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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第二十六話 飯は、兵を早くする

 百人を半日歩かせた翌朝、俺の手は少し腫れていた。


 握り飯を作ったせいだけではない。


 雨に濡れた竹皮をほどき、崩れたものを確かめ、粥を炊き、味噌を分け、帰ってきた兵たちの腹の具合を聞いて回ったせいだ。


 だが、疲れているわりに、腹の奥は妙に軽かった。


 百人は歩いた。


 飯を食って、雨に降られて、それでも戻ってきた。


 もちろん完璧ではない。


 通常包みの握り飯は、何人かの懐で潰れた。

 干し菜入りは腹持ちはいいが、急いで食うには少し噛みにくい。

 雨用の竹皮二重は強いが、竹皮を食いすぎる。

 塩の強さも、兵によって好みが分かれた。


 それでも、腹を大きく壊した者は出なかった。


 権六は「腹が静かだった」と言った。


 あの言葉は、俺の中に残っている。


 腹が静か。


 戦の前に、それはきっと大事なことだ。


 腹が暴れれば、兵は槍どころではない。

 腹が空きすぎれば、足が浮く。

 腹が重すぎれば、足が沈む。

 腹が静かなら、兵は前を見られる。


 飯は、ただ満たせばいいわけではないのだ。


「清吉」


 伊三郎が帳面を抱えて来た。


 目の下には、少しだけ隈がある。


「昨日のまとめができました」


「早いな」


「眠る前に書かないと、感想が薄れます」


「伊三郎も無茶をするようになった」


「誰かの影響です」


 そう言って、伊三郎は俺を見る。


 心当たりがありすぎて、言い返せなかった。


 伊三郎は帳面を開いた。


「歩兵百名。半日行軍。出立前薄粥、道中味噌握り二個、仮飯場薄粥。途中小雨。脱落者なし。腹痛一名、ただし事前不調あり。雨用竹皮二重、保存良好。ただし竹皮消費多。通常包み、潰れ三例。味噌薄広げ、好評。干し菜入り、腹持ち良、急ぎには不向き」


