第二十一話 坂井新八郎、蔵に来る
飯が届くようになると、文句の形が変わった。
最初は、手間が増えたという文句だった。
「印を見るのが面倒だ」
「荷を分けると人手が足りない」
「椀を湯にくぐらせる暇があるなら早く食わせろ」
そういう声なら、まだよかった。
面倒なのは事実だ。
人手が足りないのも事実だ。
腹を空かせた兵が早く飯を食いたがるのも、当たり前だ。
けれど、飯場へ届く米の状態が少しずつ良くなり、腹を下す者が減り始めると、文句は別の場所から来るようになった。
「飯炊き足軽が出しゃばっている」
「蔵の作法を知らぬ者が、家中の顔を潰している」
「上様に拾われたからといって、調子に乗っている」
そういう声は、飯場の鍋の中には入ってこない。
だが、蔵の隅に溜まる湿気のように、少しずつ空気を重くした。
その日、俺は朝から味噌樽を見ていた。
蓋の縁に白い膜が出始めたものを分け、すぐ使う分と、まだ置ける分を見極める。
味噌は難しい。
少し酸いからといって、すぐ駄目になるわけではない。
火を通せば使えるものもある。
だが、匂いの奥に嫌な苦さが出たものは、兵には食わせられない。
「これは飯場へ。こっちは漬け込み用。これは、もう一度見る」
俺が言うと、佐助が小さな札を付けていく。
佐助の手つきは、かなり早くなった。
まだ人足たちの中には彼を見る目が冷たい者もいる。だが、佐助は黙って働いた。味噌樽の蓋を見る目は確かだし、どの蔵の隅に湿りが溜まるかもよく知っている。
悪事に使われていた目が、今は守るために働いている。
それを見るたびに、俺は少しだけ救われる気がした。
「清吉さん、これは?」
「さんはいらないって」
「でも」
「じゃあ、清吉で」
佐助は困った顔をした。
俺が笑うと、ようやく小さく頷く。
「清吉、この樽は蓋が少し浮いてます」
「どれ」
俺は蓋に手を置き、匂いを嗅いだ。
まだ使える。
だが、長くは置けない。
「今日の粥に回そう。味は少し濃いめにする」
「はい」
佐助が札を付けようとした、その時だった。
蔵の入口で、大きな足音が止まった。
「ここか」
若い男の声だった。
振り返ると、武士が立っていた。
二十を少し過ぎたくらいだろうか。背は高く、肩も張っている。顔立ちは整っているが、目がきつい。着物も刀も上等で、自分が人の上に立つ側だと疑っていない男の立ち方だった。
その後ろに、供の若侍が二人。
さらに数人の小者。
蔵の中の人足たちが、一斉に手を止めた。
かやが荷台の横からこちらを見る。
伊三郎は帳面を閉じた。
五郎兵衛殿は、入口近くで片目を細めた。
俺の腹が、すっと冷えた。
名前を聞かなくても分かる。
たぶん、この男だ。
坂井新八郎。
坂井蔵人殿の甥。
荷を止めようとした男が持っていた小札に、名の影が残っていた相手。
新八郎は蔵の中をぐるりと見回し、最後に俺を見た。
「おまえが清吉か」
昨日も似た問いをされた。
だが、坂井蔵人殿の声とは違う。
こちらは最初から刺しに来ている声だった。
「はい。清吉にございます」
俺は頭を下げた。
その瞬間、新八郎が鼻で笑った。
「本当に飯炊きの顔だな」
蔵の中が固まった。
飯炊きの顔。
それが何を意味するのかは分からない。
けれど、褒め言葉でないことだけは分かった。
「はい」
俺は答えた。
「飯炊きです」
新八郎の眉が動いた。
言い返されると思っていたのかもしれない。
俺は言い返したつもりはなかった。
飯炊きであることは、恥ではない。
桶狭間の雨の中で、そう思えるようになった。
「その飯炊きが、坂井の札を疑ったそうだな」
来た。
俺は手を握った。
味噌の匂いが指に残っている。
「札を疑いました」
「人ではなく、札をか」
新八郎は皮肉げに笑った。
「伯父上にそう答えたそうだな。小賢しい」
小賢しい。
腹の奥がきゅっと縮む。
だが、五郎兵衛殿の言葉を思い出す。
腹に力を入れろ。
「見たものを申しただけです」
「では、これも見ろ」
新八郎は、そばにいた小者へ顎をしゃくった。
小者が荷を前へ出す。
小さな味噌樽だった。
