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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第二十三話 飯を盗んだ者たち

裏帳面は、味噌の匂いがした。


 紙そのものに染みついているわけではない。


 だが、川下の古い醤油倉で見つかったせいか、俺にはそう感じられた。


 湿った木桶。

 古い醤油。

 抜かれた味噌。

 くず米。

 夜の川の泥。

 そして、人の欲。


 それらが全部、薄い紙の束に染み込んでいるようだった。


 弥助殿は裏帳面を布に包み、俺たちに触れさせなかった。


「これは上様へ出す」


 短く、そう言った。


 俺は頷くしかなかった。


 帳面は読めない。


 だが、そこに多くの名が並んでいることは分かった。


 伊庭屋の手代。

 兵糧方の下役。

 城下の荷商い。

 そして、ところどころに武士らしき名。


 俺は字を読めないのに、その帳面が怖かった。


 米俵や味噌樽なら、まだ触れる。


 悪い匂いなら、鼻で分かる。


 湿った俵なら、手で分かる。


 けれど、人の名前が並んだ帳面は、俺の手には余る。


 誰がどこまで知っていたのか。

 誰が銭を受け取ったのか。

 誰が見て見ぬふりをしたのか。

 誰が名前だけ使われたのか。


 そこを間違えれば、人の名が焦げる。


 五郎兵衛殿の言葉が、ずっと腹に残っていた。


 人の名を焦がすと、削っても臭いが残る。


 だから俺は、醤油倉から清洲へ戻る道で、ほとんど喋らなかった。


 かやも黙っていた。


 夜明け前の川沿いは冷えた。足元の泥は黒く、ところどころに車輪の跡が残っている。昨日までなら気にしなかった跡だ。だが今は、その一本一本が何かを語っているように見えた。


