第二十五話 百人歩かせる飯
試し飯というものは、作った時より、食わせる時のほうが怖い。
握っている間は、まだ自分の手の中にある。
米の固さも、味噌の量も、竹皮の包み方も、手で直せる。柔らかすぎれば握り直せるし、味噌が片寄れば崩して混ぜ直せる。塩が強すぎたと思えば、次の分から減らせばいい。
だが、いったん兵の手に渡れば、もう俺の手から離れる。
その飯が雨に濡れるか。
懐で潰れるか。
歩く途中で腹に重すぎるか。
塩が強すぎて水を欲しがるか。
味噌が少なすぎて力が出ないか。
それは、食った兵の腹にしか分からない。
だから、実地試験の日の朝、俺は米俵の前で何度も深呼吸していた。
「清吉、米を睨んでも炊けないよ」
かやが竹皮の束を抱えながら言った。
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「今日は、顔に出ても仕方ない」
「最近そればっかり」
かやは笑ったが、その手は止まらない。
竹皮を大きさごとに分けている。半日用、雨用、予備。きれいなもの、少し破れたもの、二重にすれば使えるもの。俺が見るよりずっと早い。
伊三郎は横で帳面を開いていた。
「本日の試験。対象は歩兵百名。清洲より北の仮飯場予定地まで半日行軍。飯は三種。出立前の薄粥、道中用の味噌握り、雨用固め握り。帰還後に腹の具合を確認」
「そんなにきっちり書くのか」
「後で比べるためです」
「後で読むのは誰だ」
「私と、いずれ清吉です」
「いずれが怖い」
「逃がしません」
伊三郎は真顔で言った。
字の稽古は、まだ始まったばかりだ。
米、味噌、水、火、腹。
まず、その五つを覚えろと言われた。
米の字は、何となく米粒が割れた形に見える。
水は流れるように見える。
火は、火に見えなくもない。
腹は難しい。
味噌にいたっては、俺の敵だった。
だが、帳面が読めなければ、飯の道に穴が開く。
それを知ってしまった以上、逃げられない。
「清吉」
佐助が味噌樽の前から呼んだ。
「この味噌、今日の道中用に向いてます。塩気は少し強いですが、酸くないです。握り飯の中に薄く広げれば、喉に残りすぎないと思います」
「見せて」
俺は樽の前に膝をつき、匂いを嗅いだ。
良い。
強いが、嫌な尖りはない。
雨の中で食っても、腹に落ちる味噌だと思う。
「これでいこう」
「はい」
佐助の顔に、ほんの少し誇らしさが浮かんだ。
蔵の者たちも、以前のように彼を避けなくなっている。完全に許されたわけではない。だが、佐助の目が役に立つことを、皆が知り始めていた。
人の腹も、米と同じなのかもしれない。
一度傷んだからといって、全部捨てるわけにはいかない。
見極めて、使えるところを生かす。
ただし、悪いものを人に食わせてはいけない。
難しい。
米よりずっと難しい。
五郎兵衛殿は、試験に参加する兵たちを見に行っていた。
戻ってくるなり、俺に言った。
「文句が多いぞ」
「文句?」
「『飯炊き足軽の握り飯で歩かされるのか』だとよ」
俺の腹が沈んだ。
「そうですか」
「まあ、当然だな。兵は腹が減ってる時と、余計なことをさせられる時が一番口が悪い」
「今日は両方ですね」
「その通りだ」
五郎兵衛殿は楽しそうに笑った。
笑いごとではない。
だが、たぶん笑わなければやっていられないのだ。
「清吉」
「はい」
「文句を言う奴ほど、食った後の感想が正直だ。怖がるな」
「怖いです」
「怖がったまま聞け」
いつもの言葉だ。
怖くなくなるのを待っていたら、何も始まらない。
俺は頷き、炊き上がった米の前に座った。
まず、出立前の薄粥。
これは腹を温めるためのものだ。米は少なめ。味噌も控えめ。塩をほんの少し。水はしっかり煮る。歩く前に腹を重くしすぎないようにする。
次に、道中用の味噌握り。
小さめ。二つ一組。
片方は昼前に食う。
もう片方は、戻り道か、予定より遅れた時用。
中の味噌は固めに薄く広げる。真ん中に塊で入れると、最初はうまいが、後で喉が渇く。
最後に、雨用固め握り。
今日は雨の気配は薄いが、試す。
竹皮を二重にするものと、一重にして上から覆うもの。
