信長様の目が、俺をまっすぐ捉えた。
「なぜ止まらなかった」
俺は腹に力を入れた。
「荷を分けたからです。先荷で味噌、塩、干し菜、少しの薪を先に入れました。追い荷に小釜を入れました。主荷の大釜が遅れても、小釜で先頭の兵に粥を回せました」
「つまり、大きな釜一つより、小さな火を複数持つほうが強い時がある」
「はい。全部を一つにすると、止まった時に全部止まります」
信長様は小さく頷いた。
「飯も兵も同じか」
その言葉の意味は、すぐには分からなかった。
だが、信長様はもう次を見ていた。
「兵を分ける。荷を分ける。火を分ける。だが、目的は一つにする」
部屋の中の武士たちが、少し空気を変えた。
これは飯の話であり、戦の話でもあるのだ。
信長様は権六を見た。
「権六」
「はっ!」
権六の声が裏返りかけた。
普段あれだけ声が大きい男でも、信長様の前では腹が揺れるらしい。
「昨日の飯はどうだった」
「はっ。文句はございます」
部屋の端で、誰かが小さく笑った。
権六は構わず続けた。
「干し菜は大きいと歯に挟まります。二つ目の握り飯は、小さすぎるものがありました。塩の強さも組で少し違いました」
俺は内心で頷いた。
全部、昨日言っていたことだ。
「だが、歩けたか」
信長様が聞く。
権六は一瞬黙り、真顔で答えた。
「歩けました。腹が重すぎず、空きすぎず……その、静かでした」
部屋が静まった。
権六は言ってから、少し恥ずかしそうに顎を引いた。
だが信長様は笑わなかった。
「腹が静かなら、槍は使えるか」
「使えます」
「腹が暴れれば」
「槍どころではございません」
「よい」
信長様はそう言い、権六を下がらせた。
俺は、権六がこの場に呼ばれた意味をようやく理解した。
俺や伊三郎の報告だけではない。
実際に食って歩いた足軽の腹の声を、信長様は聞きたかったのだ。
信長様は、次に伊三郎の帳面を見た。
「伊三郎」
「はい」
「この記録は、他の者にも読めるか」
「読めます。ただ、現場の印と合わせなければ、意味が薄くなります」
「どういうことだ」
「米何俵、味噌何樽と書くだけでは、飯場でどう使うか分かりません。出立前用、道中用、仮陣用、雨用。用途ごとに印を分けております」
伊三郎は帳面を広げた。
そこには、字と印が並んでいる。
出立前薄粥には、火の印。
道中握り飯には、足の印。
仮陣薄粥には、椀の印。
雨用包みには、雨を示す斜線。
俺でも何となく分かる。
「字を読めぬ者にも、これなら扱えます」
伊三郎が言った。
その言葉に、俺は少しだけ胸が熱くなった。
最初は、俺が字を読めないから仕方なく作った印だった。
でも今は、それが現場を動かす道具になっている。
信長様は帳面をしばらく見たあと、かやへ視線を向けた。
「かや」
「はい」
「荷を分ける基準は」
「重さと、止まった時の困り方です」
かやは即答した。
「米は重いですが、米だけでは飯になりません。味噌と塩が先にあれば、現地の米や残り米でも粥になります。釜が遅れると炊けません。だから小釜を追い荷に入れます。竹皮は全部前に出すと濡れたり潰れたりするので、予備を後ろに残します」
「道が悪ければ」
「荷車を減らして背負いに分けます。ただし人の腹も減るので、背負わせすぎると飯を運ぶ者が先に潰れます」
その言葉に、何人かの武士が頷いた。
荷を運ぶ者の腹。
それも飯の一部だ。
俺はかやの横顔を見た。
かやは、ただ荷を動かすだけではない。
荷を運ぶ人間の疲れまで見ている。
川筋で生きてきた目だ。
信長様は、地図の上に置いた石をいくつか動かした。
「清洲式」
ぽつりと、そう言った。
俺は最初、何のことか分からなかった。
信長様は続けた。
「清洲蔵で作った兵糧改めと前線飯のやり方。仮に清洲式と呼ぶ」
清洲式。
部屋の中が少しざわついた。
俺の腹も変に鳴りそうになった。
名前がついた。
俺たちが泥と味噌と米粒まみれで作ってきたやり方に。
「上様」
坂井蔵人殿が頭を下げた。
「清洲式を、今後の小勢運用に組み込むということでございましょうか」
「そうだ」
信長様は短く言った。
「大軍を動かす前に、小勢で速く動く。速く動くには飯が要る。飯が遅ければ兵も遅い。飯が悪ければ兵は減る」
信長様の指が、地図の上を走った。
「清洲式では、飯を四つに分ける」
信長様は石を四つ置いた。
「腹を起こす飯。足を止めぬ飯。腹を戻す飯。雨に崩れぬ飯」
俺が腹で考えていた言葉が、上様の声で軍の言葉になっていく。
不思議だった。
怖かった。
そして、少しだけ誇らしかった。
「さらに荷を三つに分ける」
石が三つ並ぶ。
「先荷、主荷、追い荷。火を先に入れ、米を運び、予備で止めぬ」
かやが小さく息を呑んだ。
彼女の考えた荷の分け方も、今ここで軍の言葉になっている。
「帳面は、字と印を合わせる」
信長様は伊三郎を見る。
「読める者だけでなく、運ぶ者、炊く者、受け取る者にも分かるようにせよ」
「はっ」
伊三郎の声は震えていたが、しっかりしていた。
「蔵人」
「はっ」
「兵糧方は、清洲式を試す場を広げよ。だが、一度に広げすぎるな。火は広げればよいものではない」
