第十八話 夜の醤油倉と、見えない腹
夜の蔵は、昼よりも腹の音が大きく聞こえる。
もちろん、本当に米俵が腹を鳴らしているわけではない。
だが、人が減り、荷車の音が止まり、帳面をめくる音さえなくなると、蔵の中には妙な気配が残る。
木が軋む音。
鼠がどこかを走る気配。
風が壁の隙間を抜ける音。
積まれた米俵が、ほんの少し沈む音。
その一つ一つが、俺には腹の中の音に思えた。
蔵という大きな腹が、夜の間も働いている。
悪くなるものは、夜でも悪くなる。
湿るものは、夜でも湿る。
抜こうとする者は、夜にこそ動く。
だから俺は、眠れなかった。
「清吉」
伊三郎が帳面を閉じながら言った。
「少し休んだほうがよいです」
「休むつもりはある」
「顔が、まったくそのつもりに見えません」
「顔に出るのは、もう諦めた」
俺は蔵の入口に腰を下ろし、火鉢の小さな火を見ていた。
鍋ではない。
飯を炊く火ではない。
ただ、夜の冷えを避けるための小さな火だ。
だが、火があるだけで、人は少し落ち着く。
かやは今ごろ、弥助殿の部下と一緒に川下の古い醤油倉を見に行っている。
入るな、と弥助殿に言われていた。
案内だけだ、とも言われていた。
だが、かやは川筋の娘だ。
見えるものがあれば見るだろうし、聞こえるものがあれば聞くだろう。
それが心強くもあり、怖くもあった。
「清吉」
伊三郎がまた呼ぶ。
「はい」
「心配なのは分かりますが、今あなたが川へ行っても、かやの邪魔になるだけです」
「分かってる」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶん、ですか」
伊三郎は少し呆れた顔をした。
この人も、最初に会った頃より表情が分かりやすくなった気がする。
「帳面役なのに、顔に出てるぞ」
俺が言うと、伊三郎は目を瞬いた。
「私がですか」
「うん。今、かなり呆れてる顔だった」
「それは……清吉の影響かもしれません」
「俺のせい?」
「近くにいると、顔に出すことへの遠慮が薄くなるようです」
そんなことを言われても困る。
だが、少し笑えた。
笑うと、腹の重さがほんの少しだけ軽くなる。
蔵の奥では、佐助が味噌樽の蓋をもう一度確かめていた。
夜の見回り役を自分から申し出たのだ。
弥助殿は最初、渋い顔をした。
だが佐助は、「夜に樽を開けたことがあるから、夜に開けられそうな場所も分かります」と言った。
その言葉で、誰も止められなくなった。
悪いことをした経験が、今は守る側の役に立っている。
それをどう思えばいいのか、俺にはまだ分からない。
ただ、佐助は以前より少しだけ背筋を伸ばして歩くようになった。
「佐助」
「はい」
「疲れたら休めよ」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい。……清吉さんほど、無茶はしてません」
言い返された。
伊三郎が小さく笑う。
「確かに」
「二人とも、そこは笑わなくても」
そんなやり取りをしていると、外から足音がした。
弥助殿の部下の一人かと思ったが、違った。
五郎兵衛殿だった。
夜の見張りに出ていたはずだが、もう戻ってきたのかと思い、俺は立ち上がった。
「五郎兵衛殿」
「まだ戻りゃせん」
「え?」
「かやたちのことだ。まだだ」
五郎兵衛殿はそう言って、蔵の入口に腰を下ろした。
「俺は少し先に戻った。川下の道に一人置いてきた」
「何かあったんですか」
「動きがある」
その一言で、火鉢の小さな火が急に遠くなった気がした。
「古い醤油倉に?」
「ああ。灯りがあった。外からは見えにくいように、戸の隙間を布で塞いでな」
伊三郎がすぐに帳面を開こうとした。
五郎兵衛殿が手で制す。
「まだ書くな。確かなことだけ書け」
「はい」
五郎兵衛殿は続けた。
「倉へ小舟が一つ着いた。荷は小さい桶が三つ。中身はまだ見ていない。だが、味噌か醤油の匂いがした」
