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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第二十七話 三百人を動かす飯

 三百人分の飯は、百人分の三倍ではなかった。


 最初にそれを思い知った。


 米の量は、確かに三倍に近い。

 味噌も、塩も、干し菜も、竹皮も、帳面の上では三倍にすればいいように見える。


 だが、実際に釜の前へ立つと、話はまるで違った。


 釜が足りない。


 火口が足りない。


 水を汲む者が足りない。


 握る手が足りない。


 竹皮を広げる場所が足りない。


 できた飯を冷ます場所も、包んだ握り飯を置く場所も、全部足りない。


「清吉、こっちの飯、蒸らしが足りない!」


「待ってください。今、火を落とします!」


「味噌、次の樽開けるよ!」


「佐助、匂いを見てから!」


「竹皮、二重分はもう分けた! 通常包みはこっち!」


「かや、雨用は?」


「上覆いに回す。全部二重は無理!」


 蔵の横は、朝から戦場のようだった。


 いや、実際、これは戦の準備なのだ。


 三百人の小勢が、夜明け前に清洲を出る。


 目的は北方の小城周辺の動きを探ること。大きな戦ではないと聞かされている。だが、兵が動く以上、飯は要る。


 しかも、ただ食わせるだけでは駄目だ。


 早く動かす飯。


 信長様はそう言った。


 俺はその言葉を、何度も腹の中で繰り返していた。


 早く動かす飯。


 腹を重くしない。

 腹を空にしすぎない。

 喉を渇かせすぎない。

 雨に崩れない。

 仮陣に着いてすぐ熱いものを入れられる。


 難しい。


 考えれば考えるほど、飯というものは面倒だ。


 だが、面倒だからこそ、ちゃんと見れば差が出る。


 桶狭間の時は、とにかく握った。


 今は、考えて握る。


 それだけで手の動きが変わった。


「清吉!」


 声の大きい男が蔵へ入ってきた。


 権六だ。


 昨日呼ぶと言われていたが、本当に来た。


「来たぞ。俺の腹を使うんだって?」


「はい。お願いします」


「そこは少し遠慮しろよ」


「遠慮している暇がないので」


 権六は大きく笑った。


「いいぞ。飯炊きが少し偉そうになった」


「偉そうですか」


「いや、前より腹が据わった顔だ」


 それを聞いて、少しだけ胸が軽くなった。


 権六はすぐに試し用の握り飯を一つ取った。


「これ、昨日のより小さいな」


「二つ目用です。道中で食べる分は少し小さくしました」


「なぜ」


「一つ目で足を作って、二つ目は足を止めないためです。大きすぎると帰りや仮陣前で重くなります」


「分かったような、分からねえような」


「食べて歩けば分かります」


「言うようになったな」


 権六は笑いながら食った。


 噛む。


 眉を寄せる。


 飲み込む。


「味噌はいい。けど米が少し固い」


「雨用の握り方です」


「雨が降らなかったら?」


「少し固く感じます」


「じゃあ、全部これだと文句が出るぞ」


「やっぱり」


 俺は伊三郎を見た。


 伊三郎はもう書いている。


「雨用固め、晴天時は固さに文句。権六」


「また俺の名か」


「役に立つ腹ですから」


「悪くねえな、それ」


 権六は妙に満足そうだった。


 結局、三百人分の飯は三種類に分けることにした。


 出立前。


 腹を起こす薄粥。


 これは清洲で食わせる。


 味噌は控えめ。塩も少し。米をよく煮て、腹に重くならない程度。早朝の冷えた腹を起こすための飯だ。


 道中。


 味噌握り二つ。


 一つ目は少し大きめ。味噌を薄く広げ、干し菜を細かく混ぜる。


 二つ目は小さめ。塩気を少しだけ強めにして、長く歩いても力が抜けないようにする。


 雨用。


 通常の包みに、上覆いをかける。


 全員分を二重にする竹皮は足りない。だから、組ごとに予備の竹皮を持たせ、雨が強くなった時だけ上から巻く。


 そして仮陣用。


