表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
24/160

第二十四話 蔵が整えば、次は道が腹を空かせる

正式な兵糧見廻り役になったからといって、米俵が軽くなるわけではなかった。


 味噌樽の蓋が勝手に締まるわけでもない。


 鼠が「役持ちになられたそうで」と遠慮してくれるわけでもない。


 むしろ、仕事は増えた。


 清洲蔵の人足たちは、俺を見る目を少し変えた。


 最初は、ただの飯炊き足軽が上様に拾われた、という目だった。

 次に、味噌樽を開けて善右衛門殿を捕まえた厄介者を見る目になった。

 その後、荷の印だ、椀を湯にくぐらせろだ、腹を下すなだと細かいことばかり言う面倒な男を見る目になった。


 今はどうか。


「清吉、こっちの俵、二つ丸でいいか?」


「匂いは?」


「少し湿ってるが、酸くはねえ」


「なら二つ丸。粥向きです」


「おう」


 こんなふうに、普通に声をかけてくる。


 俺が何かを偉そうに命じるというより、蔵の者たちが自分の目で見て、迷うところだけ俺に聞くようになっていた。


 それが、ありがたかった。


 俺一人の鼻では足りない。


 俺一人の手では届かない。


 だが、蔵にいる者たちの鼻と手が少しずつ増えれば、飯は守れる。


 この数日で、それを腹から思い知った。


「清吉」


 伊三郎が帳面を抱えて近づいてきた。


「今日の飯場行き、出入りは合っています。米八俵、洗い米二俵、味噌一樽、塩一袋、竹皮五束」


「途中の受け取りは?」


「表道、東道、先荷、すべて照合済みです。飯場側からの戻り札も合いました」


「腹を下した人は?」


「昨日は一名。しかも、飯場の者の話では、古い干し魚を勝手に食べたらしいです」


「それは……飯場のせいじゃないかもしれないな」


「はい。帳面には、そのように注記しました」


 注記。


 俺にはまだ読めない言葉だ。


 けれど、伊三郎が横に小さな印をつけてくれるので、何となく分かるようになってきた。


 丸。


 線。


 点。


 ばつ。


 字はまだ難しい。


 だが、帳面がただの黒い虫の列には見えなくなってきた。


「字の稽古、今夜です」


 伊三郎が急に言った。


 俺は聞こえなかったふりをした。


「清吉」


「はい」


「聞こえていましたね」


「……聞こえていました」


「正式な見廻り役ですから」


「正式になると、字が襲ってくるのか」


「字は襲いません。読まれるのを待っています」


「待たれているほうが怖い」


 横でかやが笑った。


 彼女は荷車の縄を締めながら、こちらを見もしないで言う。


「字に負けたら、清吉の腹が泣くよ」


「腹は字を読まない」


「でも、帳面が読めないと飯が盗まれるんでしょ」


「……それを言われると弱い」


 かやは得意げに鼻を鳴らした。


「じゃあ、稽古だね」


 味方が増えたと思ったら、逃げ場が減った。


 そんなことを考えながらも、俺は少しだけ笑っていた。


 清洲蔵は、完全ではない。


 まだ不足分は戻りきっていない。

 伊庭屋の件も、すべて片づいたわけではない。

 坂井新八郎様は謹慎中だ。

 善右衛門殿の下にいた者たちの処分も、まだ続いている。


 それでも、蔵の腹は前より動いている。


 米は湿りにくくなった。

 味噌は蓋を見られるようになった。

 塩は先に使うものと置くものに分けた。

 荷は途中で照合される。

 飯場では水を煮るのが当たり前になりつつある。


 これだけでも、俺には奇跡みたいに思えた。


 だが、飯というものは、落ち着いたと思った途端に次の腹を鳴らす。


 その日の昼過ぎ、弥助殿が蔵へ駆け込んできた。


「清吉」


「はい」


「上様がお呼びだ」