 米が運ばれた跡。

 味噌が抜かれた跡。

 誰かが隠れて儲けた跡。

 誰かの腹から飯が消えた跡。


「清吉」


 かやが小さく呼んだ。


「何」


「顔、怖い」


「そうか」


「うん。怒ってるっていうより、沈んでる」


 沈んでいる。


 たぶん、その通りだった。


「飯を盗むって、もっと分かりやすいものだと思ってた」


 俺は言った。


「俵を担いで逃げるとか、味噌樽を丸ごと持っていくとか」


「実際は、ちょっとずつなんだろうね」


 かやは川を見た。


「一樽から少し。俵から少し。帳面から少し。道で少し。そうやって、気づいたら鍋が薄くなる」


「薄い粥を食った兵は、誰が抜いたか分からない」


「うん」


「腹を壊した兵も、誰を恨めばいいか分からない」


「うん」


 かやは短く答えた。


 その短さが、かえって重かった。


 清洲に戻ると、空が白み始めていた。


 蔵では伊三郎が待っていた。


 眠っていなかったのだろう。目の下に薄く影がある。だが、帳面を抱える手はしっかりしていた。


「戻りましたか」


「戻った」


 俺が答えるより早く、弥助殿が布包みを差し出した。


「裏帳面だ。上様へ」


 伊三郎の顔が引き締まる。


「読みますか」


「いや。まず上様だ。余計な写しを作るな」


「承知しました」


 伊三郎は深く頭を下げた。


 その横で、佐助が不安そうに立っていた。


 醤油倉で押さえた味噌桶の一部が、蔵へ運び込まれている。佐助はその匂いを嗅ぎ、顔をしかめた。


「これ……やっぱり、前に善右衛門様の下で見た混ぜ方です」


「分かるか」


「はい。良い味噌と悪い味噌を混ぜて、辛い粉でごまかしてます。けど、混ぜ方が雑です」


「雑?」


「急いだんだと思います。清吉たちの改めが始まったから」


 清吉たちの改め。


 その言葉に、少しだけ腹が重くなった。


 俺たちが始めたことで、相手も急いだ。


 急いだせいで、証拠が残った。


 けれど、その間にどれだけの飯が薄くなったのか。


 考え始めると、きりがない。


「清吉」


 五郎兵衛殿が言った。


「今は数えろ。悔いるのは後でもできる」


「はい」


 その通りだった。


 まず、押収したものを分ける。


 使える味噌。

 使えない味噌。

 証拠として残すもの。

 くず米。

 良い米と混ぜられたもの。

 人には出せないもの。

 火を通せば別用途に回せるもの。


 眠っていない身体にはきつかった。


 だが、手を動かすと心は少し落ち着く。


 米を見る。

 味噌を見る。

 桶を見る。


 飯の形に戻せるものを探す。


 それは、俺ができることだった。


 昼前、信長様から呼び出しが来た。


 場所は清洲城内の一室。


 俺、かや、伊三郎、弥助殿、五郎兵衛殿、そして坂井蔵人殿が呼ばれた。


 蔵人殿は、いつもより顔色が悪かった。


 坂井新八郎の件がある。


 裏帳面に坂井家の名がどう出ているのか、俺には分からない。だが、蔵人殿にとって楽な場でないことだけは確かだった。


 部屋に入ると、信長様はすでに裏帳面を見ていた。


 そばには、別の帳面役が二人いる。


 紙をめくる音が、妙に冷たく響いた。


 俺たちは頭を下げた。


「面を上げよ」


 信長様の声は静かだった。


 怒鳴っていない。


 だが、桶狭間の雨雲より低い声だった。


「醤油倉から出たものは確認した」


「はい」


 弥助殿が答える。


「味噌、米、小舟、偽の印、裏帳面。人も押さえております」


「伊庭屋の手代は吐いたか」


「一部は。善右衛門の頃から続いていたと。清洲蔵から抜いたものを川下へ流し、古い味噌やくず米を混ぜて戻す。差額を伊庭屋と一部の下役で分けていたようです」


 差額。


 俺には商いの細かなことは分からない。


 だが、腹は分かった。


 良い米を抜く。

 悪い米を戻す。

 差額を取る。


 その差額は、兵の腹から出たものだ。


 信長様は裏帳面を閉じた。


「名が多い」


 その一言で、部屋の空気がさらに重くなる。


「小者、手代、下役、口利き、見て見ぬふりをした者。すべて同じ罪ではない。だが、飯の道に穴を開けたことは同じだ」


 信長様は坂井蔵人殿を見た。


「新八郎の名もある」


 蔵人殿が深く頭を下げた。


「申し開きもございませぬ」


「本人は何と言っている」


「伊庭屋に乗せられた、と。坂井の面子を立てるため、飯炊き足軽の改めを越える差し入れをしたかったと申しております」


 飯炊き足軽の改めを越える。


 その言葉が、胸に刺さった。


 俺は何かを越えようとしていたわけではない。


 坂井の名を潰したかったわけでもない。


 ただ、悪い味噌を兵に食わせたくなかっただけだ。


 だが、新八郎にはそう見えたのだろう。


 飯炊き足軽に坂井の面子を潰された。


 だから、坂井の名で良い味噌を出し、自分たちの力を見せたかった。


 そこを伊庭屋に使われた。


 腹の中に、苦いものが落ちた。


「清吉」


 信長様が俺を呼んだ。


「はい」


「新八郎の味噌を止めたな」


「はい」


「なぜ止めた」


「兵に食わせられなかったからです」


「坂井の名は考えなかったか」


「考えました」


 俺は正直に答えた。


 部屋の空気が少し動く。


「怖かったです。坂井の名を疑えば、人の名を焦がすと思いました。でも、味噌の匂いが悪かった。佐助も粉のことを知っていました。だから止めました」


「新八郎を憎んだか」


 その問いは、思っていなかった。


 俺は少し黙った。


 新八郎の顔を思い出す。


 俺を睨んだ目。


 飯炊き風情と言った声。


 かやを女の目など要らぬと言ったこと。


 腹は立った。


 確かに立った。


 だが。


「憎んでは、いないと思います」


「なぜ」


「俺には、新八郎様の腹が全部は分かりません。面子を守りたかったことは分かりました。でも、そのせいで悪い味噌が飯場へ行きかけたことも事実です。だから、味噌は止めました」


