第十九話 二つに分けた荷
朝の蔵は、いつもより静かだった。
人が少ないわけではない。
むしろ多い。
人足も、弥助殿の部下も、伊三郎も、佐助も、かやもいる。五郎兵衛殿は入口近くで腕を組み、外の道を見ていた。
それなのに、妙に静かだった。
皆が声を落としている。
昨日までなら、俵を動かすたびに文句が飛んだ。
「重い」
「腰が抜ける」
「清吉、また印か」
「飯場まで遠いんだぞ」
そういう声が、今朝は少ない。
理由は分かっていた。
川下の古い醤油倉。
小舟。
笠の男。
兵糧方会議にいた者に似た声。
見えない相手が、蔵の外にいる。
そう分かっただけで、米俵の重さまで変わったような気がした。
「清吉」
伊三郎が帳面を開いた。
「今日の荷は二手に分けます。表道を通る荷が、米三俵、味噌半樽、塩袋一つ。別道を通る荷が、洗い米二俵、味噌四分の一樽、竹皮二束」
「飯場には足りるか」
「合わせれば、予定量には届きます。ただし、片方だけでは足りません」
「片方だけでも、粥は炊けるようにしたい」
俺は米俵を見た。
「別道の荷に、干し菜を少し足せるか」
「足せます」
「味噌が少なくても、干し菜があれば粥になる」
伊三郎が帳面に書き込む。
かやは荷台の縄を確かめながら言った。
「表道の荷は目立つ。昨日と同じ道に近いから、相手が見てるならこっちを狙う」
「別道は?」
「橋が悪い。重い荷は無理。でも軽くすれば通れる。人目は少しある。川からは離れる」
俺は頷いた。
荷を分ける。
これだけのことが、昨日までの俺には思いつかなかった。
飯場では、一つの鍋が焦げそうなら別の鍋に分ける。
握り飯も、大きく作りすぎれば数が足りなくなるから小さく分ける。
腹の悪い者と走る者では、食わせるものを分ける。
それと同じだ。
米も味噌も、道を分ける。
一つが止まっても、もう一つが届くように。
「清吉」
弥助殿が蔵へ入ってきた。
「はい」
「表道には俺の者を二人つける。別道にはかやと、俺の者一人。おまえはどちらへ行く」
俺は答えに詰まった。
本当は、両方見たい。
だが、それは無理だ。
かやが俺を見る。
「清吉は別道」
「いいのか」
「表道は弥助の人が見ればいい。別道は飯場に着くまで、途中で荷を軽く持ち上げる場所がある。洗い米の状態を見るなら、あんたがいたほうがいい」
弥助殿が頷く。
「ならそうしろ。表道に何かあれば、戻って知らせる。追うな。荷を守れ」
「はい」
「返事だけでなく、守れよ」
「……はい」
弥助殿は俺の顔をじっと見てから、ふっと息を吐いた。
「分かってる顔じゃねえな」
「分かってはいます」
「分かっていても、飛び出す顔だ」
否定できなかった。
もし表道の荷が襲われたと聞けば、俺は走り出したくなるだろう。
けれど、今日の俺の役は別道の荷を届けることだ。
自分の荷を捨てて別の荷を追えば、結局どちらも守れない。
かやが言った。
「清吉が走り出したら、あたしが縄で縛る」
「本当にやりそうだから怖い」
「必要ならやる」
五郎兵衛殿が笑った。
「縛られる前に、腹に力を入れて止まれ」
「はい」
俺は深く息を吸った。
蔵の匂い。
米。
味噌。
塩。
湿った木。
そして、少しずつ乾き始めた俵の匂い。
これを飯場へ届ける。
今日の目的はそれだけだ。
表道の荷が先に出た。
米三俵と味噌半樽、塩袋。
荷車の横には弥助殿の部下が二人。荷引きの男は、昨日とは別の者だ。作兵衛の親戚で、信用できると言っていた。
伊三郎が荷札を確認する。
「本日の表道荷。横線に二つ丸。帳面記載済み」
弥助殿が頷く。
かやが縄を見た。
「ほどいたら分かる結びにしてある。途中で触ったら、飯場で見れば分かる」
俺は味噌樽の匂いを確かめた。
「大丈夫です」
荷車が動き出す。
車輪が土を噛む音が、蔵の前に響いた。
皆がそれを見送る。
俺も見送った。
胸の奥がざわざわする。