どちらが持つかを見る。
飯場ではなく蔵の横で、俺たちは握り続けた。
手が熱い。
桶狭間の時を思い出す。
あの時は、ただ必死だった。
三千には届かない握り飯を作り、雨の中へ兵を送り出した。
今は違う。
数える。
分ける。
比べる。
記す。
同じ握り飯でも、役目が少し変わっている。
「清吉、力が入りすぎ」
かやが横から言った。
「崩れないように」
「固すぎると米が泣くんでしょ」
俺は手を止めた。
「それ、俺が言ったっけ」
「母親の受け売りって言ってた」
「よく覚えてるな」
「飯の話は覚えやすい」
かやは何気なく言ったが、俺の胸には少し温かく落ちた。
母の言葉が、清洲の蔵で使われている。
妙な気分だった。
俺は少し力を抜いて、握り直した。
米を潰しすぎない。
でも、崩れない。
優しく、少しきつく。
母の手には、まだ遠い。
それでも、今の俺にできる握り方で。
出立前、百人の兵たちが蔵前に集められた。
足軽が中心だ。
若い者もいれば、桶狭間に出た者もいる。中には五郎兵衛殿と顔見知りらしい古参もいた。
その中に、やたら声の大きい若い兵がいた。
「おい、本当にこれ食って歩くのかよ」
周りの兵が笑う。
「飯炊き様のありがたい試し飯だとよ」
「腹で怒られねえように食っとけ」
またそれだ。
もう諦めたつもりだったが、百人の前で言われるとさすがに恥ずかしい。
俺は粥の桶の前に立った。
「歩く前に、薄い粥を一椀ずつ食べてください」
「粥? 病人じゃあるまいし」
声の大きい若い兵が言った。
俺はその顔を見た。
年は俺とそう変わらないかもしれない。
肩幅が広く、いかにも槍を持てば強そうだ。
こういう男は、俺が一番苦手な相手だ。
「腹を重くしすぎないためです」
「握り飯だけでいいだろ」
「空腹のまま歩き始めて、途中で一気に食べると、腹が驚きます」
「腹が驚くって何だよ」
笑いが起きた。
俺は一瞬、顔が熱くなった。
だが、ここで縮めば終わる。
「腹にも、歩き出す支度が要ります」
俺は言った。
「槍を持つ前に紐を締めるのと同じです。いきなり走らせると、腹も乱れます」
若い兵はまだ不満そうだったが、五郎兵衛殿が後ろから声をかけた。
「食え。文句は歩いた後に言え」
「五郎兵衛殿が言うなら……」
「俺の言うことは聞くのか」
「そりゃ、まあ」
「なら清吉の飯も聞け。腹のことなら、俺よりこいつのほうがうるさい」
兵たちが笑った。
笑いながら、椀を受け取っていく。
薄粥は、思ったよりすんなり食われた。
うまいとは言われない。
だが、重くはない。
それでいい。
兵たちに、道中用の握り飯を配る。
一人二つ。
雨用の固め握りは、組ごとに数を分ける。どの包みがどうなったか、戻ってから聞くためだ。
伊三郎が兵の組と飯の種類を記す。
「一番組、竹皮二重。二番組、一重上覆い。三番組、通常包み」
「そこまでやるのか」
若い兵が呆れたように言う。
俺は頷いた。
「どれが崩れるか見たいので」
「俺たちは飯の試し台か」
「はい」
正直に答えてしまった。
兵たちが一瞬黙り、次に大きく笑った。
「こいつ、ひでえな!」
「はいって言いやがった!」
しまったと思ったが、怒ってはいないようだった。
若い兵も、少しだけ口元を緩めた。
「名前は?」
俺が聞くと、若い兵は胸を張った。
「権六」
「権六殿」
「殿はいらねえよ。足軽だ」
「では、権六。感想をお願いします」
「腹が痛くなったら真っ先に文句言ってやる」
「お願いします」
「お願いするのかよ」
また笑いが起きた。
少しだけ、空気が軽くなった。
兵たちは出立した。
俺は同行することになっていた。
飯を見るためだ。
かやも荷の様子を見るために同行する。伊三郎は途中まで来て、仮飯場で記録を取る。五郎兵衛殿は、兵たちの歩きぶりを見る役だ。
清洲を出て、北へ向かう道を歩く。
最初は、何も起きなかった。
兵たちは粥を食ったせいか、出だしの足取りは悪くない。
俺は後ろから見ていた。
誰が腹を押さえるか。
誰が水を欲しがるか。
誰が握り飯を懐で潰すか。
そんなことばかり見ていると、かやが横で言った。