 信長様はじっと俺を見た。


 この目が、一番怖い。


 嘘をつけば、すぐに腹の底まで見抜かれる気がする。


「なら、新八郎をどうすべきと思う」


 部屋が凍った。


 俺は息を止めた。


 そんなことを俺に聞くのか。


 俺は裁く役ではない。


 五郎兵衛殿にもそう言われた。


 飯を守る役だと。


「俺には、分かりません」


 俺は頭を下げた。


「裁きは分かりません。ただ、飯場には近づけないほうがいいと思います」


「なぜ」


「面子で飯を見ると、味噌の匂いを見落とします」


 言った瞬間、自分でも少し驚いた。


 信長様は黙っていた。


 坂井蔵人殿も、じっと俺を見ている。


「それから」


 俺は続けた。


「佐助のように、悪いことに関わった者でも、知っていることを使えば蔵を守れます。新八郎様にも、坂井家の荷や口利きの流れを知っていることがあるなら、それを出してもらうべきだと思います」


 言い終えて、怖くなった。


 甘いと言われるかもしれない。


 坂井の若侍を小者の佐助と並べるな、と怒られるかもしれない。


 だが、信長様はすぐには答えなかった。


 しばらくして、低く笑った。


「飯炊きらしい裁きだ」


「裁いたつもりは……」


「分かっておる」


 信長様は坂井蔵人殿へ視線を移した。


「新八郎は当面、兵糧から外せ。屋敷で謹慎。伊庭屋との口利き、坂井家から出た荷の流れ、すべて書き出させよ。逃げれば坂井ごと焼く」


「はっ」


 蔵人殿は額を畳につけるほど深く頭を下げた。


 焼く。


 その言葉は比喩ではないのだろう。


 信長様は次に、弥助殿へ命じた。


「伊庭屋宗兵衛、手代、善右衛門、兵糧方の下役どもは、それぞれ分けて調べよ。同じ場所に置くな。口裏を合わせさせるな」


「はっ」


「醤油倉は封じる。中の味噌と米は清吉に見分させ、使えるものは蔵へ戻せ。使えぬものは人に食わせるな」


「はっ」


 俺は頭を下げた。


「承知しました」


 信長様は裏帳面を指で叩いた。


「この帳面にある名をすべて斬れば、穴は塞がるか」


 誰も答えなかった。


 信長様は俺を見た。


「清吉、どう思う」


 また俺か。


 腹が重くなる。


 だが、信長様は待っている。


「……一時は塞がると思います」


「一時か」


「はい。ですが、米と味噌が多く動けば、また抜こうとする者は出ます。鼠の穴と同じで、一つ塞いでも、餌があれば別の穴を掘ります」


 言ってから、少し言い過ぎたかと思った。


 人を鼠に例えてしまった。


 だが、信長様は怒らなかった。


「では、どうする」


「毎日見ます」


 俺は答えた。


「米を動かすたびに見る。荷を出すたびに見る。飯場へ届いた時に見る。帳面に残す。悪いことをした人を裁くだけではなく、抜きにくい形にするしかないと思います」


 信長様の目が、少し細くなった。


「抜きにくい形」


「はい。俺は難しいことは分かりません。でも、椀を湯にくぐらせるのと同じです。一度腹を壊した者を叱るだけでは、次も壊します。椀を洗い、水を煮て、悪い味噌を止める。そうすれば、腹を壊す者は減ります」


 部屋の空気が、ほんの少し変わった。


 俺の言葉は拙い。


 でも、腹から出た。


 信長様は少し笑った。


「やはり、おまえは飯でしか語れぬな」


「申し訳ございません」


「謝るな。それでよい」


 その一言で、胸が熱くなった。


 信長様は家臣たちへ向き直った。


「清洲兵糧蔵の改めを続ける。清吉を正式に兵糧見廻り役とする」


 一瞬、意味が分からなかった。


 正式に。


 仮ではなく。


 俺が。


「俺が、ですか」


 思わず言ってしまった。


 信長様は呆れたように笑った。


「またそれか」


「す、すみません」


「謝るなと言った」


「はい」


 部屋の端で、かやが笑いをこらえている気配がした。


 信長様は続けた。


「ただし、一人で背負わせぬ。帳面役として伊三郎を付ける。荷の目としてかやを使う。五郎兵衛は目付。弥助は飯場とのつなぎを見よ。佐助は味噌樽と蔵の内情に詳しい。使え」