あちらが狙われるかもしれない。
だが、今は見送るしかない。
「清吉」
かやが言った。
「こっちも行くよ」
「うん」
別道の荷は、荷車ではなく小さな引き台と背負いに分けた。
洗い米二俵は、小さめの俵に詰め替えたもの。味噌は小桶。竹皮と干し菜は背負えるようにまとめた。
重さはあるが、橋を渡るにはこのほうがいい。
かやが先頭。
弥助殿の部下一人が後ろ。
俺は味噌の小桶と干し菜の束を見る役になった。
蔵を出る時、伊三郎が小さな木札を渡してきた。
「飯場で、同じ印を照合してください。こちらが控えです」
「分かった」
「なくさないでください」
「なくしたら?」
聞いた瞬間、伊三郎の顔が真剣になった。
「困ります」
「絶対なくさない」
俺は木札を懐の内側に入れた。
伊三郎の「困ります」は、弥助殿の怒鳴り声より少し怖い。
別道は、清洲の町の東側を抜けた。
表道より狭い。
店の裏を通り、畑の端を抜け、小さな橋へ出る。
かやは迷わない。
俺なら三歩で道を間違える自信があった。
「ここ、荷車は通れないな」
橋を見て俺は言った。
板が古い。
ところどころ沈んでいる。
かやは足で板を軽く踏んだ。
「重い車は無理。でも、分けた荷ならいける。真ん中を歩かない。端のほうが板が残ってる」
「普通、真ん中のほうが強くないのか」
「この橋は違う。真ん中は水を吸ってる」
俺には見えない。
でも、かやには見える。
彼女の言う通りに、荷を少しずつ渡した。
俺も味噌桶を抱えて渡る。
足元の板が、ぎしりと鳴った。
腹が冷える。
「清吉、止まらない」
「分かってる」
「止まった」
「今動く」
かやに急かされながら、どうにか渡り切った。
向こう岸で息を吐く。
「川に落ちなかった」
「落ちると思ってたのか」
「少し」
「俺も少し思ってた」
「自分で言うな」
かやは笑った。
その笑いで、緊張が少しほどける。
だが、すぐに後ろの護衛が低く言った。
「誰か来る」
俺たちは足を止めた。
脇道の向こうから、男が一人歩いてくる。
商人風ではない。
百姓にも見えない。
笠をかぶり、荷は持っていない。
腰に刀はないが、歩き方が妙にまっすぐだった。
俺の腹が冷えた。
武士風。
昨日、かやたちが見た笠の男の話が頭をよぎる。
男は近づくと、こちらへ軽く頭を下げた。
「飯場へ向かう荷か」
俺は答えようとしたが、かやが先に口を開いた。
「そうだよ」
「表道が混んでいる。西へ回ったほうが早い」
「西?」
「橋の先で人が倒れているらしい。荷が通れぬ」
男の声は落ち着いている。
いかにも親切そうだった。
だが、かやの顔が変わらない。
「へえ。誰が倒れてるの」
「足軽だ」
「どこの」
「そこまでは知らぬ」
「いつ見たの」
「先ほどだ」
「先ほどって、どれくらい」
かやが淡々と聞く。
男はわずかに苛立ったようだった。
「急ぎの荷なら、問うより動け」
「急ぎだから聞いてる」
俺は味噌桶を抱えたまま、何も言えなかった。
男の言葉が本当なら、道を変えるべきかもしれない。
だが、昨日も「道が混んでいたから迂回した」と言って、荷が入れ替えられた。
同じだ。
かやが俺に目だけで合図した。
動くな。
そう言っている。
「道を変えるなら、蔵へ戻って札を変える」
かやが言った。
男の目が細くなる。
「そんな暇はあるまい」
「あるよ。飯場へ変な荷を届けるほうが、もっと暇を食う」
男は俺を見た。
「おまえが清吉か」
名前を知られている。
胃が重くなった。
「そうです」
「上様に拾われた飯炊きが、ずいぶん慎重だな」
褒めている声ではない。
その声には、薄い棘があった。
「飯は慎重にしないと、腹を壊します」
俺はそう答えた。
声が少し震えた。
だが、かやが足を踏まなかったので、たぶん聞こえる声ではあったのだろう。
男はしばらく俺を見た。
「なら、好きにするがいい」
そう言って、脇を通り過ぎようとした。