 その一言で、俺の腹はまた重くなった。


「また、ですか」


「正式な役持ちになったんだ。呼ばれることも増える」


「役持ちって、怖いですね」


「今さらか」


 弥助殿は短く笑ったが、顔はすぐ真面目に戻った。


「今回は、蔵の中の話じゃねえ」


「では?」


「前へ運ぶ話だ」


 前。


 その言葉に、俺は米俵から手を離した。


 前線。


 戦場。


 清洲で米を守るだけではなく、その米を戦う場所まで運ぶ。


 俺はその瞬間、急に蔵が狭くなったように感じた。


 信長様のいる部屋へ向かう道すがら、弥助殿は事情を教えてくれた。


「美濃のほうが騒がしい」


「美濃……」


 名前は知っている。


 尾張の北。


 斎藤の国。


 俺のような足軽には、遠い話だと思っていた場所だ。


「すぐ大きな戦になるとは限らねえ。だが、兵を動かすなら飯も動く。桶狭間の時のように、近くの飯場だけ見てりゃいいわけじゃない」


 俺は喉を鳴らした。


「清洲から遠くへ運ぶんですか」


「そうだ」


「米は重いです」


「知ってる」


「味噌も重いです」


「知ってる」


「道が悪ければ、濡れます」


「それも知ってる」


「途中で盗まれます」


「だから呼ばれてるんだろうが」


 弥助殿は呆れたように言った。


 確かに。


 俺が言ったことは、全部もう分かっている問題だ。


 分かっているからこそ、信長様が呼んでいる。


 腹がさらに重くなる。


 部屋に入ると、信長様は地図を広げていた。


 清洲から北へ向かう道。


 川。


 村。


 小さな城。


 俺には地図の読み方もよく分からないが、石や木片がいくつも置かれているのは見えた。


 坂井蔵人殿もいた。

 五郎兵衛殿もいる。

 伊三郎とかやも後から呼ばれてきた。

 かやは地図を見るなり、目を細めた。


 信長様は俺を見ると、いきなり言った。


「清吉。米は歩かぬな」


「はい」


「味噌も歩かぬ」


「はい」


「では、どう歩かせる」


 いきなり難しい。


 俺は地図を見た。


 清洲蔵に積まれた米俵なら分かる。


 飯場の鍋なら分かる。


 だが、地図の上の線に米を歩かせると言われても、頭が追いつかない。


「荷に乗せます」


 どうにか答えた。


「荷車か」


「はい。あとは背負い。川が使えるなら舟も……」


 そこまで言って、かやを見た。


 川の話なら、俺よりかやだ。


 信長様も、それを分かっていたようにかやへ視線を向ける。


「かや」


「はい」


「この川は使えるか」


 かやは地図の川筋を見た。


 しばらく黙る。


 普段の軽口が消えている。


「時期によります。水が多ければ小舟は通れます。でも、荷を積みすぎると浅瀬で引っかかります。あと、この辺りは川岸から道へ上げる場所が限られます」


「どこで上げる」


「ここ。ここ。それから、ここは古い渡し場があるはずです。でも、今も使えるかは見ないと分かりません」


 信長様の目が少し動いた。


「荷の目は、地図でも使えるか」


 かやは少し驚いた顔をした。


 だが、すぐに頭を下げる。


「見た場所なら、もっと使えます」


「よい答えだ」


 かやが珍しく少し照れた。


 俺はそれを見て、少しだけ気が緩みかけた。


 だが、すぐに信長様の問いが戻ってくる。


「清吉。前へ運ぶ飯で、何が一番悪くなる」


「水と、米と、味噌です」


「全部ではないか」


「はい」


 思わず正直に答えると、信長様が笑った。


「では、全部守るか」


「全部を同じようには守れません」


 俺は言った。


 自分でも、少し驚いた。


 前なら「全部守ります」と言っていたかもしれない。


 でも、今は分かる。