「味噌……」
俺は思わず呟いた。
「それから、笠の男が二人。片方は商人風。もう片方は、やはり武士の歩き方だった」
「顔は?」
「見えん。だが、腰に小さな割符を下げていた」
「割符?」
伊三郎が反応した。
「通行や荷改めに使う木札のことでしょうか」
「たぶんな。暗くて細かくは見えんが、蔵の者か、兵糧方の者が持つ類いに見えた」
蔵の者。
兵糧方の者。
腹の奥が冷えていく。
善右衛門や伊庭屋だけではないかもしれない。
蔵の中、あるいは兵糧方の中に、まだ手が残っている。
俺は火鉢を見た。
小さな火が揺れている。
火は小さすぎると消える。
大きすぎると燃え広がる。
信長様の言葉を思い出した。
火は消すな。だが、火を広げすぎるな。
今、俺の中で怒りの火が大きくなりかけている。
それを、そのまま燃やしてはいけない。
「かやは?」
俺が聞くと、五郎兵衛殿は片目を細めた。
「倉の裏手を見ている。川筋の目は、暗がりでもよく利く」
「危なくないですか」
「危ないな」
あっさり言われた。
俺は立ち上がりかけた。
その瞬間、五郎兵衛殿が俺の肩を押さえた。
「座れ」
「でも」
「座れ」
声は低い。
逆らえなかった。
「おまえが今行けば、足音で台無しになる。川の道も知らねえ。暗い中で転んで、助ける手が一つ余計に要る」
「……はい」
「心配するなとは言わん。だが、心配と役立つことは違う」
痛いところを突かれた。
俺は黙って座った。
心配なら、米を見ろ。
かやはそう言いそうだ。
弥助殿なら、荷を守れと言うだろう。
伊三郎なら、確かなことだけ帳面に残しましょうと言う。
五郎兵衛殿は、黙って座れと言う。
皆、正しい。
正しいから腹が重い。
「なら、俺は何をすれば」
「戻った時に食わせるものを用意しろ」
五郎兵衛殿は当然のように言った。
「夜に戻る者は冷えてる。足も腹も固くなる。熱いものがあれば、話も聞ける」
俺ははっとした。
そうだ。
俺にできることがある。
飯だ。
かやたちが戻った時、腹に入るものを用意する。
それは逃げではない。
俺の役だ。
「佐助」
「はい」
「粥を炊く。洗い米の残りは?」
「少しあります」
「味噌は?」
「蓋直し済みの樽から少しなら」
「濃いめにしよう。夜だから」
「はい」
身体が動き出すと、怖さが少しだけ薄れる。
火を起こす。
水を煮る。
米を入れる。
焦がさないように混ぜる。
味噌を溶く。
塩を少し。
干し菜を刻む。
鍋の湯気が上がると、蔵の中の冷えた空気が少し変わった。
伊三郎も帳面を横に置き、椀を用意してくれる。
佐助は味噌を慎重に溶いた。
五郎兵衛殿は入口で外を見ている。
その背中を見ながら、俺は鍋をかき混ぜた。
待つことも仕事なのだと、初めて思った。
何もせずに待つのではない。
戻る者の腹を空にしないために待つ。
鍋を焦がさずに待つ。
火を消さずに待つ。
しばらくして、外から小さな足音がした。
今度は一人ではない。
弥助殿の部下が先に入り、続いてかやが姿を見せた。
その顔を見て、俺は思わず立ち上がった。
「かや」
「ただいま」
かやは小声で言った。
いつもの軽口より、少し低い声だった。
裾に泥がつき、髪に川霧の水滴がついている。
怪我はなさそうだ。
それだけで、胸の奥が緩んだ。
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「本当。転んでもない。清吉じゃないから」
「それはよかった」
「否定しないんだ」
「無事なら何でもいい」
かやは一瞬だけ黙り、それから目を逸らした。
「……粥ある?」
「ある」
「それは助かる」
俺は椀によそった。
かやは両手で受け取り、湯気に顔を近づけた。
「濃い」
「夜だから」
「分かってきたじゃん」
かやは一口すすった。
長く息を吐く。
「腹に戻る」
その一言で、俺もようやく息を吐けた。
弥助殿の部下にも粥を渡す。
彼も無言で食い始めた。