 米は一部を先荷で送り、現地で薄粥にする。水場は、かやと俺が先に確認する。濁っていれば布でこして煮る。


「問題は、火口です」


 伊三郎が帳面を見ながら言った。


「三百人分の粥を一度に作るには、釜が足りません」


「一度に作らない」


 俺は答えた。


「組を分けます。到着した順に食わせると列が詰まるので、あらかじめ三組に分けて、火口も三つにする。先に水を煮ておく」


「水を煮る人手が必要です」


「弥助殿に頼みます」


「薪は?」


「乾いたものを先に送る。現地で拾う薪は湿っているかもしれない」


 言いながら、頭が痛くなってきた。


 飯を作るためには、米だけでは足りない。


 釜。

 桶。

 竹皮。

 薪。

 布。

 水場。

 火口。

 人の流れ。


 全部が飯だ。


 清洲蔵を整えたと思ったら、今度は前線の飯場そのものを作らなければならない。


「清吉」


 かやが言った。


「荷は二手じゃ足りない。三手にする」


「また三手か」


「先荷、主荷、追い荷。先荷は味噌、塩、干し菜、薪少し。主荷は米と釜。追い荷は予備の米と竹皮」


「なぜ追い荷?」


「全部一度に動かすと遅い。あと、主荷が詰まった時に、追い荷だけ別道で回せる」


 かやは地図の上に小石を置いた。


 いつの間にか、彼女は地図を見るのに慣れてきている。


 川と道を見る目だ。


「ここで主荷が止まる可能性がある。道が細い。雨だとぬかるむ」


「なら先荷は軽くして先に行かせる」


「うん。仮飯場に火だけでも作っておく」


 火だけでも。


 その言葉に、信長様の声が重なった。


 火を消すな。


 清洲から仮陣へ。


 火を先に運ぶのだ。


 米より先に、火の支度を運ぶ。


「それでいこう」


 俺は言った。


 かやが少し笑った。


「清吉、今の顔はいい」


「米俵何俵分?」


「今日は四俵。でも前に進む四俵」


「重いな」


「重いけど、動いてる」


 出立は夜明け前だった。


 空がまだ黒いうちから、兵たちは清洲の外へ集められた。


 三百人。


 百人の時とは圧が違う。


 人が三倍になると、声も三倍、足音も三倍、文句も三倍だった。


「粥はまだか」


「朝から粥かよ」


「握り飯だけでいいだろ」


「腹で怒る清吉がいるぞ」


「なら食っとけ。腹を見られる」


 俺はもう訂正しなかった。


 腹で怒る清吉。


 どうやら、それで水を煮て椀を湯にくぐらせてくれるなら、名としては使えるらしい。


 ただ、少し恥ずかしいだけだ。


 薄粥を配る。


 三百人に食わせるには、順番が大事だった。


 最初に出る組から食わせる。

 次に中ほどの組。

 最後に荷を守る後ろの組。


 一斉に並ばせると詰まる。


 かやが兵の流れを見ていた。


「そこ、桶の前で止まらない! 受け取ったら右へ流れる!」


「右ってどっちだ!」


「箸を持ってないほう!」


「俺、左利きだぞ!」


「じゃあ人の流れ見ろ!」


 兵たちが笑いながら動く。


 かやの声は強い。


 だが、不思議と怒りだけではない。


 荷を流すように、人も流す。


 それができるのが、かやだった。


 権六が粥を受け取り、一口すすった。


「昨日より少し塩があるな」


「早朝なので」


「悪くねえ。目が覚める」


 その声が周りに広がる。


「権六が悪くねえってよ」


「じゃあ食えるな」


「権六の腹は信用されてるな」


「俺は飯の大将かよ」


 笑いが起きた。


 でも、その笑いで粥が進んだ。


 権六の文句は、兵たちの警戒を少し解く。


 これも人の目なのだと俺は思った。


 やがて、三百人が動き出した。


 先荷はすでに出ている。


 俺とかやは、先荷とともに仮飯場予定地へ向かう。


 伊三郎は清洲に残り、出立時の数と荷を記す。佐助は味噌樽の管理。五郎兵衛殿は兵の列の中ほど。弥助殿は全体のつなぎ。


 夜明け前の道は冷たい。


 草鞋が湿る。


 荷は軽くしたはずだが、味噌と塩はやはり重い。


 かやは前を歩きながら、道の泥を見ている。


「この道、昨日より柔らかい」


「雨は降ってないのに?」