見た目は普通だ。
縄も締まっている。
だが、妙だった。
この蔵の印がない。
伊三郎の札もない。
かやの結びでもない。
「これは?」
俺が聞くと、新八郎は言った。
「坂井家からの差し入れだ。兵に食わせろ」
俺は味噌樽を見る。
差し入れ。
言葉だけならありがたい。
だが、今の状況で、坂井新八郎が持ってきた味噌樽。
何も見ずに飯場へ回すわけにはいかない。
「確認してもよろしいですか」
俺が言うと、新八郎の目が細くなった。
「坂井の味噌を疑うか」
「飯場へ出すものは、すべて確認します」
「坂井の名でもか」
「はい」
声が少し震えた。
でも、引かなかった。
「坂井の名でも、清吉の名でも、出どころがどこでも、兵の腹に入るものは見ます」
新八郎の後ろの若侍が顔を赤くした。
「無礼な!」
弥助殿がいれば前へ出ただろう。
だが、今弥助殿は飯場へ行っている。
ここにいるのは、俺と、かやと、伊三郎と、五郎兵衛殿。あとは人足たちだ。
五郎兵衛殿が一歩動こうとした。
俺は小さく首を振った。
これは、俺が言わなければならない気がした。
「無礼なら、お詫びします」
俺は頭を下げた。
「ですが、見ます」
謝っているのに、引かない。
自分でも変な言い方だと思った。
新八郎はしばらく俺を見ていた。
そして、急に笑った。
「よい。見ろ。そこまで言うなら、おまえの鼻とやらで見ればいい」
俺は味噌樽の前に膝をついた。
かやが近づく。
伊三郎も帳面を開いた。
新八郎が言った。
「おい、娘。これは坂井の味噌だ。荷運び風情が触るな」
かやの手が止まる。
俺は顔を上げた。
「かやは荷を見る目として、上様から使えと言われています」
「女の目など要らぬ」
その言葉に、かやの顔がわずかに変わった。
怒りだ。
けれど、かやは口を開かなかった。
代わりに俺が言った。
「俺には、荷の縄が見えません」
新八郎がこちらを見る。
「だから、かやの目が要ります。俺には帳面も読めません。だから伊三郎の目が要ります。俺一人では見落とします」
「無能を誇るか」
「無能なので、人の目を借ります」
言った瞬間、蔵の中が変な静けさになった。
自分でも、ここまで言うつもりではなかった。
でも、本当のことだ。
俺は万能ではない。
槍も下手だ。
字も読めない。
荷の道も知らない。
家中の面子もよく分からない。
だから、一人でやれば失敗する。
飯場で学んだ。
蔵で学んだ。
人に頼むことは、恥ではない。
新八郎は、笑うのをやめていた。
「……開けろ」
短く言った。
かやが縄を見る。
そして、小声で俺に言った。
「変」
「何が」
「縄はきれい。でも、締めた人が荷を運ぶ人じゃない。見た目だけ整えてる」
「分かるのか」
「分かる」
俺は頷き、蓋に顔を近づけた。
味噌の匂い。
強い。
悪くはない。
むしろ、かなり良い味噌の匂いだ。
だが、その奥に、何かがある。
味噌ではない匂い。
辛い。
薬のような、舌を刺しそうな匂い。
俺は蓋を完全に開ける前に手を止めた。
「水を」
佐助がすぐに桶を持ってきた。
「どうしたの」
かやが聞く。
「匂いが変だ」
「腐ってる?」
「違う。良い味噌に、何か混ざってる」
新八郎が笑った。
「良い味噌に慣れておらぬから分からぬのだろう。貧乏足軽の舌ではな」
俺は答えず、木のへらで表面を少し取った。
色は良い。
艶もある。
だが、味噌の奥から、ぴりりとした匂いが立つ。
俺は少量を水に溶いた。
味見しようとして、佐助が慌てて止めた。
「清吉、待ってください」
「どうした」
「これ、前に見たことがあります」
佐助の顔が青い。
「何を」
「味噌じゃありません。粉です。善右衛門様の時、古い味噌の臭いをごまかすために、少し混ぜていたものがあります。辛くして、酸い匂いを隠すんです」
新八郎の眉が動いた。
「小者の分際で、何を」
佐助の肩が震える。
だが、逃げなかった。
「その粉を入れすぎると、腹を下します」
蔵が静まり返った。
俺は味噌樽を見た。
良い味噌。
しかし、臭いをごまかす粉。
なぜ良い味噌にそんなものを混ぜる?
