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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第十七話 川筋の荷は、嘘を嫌う

 翌朝、かやはいつもより早く蔵へ来ていた。


 俺が米俵の匂いを見ていると、蔵の入口からひょいと顔を出し、開口一番に言った。


「今日は外に出るよ」


「外?」


「荷の途中改め」


 かやは当然のように言った。


 俺は手にしていた縄を置いた。


「もう行くのか」


「昨日、味噌を入れ替えられたんだよ。今日もやられるかもしれない。蔵の中をいくら綺麗にしても、道で腐ったら意味がない」


 言っていることは正しい。


 正しいが、俺の腹は朝から重くなった。


 蔵の中なら、少しずつ分かるようになってきた。


 米俵の湿り。

 味噌樽の蓋。

 塩袋の縄。

 帳面の印。

 人足たちの顔。


 だが、道は広い。


 城下の道。

 川沿いの道。

 橋。

 裏路地。

 荷車が止まる場所。

 人目の少ない曲がり角。


 そんなところまで、俺の鼻と手だけで見られるのか。


 顔に出ていたのだろう。


 かやが呆れたように笑った。


「また全部自分で見ようとしてる顔」


「そう見えるか」


「見える。あんた、荷車を一台ずつ背負って歩きそう」


「さすがに無理だ」


「分かってるならいい。今日はあたしが見る。あんたは飯場に届くものを見る。役割、分ける」


 その言い方は、飯を分ける時に似ていた。


 腹の悪い者には薄い粥。

 走る者には握り飯。

 怪我人には熱すぎない汁。


 同じように、人にも役割を分ける。


 俺は頷いた。


「分かった。頼む」


「よろしい」


 かやは満足げに胸を張った。


 そこへ伊三郎が帳面を抱えてやってくる。


「清吉、今日から荷札を変えます」


「荷札?」


「はい。蔵を出る時に付ける札と、飯場で受け取る札を一組にします。同じ印が揃わなければ、受け取らない」


 伊三郎は小さな木札を見せた。


 そこには墨で丸印がついている。


 字ではなく、線と丸。


 俺にも分かる。


「これなら俺でも分かる」


「それを第一に考えました」


 伊三郎は真面目な顔で言った。


 少し前なら、帳面役が俺に合わせてくれるなど考えられなかった。


「米俵には一つ丸。味噌樽には二つ丸。塩袋には三つ丸。今日の荷は、全部同じ線を横に入れます」


「横の線?」


「今日の印です。明日は縦線にします。毎日少し変えれば、古い札を使い回しにくくなります」


 俺は感心した。


「すごいな」


「帳面の小細工です」


「小細工じゃない。助かる」


 伊三郎は少しだけ照れたように目を伏せた。


「ただし、札を外されれば終わりです。ですから、結び方も変えます」


 そこで、かやが木札を受け取った。


「荷の結びはあたしが見る。ほどいたら分かる結び方にする」


「ほどいたら分かる?」


「縄ってのは、締めた人の癖が出るんだよ。雑な人は雑に締める。慣れた人は同じ向きで締める。あたしが締めた縄を途中でほどいたら、だいたい分かる」


「そんなものなのか」


「そんなもの」


 かやは当たり前のように答える。


 俺には米の匂いがある。

 伊三郎には帳面の目がある。

 かやには縄と荷の目がある。


 同じ飯を守っているのに、見ているものが違う。


 不思議だった。


 そして、心強かった。


「清吉」


 弥助殿が現れた。


「今日は俺の者を二人つける。途中で変な者が声をかけてきたら、相手を覚えろ。追うな。荷を守れ」


「追わなくていいんですか」


「追えば荷が空く」


 そうか。


 犯人を捕まえたくなる。


 だが、その間に別の者が荷を触るかもしれない。


 まず守るのは飯だ。


 弥助殿は俺の顔を見て言った。