 字は読めないが、伊三郎の声で聞くと、昨日の道がそのまま浮かぶ。


 権六の笑い声。

 雨の匂い。

 仮飯場の煙。

 濁った水を布でこす手。

 湯気を浴びながら粥をすすった兵たちの沈黙。


「それで」


 伊三郎は少し声を低くした。


「上様へ報告することになりました」


「もう?」


「弥助殿が昨日のうちに簡単な報告を上げたそうです。今朝、呼び出しがありました」


 俺の腹がまた重くなった。


 最近、信長様に呼ばれるたびに腹が重くなる。


 正式な役をもらったのだから仕方ないのかもしれないが、俺の腹はまだ役持ちに慣れていない。


「顔、出てるよ」


 後ろから、かやが言った。


 竹皮の束を抱えている。


「今日は何の顔だ」


「呼ばれたくないけど、結果は聞いてほしい顔」


「その通りすぎる」


「分かりやすいね」


 かやは笑った。


 その笑いで、少しだけ気が緩む。


 五郎兵衛殿もやってきた。


「清吉。昨日の兵ども、朝から妙なことを言ってるぞ」


「妙なこと?」


「次もあの粥なら歩ける、だとよ」


 俺は目を瞬いた。


「本当ですか」


「ああ。まあ、飯への文句もある」


「やっぱり」


「味噌はもう少し欲しい、干し菜は細かくしろ、握り飯は二つ目を少し小さくしろ、だと」


「細かいですね」


「兵は食うものには細かい」


 確かに、そうだ。


 腹は正直だ。


 槍の柄が少し長いとか、草鞋がゆるいとか、飯の塩が強いとか、そういうことが、歩く時には効いてくる。


 俺はすぐ伊三郎を見た。


「今の、書けるか」


「すでに」


 伊三郎は筆を走らせていた。


 五郎兵衛殿が笑う。


「いい顔になってきたな、帳面役」


「どういう顔ですか」


「飯の文句を喜んで書く顔だ」


「……少し否定できません」


 そんなやり取りをしていると、弥助殿が蔵へ入ってきた。


「清吉、行くぞ」


「はい」


「かやと伊三郎もだ。五郎兵衛も来い」


「佐助は?」


 俺が聞くと、弥助殿は少し考えた。


「佐助は蔵に残せ。味噌樽を見る目が要る」


「分かりました」


 佐助は少し残念そうだったが、すぐに頷いた。


「蔵を見ます」


「頼む」


「はい」


 佐助の返事は、以前よりも少し強くなっている。


 それを見て、俺は少し嬉しかった。


 信長様の部屋へ向かう道で、かやが小声で言った。


「清吉、今日は自分で話す?」


「話すことになるだろうな」


「大丈夫?」


「大丈夫じゃない」


「正直でよろしい」


「でも、昨日見たことなら話せる」


「なら大丈夫」


 かやは簡単に言う。


 だが、それが今の俺には一番効いた。


 見たことなら話せる。


 米の匂い。

 味噌の塩気。

 兵の歩き方。

 雨で濡れた竹皮。

 権六の「腹が静か」。


 それなら、俺の腹にある。


 部屋に入ると、信長様は地図の前にいた。


 いつもの地図だ。


 清洲から北へ向かう道筋に、小さな石が置かれている。


 その石の一つが、昨日の仮飯場の場所だった。


 すでに報告は上がっているらしい。


 俺たちは頭を下げた。


「面を上げよ」


 信長様はすぐに言った。


「百人、歩いたか」


「はい」


「腹は」


「大きく壊した者はおりません。一名、腹を押さえましたが、朝から調子が悪かったようです」


「足は」


「止まりませんでした」


 信長様は少し目を細めた。


「飯で足は変わったか」


 俺は少し考えた。


 うまく答えようとすると詰まりそうだったので、見たままを言うことにした。


「出立前に薄粥を入れたことで、最初の足が乱れませんでした。空腹のまま歩くと、最初は軽いですが、途中で落ちます。昨日はそれが少なかったです」


「道中の握り飯は」


「味噌を塊にせず、薄く広げたものが良かったです。一口目だけが濃いのではなく、最後まで塩気が続きます。兵の権六が、塊より食いやすいと言いました」


「権六?」


 信長様が聞き返す。


「昨日歩いた足軽です。文句は多いですが、腹の感想は正直でした」


 部屋の端で、弥助殿が小さく笑った気配がした。


 信長様も少し口元を動かす。


「文句の多い兵の腹は、役に立つか」


「はい。文句が出るうちは、まだ見られます。本当に悪い時は、文句も出ません」


 信長様は頷いた。


「なるほど」


 俺は続けた。


「雨用の包みは、竹皮二重が強いです。ただし、竹皮を多く使います。一重にして上から覆う形でも、結びを工夫すれば使えます。かやが見ました」