 佐助の名前まで出た。


 俺は驚いた。


 信長様は、ちゃんと見ていたのだ。


 小者の佐助まで。


「清吉」


「はい」


「おまえの役は、首を取ることではない。飯を腹へ届けることだ。米が蔵を出て、荷に乗り、道を渡り、飯場で炊かれ、兵の腹に入る。その道を見ろ」


「はい」


「道が腐れば、国が腐る。腹が腐れば、兵が腐る。兵が腐れば、戦はできぬ」


 その言葉は、重かった。


 飯場で水を煮ていた時には、国など考えもしなかった。


 俺はただ、腹を壊す兵を減らしたかった。


 母と妹に米を持ち帰りたかった。


 それが今、国の腹につながっている。


 恐ろしくて、足が震えた。


「怖いか」


 信長様が聞いた。


「怖いです」


「よい。怖くなくなれば、飯を粗末にする」


 五郎兵衛殿と同じようなことを言われた。


 俺は頭を下げた。


「怖いまま、見ます」


「それでよい」


 信長様は立ち上がった。


「まず、醤油倉の始末を終えよ。伊庭屋の穴を塞ぐ。次に清洲蔵の仕組みを他の蔵へ広げるかを見る」


 他の蔵。


 また、腹が重くなった。


 清洲だけで精一杯だと思っていた。


 だが、織田家には他にも蔵がある。


 飯場もある。


 荷の道もある。


 俺の知らない腹が、まだいくつもある。


 信長様は俺の顔を見て、少しだけ面白そうに言った。


「清吉」


「はい」


「顔に出ておるぞ」


 部屋に小さな笑いが起きた。


 俺はもう、否定しなかった。


「出ます」


「なら、その顔でよい。腹を隠す者より、まだ使える」


 そう言って、信長様は部屋を出ていった。


 残された俺は、しばらく動けなかった。


 正式な兵糧見廻り役。


 飯を腹へ届ける道を見る役。


 重すぎる。


 米俵より重い。


 味噌樽より重い。


 けれど、断ることはもうできなかった。


 部屋を出ると、かやが隣に並んだ。


「正式だって」


「うん」


「おめでとう、でいいのかな」


「分からない」


「じゃあ、腹を括れ、かな」


「それは合ってる」


 伊三郎が帳面を抱えて言った。


「清吉。正式な役となれば、字の稽古も正式に始めます」


「今、それを言うのか」


「大事です」


「……はい」


 五郎兵衛殿が笑う。


「よかったな。敵は米泥棒だけじゃなく、字にもなったぞ」


「字のほうが手強いかもしれません」


「違いない」


 弥助殿は真面目な顔で言った。


「浮かれるなよ」


「浮かれて見えますか」


「いや、今にも米俵の下に潰れそうな顔だ」


「なら浮かれてないです」


「ならいい」


 その後、俺たちは醤油倉へ戻った。


 押収した味噌と米を、改めて分けるためだ。


 正式な役を得ても、することは変わらない。


 味噌を見る。

 米を見る。

 使えるものと使えないものを分ける。

 帳面に残す。

 荷に乗せる。

 飯場へ届ける。


 俺は竹べらを手に取り、味噌桶の前に膝をついた。


 良い味噌の匂い。

 悪い味噌の匂い。

 ごまかす粉の匂い。

 古い木桶の匂い。


 それらを一つずつ分ける。


 かやが隣で縄を見る。

 伊三郎が記す。

 五郎兵衛殿が人を見る。

 弥助殿が捕らえた者を調べる。


 俺一人ではない。


 それが、今は心強かった。


 夕暮れ、清洲蔵へ戻る途中、かやが小さな握り飯を渡してきた。


「また?」


「正式祝い」


「しょっぱい?」


「もちろん」


 俺は受け取り、一口食べた。


 味噌が入っている。


 少し偏っていた。


 だが、うまかった。


「うまい」


 俺が言うと、かやはそっぽを向いた。


「飯炊きに言われると、変な感じ」


「本当にうまい」


「……なら、よかった」


 夕日が川に落ちていた。


 その川を通って、米や味噌が盗まれていた。


 けれど同じ川を、これからはちゃんとした荷が通るかもしれない。


 飯を盗む道を、飯を届ける道に変える。


 そんなことができるのかは分からない。


 でも、やるしかない。


 俺は握り飯を飲み込み、腹に手を当てた。


 怖い。


 だが、腹は温かい。


 正式な役をもらったからではない。


 今日も飯を守れたからだ。


 俺の戦は、まだ終わらない。


 むしろ、ここから広がる。


 清洲の蔵から、織田家の腹へ。


 そして、次の戦場へ。

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