第二十話 信じたい相手と、疑わねばならぬ札
押収した小札には、削られた跡があった。
表面は刃物で乱暴に削られ、誰のものか分からないようにされている。けれど、伊三郎が火のそばで角度を変えながら見た時、ほんのわずかに残った墨の跡が見えた。
坂。
たった一文字。
それだけで、蔵の空気は重くなった。
坂井蔵人殿。
兵糧方の会議で、俺に報告の場を与えた人だ。
言葉は厳しかった。
俺のやり方は荒いとも言った。
家中の面子を知らぬまま走れば、いずれ足を払われるとも言った。
けれど最後には、十日間、清洲蔵で俺たちの改めを続けることを認めてくれた。
その人の名につながるかもしれない小札が、荷を妨害した男の袖から出てきた。
腹が重かった。
米の湿りを見つけた時の重さとは違う。
味噌樽の中に藁を見つけた時の怒りとも違う。
これは、人を疑う重さだった。
「清吉、顔がひどい」
かやが、粥の椀を持ったまま言った。
蔵の外はもう暗い。火鉢と小さな篝火だけが、米俵の影を揺らしている。
「ひどいか」
「ひどい。味噌が全部腐った時みたい」
「それは相当だな」
「相当だよ」
俺は小札を見た。
伊三郎が布の上に置き、誰も直接触らないようにしている。
小さな木の札だ。
米俵ほど重くもない。
味噌樽ほど匂いがあるわけでもない。
塩袋のように湿るわけでもない。
それなのに、今この蔵の中で一番重いものに見えた。
「坂井殿が関わっているとは限りません」
伊三郎が言った。
いつものように真面目な声だが、少し硬い。
「小札は盗まれたのかもしれません。偽物かもしれません。あるいは、坂井殿を疑わせるために、わざと削り残したのかもしれません」
「わざと」
俺は繰り返した。
その考えが、どうにも腹に収まらない。
米なら、湿った理由がある。
味噌なら、抜かれた跡がある。
荷なら、縄の乱れがある。
だが、人の考えは見えない。
わざと誰かを疑わせる。
そんなことをする者がいる。
戦場で正面から槍を向けられるより、ずっと怖かった。
「清吉」
五郎兵衛殿が、蔵の入口で腕を組んだまま言った。
「人を疑う時は、飯より慎重にしろ」
「飯より、ですか」
「ああ。飯は焦がしても、焦げを削れば食えることがある。だが、人の名を焦がすと、削っても臭いが残る」
俺は小さく息を呑んだ。
人の名を焦がす。
その言葉が、胸に刺さった。
俺が軽々しく「坂井殿が怪しい」と言えば、その時点で坂井蔵人殿の名に焦げがつく。
もし違っていたら。
その焦げは、俺では拭えない。
「では、どうすれば」
「見たものだけ申せ」
五郎兵衛殿はいつもと同じことを言った。
「小札に坂の字が残っていた。荷を妨害した男が持っていた。そこまでは見たことだ。坂井蔵人がやった、はまだ見ていない」
「はい」
「腹で怒るな。目で見ろ」
「……はい」
腹で怒る。
皆に茶化される言葉だが、今は笑えなかった。
俺は怒っているのだろうか。
たぶん、怒っている。
飯を止められたことに。
味噌を入れ替えられたことに。
荷を倒そうとされたことに。
そして、信じたい相手まで疑わなければならなくなったことに。
でも、その怒りで人を裁いてはいけない。
信長様にも言われた。
情だけで飯を配るな。
怒りだけで人を裁くな。
あの言葉が、今になって腹の奥で重く響いた。
翌朝、坂井蔵人殿は自ら蔵へ来た。
こちらから呼んだわけではない。
まだ小札の件を正式に報告する前だった。
そのことが、かえって場の空気を固くした。
蔵人殿はいつものように背筋を伸ばし、二人の供を連れていた。顔色は変わらない。怒っているのか、何かを知っているのか、俺には分からなかった。
「清吉」
「はい」
俺は頭を下げた。
「昨日、荷に妨害があったと聞いた」
「はい」
「荷は届いたか」
「届きました」
蔵人殿の目が、ほんの少し動いた。
「そうか」
それが安堵なのか、不満なのか、俺には分からない。
「二つに分けたと聞いた」
「はい。表道と別道に。表道では荷車を倒そうとする細工がありました。別道では、道を変えさせようとした男を捕らえました」
「その男が、小札を持っていた」
俺の腹が冷えた。
もう知っている。
蔵人殿の耳に、どこから入ったのか。
俺は黙った。
蔵人殿は続けた。
「小札に、坂の字が残っていたそうだな」