 信長様の視線が、かやへ移る。


「かや」


「はい」


「雨の荷は、どう見る」


「濡らさないことだけ考えると荷が重くなります。全部二重に包むと、竹皮も人手も足りません。先に食う飯と、後まで持たせる飯を分けるほうがいいです」


「ほう」


「すぐ食う分は一重。半日以上持たせる分は上覆い。雨が強い時だけ二重。全部を同じ包みにすると、無駄が出ます」


 信長様は地図ではなく、かやの手元を見ていた。


 かやの手は、竹皮と縄で小さな包みの形を作っている。


 言葉だけでなく、手で示す。


 荷を見る者の説明だ。


「使える」


 信長様が短く言った。


 かやは一瞬だけ驚いた顔をし、それから頭を下げた。


「ありがとうございます」


 伊三郎が帳面を開いた。


「昨日の記録では、竹皮二重は保存良好ながら、消費量が倍。一重上覆いは、保存はやや劣りますが、消費を抑えられます。通常包みは、小雨でも懐で潰れた例が三件」


 信長様は帳面を見た。


「数字が飯になってきたな」


 伊三郎の顔が、ほんの少し明るくなった。


「ありがとうございます」


 信長様は俺に戻った。


「仮飯場の粥は」


「雨で冷えた後なので、出立前より少し塩を足しました。味噌は控えめ。干し菜を少し。兵たちには、出立前の粥より評判が良かったです」


「なぜだ」


「冷えていたからです」


 俺は答えた。


「同じ飯でも、食う時で役目が違います。出立前は腹を起こす飯。雨の後は腹を戻す飯です」


 信長様は、その言葉を聞いて少し黙った。


 部屋の空気も、少し止まる。


「腹を起こす飯。腹を戻す飯」


 信長様は繰り返した。


「おまえ、飯に名を付けるのがうまいな」


「名を付けたつもりは……」


「よい。名は人を動かす」


 信長様は地図の上に小石を置き直した。


「百人が半日歩いた。次は、これを使う」


 使う。


 その一言で、腹が重くなった。


 試しではない。


 実際の兵の移動に。


「近く、北へ小勢を出す」


 信長様は言った。


「大戦ではない。だが、速く動かす。夜明け前に出し、昼までに仮陣へ入れる。戻るか、そのまま留まるかは状況次第だ」


 俺は地図を見た。


 清洲から北。


 昨日より遠い。


 道も悪そうだ。


「人数は」


 弥助殿が尋ねる。


「三百」


 三百。


 百の三倍。


 当たり前だが、飯も三倍だ。


 いや、単純に三倍ではない。


 三百人になると、鍋の数も、人手も、包みも、荷も変わる。


 飯場の火も増える。


 水も増える。


 文句も増える。


 俺の頭の中で、米俵が転がり始めた。


「清吉」


 信長様が呼んだ。


「はい」


「顔が米俵になっておるぞ」


 まただ。


 部屋に小さな笑いが起きる。


 俺は否定しなかった。


「三百は、多いです」


「知っておる」


「米も味噌も塩も増えます。竹皮も足りなくなるかもしれません。飯場も二つに分けたほうがいいと思います」


「なぜ」


「一つの飯場で三百人分を一度に炊くと、遅くなります。焦げます。並ぶ兵も増えます。腹を空かせて待つ時間が増えます」


 言いながら、形が見えてきた。


「先に食わせる粥は、出立前に清洲で。道中握り飯は一人二つ。ただし、二つ目は少し小さくします。昨日、権六が二つ目は小さくてもいいと言っていました」


「権六がまた出たか」


「はい。役に立つ腹です」


 弥助殿がとうとう笑った。


 信長様も、少し笑った。


「では、権六の腹も使うか」


「え?」


「その三百に入れろ。文句を聞け」


「……はい」


 権六は嫌がるだろうか。


 いや、たぶん文句を言いながら来る。


 そして食った感想を言う。


 それは確かに役に立つ。


「仮陣へ入った後の飯は」


 信長様が問う。


「腹を戻す薄粥です。雨でなくても、歩いた後は熱いものが要ります。ただし、すぐに動く可能性があるなら重くしない。味噌は控えめ、塩を少し、干し菜を細かく」


「水場は」


「先に見たいです」


「誰が見る」


 俺はかやを見た。


「かやと、俺が」


 かやがすぐ頷く。


「水場と荷置き場は見ます。泥で荷車が沈む場所は避けたいです」


 信長様は弥助殿へ向いた。


「先に二人を出せ。護衛を付ける。伊三郎は清洲に残り、出入りを記せ」


「承知しました」


 伊三郎は少し悔しそうだが、今度はすぐに頷いた。


 帳面を守る役も大事だと分かっている顔だった。