夜の川を見てきた者の顔は、昼の荷運びとは違った。
冷えて、固くて、目だけがよく動いている。
五郎兵衛殿が聞いた。
「見えたか」
かやは椀を置き、頷いた。
「古い醤油倉に、桶が運び込まれてた。小舟で三つ。中身は味噌か、醤油か、発酵したものの匂い。清洲蔵の味噌と同じ匂いも混じってた」
俺は鍋の前で手を止めた。
「蔵の味噌と同じ?」
「うん。全部じゃない。別の味噌も混ざってる。でも、清吉が見てた蓋直し済みの樽の匂いに近いのがあった」
俺の鼻だけではない。
かやも、荷と匂いを見るようになっている。
「人は?」
「笠の男が二人。五郎兵衛が言った通り、一人は武士の歩き方。もう一人は商人。あと、中に帳面を持った男がいた」
「帳面?」
伊三郎が身を乗り出した。
「そう。小さい明かりの下で、何か書いてた。筆の持ち方が慣れてた。商人の手代かもしれない。でも、倉の外に出た時、ちらっと見えた袖に……」
かやはそこで言葉を切った。
「何が見えた」
弥助殿の部下が促す。
「織田の蔵で使う、荷改めの小札に似たものが下がってた」
蔵の中が静まった。
伊三郎が低く言った。
「荷改めの小札は、兵糧方の者か、蔵の正式な出入りを許された者でなければ持てません」
「偽物は作れるか」
弥助殿の部下が問う。
「作れなくはありません。しかし、形を知っていなければ難しい」
つまり。
中の事情を知る者がいる。
俺は椀を握った。
自分でよそった粥の熱が、指先に伝わる。
熱い。
だが、その熱さがありがたかった。
かやはさらに続けた。
「それから、聞いた声がある」
「誰の?」
「名前までは分からない。でも、兵糧方の会議にいた武士の一人と似てた」
俺の喉が詰まった。
兵糧方の会議。
俺が報告したあの場にいた者。
米と味噌の話を聞いていた者。
十日試すと決めた場にいた者。
その中の誰かが、裏で荷を動かしているかもしれない。
「本当か」
五郎兵衛殿の声が低くなる。
「確かとは言えない」
かやは正直に答えた。
「遠かったし、声も低かった。でも、聞き覚えはあった」
「それだけでは名は出せんな」
「出せない」
かやは唇を噛んだ。
「だから、悔しい」
その顔を見て、俺は少し驚いた。
かやは普段、悔しさをあまり表に出さない。
怒る時は怒る。
笑う時は笑う。
だが、今の悔しさは違った。
確かなことを掴めなかった悔しさ。
俺が米の匂いを嗅いで、「まだ腐っていないが危ない」と思う時に似ている。
「確かなことだけでいい」
俺は言った。
かやが俺を見る。
「何それ。清吉が言う?」
「言う。五郎兵衛殿に、見たものだけ申せって教わった」
「……そうだったね」
「見えたこと、聞こえたこと、匂ったこと。それを帳面に残そう。名前は、まだ出さない」
伊三郎が静かに頷いた。
「その通りです。不確かな名を出せば、相手に逃げ道を与えます」
弥助殿の部下も頷いた。
「今夜のところは、見張りを増やす。倉には手を出さない。出すなら弥助様の命を待つ」
俺は少しだけ不満を覚えた。
今すぐ踏み込めば、証拠を押さえられるのではないか。
だが、言わなかった。
俺がそう考えることくらい、弥助殿や五郎兵衛殿も分かっている。
それでも踏み込まないのは、理由があるのだ。
火を広げすぎるな。
信長様の声がまた腹の底に響いた。
「伊三郎」
「はい」
「記録してくれ」
「もちろんです」
伊三郎は帳面を開いた。
かやが見たことを、一つずつ言う。
夜半。
川下の古い醤油倉。
小舟一。
桶三。
発酵物の匂い。
清洲蔵の味噌に似た匂い。
笠の男二。
うち一人、武士風。
帳面を持つ男。
荷改め小札に似たもの。
兵糧方会議にいた者に似た声。
ただし名は不明。
伊三郎の筆が走る。
書かれていくにつれ、見えないものが少し形を持つ。
帳面は飯を炊けない。
だが、見えない敵の輪郭を残すことはできる。
「清吉」
伊三郎が顔を上げた。
「明日の荷は、さらに注意が必要です」