いや、良い味噌に見せるために、混ぜたのか。
俺はさらに奥をへらで掘った。
表面は良い。
少し下へ行くと、色が変わる。
古い味噌が出てきた。
酸い匂いが強い。
その酸さを、辛い粉でごまかしている。
「これは飯場へ出せません」
俺は言った。
新八郎の顔が赤くなった。
「坂井の差し入れを突き返すか」
「兵に食わせられません」
「味見もせずにか」
「匂いで分かります」
「鼻で坂井を裁く気か!」
新八郎の声が蔵に響いた。
人足たちが肩を震わせる。
俺も怖かった。
膝が少し震えた。
だが、味噌樽から手は離さなかった。
「坂井を裁くのではありません」
俺は言った。
「この味噌を飯場へ出さないだけです」
「同じことだ!」
「違います」
声が大きくなった。
自分でも驚いた。
でも、止まらなかった。
「この味噌を食って腹を壊すのは、坂井の面子ではありません。兵の腹です。走れなくなるのは、坂井の名ではなく、飯を食った足です」
新八郎が一歩踏み出した。
「貴様……!」
かやが俺の前に出かける。
五郎兵衛殿も動く。
その時、蔵の入口から別の声がした。
「そこまでだ」
坂井蔵人殿だった。
蔵の中の空気が、一瞬で変わる。
新八郎の顔色も変わった。
「伯父上」
蔵人殿は、ゆっくりと蔵へ入ってきた。
その目は、新八郎を見ていない。
まず味噌樽を見た。
次に俺を見た。
最後に新八郎を見た。
「新八郎。何をしている」
「私は、坂井家として兵に味噌を」
「誰の許しで」
新八郎が詰まった。
「差し入れに許しが要りますか」
「今の清洲蔵で、兵の飯に入るものは改めを通す。わしがそう認めた」
「しかし、飯炊き風情に坂井の味噌を」
蔵人殿の声が低くなった。
「坂井の味噌なら、腐らぬのか」
新八郎は黙った。
「坂井の名なら、兵は腹を壊さぬのか」
「……伯父上」
「答えよ」
蔵人殿の声は静かだった。
だが、誰も口を挟めなかった。
新八郎の額に汗が浮く。
「私は、坂井の面子を」
「面子は飯にならぬ」
その一言は、蔵の奥まで響いた。
俺は息を呑んだ。
面子は飯にならぬ。
それは、俺が言いたくても言えなかった言葉だった。
蔵人殿は味噌樽の前に膝をつき、俺へ言った。
「清吉。申せ」
「はい」
「この味噌は使えるか」
「兵には食わせられません。表面は良い味噌ですが、下に古い味噌が混じっています。辛い粉で匂いをごまかしているようです」
「佐助」
蔵人殿が佐助を呼んだ。
佐助は震えながら頭を下げた。
「はい」
「その粉を知っているか」
「はい。以前、善右衛門様の下で見ました。古い味噌の酸さをごまかすために使っていました。少量なら辛みになりますが、多いと腹を下します」
「伊三郎」
「はい」
「記せ」
「承知しました」
伊三郎の筆が走る。
新八郎は顔を赤くしたまま、拳を握っていた。
「私は知らぬ」
その声は、先ほどより弱かった。
「味噌は、伊庭屋から受け取ったものです。坂井の名で兵へ出せば、家の顔も立ち、飯場も助かると」
伊庭屋。
また、その名だ。
蔵人殿の目がさらに冷える。
「宗兵衛は捕らえられている」
「別の手代が」
「つまり、おまえは、改めを通さず、伊庭屋筋から受け取った味噌を坂井の名で飯場へ出そうとした」
新八郎は答えられなかった。
「それが何を意味するか、分かるか」
「……兵に、味噌を」
「違う」
蔵人殿の声が鋭くなった。
「坂井の名で、悪い味噌を兵に食わせるところだったのだ」
新八郎の顔が、今度こそ青くなった。
自分が坂井の面子を守ろうとして、逆に坂井の名で兵の腹を壊しかけた。
そのことに、ようやく気づいたのかもしれない。
蔵人殿は目を伏せた。
ほんの一瞬だけ。
そして、すぐに顔を上げた。
「新八郎を連れていけ。わしの屋敷で預かる。上様への報告は、わしがする」
「伯父上!」
「黙れ」
新八郎は供の若侍に支えられるようにして連れていかれた。
去り際、俺を睨んだ。
その目は、まだ怒っていた。
恨みもあった。
だが、少しだけ別のものも混じっていた。
恐怖か。
悔しさか。
俺には分からない。
新八郎が去ったあと、蔵の中には重い沈黙が残った。
蔵人殿は味噌樽の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