「夜露と、人の足。三百人が通れば変わる」


 なるほど。


 百人なら大丈夫だった道も、三百人では沈むかもしれない。


 道も腹と同じだ。


 入る量が増えれば、詰まる。


「少し脇へ寄せる?」


「荷は寄せる。兵は広がりすぎると列が乱れる。難しいね」


 かやが言うと、護衛の男が苦笑した。


「荷運び娘が軍配を持ちそうだな」


「持たないよ。重そうだし」


 かやは軽く返したが、目は道から離さなかった。


 仮飯場予定地に着いたのは、予定より少し早かった。


 それだけで、俺の腹は少し軽くなる。


 場所は小さな林の横。


 水場は近い。昨日よりは澄んでいるが、それでもそのまま飲ませる気にはなれない。


「水はこします。煮ます」


「火口は?」


 かやが周囲を見た。


「風はこっちへ抜ける。煙が兵のほうへ行かないように、火は三つに分ける」


 俺は頷いた。


 先荷の者たちが動く。


 薪を割る。

 釜を据える。

 桶に水を汲む。

 布でこす。

 火をつける。


 火がつくと、俺は少し安心した。


 米はまだ来ていない。


 主荷は後ろだ。


 それでも火がある。


 火があれば、飯場は始まっている。


「清吉」


 かやが言った。


「主荷、少し遅れてる」


「見えるのか」


「見えない。でも音が遅い」


「音?」


「荷車の音。三台のうち、一台分少ない」


 俺には、道の向こうのざわめきしか聞こえない。


 だが、かやは荷車の音を聞いている。


 しばらくして、弥助殿の部下が駆けてきた。


「主荷の一台、ぬかるみに車輪を取られました!」


 やはり。


 俺の腹が冷えた。


「米は?」


「無事です。ただ、到着が遅れます」


「どの荷ですか」


「大釜と米の一部です」


 大釜。


 米よりも痛い。


 釜がなければ炊けない。


「追い荷は」


「別道で進んでいます。小釜が二つあります」


 かやがすぐに言った。


「なら火口を変える。大釜待ちはやめる。小釜二つと今ある釜で先に粥を回す」


「三百人分には足りない」


「全部一度に食わせない。先に前の組だけ」


 俺は頷いた。


「そうしよう。主荷を待って全部遅らせるより、着いた組から腹を戻す」


 俺たちは火口を組み替えた。


 こういう時、三つに分けたことが効いた。


 先荷に少しだけ味噌と塩と干し菜を入れていた。追い荷にも小釜がある。大釜が遅れても、完全には止まらない。


 やがて、先頭の兵たちが到着した。


 予定より少し早い。


 息は上がっているが、崩れてはいない。


 権六もいた。


「清吉!」


「はい!」


「飯は!」


「今、煮ています!」


「遅い!」


「釜が一つ遅れました!」


「正直だな!」


「でも火はあります!」


 権六はそれを聞いて笑った。


「なら待つ!」


 兵たちを座らせる。


 水をがぶ飲みさせない。


 濡れた草鞋を見させる。


 握り飯の二つ目をまだ残している者には、すぐ食わせすぎない。


 小釜の粥が煮えた。


 味噌を控えめに溶く。


 塩を少し。


 干し菜を細かく。


 最初の椀を権六に渡す。


「また俺か」


「感想が正直なので」


「毒見みたいだな」


「毒は入れてません」


「分かってるよ」


 権六は粥をすすった。


 目を閉じる。


「……熱い」


「すみません」


「いや、いい。足が戻る」


 足が戻る。


 俺は伊三郎がいないことを悔やんだ。


 これは帳面に残したい言葉だ。


 でも、俺が覚えておけばいい。


 足が戻る飯。


 兵たちにも粥が回り始めた。


 小釜なので時間はかかる。


 だが、完全に待たせるよりはいい。


 主荷の大釜が遅れて到着した頃には、先頭組の腹は少し戻っていた。


 後続の兵たちも順に到着する。


 疲れている。


 だが、大きく崩れていない。


 握り飯の包みも、昨日の改良が効いている。上覆いの竹皮が、思ったよりよく守っていた。


 問題も出た。


 塩気が少し強いという者。

 干し菜が歯に挟まるという者。