蔵の中の人足たちまで動きを止めた。
伊三郎が帳面を抱えたまま、息を殺している。
かやは荷車のそばで、こちらを見ていた。
五郎兵衛殿は、壁際で黙っている。
弥助殿だけが一歩前へ出た。
「その件は、こちらから上へ報告するつもりでした」
「だろうな」
蔵人殿は弥助殿を見ず、俺を見た。
「清吉。おまえは、わしを疑うか」
喉が詰まった。
真正面から来た。
逃げ道のない問いだった。
疑うか。
疑わないか。
俺は坂井蔵人殿を信じたい。
あの会議で、俺の拙い言葉を聞いてくれた。
米と飯場がつながっていることは分かった、と言ってくれた。
十日間試せと、道を残してくれた。
だが、小札には坂の字があった。
飯を止めようとした男が持っていた。
見たものを、見なかったことにはできない。
俺は腹に力を入れた。
「分かりません」
蔵人殿の眉がわずかに動いた。
俺は続けた。
「俺は、坂井殿がやったところを見ておりません」
声が震えた。
でも、止めなかった。
「ですが、小札に坂の字が残っていたことは見ました。その小札を、荷を止めようとした男が持っていたことも見ました。だから、札は疑います」
「札は疑う、か」
「はい」
「わしは?」
俺は唇を噛みそうになった。
でも、噛まなかった。
「坂井殿のことは、まだ分かりません」
蔵の中が静まり返った。
正しい答えだったのかは分からない。
無礼だったかもしれない。
だが、嘘は言えなかった。
蔵人殿はしばらく俺を見ていた。
長い沈黙だった。
米俵が軋む小さな音まで聞こえた。
やがて、蔵人殿は低く笑った。
「飯炊きにしては、逃げぬ答えだ」
俺は息を止めた。
「褒められているのでしょうか」
「半分はな」
「残り半分は」
「生意気だ」
「……申し訳ございません」
「謝るな。今の答えで謝れば、全部崩れる」
俺は慌てて口を閉じた。
蔵人殿は弥助殿へ視線を移した。
「小札を見せよ」
伊三郎が布ごと小札を差し出す。
蔵人殿は直接触れず、顔を近づけて見た。
削られた表面。
かすかに残る、坂の字。
その瞬間、蔵人殿の顔がわずかに変わった。
怒りではない。
痛みのようなものだった。
「これは、わしのものではない」
蔵人殿は静かに言った。
俺は息を吐きかけた。
だが、すぐに蔵人殿が続けた。
「だが、坂井家のものだ」
蔵の中がざわついた。
「坂井家の……」
伊三郎が小さく呟く。
蔵人殿は小札から目を離さずに言った。
「わしの甥、坂井新八郎に与えていた札に似ている」
「甥御様ですか」
弥助殿の声が低くなる。
「ああ。若い。血気もある。家の面子ばかり気にする」
蔵人殿の声には、苦さがあった。
「善右衛門とは遠い縁がある。伊庭屋とも、過去に荷の口利きがあったはずだ」
俺は何も言えなかった。
坂井蔵人殿本人ではない。
だが、坂井家につながっている。
それは蔵人殿にとって、どれほど苦いことなのだろう。
俺には想像するしかない。
「清吉」
蔵人殿が俺を見た。
「おまえ、今ほっとした顔をしたな」
「……しました」
正直に答えた。
かやが後ろで小さく息を吐いた気配がする。
また正直すぎると言いたいのだろう。
蔵人殿は少しだけ口元を歪めた。
「わしではなくてよかった、か」
「はい」
「だが、坂井の名は焦げた」
五郎兵衛殿の言葉を思い出した。
人の名を焦がす。
蔵人殿自身の口から聞くと、さらに重かった。
「申し訳ございません」
「謝るなと言った」
「……はい」
「これは、おまえが焦がしたのではない。焦がした者がいる」
蔵人殿の目が、先ほどまでと違っていた。
冷たい。
けれど、信長様のような冷たさとは違う。
自分の家の内側に火がついた者の冷たさだった。
「坂井新八郎を呼び出す。だが、今ここで騒げば逃げる。清吉、おまえたちは十日勝負を続けろ」
「続けるのですか」
「当然だ。飯を止めようとした者がいるなら、なおさら止めるな」
その言葉に、胸が震えた。
飯を止めようとした者がいるなら、なおさら止めるな。
それは、俺の腹にもすっと落ちた。
「はい」
「今日の荷は」
「飯場へ出す準備をしております」
「いつも通り出せ。だが、札と道は変えろ」
かやが前に出た。
「道は三つに分けます」
蔵人殿がかやを見る。
「三つ?」