 全部を同じように守ろうとすれば、全部を失う。


「米は濡らさないことが大事です。味噌は蓋と混ぜ物を見ます。塩は湿る前に小分けしたいです。水は、運ぶより現地で煮たほうがいいと思います」


 信長様は指で地図を叩いた。


「現地の水が悪ければ」


「煮ます。濁っていれば、布でこしてから煮ます。腹の弱い者には薄い粥にします」


「水場を先に見る必要があるな」


「はい」


 言ってから、はっとした。


 そうだ。


 前へ運ぶのは米だけではない。


 水場を見なければならない。


 飯場を置く場所は、水で決まる。


 清洲蔵でいくら良い米を出しても、前線の水が悪ければ腹を壊す。


「飯場は、戦場の後ろに置くものだと思っていました」


 俺は呟くように言った。


「違うのか」


 信長様が聞く。


「後ろに置くのは同じです。でも、水が悪い場所に置けば、飯場が敵になります」


 部屋が静かになった。


 自分でも変なことを言ったと思った。


 だが、腹から出た言葉だった。


 悪い飯場は、兵の腹を攻める。


 敵より先に、味方を崩す。


「飯場が敵になる、か」


 信長様は面白そうに繰り返した。


「なら、飯場を味方にするには」


「水。火。風。泥です」


 俺は指を折った。


「水は煮られる場所。火は守れる場所。風は煙がこもらない場所。泥は荷車が沈まない場所。あと、鼠と盗みを避けるために、人の目が届く場所」


「多いな」


「多いです」


「だが、戦場では全部揃わぬ」


「なら、何を捨てるか決めます」


 言ってから、また自分で驚いた。


 全部揃わない。


 なら、何を捨てるか。


 飯場で覚えたことだ。


 五郎兵衛殿に言われたことでもある。


 全部救おうとする奴は、最初に潰れる。


 信長様は、じっと俺を見ていた。


「何を捨てる」


 俺は少し考えた。


「味は捨てます」


 かやが小さく吹き出しそうになったが、我慢した。


 俺は続ける。


「豪華さも捨てます。白飯も、無理なら捨てます。粥にします。でも、水を煮ることと、悪い味噌を止めることと、塩を切らさないことは捨てたくありません」


「なぜ塩だ」


「走る兵が、汗をかきます。雨でも、動けば汗をかきます。塩がないと、力が抜けます」


 桶狭間の握り飯を思い出す。


 しょっぱいと言われた。


 走るためです、と答えた。


 あれは間違っていなかったと思いたい。


 信長様は頷いた。


「蔵人」


「はっ」


「前へ出す兵糧は、米だけで数えるな。味噌、塩、竹皮、干し菜、薪、鍋、桶も数えよ」


「承知しました」


「伊三郎」


「はい」


「新しい帳面を作れ。清洲蔵の出入りだけでは足りぬ。道中、仮飯場、前線飯場、それぞれで印を合わせる」


「承知しました」


 伊三郎の顔は少し青い。


 帳面が増えるのだ。


 字が襲ってくるのは俺だけではないらしい。


 信長様は次にかやを見た。


「かや。川と道を見ろ。荷が止まりそうな場所、盗まれそうな場所、濡れそうな場所を洗い出せ」


「はい」


「清吉」


「はい」


「おまえは試しを作れ」


「試し?」


「百人を一日歩かせる飯。三百人を半日動かす飯。雨の日に崩れぬ飯。腹を壊した者を戻す飯。前へ出す前に、清洲で試せ」


 頭の中で、米と味噌と塩が一気に転がり出した。


 百人。

 三百人。

 半日。

 一日。

 雨。

 崩れない。

 腹を壊した者を戻す。


 飯場では、その場その場で作ってきた。


 だが今度は、前もって形を作れと言われている。


 兵糧を、戦の前に考える。


 それは当たり前のようで、俺には新しいことだった。


「やってみます」


 言った瞬間、信長様の目が鋭くなった。


 しまった。


 俺は慌てて言い直した。


「やります」