「清吉、歩く人の尻ばっか見てる」
「腹を見たいんだ」
「前から見なよ」
「後ろからでも歩き方で少し分かる」
「本当に?」
「たぶん」
腹が重い者は、少し前かがみになる。
空きすぎた者は、足が軽すぎて後半に落ちる。
水を飲みすぎた者は、歩幅が乱れる。
全部が当たるわけではない。
でも、飯場で見てきた感覚だ。
途中、権六が振り返った。
「おい清吉!」
「はい」
「粥、思ったより悪くねえ!」
「ありがとうございます!」
「でも、味薄い!」
「歩く前なので!」
「そういうものか!」
「そういうものです!」
遠くからの妙な会話に、兵たちが笑う。
五郎兵衛殿が俺の背中を軽く叩いた。
「いいぞ。文句が元気なうちは大丈夫だ」
「文句も見ますか」
「見る」
なるほど。
文句が減るのは良いこととは限らない。
本当に疲れた兵は文句も言えなくなる。
昼前、最初の握り飯を食わせた。
道端の少し開けた場所だ。
水場も近いが、生水は飲ませない。持ってきた水を少しずつ飲ませる。足りない分は、仮飯場で煮る予定だ。
兵たちは竹皮を開く。
俺は見て回った。
竹皮二重のものは、崩れていない。
一重上覆いも、思ったより保っている。
通常包みは、数人の懐で少し潰れていた。
「権六、どうですか」
権六は握り飯をかじっていた。
噛む。
眉を寄せる。
また噛む。
「味噌が広がってるな」
「塊のほうがよかったですか」
「いや、こっちのほうが食いやすい。塊だと一口目でうまいが、後で白飯ばっかになる」
それは大事な感想だった。
俺は伊三郎を見た。
伊三郎はすでに書いている。
「権六、味噌薄広げ良し。塊より食いやすい」
「俺の名、帳面に残るのか」
権六が少し驚く。
「残ります」
伊三郎が真面目に答えた。
「なら、うまいこと言っときゃよかったな」
「今ので十分です」
俺が言うと、権六は照れ隠しのように握り飯を口へ押し込んだ。
その後、空が急に曇った。
試験にはちょうどいいと言えばちょうどいい。
だが、俺の腹は冷えた。
雨が来る。
遠くで風が変わる。
かやが空を見上げた。
「降るね」
「どれくらい」
「強くはない。でも、包みを見るにはいい雨」
いい雨。
飯を作る側としては、まったく良くない。
だが試験としてはありがたい。
小雨が降り始めた。
兵たちは蓑をかぶり、荷を抱え直す。
握り飯の残りが濡れないように懐へ入れる者、竹皮で包み直す者、雑に突っ込む者。
俺はその一つ一つを見た。
「清吉」
かやが言う。
「雨用、一重上覆いでも思ったより持つ。ただし、結びが甘いと水が入る」
「二重は?」
「強い。でも竹皮を食う。百人ならいいけど、千人なら足りない」
「千人……」
考えただけで頭が重くなる。
だが、いずれ考えなければならない。
桶狭間の握り飯は二千三百余りだった。
あれをもっと整えて作るなら、包みの数も問題になる。
伊三郎が雨の中で必死に帳面を守っている。
「濡れないか」
俺が聞くと、伊三郎は油紙を見せた。
「帳面も雨用です」
「そんなものまで」
「飯だけでなく、帳面も濡れては困ります」
確かに。
帳面が濡れれば、数字が流れる。
数字が流れれば、飯の道にまた穴が開く。
雨は米だけでなく、帳面の敵でもあった。
仮飯場に着く頃、雨は止んだ。
兵たちは少し疲れているが、足は残っている。
腹を押さえている者は、今のところいない。
仮飯場予定地は、小さな林のそばにあった。
水場は近い。
ただし、水は少し濁っている。
俺はすぐに見た。
「この水は、そのまま飲ませません」
弥助殿の部下が頷く。
鍋を出す。
布でこす。
火を起こす。
煮る。
火の場所は、風が抜けるところを選ぶ。
煙がこもらず、雨が降っても消えにくい位置。
かやが荷を置く場所を決める。
「泥が柔らかい。俵はこっちの根の上。味噌は倒れないように石で押さえる」
伊三郎が記す。
五郎兵衛殿が兵を座らせる。
「濡れた足をそのままにするな。草鞋を見ろ。飯を食う前に水をがぶ飲みするな」
俺は薄粥を用意した。
帰り道に入る前、腹を温めるためだ。
最初の粥より少し塩を足す。