俺は何を言えばいいのか分からなかった。
坂井家の名が、また傷ついた。
でも、兵の腹は守られた。
それを喜んでいいのか、分からなかった。
「清吉」
蔵人殿が言った。
「はい」
「よく止めた」
短い言葉だった。
俺は頭を下げた。
「……はい」
「ただし、これは終わりではない。伊庭屋の手がまだ残っている。新八郎が愚かだったとしても、愚かさを利用した者がいる」
「はい」
「おまえは、今日の味噌をどうする」
俺は樽を見た。
悪い。
兵には出せない。
だが、全部捨てるには惜しい部分もある。
「表面の良い部分は分けます。ただし兵には出しません。濃く火を通して、家畜か、使える場所を考えます。下の古い味噌と粉の強い部分は、人には使えません」
「よい」
蔵人殿は頷いた。
「坂井の面子より、兵の腹を取れ」
その言葉は重かった。
蔵人殿自身が言ったから、なおさらだ。
「はい」
俺は答えた。
蔵人殿が帰ったあと、かやが長く息を吐いた。
「怖かった」
「うん」
「清吉、途中で声大きかった」
「そうか」
「うん。ちょっと腹で怒ってた」
「……怒ってたと思う」
「でも、焦げてはなかった」
俺はかやを見た。
「本当か」
「たぶん」
「たぶんか」
「でも、届いたんじゃない」
かやは味噌樽を見た。
「少なくとも、あれは飯場に届かなかった」
そうだ。
届かなかった。
悪い味噌は、兵の腹へ入らなかった。
それだけは確かだ。
伊三郎が帳面を書き終え、静かに言った。
「記録しました。坂井新八郎持参の味噌樽。伊庭屋筋より入手。表面良好、内部古味噌混入。辛味粉により臭気を隠蔽。飯場使用不可」
「難しい」
俺が言うと、伊三郎は少しだけ笑った。
「では、横に印を付けます」
ばつ印。
人には食わせない。
その印が味噌樽につけられた瞬間、俺の腹に少しだけ熱が戻った。
面子は飯にならない。
だが、面子を守りたい人間の腹も、たぶん空く。
新八郎は愚かだったのかもしれない。
でも、ただの悪人として片づけていいのか、俺には分からなかった。
坂井の名を守りたかった。
飯炊き足軽に家の顔を潰されたと思った。
そこを伊庭屋筋に利用された。
人の腹は、米より複雑だ。
だが、どれほど複雑でも、悪い味噌を兵に食わせるわけにはいかない。
俺は手を洗い、鍋の用意を始めた。
今日の飯場へ出す予定だった味噌は、別の確認済み樽から取る。
少し少ない。
だが、干し菜と塩で補えば粥にはなる。
「佐助」
「はい」
「今日の味噌、別樽から出す。蓋を見てくれ」
「はい」
「かや」
「何」
「荷を一つ増やす。少ない味噌を分けて、先に飯場へ」
「分かった」
「伊三郎」
「はい」
「記録を」
「もう書き始めています」
皆が動いた。
蔵が動く。
悪い味噌を止めたことで、仕事は増えた。
でも、誰も文句を言わなかった。
いや、少しは言った。
「また荷が増えたぞ」
「腰が痛え」
「清吉、飯は濃いめにしろよ」
そのくらいの文句は、むしろありがたかった。
夕方、飯場から報告が来た。
今日も腹を下した者は少ない。
味噌は薄めだったが、粥は炊けた。
兵は走れた。
その報告を聞いた時、俺はようやく深く息を吐いた。
坂井新八郎との衝突は、きっとこれで終わらない。
伊庭屋の影もまだ残っている。
川下の醤油倉も、まだ完全には押さえていない。
でも、今日も飯は届いた。
悪い味噌は止まった。
火は消えなかった。
それだけは、胸を張っていいのだと思った。
夜、蔵の外で皆と粥を食べた。
味噌は少し薄い。
けれど、干し菜の甘さが出ていて、悪くなかった。
五郎兵衛殿が一口すすり、言った。
「今日の粥は、面子より腹の味がするな」
「何ですか、それ」
「悪くないということだ」
かやが笑う。
伊三郎も少し笑う。
佐助は黙って椀を抱えていた。
俺は粥をすすった。
熱い。
薄い。
けれど、腹に落ちる。
それでいい。
飯は面子を食わせるものではない。
人を立たせるものだ。
その当たり前を守るだけで、こんなに敵が増えるとは思わなかった。
けれど、もう戻れない。
俺は飯炊きだ。
兵の腹に入るものを見る。
坂井の名でも、伊庭屋の荷でも、誰の差し入れでも。
悪いものは止める。
良いものは届ける。
それだけだ。
それだけを、続ける。