 信長様は満足げに頷いた。


「よし」


 それだけで、背中に米俵を一つ載せられた気がした。


 部屋を出ると、かやがすぐに言った。


「また仕事増えたね」


「増えた」


「顔、米俵三つ分くらい重い」


「一つじゃ済まないか」


「三つ」


 伊三郎が真面目に言う。


「帳面も三冊は増えます」


「そこは数えなくていい」


「大事です」


 五郎兵衛殿が笑った。


「清吉。蔵の腹を見たと思ったら、今度は道の腹だな」


「道にも腹があるんですか」


「あるさ。詰まれば荷が止まる。穴があれば盗まれる。水を吸えば沈む」


「……腹だらけですね」


「おまえ向きだろう」


 俺は苦笑した。


 向いているのかどうかは分からない。


 ただ、もう逃げられない場所に来ていることだけは分かった。


 清洲蔵へ戻ると、俺はすぐに試し飯のことを考え始めた。


 まず、百人を一日歩かせる飯。


 白飯は重い。

 握り飯にすれば持ちやすいが、崩れる。

 竹皮が要る。

 味噌を中に入れると塩気がある。

 ただし味噌が多すぎると喉が渇く。

 塩を外にまぶすか、中に混ぜるか。

 干し菜を刻んで混ぜると腹持ちはどうか。


 次に、三百人を半日動かす飯。


 数が多い。

 大きく握れば足りない。

 小さくして二つずつか。

 粥を先に食わせてから握り飯を持たせるか。


 雨の日に崩れぬ飯。


 固く握る。

 竹皮を二重にする。

 布は濡れる。

 葉は使えるが、匂いが移るものもある。

 かやに聞かなければならない。


 腹を壊した者を戻す飯。


 薄い粥。

 味噌は控えめ。

 塩少し。

 米はよく煮る。

 水は必ず煮る。

 干し菜は細かく。


「清吉」


 佐助が味噌樽の前から言った。


「顔が、鍋に入ってます」


「え?」


「考えすぎて、鍋を見ていない顔です」


 俺は手元を見た。


 いつの間にか、空の鍋をかき混ぜていた。


 かやが大笑いした。


「空鍋を混ぜてる!」


「笑うな」


「無理」


 伊三郎まで少し笑っている。


 俺は恥ずかしくなったが、同時に少し気が抜けた。


 空鍋を混ぜても飯はできない。


 まず米を入れなければ。


 つまり、考えすぎても始まらない。


「試しに作る」


 俺は言った。


「今から?」


 かやが聞く。


「今から。百人分は無理でも、十人分で試せる」


「いいね」


「かや、竹皮と葉を見てくれ。雨で濡れた時にどれがましか」


「分かった」


「伊三郎、使った米と味噌と塩の量を記録してくれ」


「承知しました」


「佐助、味噌は三種類。普通の味噌、少し酸い味噌、塩気の強い味噌。どれが握り飯に向くか見たい」


「はい」


「五郎兵衛殿」


「何だ」


「食べて歩いてください」


「俺を試すのか」


「はい」


「年寄りを何だと思ってる」


「腹に収まるか一番正直に言ってくれる人です」


 五郎兵衛殿は一瞬黙り、それから笑った。


「よし。食ってやる」


 こうして、清洲蔵の片隅で、妙な試し飯作りが始まった。


 握り飯を三種類。


 一つ目は、いつもの味噌入り。

 二つ目は、干し菜を細かく混ぜたもの。

 三つ目は、塩を強めにして、味噌を外側に薄く塗り、竹皮で包むもの。


 かやは包み方を変えた。


「これは早く食う用。これは半日持たせる用。これは雨用」


「包み方で変わるのか」


「変わる。清吉は中身ばかり見るけど、外も大事」


「外も飯か」


「外が駄目なら中も駄目」


 伊三郎が横で書く。


「外も飯、と」


「それは書かなくていい!」


「いえ、分かりやすいので」


 また変な言葉が帳面に残った。


 五郎兵衛殿は三種類を食べ、蔵の周りを歩かされた。