その瞬間、護衛の男が動いた。
「待て」
男の袖を掴む。
笠の男は振り払おうとした。
だが、その動きが速すぎた。
ただの通行人ではない。
護衛もすぐに腰を落とす。
「清吉、荷!」
かやの声が飛ぶ。
俺は反射的に味噌桶を抱え込んだ。
男は逃げようとしたが、護衛が組み付いた。
かやが足元に転がっていた縄を投げる。
男の足に絡む。
転んだ。
俺は動けなかった。
味噌桶を抱えたまま、ただ見ていた。
護衛が男を押さえる。
笠が落ちた。
顔は知らない。
だが、身なりは思ったより整っていた。
袖口から、小さな木札がこぼれた。
俺は息を呑んだ。
荷改めの小札に似ている。
昨日、かやが話していたもの。
護衛が拾い上げる。
「偽物か?」
かやが近づき、木札を見る。
「本物っぽい」
「本物?」
俺の声が裏返った。
男は口を閉ざしている。
護衛が縄で手を縛った。
「蔵へ戻すか」
俺は迷った。
ここで戻れば、荷は飯場へ届かない。
だが、この男は重要だ。
どうする。
腹が重くなる。
その時、かやが言った。
「荷は進める。男は護衛が連れて戻る」
「でも、護衛がいなくなる」
「あたしと清吉で行ける。ここから飯場までは近い」
「危ないだろ」
「危ない。でも荷を戻したら、向こうの思うつぼかもしれない。止めるのが目的ならね」
止めるのが目的。
そうか。
襲うだけではない。
道を変えさせる。
戻らせる。
遅らせる。
飯場に届かせない。
それだけでも、腹を空かせる穴になる。
俺は護衛を見た。
「この人を蔵へ。弥助殿に。小札も」
「分かった」
護衛は頷き、男を引き立てて戻っていった。
男は最後まで何も言わなかった。
その沈黙が、かえって怖かった。
俺たちは荷を進めた。
護衛なし。
狭い道。
味噌桶。
洗い米。
竹皮。
干し菜。
急に全部が重くなった。
「清吉」
かやが先を歩きながら言った。
「後ろばかり見るな。転ぶ」
「見てない」
「見てる」
「見てた」
「正直でよろしい。前見て」
俺は前を見た。
畑の端を抜けると、飯場の煙が見えた。
煙。
その細い白い筋を見た瞬間、腹の奥が少し緩んだ。
火がある。
飯場は近い。
あと少しだ。
だが、飯場に着く直前で、別の騒ぎが聞こえた。
表道のほうからだ。
足軽たちがざわついている。
俺とかやは顔を見合わせ、荷を持ったまま急いだ。
飯場に着くと、弥助殿の部下の一人がすでにいた。
表道の荷車も、少し遅れて到着していた。
だが、荷車の横板に傷がついている。
塩袋の上にかぶせていた竹皮がずれていた。
俺の腹が冷える。
「何があったんですか」
部下が答えた。
「途中で荷車の車輪に楔が打たれてた。道に仕込まれてたらしい。車が傾いたが、倒れはしなかった」
「荷は?」
「米俵は無事。味噌樽も蓋は開いていない。塩袋は少し濡れたが、袋までは染みてない」
かやがすぐに荷を見る。
縄。
札。
蓋。
車輪。
彼女の手が早く動く。
「触られてはいない。倒そうとしただけだね」
「倒れていたら?」
「塩が濡れた。味噌樽の蓋が浮いたかもしれない。米も泥を吸った」
俺はぞっとした。
表道では荷車を倒そうとした。
別道では偽の情報で道を変えさせようとした。
両方に手が入っていた。
もし荷を一つにまとめていたら。
もし別道の荷を作っていなかったら。
飯場には何も届かなかったかもしれない。
俺は懐の木札を出した。
「受け取り改めを」
飯場の受け取り役が頷く。
伊三郎の控えと同じ印。
かやの結びも崩れていない。
表道の味噌も無事。
別道の味噌も無事。
洗い米も、竹皮も、干し菜も届いた。
「使えます」
俺は言った。
その声は、自分で思ったより大きかった。
「全部、使えます」
飯場の者たちが動き出した。
米を洗う。
水を煮る。
味噌を溶く。
塩を分ける。
竹皮を乾いた場所へ置く。
表道の荷だけなら、塩が危なかった。