「承知しました」
信長様は最後に俺を見た。
「清吉」
「はい」
「おまえを、清洲式兵糧見廻り役とする」
また役が長くなった。
俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「清洲式……」
「おまえが作ったわけではない」
信長様は言った。
「米を見たおまえ、荷を見たかや、帳面を作った伊三郎、味噌を見た佐助、人を見た五郎兵衛、飯場とつないだ弥助、文句を言った権六。皆で作った」
権六が部屋の端で目を丸くしていた。
信長様は少し笑った。
「だが、腹の中心にいるのはおまえだ。腹を見失うな」
俺は頭を下げた。
言葉がすぐに出なかった。
清洲式。
兵糧見廻り役。
腹の中心。
重い。
重すぎる。
でも、その重さは不思議と嫌ではなかった。
米俵を担いだ時のように、ちゃんと足を踏ん張れば持てるかもしれない重さだった。
「承知しました」
俺はようやく答えた。
「怖いか」
信長様が聞いた。
「怖いです」
部屋にまた小さな笑いが起きた。
俺は続けた。
「ですが、一人ではないので」
信長様の目が、少しだけ細くなった。
「よい」
その一言で、俺の腹に熱が落ちた。
会議が終わると、部屋の外で権六が俺に近づいてきた。
「おい、清吉」
「何だ」
「俺の文句も清洲式に入るのか」
「上様がそう言った」
「じゃあ、俺は何役だ」
「文句役?」
「格好悪いな!」
「でも役に立つ」
権六は頭をかき、少し照れたように笑った。
「なら、次も文句言ってやるよ」
「頼む」
「頼まれると文句言いにくいな」
かやが横から言った。
「権六の腹役でいいんじゃない?」
「腹役!」
権六は大笑いした。
「そりゃいい。清吉が腹で怒るなら、俺は腹で文句を言う」
「嫌な組み合わせだな」
俺が言うと、皆が笑った。
伊三郎まで少し笑っていた。
笑いながら、俺は思った。
こういう声も、きっと飯を動かす。
偉い人の命だけでは、飯は届かない。
米を担ぐ者。
荷を結ぶ者。
帳面を書く者。
味噌を嗅ぐ者。
粥を炊く者。
文句を言う者。
食って歩く者。
全員の腹が、飯の道を作っている。
清洲蔵へ戻ると、佐助が待っていた。
「どうでしたか」
俺は少し迷ってから言った。
「清洲式って名前がついた」
佐助はぽかんとした。
「清洲式?」
「俺たちのやり方だそうだ」
「俺たちの……」
佐助は味噌樽を見た。
それから、自分の手を見た。
「俺も、入ってますか」
「入ってる。上様が、味噌を見た佐助って言った」
佐助の目が大きくなった。
唇が少し震える。
彼は慌てて俯いた。
「そう、ですか」
「うん」
「俺、前は悪いことに……」
「今は味噌を守ってる」
俺が言うと、佐助はしばらく黙った。
そして、小さく頷いた。
「もっと見ます」
「頼む」
佐助の背筋が、また少し伸びた。
その日の午後から、蔵はさらに忙しくなった。
清洲式という名がついたせいで、やることが急に増えた。
出立前薄粥の分量を整える。
味噌握りの大きさを揃える。
雨用包みの竹皮を節約する方法を試す。
先荷、主荷、追い荷の札を作る。
仮飯場用の小釜を数える。
水こし用の布を用意する。
飯場側の受け取り印を増やす。
伊三郎は帳面を新しくした。
表紙に「清洲式兵糧覚」と書かれているらしい。
俺にはまだ読めない。
だが、伊三郎が指で一文字ずつ教えてくれた。
「清、洲、式、兵、糧、覚」
「多い」
「まず、清洲式だけでも覚えてください」
「清洲は分かる」
「式は?」
「難しい」
「では明日」
字との戦は長そうだった。
かやは竹皮を火で軽く炙る試しをしていた。
佐助の言った通り、少し炙ると水を弾く。ただし、やりすぎると割れる。
「これ、使える」
かやが言った。
「でも手間がかかる」
「雨が強い時だけだな」
「うん。全部には無理」
また、全部には無理。
この言葉を何度も覚える。
全部は守れない。
だから分ける。
だから見極める。
だから、捨てるものと残すものを決める。
飯は優しさだけでは作れない。
それを清洲蔵で嫌というほど学んだ。
夕方、試作の粥を皆で食べた。
今日は、正式に清洲式と名がついた最初の日だ。
だからといって、粥が急に豪華になるわけではない。
米は少なめ。
味噌は控えめ。
干し菜を細かく。
塩を少し。
いつもの粥だ。
けれど、湯気の向こうに皆の顔があった。
かや。
伊三郎。
佐助。
五郎兵衛殿。
弥助殿。
権六まで、なぜかまだいた。
「飯くれるって聞いたから」
「誰が言った」
「俺の腹」
「便利な腹だな」
皆が笑った。
俺も笑った。
粥を一口すすった。
熱い。
腹に落ちる。
清洲式。
大げさな名だ。
でも、始まりはこの一椀なのだと思った。
腹を壊さないように。
足が止まらないように。
雨に崩れないように。
火が消えないように。
飯が、ちゃんと兵の腹へ届くように。
それだけのために、俺たちは米を見て、味噌を見て、荷を見て、帳面を見て、人を見た。
そして、それが軍の形になった。
怖い。
けれど、もう逃げたいだけではない。
俺は飯炊きだ。
飯で兵を動かす。
その道の入口に、ようやく立ったのだ。