「はい。表道、東の細道、それと少量だけ徒歩で先に。味噌と塩を少し先に飯場へ入れます。大荷が止められても、粥だけは炊けるように」
俺は驚いてかやを見た。
それ、いつ考えたのか。
かやはちらりと俺を見る。
「昨日考えた」
「聞いてない」
「今言った」
蔵人殿が、わずかに笑った。
「荷の目は、確かに使えるな」
かやは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに頭を下げた。
「ありがとうございます」
珍しく素直だった。
蔵人殿は伊三郎にも言った。
「帳面役。札は今日からおまえが作ったものを使え。古い小札は一時停止する。わしの名で出す」
「よろしいのですか」
「よい。坂井の札で穴が開いたなら、坂井の名で塞ぐ」
重い言葉だった。
自分の家につながる疑いを、隠すのではなく、一度止める。
それは蔵人殿にとって痛いことのはずだ。
だが、そうしなければ飯は守れない。
「清吉」
「はい」
「おまえは、飯を見ろ。人の名に飲まれるな。坂井だろうが、伊庭屋だろうが、善右衛門だろうが、まず飯がどこで止まったかを見る」
「はい」
「ただし、人の名を軽く扱うな。名は米より軽く見えるが、燃えると広がる」
「はい」
俺は深く頭を下げた。
蔵人殿はそれ以上言わず、弥助殿と五郎兵衛殿を伴って蔵の奥へ移動した。
小札の扱い、坂井新八郎の呼び出し、見張りの配置。
難しい話が続くのだろう。
俺はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
かやが横に来る。
「よかったね」
「うん」
「でも、よくないね」
「うん」
蔵人殿本人ではなかったかもしれない。
それは、よかった。
でも、坂井家につながる疑いは残った。
蔵人殿の名も、もう無傷ではない。
飯を守ると、人の懐だけではなく、人の名も傷つくことがある。
それを初めて知った。
「清吉」
伊三郎が声をかけてきた。
「今日の荷札を作り直します」
「頼む」
「古い小札は使えません。全て新しい簡易札に切り替えます。帳面にも、その旨を記します」
「俺でも分かる印で」
「もちろんです」
かやが言った。
「道は三つ。清吉は徒歩の先荷を見る」
「先荷?」
「味噌、塩、干し菜を少しだけ。飯場に先に入れる。これが届けば、米が遅れても薄い粥は炊ける」
「米なしで?」
「米は飯場にも少し残ってるでしょ。味噌と塩が先にあれば、どうにかなる」
確かにそうだ。
飯場に残り米が少しあれば、味噌と塩で粥になる。
大荷が止められても、火は消えない。
「かやはすごいな」
「また真っ直ぐ言う」
「すごいものはすごい」
「……飯一椀追加」
「分かった」
かやは顔を逸らした。
照れているのだと思う。
それを言うと怒られそうなので、言わなかった。
その日の荷出しは、今までで一番手間がかかった。
古い小札をすべて外す。
伊三郎の新しい札を付ける。
札には、今日だけの印。
俵の縄にも、かやの結び。
飯場側には、弥助殿の部下が先に印を伝えに走る。
徒歩の先荷は、俺とかやと佐助で運ぶことになった。
佐助が志願した。
「俺、軽い荷なら走れます」
「無理しなくていい」
「無理ではありません。……前に、夜に樽を運ばされた道も少し知っています。避けたほうがいい場所を言えます」
佐助の声は震えていた。
でも、逃げてはいなかった。
俺は頷いた。
「頼む」
「はい」
佐助の背筋が伸びる。
悪かった経験を、守るために使う。
その姿を見ていると、飯を作るのに似ていると思った。
悪くなりかけた米でも、見極めれば粥になる。
怖かった記憶でも、使い方を間違えなければ誰かを守れる。
もちろん、全部が救えるわけではない。
でも、捨てる前に見る価値はある。
先荷は小さかった。
味噌を入れた小桶。
塩を包んだ袋。
干し菜。
少しの竹皮。
それだけだ。
だが、これが届けば火は消えない。
「行こう」
俺が言うと、かやが頷き、佐助も続いた。
清洲の町を抜ける道は、昨日よりずっと長く感じた。
何度も後ろを見たくなる。
誰かがつけていないか。
また笠の男が出てこないか。
小札を持った誰かが、道を変えろと言ってこないか。
だが、何も出なかった。
出ないことが、逆に怖い。
かやが小声で言った。