別道の荷だけなら、量が足りなかった。
だが、二つ合わせれば飯になる。
鍋に米が入り、味噌の匂いが立ち上がった時、俺はようやく膝から力が抜けそうになった。
かやが隣で言った。
「届いたね」
「うん」
「二つに分けてよかった」
「うん」
「清吉」
「何」
「あんた、泣きそうな顔」
「泣かない」
「泣いてもいいよ。鍋に落ちなければ」
「落とさない」
そう言いながら、俺は鍋の湯気を見た。
飯が届いた。
妨害はあった。
片方は倒されかけた。
片方は道を変えさせられかけた。
それでも、飯は届いた。
分けたからだ。
見たからだ。
印をつけたからだ。
かやが道を知っていたからだ。
伊三郎が札を作ったからだ。
弥助殿の部下が荷を守ったからだ。
皆でやったからだ。
俺一人では、絶対に無理だった。
飯場の足軽が、粥をすすりながら言った。
「今日は味噌が濃いな」
「二つに分けて運んだので」
「何だそりゃ」
「説明すると長いです」
「じゃあいい。うまい」
それだけでよかった。
蔵へ戻ると、弥助殿が捕らえた男を調べていた。
男はまだ黙っている。
だが、持っていた小札は本物だった。
伊三郎が確認して、顔を青くした。
「これは、兵糧方の内側で使う札です。外へ出るものではありません」
「誰のものか分かるか」
弥助殿が聞く。
伊三郎は小札の裏を見た。
「印が削られています。ですが……」
「ですが?」
「削り跡の下に、わずかに坂の字が」
部屋が静まり返った。
坂。
坂井蔵人殿。
いや、そう決めるには早い。
坂のつく者は他にもいるかもしれない。
それに蔵人殿自身が、俺たちに十日試せと言ったのだ。
そんな人が、裏で妨害するのか。
分からない。
何も分からない。
俺は弥助殿を見た。
「これを、どうしますか」
「上に報告する。だが、名はまだ出さねえ」
弥助殿の顔は険しい。
「坂井殿を疑うには、早すぎる。小札を盗まれた可能性もある。わざと坂の字を残した可能性もある」
わざと。
誰かを疑わせるために。
そんなことまであるのか。
俺は背中が寒くなった。
米や味噌より、人の腹のほうがずっと見えない。
「清吉」
弥助殿が言った。
「今日の荷は届いたんだな」
「はい」
「なら、それをまず帳面に残せ。妨害があった。だが届いた。それが大事だ」
伊三郎がすぐに書き始めた。
表道、楔により荷車傾き。
荷は無事。
別道、偽情報を与える男あり。
荷は無事。
小札押収。
飯場到着確認。
粥、予定通り炊き出し。
予定通り。
その言葉を見た時、俺の腹にようやく熱が戻った。
妨害はあった。
怖いことも増えた。
だが、飯は予定通り炊けた。
それは、小さな勝ちだった。
夜、蔵の外で皆と粥を食べた。
今日の粥は、二つの道を通って届いた米と味噌で炊いたものだ。
味噌は少し濃い。
干し菜も入っている。
かやが一口すすって言った。
「今日のは、道に勝った味」
「道に勝った?」
「うん。道と、嘘に」
伊三郎が静かに続ける。
「帳面にも、そう残しておきたいくらいです」
「それはやめてください」
「冗談です」
伊三郎が冗談を言った。
俺は驚いて彼を見る。
「何ですか」
「いや、伊三郎も冗談を言うんだなと」
「私も人間です」
「すみません」
「謝らないでください」
かやが笑う。
五郎兵衛殿も笑う。
弥助殿は小札を見つめたまま、あまり笑わなかった。
その横顔を見て、俺も笑いきれなかった。
荷は届いた。
だが、敵は近い。
それも、思っていたよりずっと内側にいるかもしれない。
俺は椀の中の粥を見た。
米粒が湯気の中で揺れている。
飯を守るために、道を二つに分けた。
それで今日は届いた。
なら明日は、もっと見なければならない。
米。
味噌。
荷。
帳面。
道。
小札。
そして、人の腹。
俺は粥をすすった。
熱い。
腹に収まる。
怖さも一緒に、腹の底へ落ちていった。