 小さい握り飯を先に食いすぎて、後で腹が鳴った者。

 水を我慢しすぎて、逆に顔色が悪くなった者。


 全部、覚える。


 覚えきれない分は、かやが小石で地面に印をつけた。


「あとで伊三郎に言う」


「地面に?」


「帳面がない時は、地面も帳面」


「雨が降ったら?」


「消える前に覚える」


 無茶だ。


 だが、今はそれしかない。


 昼を少し過ぎた頃、三百人は予定より早く仮陣へ入った。


 大きな遅れは、主荷の一台だけ。


 それも、先荷と追い荷のおかげで飯場は止まらなかった。


 弥助殿が俺のところへ来た。


「清吉」


「はい」


「上様へ伝える。三百、予定より早く入った。大きな腹痛なし。飯場、釜一つ遅れたが止まらず」


 その言葉を聞いた瞬間、膝から力が抜けそうになった。


「止まらず」


「ああ。止まらなかった」


 弥助殿は珍しく、はっきり笑った。


「飯で兵が早くなったぞ」


 胸の奥に、熱いものが込み上げた。


 飯で兵が早くなった。


 信長様の言葉が、実際の道の上で形になった。


 俺の飯だけではない。


 かやの荷。

 伊三郎の帳面。

 佐助の味噌。

 五郎兵衛殿の人を見る目。

 弥助殿のつなぎ。

 権六たちの正直な腹。


 全部がつながって、三百人が早く動いた。


 仮飯場の煙が、空へ上がっていた。


 その煙を見ながら、俺は思った。


 これはもう、ただの炊き出しではない。


 兵を動かす仕組みだ。


 怖い。


 とても怖い。


 でも、腹の底が熱かった。


 夕方、清洲へ戻る前に、権六がやってきた。


「清吉」


「はい」


「今日の飯、文句はある」


「聞きます」


「干し菜はもっと細かくしろ。二つ目の握り飯は小さすぎる奴があった。塩は組によってばらついてる。あと、粥はもう少し早く出せ」


「はい」


「でも」


 権六は少しだけ照れくさそうに頭をかいた。


「歩けた」


 俺は黙って頷いた。


 その一言で十分だった。


「次はもっと良くします」


「次も俺の腹を使うのか」


「お願いします」


「仕方ねえな」


 権六は笑い、兵たちのほうへ戻っていった。


 清洲へ帰る道で、かやが言った。


「やれたね」


「うん」


「でも、清吉の顔、また重い」


「次を考えてる」


「だと思った」


 三百人は動いた。


 だが、次はもっと多いかもしれない。


 道はもっと悪いかもしれない。


 敵が近いかもしれない。


 飯場を置く暇すらないかもしれない。


 考えることは、増えるばかりだ。


 でも、今日、三百人は歩いた。


 腹を大きく壊さず、予定より早く仮陣へ入った。


 それは消えない。


 清洲蔵へ戻ると、伊三郎が待っていた。


「結果は」


 俺は答えた。


「三百、予定より早く入りました。飯場は止まりませんでした」


 伊三郎の顔が、ぱっと明るくなった。


 すぐに帳面を開く。


「詳しく」


「多いぞ」


「全部聞きます」


 俺は笑った。


 そして話し始めた。


 釜が遅れたこと。

 小釜で先に回したこと。

 権六が足が戻ると言ったこと。

 塩気のばらつき。

 干し菜の大きさ。

 上覆い竹皮の効果。

 水の煮方。

 主荷と追い荷の意味。


 伊三郎は書く。


 かやが補う。


 五郎兵衛殿が兵の様子を足す。


 弥助殿が全体の時刻を伝える。


 佐助が味噌の樽ごとの違いを記す。


 帳面に、三百人の腹が残っていく。


 夜、試験ではなく実際に使った飯の残りを皆で食べた。


 味は少しばらついていた。


 疲れていたせいか、やけにうまかった。


 かやが椀を持って言った。


「今日の飯は、速い味がする」


「また変な味だな」


「でも、そうでしょ」


「うん」


 俺は粥をすすった。


 熱い。


 腹に落ちる。


 足が戻る。


 飯は、兵を早くする。


 その事実が、粥の熱と一緒に腹の底へ沈んでいった。

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