雨で冷えたからだ。
味噌は控えめ。
干し菜を少し。
兵たちが椀を受け取る。
権六が一口すすり、少し黙った。
「……うまい」
俺は驚いた。
「本当ですか」
「雨の後だからかもしれねえけど、うまい」
周りの兵も、黙ってすすっている。
こういう沈黙は悪くない。
飯が腹に落ちている沈黙だ。
五郎兵衛殿が俺を見て、軽く頷いた。
胸の奥が熱くなる。
試し飯は、今のところ悪くない。
もちろん、帰ってから腹を下す者が出るかもしれない。
道中で崩れた包みもある。
雨用の竹皮は足りない問題がある。
でも、兵は歩いている。
文句を言いながらも、歩けている。
飯は、足になっている。
帰り道、権六が横に来た。
「清吉」
「はい」
「おまえ、槍は使えるのか」
「下手です」
「だろうな」
「即答しないでくれ」
権六は笑った。
「でも、飯は使えるな」
その言い方が妙で、俺も笑ってしまった。
「飯を使う、ですか」
「俺たちは槍を使う。おまえは飯を使う。今日歩いて分かった」
「どう分かりましたか」
「腹が空きすぎて足が軽くなりすぎることもねえ。食いすぎて重くなることもねえ。雨で冷えた時の粥も悪くねえ。……腹が静かだ」
腹が静か。
それは良い言葉だった。
伊三郎を呼びたいくらいだったが、彼は少し後ろで帳面を守りながら歩いている。
「それ、後でもう一度言ってください」
「帳面に残すのか」
「はい」
「じゃあ、もっと格好つける」
「今のままでいいです」
権六は照れたように前へ戻っていった。
清洲へ戻ったのは、夕方前だった。
兵百人のうち、途中で歩けなくなった者はなし。
腹を押さえた者は一人。だが、朝から腹の調子が悪かったらしい。
雨で濡れた握り飯は、通常包みの一部が崩れた。
二重竹皮は強いが、数を食う。
一重上覆いは、結びを工夫すれば使える。
薄粥は、出立前より仮飯場でのほうが評判が良い。
味噌は塊より薄広げが好評。
干し菜入りは噛むため、満足感があるが急ぎには不向き。
伊三郎がまとめる横で、俺はへたり込みそうになった。
疲れた。
実際に米俵を担いだわけではない。
だが、百人の腹を見ながら歩くのは、思った以上に疲れた。
かやも雨に濡れた竹皮を広げながら言った。
「これは、使えるね」
「どれ」
「一重上覆い。二重ほど強くないけど、数が稼げる。結びを変えればもっと持つ」
「じゃあ、それを改良する」
「明日ね」
「今日ではなく?」
「清吉、今の顔で握ったら米が泣く」
言われて、自分の手を見た。
確かに、力が入らない。
今日はもう握れない。
五郎兵衛殿が戻ってきて言った。
「兵どもから聞いてきた」
「どうでした」
「飯への文句はあった」
「やっぱり」
「だが、足への文句は少なかった」
「足?」
「歩けたということだ」
その言葉で、胸がふっと軽くなった。
歩けた。
百人が半日歩き、飯を食い、戻ってきた。
腹が大きく乱れなかった。
それだけで、今日の試しは意味があった。
夜、蔵の外で試し飯の残りを食べた。
干し菜入りの小さな握り飯。
雨で少し湿った竹皮包み。
仮飯場で余った味噌を使った薄粥。
かやが言った。
「今日の飯は、歩いた味がする」
「どういう味だ」
「足の裏の味」
「それは嫌だ」
「違う違う。足で確かめた味ってこと」
伊三郎が帳面に書こうとして、俺とかやが同時に止めた。
「それは書かなくていい」
「同感」
伊三郎は少し残念そうだった。
佐助は雨用包みを触りながら言った。
「竹皮を少し火で炙ったら、もっと水を弾くかもしれません」
「本当か」
「たぶん。やりすぎると割れますけど」
「試そう」
「明日」
かやが釘を刺す。
俺は頷いた。
「明日」
空には、雨上がりの雲が残っていた。
蔵の中には米の匂い。
外には湿った土の匂い。
今日歩いた道の匂いが、まだ草鞋に残っている。
百人を歩かせる飯。
その最初の形が、少し見えた。
次は三百人かもしれない。
千人かもしれない。
雨が強い日かもしれない。
敵が近い日かもしれない。
考えると怖い。
でも、今日の百人は歩いた。
飯が足になった。
それだけは、腹に収まった。




