第二十四話 蔵が整えば、次は道が腹を空かせる
正式な兵糧見廻り役になったからといって、米俵が軽くなるわけではなかった。
味噌樽の蓋が勝手に締まるわけでもない。
鼠が「役持ちになられたそうで」と遠慮してくれるわけでもない。
むしろ、仕事は増えた。
清洲蔵の人足たちは、俺を見る目を少し変えた。
最初は、ただの飯炊き足軽が上様に拾われた、という目だった。
次に、味噌樽を開けて善右衛門殿を捕まえた厄介者を見る目になった。
その後、荷の印だ、椀を湯にくぐらせろだ、腹を下すなだと細かいことばかり言う面倒な男を見る目になった。
今はどうか。
「清吉、こっちの俵、二つ丸でいいか?」
「匂いは?」
「少し湿ってるが、酸くはねえ」
「なら二つ丸。粥向きです」
「おう」
こんなふうに、普通に声をかけてくる。
俺が何かを偉そうに命じるというより、蔵の者たちが自分の目で見て、迷うところだけ俺に聞くようになっていた。
それが、ありがたかった。
俺一人の鼻では足りない。
俺一人の手では届かない。
だが、蔵にいる者たちの鼻と手が少しずつ増えれば、飯は守れる。
この数日で、それを腹から思い知った。
「清吉」
伊三郎が帳面を抱えて近づいてきた。
「今日の飯場行き、出入りは合っています。米八俵、洗い米二俵、味噌一樽、塩一袋、竹皮五束」
「途中の受け取りは?」
「表道、東道、先荷、すべて照合済みです。飯場側からの戻り札も合いました」
「腹を下した人は?」
「昨日は一名。しかも、飯場の者の話では、古い干し魚を勝手に食べたらしいです」
「それは……飯場のせいじゃないかもしれないな」
「はい。帳面には、そのように注記しました」
注記。
俺にはまだ読めない言葉だ。
けれど、伊三郎が横に小さな印をつけてくれるので、何となく分かるようになってきた。
丸。
線。
点。
ばつ。
字はまだ難しい。
だが、帳面がただの黒い虫の列には見えなくなってきた。
「字の稽古、今夜です」
伊三郎が急に言った。
俺は聞こえなかったふりをした。
「清吉」
「はい」
「聞こえていましたね」
「……聞こえていました」
「正式な見廻り役ですから」
「正式になると、字が襲ってくるのか」
「字は襲いません。読まれるのを待っています」
「待たれているほうが怖い」
横でかやが笑った。
彼女は荷車の縄を締めながら、こちらを見もしないで言う。
「字に負けたら、清吉の腹が泣くよ」
「腹は字を読まない」
「でも、帳面が読めないと飯が盗まれるんでしょ」
「……それを言われると弱い」
かやは得意げに鼻を鳴らした。
「じゃあ、稽古だね」
味方が増えたと思ったら、逃げ場が減った。
そんなことを考えながらも、俺は少しだけ笑っていた。
清洲蔵は、完全ではない。
まだ不足分は戻りきっていない。
伊庭屋の件も、すべて片づいたわけではない。
坂井新八郎様は謹慎中だ。
善右衛門殿の下にいた者たちの処分も、まだ続いている。
それでも、蔵の腹は前より動いている。
米は湿りにくくなった。
味噌は蓋を見られるようになった。
塩は先に使うものと置くものに分けた。
荷は途中で照合される。
飯場では水を煮るのが当たり前になりつつある。
これだけでも、俺には奇跡みたいに思えた。
だが、飯というものは、落ち着いたと思った途端に次の腹を鳴らす。
その日の昼過ぎ、弥助殿が蔵へ駆け込んできた。
「清吉」
「はい」
「上様がお呼びだ」
その一言で、俺の腹はまた重くなった。
「また、ですか」
「正式な役持ちになったんだ。呼ばれることも増える」
「役持ちって、怖いですね」
「今さらか」
弥助殿は短く笑ったが、顔はすぐ真面目に戻った。
「今回は、蔵の中の話じゃねえ」
「では?」
「前へ運ぶ話だ」
前。
その言葉に、俺は米俵から手を離した。
前線。
戦場。
清洲で米を守るだけではなく、その米を戦う場所まで運ぶ。
俺はその瞬間、急に蔵が狭くなったように感じた。
信長様のいる部屋へ向かう道すがら、弥助殿は事情を教えてくれた。
「美濃のほうが騒がしい」
「美濃……」
名前は知っている。
尾張の北。
斎藤の国。
俺のような足軽には、遠い話だと思っていた場所だ。
「すぐ大きな戦になるとは限らねえ。だが、兵を動かすなら飯も動く。桶狭間の時のように、近くの飯場だけ見てりゃいいわけじゃない」