「うん」
「相手は、こちらの印や受け取り改めを見ているかもしれません」
「変える?」
「はい。荷札の印を変えます。それと、蔵を出る時に私が書いた札だけでなく、飯場側にも同じ印を先に知らせる必要があります」
「でも、先に知らせたら漏れないか」
俺が言うと、伊三郎は頷いた。
「そこが問題です。知らせる人を絞ります」
かやが粥をすすりながら言った。
「道も変えたほうがいい。同じ道を通ると、待たれる」
「飯場までの別道は?」
「遠回りだけどある。ただ、橋が悪い。重い荷には向かない」
「軽い荷なら?」
「いける」
「なら、明日は荷を分ける?」
俺の言葉に、かやが少し笑った。
「分かってきたじゃん」
荷を一台にまとめれば、守るのは楽だが狙われた時の穴が大きい。
分ければ手間は増えるが、一度に全部は失わない。
飯も同じだ。
全部を一つの鍋に頼れば、焦げた時に終わる。
いくつかに分ければ、手間は増えるが残るものもある。
「明日は荷を二つに分けたい」
俺は言った。
「一つは表道。もう一つは軽くして別道。印も変える。飯場側の受け取り役は、弥助殿に絞ってもらう」
「書きます」
伊三郎が帳面に記す。
弥助殿の部下が頷いた。
「俺から弥助様へ伝える」
「お願いします」
話しているうちに、鍋の粥が少し煮詰まった。
俺は慌てて水を足そうとしたが、かやに止められた。
「このままでいい」
「濃すぎないか」
「今夜は濃いほうがいい。腹が冷えた」
その言葉で、俺は手を止めた。
かやの腹も冷えていたのだ。
夜の川を見て、見えない敵の声を聞いて、名前を掴めず戻ってきた。
その腹には、薄い粥より濃い味噌のほうがいい。
「分かった」
俺は味噌を少し足した。
鍋の匂いが強くなる。
かやが目を細める。
「うん。それ」
皆でもう一椀ずつ食った。
夜の蔵で食う味噌粥は、飯場で食うものとも、会議前に食うものとも違った。
緊張で冷えた腹に、ゆっくり落ちていく。
食いながら、誰もすぐには喋らなかった。
それぞれが、川下の醤油倉を思っているのだろう。
見えない男たち。
小舟。
桶。
荷改めの小札。
会議にいた者に似た声。
俺は椀の中を見つめた。
味噌が溶けた粥。
米粒が少し膨らみ、干し菜が浮いている。
これを作るために、どれだけの道があるのか。
田で米を作る者。
年貢を集める者。
蔵に運ぶ者。
帳面に記す者。
米を守る者。
荷に積む者。
道を見張る者。
飯場で炊く者。
椀を持つ者。
そのどこかに穴があれば、飯は腹に届かない。
そして今、その穴は川下の暗がりまで続いている。
「清吉」
五郎兵衛殿が低く言った。
「はい」
「明日からは、おまえの知らん種類の怖さが来る」
「もう来ています」
「まだ入口だ」
あっさり言われた。
俺は椀を握る手に力を入れた。
「怖いです」
「それでいい」
「でも、止められません」
「なら、よし」
五郎兵衛殿は粥をすすり、息を吐いた。
「怖くて、止められねえ。それくらいがちょうどいい」
俺はその言葉を、腹の中で繰り返した。
怖い。
でも、止められない。
米を見てしまった。
抜かれた味噌を見てしまった。
飯場で腹を壊す兵を見てしまった。
川へ流れる荷の影も、もう知ってしまった。
なら、見なかったことにはできない。
その夜、俺は蔵の入口近くで眠った。
眠ったと言っても、浅い眠りだった。
夢の中で、米俵が川を流れていた。
味噌樽が水に浮かび、蓋が開き、中から藁がこぼれる。
川の上では、顔の見えない武士が笑っている。
俺はそれを追いかけようとして、足元の鍋をひっくり返しそうになる。
そのたびに目が覚めた。
火鉢の火は、まだ小さく残っていた。
蔵の中には、米の匂い。
外には、夜の川の匂い。
飯が腹へ届く道は、思っていたよりずっと暗い。
けれど、朝になればまた米を洗う。
荷を分ける。
印をつける。
飯場へ届ける。
それを続けるしかない。
火を消さないために。