「清吉」


「はい」


「これは試しではない。実際に兵を動かす」


「はい」


「飯で遅れれば、兵が遅れる。飯で腹を壊せば、槍が減る」


「はい」


「だが、飯が合えば」


 信長様は地図の上の石を一つ、すっと前へ動かした。


「同じ兵が、早く動く」


 その動きを見て、俺は息を止めた。


 飯が、兵を早くする。


 今まで、飯は兵を支えるものだと思っていた。


 倒れないようにするもの。

 腹を壊さないようにするもの。

 戻ってきた者を温めるもの。


 だが、信長様はもっと先を見ていた。


 飯で、兵を早く動かす。


 腹が静かなら、足が止まらない。

 出立前に腹を起こせば、初速が乱れない。

 道中で食える飯があれば、長く動ける。

 仮陣で腹を戻せば、次に動ける。


 それは、戦の速さになる。


 飯が、戦の速さになる。


 俺の腹の奥で、何かがかちりとはまった気がした。


「清吉」


 信長様が言った。


「飯は、ただ腹を満たすだけではない。兵を遅くもする。早くもする」


「はい」


「なら、早くする飯を作れ」


 怖かった。


 とても怖かった。


 三百人の腹を背負うようなものだ。


 だが同時に、胸の奥が熱くなった。


 俺の握る飯が、兵の足になる。


 桶狭間で五郎兵衛殿が言った。


 今日、走れた、と。


 あれが、三百人に広がる。


「作ります」


 今度は、言い直さなかった。


 信長様は頷いた。


「よし」


 部屋を出ると、かやがすぐ言った。


「三百だって」


「三百だ」


「米俵、顔に出てる」


「何俵くらい?」


「五俵」


「増えたな」


 かやは笑ったが、その目は真剣だった。


「でも、やれることは増えたよ。昨日の百人がある」


「うん」


 伊三郎も言った。


「百人の記録を三倍にするだけでは足りませんが、基になります。必要量を出します」


「頼む」


「ただし、清吉も計算を覚えてください」


「今それを言うのか」


「今だからです」


 五郎兵衛殿が笑った。


「飯の敵は、米泥棒と雨と字と数か。忙しいな」


「本当に」


 だが、不思議と逃げたい気持ちは薄かった。


 怖い。


 それは変わらない。


 でも、昨日の百人が歩いた。


 権六が腹が静かだと言った。


 かやが包みを見た。

 伊三郎が記録した。

 佐助が味噌を選んだ。

 五郎兵衛殿が兵の文句を拾った。

 弥助殿が飯場とつないだ。


 三百人でも、一人ではない。


 清洲蔵へ戻ると、俺たちはすぐ動き始めた。


「佐助、味噌を選ぶ。三百人分だ。塩気が安定しているものを」


「はい」


「かや、竹皮の数を見る。二重は全部には使えない。どこに使うか決めたい」


「分かった」


「伊三郎、百人分の記録を出してくれ。米、味噌、塩、竹皮、干し菜。それぞれの量」


「すでに準備しています」


「五郎兵衛殿、権六を呼べますか」


「呼ぶ。文句込みで連れてくる」


 蔵が一気に動き出した。


 米俵が下ろされる。

 味噌樽が開く。

 竹皮が数えられる。

 干し菜が刻まれる。

 塩が小袋に分けられる。


 俺は鍋の前に立った。


 まだ火は入っていない。


 だが、頭の中ではもう湯気が上がっている。


 三百人を早く動かす飯。


 腹を起こす粥。

 足を止めない握り飯。

 雨に負けない包み。

 仮陣で腹を戻す薄粥。


 これを作る。


 そして、実際に兵が動く。


 失敗すれば、ただの試しでは済まない。


 それでも、やる。


 飯が兵を早くするなら、飯炊きにも戦える場所がある。


 槍は持てない。


 首も取れない。


 だが、飯で足を作ることはできる。


 俺は米を手に取った。


 白い粒。


 小さく、軽く、けれど集まれば兵を動かす力になる。


「清吉」


 かやが声をかけた。


「何」


「顔、今度はちょっといい」


「そうか」


「うん。怖いけど、逃げてない顔」


 俺は米を見つめた。


「逃げられないからな」


「違うよ」


 かやは竹皮を抱えて笑った。


「逃げないって決めた顔」


 そうかもしれない。


 腹はまだ怖い。


 でも、逃げるとは言っていない。


 俺は米を釜へ入れた。


 水を注ぐ。


 火を起こす。


 飯が始まる。


 三百人を動かす飯が、ここから始まる。

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