俺は喉を鳴らした。
「清洲から遠くへ運ぶんですか」
「そうだ」
「米は重いです」
「知ってる」
「味噌も重いです」
「知ってる」
「道が悪ければ、濡れます」
「それも知ってる」
「途中で盗まれます」
「だから呼ばれてるんだろうが」
弥助殿は呆れたように言った。
確かに。
俺が言ったことは、全部もう分かっている問題だ。
分かっているからこそ、信長様が呼んでいる。
腹がさらに重くなる。
部屋に入ると、信長様は地図を広げていた。
清洲から北へ向かう道。
川。
村。
小さな城。
俺には地図の読み方もよく分からないが、石や木片がいくつも置かれているのは見えた。
坂井蔵人殿もいた。
五郎兵衛殿もいる。
伊三郎とかやも後から呼ばれてきた。
かやは地図を見るなり、目を細めた。
信長様は俺を見ると、いきなり言った。
「清吉。米は歩かぬな」
「はい」
「味噌も歩かぬ」
「はい」
「では、どう歩かせる」
いきなり難しい。
俺は地図を見た。
清洲蔵に積まれた米俵なら分かる。
飯場の鍋なら分かる。
だが、地図の上の線に米を歩かせると言われても、頭が追いつかない。
「荷に乗せます」
どうにか答えた。
「荷車か」
「はい。あとは背負い。川が使えるなら舟も……」
そこまで言って、かやを見た。
川の話なら、俺よりかやだ。
信長様も、それを分かっていたようにかやへ視線を向ける。
「かや」
「はい」
「この川は使えるか」
かやは地図の川筋を見た。
しばらく黙る。
普段の軽口が消えている。
「時期によります。水が多ければ小舟は通れます。でも、荷を積みすぎると浅瀬で引っかかります。あと、この辺りは川岸から道へ上げる場所が限られます」
「どこで上げる」
「ここ。ここ。それから、ここは古い渡し場があるはずです。でも、今も使えるかは見ないと分かりません」
信長様の目が少し動いた。
「荷の目は、地図でも使えるか」
かやは少し驚いた顔をした。
だが、すぐに頭を下げる。
「見た場所なら、もっと使えます」
「よい答えだ」
かやが珍しく少し照れた。
俺はそれを見て、少しだけ気が緩みかけた。
だが、すぐに信長様の問いが戻ってくる。
「清吉。前へ運ぶ飯で、何が一番悪くなる」
「水と、米と、味噌です」
「全部ではないか」
「はい」
思わず正直に答えると、信長様が笑った。
「では、全部守るか」
「全部を同じようには守れません」
俺は言った。
自分でも、少し驚いた。
前なら「全部守ります」と言っていたかもしれない。
でも、今は分かる。
全部を同じように守ろうとすれば、全部を失う。
「米は濡らさないことが大事です。味噌は蓋と混ぜ物を見ます。塩は湿る前に小分けしたいです。水は、運ぶより現地で煮たほうがいいと思います」
信長様は指で地図を叩いた。
「現地の水が悪ければ」
「煮ます。濁っていれば、布でこしてから煮ます。腹の弱い者には薄い粥にします」
「水場を先に見る必要があるな」
「はい」
言ってから、はっとした。
そうだ。
前へ運ぶのは米だけではない。
水場を見なければならない。
飯場を置く場所は、水で決まる。
清洲蔵でいくら良い米を出しても、前線の水が悪ければ腹を壊す。
「飯場は、戦場の後ろに置くものだと思っていました」
俺は呟くように言った。
「違うのか」
信長様が聞く。
「後ろに置くのは同じです。でも、水が悪い場所に置けば、飯場が敵になります」
部屋が静かになった。
自分でも変なことを言ったと思った。
だが、腹から出た言葉だった。
悪い飯場は、兵の腹を攻める。
敵より先に、味方を崩す。
「飯場が敵になる、か」
信長様は面白そうに繰り返した。
「なら、飯場を味方にするには」
「水。火。風。泥です」
俺は指を折った。
「水は煮られる場所。火は守れる場所。風は煙がこもらない場所。泥は荷車が沈まない場所。あと、鼠と盗みを避けるために、人の目が届く場所」
「多いな」
「多いです」
「だが、戦場では全部揃わぬ」
「なら、何を捨てるか決めます」
言ってから、また自分で驚いた。
全部揃わない。
なら、何を捨てるか。
飯場で覚えたことだ。
五郎兵衛殿に言われたことでもある。
全部救おうとする奴は、最初に潰れる。
信長様は、じっと俺を見ていた。
「何を捨てる」