 最初は文句を言っていたが、途中から真面目な顔になった。


「一つ目はうまいが、半日歩くと少し喉が渇きそうだ」


「はい」


「二つ目は腹に残る。干し菜がある分、噛む。急いで食うには少し面倒だが、歩く前にはいい」


「はい」


「三つ目は……味噌を外に塗るな。手が汚れる。雨なら流れる。戦場でこれは腹が立つ」


「なるほど」


 失敗だ。


 だが、失敗も飯になる前に分かればいい。


 俺は頷いた。


「三つ目はやめます」


「いや、味は悪くない。味噌を外ではなく、薄く中へ広げればどうだ」


「試します」


 かやが竹皮を触りながら言った。


「雨用は包みを二重にしたほうがいいけど、竹皮が倍いる。数が足りないなら、上にかぶせるだけでも違う」


 伊三郎がすぐに書く。


「雨用、竹皮二重。数不足時は上かぶせ」


「伊三郎、字が早いな」


「仕事です」


「俺もいつか、その早さで読めるようになるのか」


「稽古次第です」


「遠いな」


「米を乾かすよりは早いかもしれません」


 伊三郎なりの励ましなのだろうか。


 分からないが、少し笑えた。


 夕暮れまで試し飯は続いた。


 米は減った。


 味噌も使った。


 失敗も出た。


 柔らかすぎる握り飯。

 固すぎて喉に詰まりそうな握り飯。

 塩が強すぎるもの。

 干し菜が大きすぎて崩れるもの。

 竹皮の包みが甘く、転がすと中身が出るもの。


 だが、その中から少しずつ形が見えた。


 歩く前の粥。

 半日用の小さな味噌握り。

 雨用の固め握り。

 腹を戻す薄粥。


 四つの飯。


 完璧ではない。


 でも、前へ運ぶ飯の最初の形だ。


 夜、皆で試し飯の残りを食べた。


 五郎兵衛殿が干し菜入りをかじりながら言った。


「これは悪くない。噛むから、飯を食った気になる」


 かやは雨用の固め握りを食べて顔をしかめた。


「固い。でも崩れない」


 伊三郎は帳面を見ながら食べている。


「食べながら書くな」


 俺が言うと、伊三郎は真顔で答えた。


「食べている時の感想が一番正確です」


「それはそうだけど」


 佐助は薄粥をすすり、ぽつりと言った。


「これ、腹が痛い時でも食べられそうです」


「本当か」


「はい。味噌が強すぎないので」


 その言葉は大事だった。


 俺はすぐに覚えた。


 伊三郎も書いた。


 薄粥、味噌控えめ。佐助、腹痛時でも可。


「俺の名前、帳面に?」


 佐助が驚く。


 伊三郎は当然のように頷いた。


「誰の感想か分かるほうがよいです」


 佐助は困ったような、嬉しいような顔をした。


 俺はそれを見て、少しだけ胸が温かくなった。


 飯は、人の名前も残す。


 盗んだ者の名前だけではない。


 守った者の名前も。


 食べて確かめた者の名前も。


 夜風が蔵の中を抜けた。


 米俵の匂いは、前より乾いている。


 だが、俺の前にはもう蔵の中だけではなく、地図の上の道が広がっていた。


 清洲から前へ。


 川を越え、泥を越え、村を越え、戦場の手前へ。


 そこまで飯を届ける。


 米を歩かせる。


 味噌を歩かせる。


 塩を歩かせる。


 そして、兵の腹へ落とす。


 考えただけで怖い。


 けれど、今日作った小さな握り飯を見ていると、少しだけできる気もした。


 飯は、いきなり千人分になるわけではない。


 まず一つ握る。


 食べる。


 歩く。


 崩れるか見る。


 腹に残るか聞く。


 そこから増やす。


 俺には、そのやり方しかない。


 でも、それでいいのだと思った。


 信長様は、試せと言った。


 なら、試す。


 米と、味噌と、塩と、腹で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