「清吉、前」
「見てる」
「後ろを見ながら前は見えない」
「……見てなかった」
「正直でよろしい」
佐助が少し笑った。
その笑いで、緊張が少し緩む。
飯場へ着いた時、俺は思っていた以上にほっとした。
飯場では、すでに火が起きていた。
昨日より準備が早い。
弥助殿が指示してくれたのだろう。
「先荷です!」
俺が声を上げると、飯場の者たちが振り向いた。
「味噌と塩、干し菜です。大荷が遅れても、火は消さないでください!」
飯場の古参が受け取り、札を見る。
印は合っている。
味噌の匂いも大丈夫。
塩も乾いている。
「使えます」
俺が言うと、飯場にいた足軽の一人が笑った。
「よし、腹で怒る清吉のお墨付きだ」
「それはもう訂正しないことにした」
「お、諦めた」
笑いが起きた。
けれど、その笑いの中で、火は強くなった。
鍋に水が張られる。
味噌が溶かされる。
干し菜が刻まれる。
大荷がまだ来ていなくても、飯場は動き出した。
それを見て、胸が熱くなった。
小さな荷でも、火をつなげる。
全部が届かなくても、何かが届けば飯は始められる。
分けることは、ただ危険を避けることではない。
火を先に灯すことでもあるのだ。
昼前、表道と東の細道の荷も無事に届いた。
途中で見知らぬ男が遠くから見ていたらしいが、声をかけてはこなかったという。
古い小札が使えなくなったことが効いたのかもしれない。
それとも、別のところで様子を見ているのかもしれない。
まだ分からない。
だが、今日も飯は届いた。
飯場では、味噌粥が炊けた。
昨日より早く。
昨日より落ち着いて。
兵たちは椀を受け取り、湯気に顔を近づけた。
「今日は早いな」
「先に味噌が来たんです」
「よく分からんが、ありがてえ」
「分からなくても、食えればいい」
足軽がそう言い、粥をすすった。
その顔を見て、俺はようやく腹が少し軽くなった。
蔵へ戻ると、坂井蔵人殿はまだいた。
弥助殿と何かを話している。
俺が荷の到着を報告すると、蔵人殿は短く頷いた。
「届いたか」
「はい」
「三つに分けた荷が、全てか」
「はい。先荷も、表道も、東の細道も」
「そうか」
蔵人殿は目を閉じ、深く息を吐いた。
それは安堵に見えた。
少なくとも、俺にはそう見えた。
「清吉」
「はい」
「わしの甥の件は、こちらで動く。おまえは十日勝負を続けろ」
「はい」
「今日、飯場で腹を下した者は?」
「まだ報告は来ていません」
「来たら、数を残せ」
「はい」
「腹の数は、嘘をつきにくい」
その言葉に、俺は驚いた。
蔵人殿の口から、腹の話が出た。
俺の言葉が、少しだけ移ったのかもしれない。
そう思うのは、少し自惚れだろうか。
でも、胸が温かくなった。
その夜、蔵の外で粥を炊いた。
先荷で火をつないだ記念、というわけではないが、皆がよく働いた。
かやには約束通り、一椀多くよそった。
「本当に増やした」
「約束だから」
「律儀だね」
「飯の約束は守る」
「いいことだ」
佐助にも少し濃いめによそった。
彼は恐縮していたが、最後にはきれいに食べた。
伊三郎は今日の荷の記録を読み上げた。
「先荷、無事到着。表道荷、無事到着。東細道荷、無事到着。飯場、予定より早く火入れ」
「予定より早く」
俺は繰り返した。
その言葉は、思ったより嬉しかった。
飯場の火が早く入る。
それだけで、兵の腹は早く温まる。
それだけで、今日の仕事には意味がある。
五郎兵衛殿が椀を手に言った。
「信じたい相手を疑うのは、腹に悪い」
「はい」
「だが、疑うことと、決めつけることは違う。今日は少し、それを覚えたな」
「覚えました」
「ならよし」
俺は粥をすすった。
味噌の味が腹に落ちる。
坂井蔵人殿への疑いは、完全に晴れたわけではない。
坂井新八郎という名も出た。
小札の穴も、まだ塞がってはいない。
川下の醤油倉も残っている。
だが、飯は届いた。
火は消えなかった。
今日は、それを腹に収める。
明日はまた、米を見る。
人を見る。
札を見る。
道を見る。
十日勝負は、まだ続いている。
それでも俺は、少しだけ分かった。
信じるとは、見ないことではない。
疑うとは、憎むことではない。
飯を守るために、見たものを見たままに置く。
それが、今の俺にできる精一杯だった。