俺は少し考えた。
「味は捨てます」
かやが小さく吹き出しそうになったが、我慢した。
俺は続ける。
「豪華さも捨てます。白飯も、無理なら捨てます。粥にします。でも、水を煮ることと、悪い味噌を止めることと、塩を切らさないことは捨てたくありません」
「なぜ塩だ」
「走る兵が、汗をかきます。雨でも、動けば汗をかきます。塩がないと、力が抜けます」
桶狭間の握り飯を思い出す。
しょっぱいと言われた。
走るためです、と答えた。
あれは間違っていなかったと思いたい。
信長様は頷いた。
「蔵人」
「はっ」
「前へ出す兵糧は、米だけで数えるな。味噌、塩、竹皮、干し菜、薪、鍋、桶も数えよ」
「承知しました」
「伊三郎」
「はい」
「新しい帳面を作れ。清洲蔵の出入りだけでは足りぬ。道中、仮飯場、前線飯場、それぞれで印を合わせる」
「承知しました」
伊三郎の顔は少し青い。
帳面が増えるのだ。
字が襲ってくるのは俺だけではないらしい。
信長様は次にかやを見た。
「かや。川と道を見ろ。荷が止まりそうな場所、盗まれそうな場所、濡れそうな場所を洗い出せ」
「はい」
「清吉」
「はい」
「おまえは試しを作れ」
「試し?」
「百人を一日歩かせる飯。三百人を半日動かす飯。雨の日に崩れぬ飯。腹を壊した者を戻す飯。前へ出す前に、清洲で試せ」
頭の中で、米と味噌と塩が一気に転がり出した。
百人。
三百人。
半日。
一日。
雨。
崩れない。
腹を壊した者を戻す。
飯場では、その場その場で作ってきた。
だが今度は、前もって形を作れと言われている。
兵糧を、戦の前に考える。
それは当たり前のようで、俺には新しいことだった。
「やってみます」
言った瞬間、信長様の目が鋭くなった。
しまった。
俺は慌てて言い直した。
「やります」
信長様は満足げに頷いた。
「よし」
それだけで、背中に米俵を一つ載せられた気がした。
部屋を出ると、かやがすぐに言った。
「また仕事増えたね」
「増えた」
「顔、米俵三つ分くらい重い」
「一つじゃ済まないか」
「三つ」
伊三郎が真面目に言う。
「帳面も三冊は増えます」
「そこは数えなくていい」
「大事です」
五郎兵衛殿が笑った。
「清吉。蔵の腹を見たと思ったら、今度は道の腹だな」
「道にも腹があるんですか」
「あるさ。詰まれば荷が止まる。穴があれば盗まれる。水を吸えば沈む」
「……腹だらけですね」
「おまえ向きだろう」
俺は苦笑した。
向いているのかどうかは分からない。
ただ、もう逃げられない場所に来ていることだけは分かった。
清洲蔵へ戻ると、俺はすぐに試し飯のことを考え始めた。
まず、百人を一日歩かせる飯。
白飯は重い。
握り飯にすれば持ちやすいが、崩れる。
竹皮が要る。
味噌を中に入れると塩気がある。
ただし味噌が多すぎると喉が渇く。
塩を外にまぶすか、中に混ぜるか。
干し菜を刻んで混ぜると腹持ちはどうか。
次に、三百人を半日動かす飯。
数が多い。
大きく握れば足りない。
小さくして二つずつか。
粥を先に食わせてから握り飯を持たせるか。
雨の日に崩れぬ飯。
固く握る。
竹皮を二重にする。
布は濡れる。
葉は使えるが、匂いが移るものもある。
かやに聞かなければならない。
腹を壊した者を戻す飯。
薄い粥。
味噌は控えめ。
塩少し。
米はよく煮る。
水は必ず煮る。
干し菜は細かく。
「清吉」
佐助が味噌樽の前から言った。
「顔が、鍋に入ってます」
「え?」
「考えすぎて、鍋を見ていない顔です」
俺は手元を見た。
いつの間にか、空の鍋をかき混ぜていた。
かやが大笑いした。
「空鍋を混ぜてる!」
「笑うな」
「無理」
伊三郎まで少し笑っている。
俺は恥ずかしくなったが、同時に少し気が抜けた。
空鍋を混ぜても飯はできない。
まず米を入れなければ。
つまり、考えすぎても始まらない。
「試しに作る」
俺は言った。
「今から?」
かやが聞く。
「今から。百人分は無理でも、十人分で試せる」
「いいね」
「かや、竹皮と葉を見てくれ。雨で濡れた時にどれがましか」
「分かった」
「伊三郎、使った米と味噌と塩の量を記録してくれ」
「承知しました」
「佐助、味噌は三種類。普通の味噌、少し酸い味噌、塩気の強い味噌。どれが握り飯に向くか見たい」
「はい」
「五郎兵衛殿」
「何だ」
「食べて歩いてください」
「俺を試すのか」
「はい」
「年寄りを何だと思ってる」
「腹に収まるか一番正直に言ってくれる人です」
五郎兵衛殿は一瞬黙り、それから笑った。
「よし。食ってやる」
こうして、清洲蔵の片隅で、妙な試し飯作りが始まった。
握り飯を三種類。
一つ目は、いつもの味噌入り。
二つ目は、干し菜を細かく混ぜたもの。
三つ目は、塩を強めにして、味噌を外側に薄く塗り、竹皮で包むもの。
かやは包み方を変えた。
「これは早く食う用。これは半日持たせる用。これは雨用」
「包み方で変わるのか」
「変わる。清吉は中身ばかり見るけど、外も大事」
「外も飯か」
「外が駄目なら中も駄目」
伊三郎が横で書く。
「外も飯、と」
「それは書かなくていい!」
「いえ、分かりやすいので」
また変な言葉が帳面に残った。
五郎兵衛殿は三種類を食べ、蔵の周りを歩かされた。
最初は文句を言っていたが、途中から真面目な顔になった。
「一つ目はうまいが、半日歩くと少し喉が渇きそうだ」
「はい」
「二つ目は腹に残る。干し菜がある分、噛む。急いで食うには少し面倒だが、歩く前にはいい」
「はい」
「三つ目は……味噌を外に塗るな。手が汚れる。雨なら流れる。戦場でこれは腹が立つ」
「なるほど」
失敗だ。
だが、失敗も飯になる前に分かればいい。
俺は頷いた。
「三つ目はやめます」
「いや、味は悪くない。味噌を外ではなく、薄く中へ広げればどうだ」
「試します」
かやが竹皮を触りながら言った。
「雨用は包みを二重にしたほうがいいけど、竹皮が倍いる。数が足りないなら、上にかぶせるだけでも違う」
伊三郎がすぐに書く。
「雨用、竹皮二重。数不足時は上かぶせ」
「伊三郎、字が早いな」
「仕事です」
「俺もいつか、その早さで読めるようになるのか」
「稽古次第です」
「遠いな」
「米を乾かすよりは早いかもしれません」
伊三郎なりの励ましなのだろうか。
分からないが、少し笑えた。
夕暮れまで試し飯は続いた。
米は減った。
味噌も使った。
失敗も出た。
柔らかすぎる握り飯。
固すぎて喉に詰まりそうな握り飯。
塩が強すぎるもの。
干し菜が大きすぎて崩れるもの。
竹皮の包みが甘く、転がすと中身が出るもの。
だが、その中から少しずつ形が見えた。
歩く前の粥。
半日用の小さな味噌握り。
雨用の固め握り。
腹を戻す薄粥。
四つの飯。
完璧ではない。
でも、前へ運ぶ飯の最初の形だ。
夜、皆で試し飯の残りを食べた。
五郎兵衛殿が干し菜入りをかじりながら言った。
「これは悪くない。噛むから、飯を食った気になる」
かやは雨用の固め握りを食べて顔をしかめた。
「固い。でも崩れない」
伊三郎は帳面を見ながら食べている。
「食べながら書くな」
俺が言うと、伊三郎は真顔で答えた。
「食べている時の感想が一番正確です」
「それはそうだけど」
佐助は薄粥をすすり、ぽつりと言った。
「これ、腹が痛い時でも食べられそうです」
「本当か」
「はい。味噌が強すぎないので」
その言葉は大事だった。
俺はすぐに覚えた。
伊三郎も書いた。
薄粥、味噌控えめ。佐助、腹痛時でも可。
「俺の名前、帳面に?」
佐助が驚く。
伊三郎は当然のように頷いた。
「誰の感想か分かるほうがよいです」
佐助は困ったような、嬉しいような顔をした。
俺はそれを見て、少しだけ胸が温かくなった。
飯は、人の名前も残す。
盗んだ者の名前だけではない。
守った者の名前も。
食べて確かめた者の名前も。
夜風が蔵の中を抜けた。
米俵の匂いは、前より乾いている。
だが、俺の前にはもう蔵の中だけではなく、地図の上の道が広がっていた。
清洲から前へ。
川を越え、泥を越え、村を越え、戦場の手前へ。
そこまで飯を届ける。
米を歩かせる。
味噌を歩かせる。
塩を歩かせる。
そして、兵の腹へ落とす。
考えただけで怖い。
けれど、今日作った小さな握り飯を見ていると、少しだけできる気もした。
飯は、いきなり千人分になるわけではない。
まず一つ握る。
食べる。
歩く。
崩れるか見る。
腹に残るか聞く。
そこから増やす。
俺には、そのやり方しかない。
でも、それでいいのだと思った。
信長様は、試せと言った。
なら、試す。
米と、味噌と、塩と、腹で。