「昨日も言ったが、一人で全部やるな」


「はい」


「返事はいい」


「よく言われます」


「なら、行動もそうしろ」


 耳が痛い。


 俺は頭を下げた。


 その日の飯場行きの荷は、米五俵、洗い米二俵、味噌半樽、塩袋一つ、竹皮の束が三つだった。


 いつもより少し少ない。


 だが、今日は途中改めを試すための荷でもある。


 かやが縄を締める。


 伊三郎が帳面に書く。


 俺が米と味噌の状態を見て、印を確認する。


 弥助殿の部下二人が荷車の左右につく。


 佐助が、少し離れてそれを見ていた。


「佐助」


 俺が呼ぶと、佐助はびくりとした。


「はい」


「味噌樽の蓋、見てくれるか」


「俺が?」


「うん。昨日教えてくれた締め方、俺より佐助のほうが見える」


 佐助は一瞬戸惑ったあと、樽の前に来た。


 蓋の縁を指で触り、縄を確かめる。


「これは、大丈夫です。蓋も浮いてません」


「ありがとう」


「でも、道で揺れると緩むかもしれません。荷台の左側に置くと傾きやすいので、真ん中寄りが」


「かや」


「聞こえてる。真ん中寄りにする」


 かやは即座に荷を組み直した。


 佐助は少し驚いた顔をした。


 自分の言葉で荷が動いたことに驚いたのだろう。


 俺は小さく笑った。


「助かる」


「……はい」


 佐助は俯いたが、その耳が少し赤かった。


 人は、自分の見ているものが役に立つと分かると、少し背筋が伸びる。


 俺も、飯場で初めて「腹に収まる」と言われた時、そうだった。


 荷車が蔵を出る。


 車輪が、乾きかけた土を踏む。


 俺とかや、弥助殿の部下二人、それから荷引きの男がつく。


 伊三郎は蔵に残り、飯場で戻る受け取り札を待つ。


 五郎兵衛殿は、蔵の入口で俺たちを見送った。


「清吉」


「はい」


「道では、飯より先に目を使え」


「はい」


「鼻だけで歩くと、川に落ちるぞ」


「落ちません」


「おまえは落ちる」


 かやが頷いた。


「落ちるね」


「二人して」


 少し笑いが起きた。


 その笑いのおかげで、足が出た。


 清洲の町は、朝から動いていた。


 商人が店先を開ける音。


 馬の蹄。


 荷車の軋む音。


 魚を売る声。


 味噌の匂い。


 炭の匂い。


 人の汗。


 川の湿り。


 村とも戦場とも違う匂いが、いくつも重なっている。


 俺は荷車の後ろを歩きながら、何度も味噌樽へ目をやった。


 蓋は浮いていない。


 縄も緩んでいない。


 木札もついている。


 それでも、不安は消えない。


 少し行くと、かやが手を上げた。


「止めて」


 荷車が止まる。


「どうした」


 俺が聞くと、かやは地面を指した。


「ここ、昨日の荷車が通った場所じゃない」


「分かるのか」


「車輪の跡が違う。昨日の泥はもっと柔らかかった。川沿いだよ」


 俺にはただの轍にしか見えない。


 だが、かやには違うのだろう。


「飯場へ行くなら、この道でいいのか」


「表道ならね。でも、昨日の荷はここから外れたはず」


 かやは道の先を見た。


「少し行くと脇道がある。そこから川へ抜けられる」


「そこを見に行く?」


「荷は表道を進める。あたしと清吉で脇道を見る。護衛を一人」


 弥助殿の部下が頷いた。


 だが、俺は迷った。


 荷から離れるのは怖い。


「荷は?」


「もう一人がつく。荷引きは逃がさない。印もある。全部を一緒に見るのは無理」


 かやの言葉ははっきりしている。


 俺は頷いた。


「分かった」


 荷車は表道を進む。


 俺たちは脇道へ入った。


 狭い道だった。


 両側に古い塀があり、人目が少ない。少し歩くと、地面が柔らかくなった。昨日の荷車についていた泥に似ている。


 かやがしゃがむ。


「ここだね」


「ここで止められたのか」


「たぶん。荷車を寄せる場所がある」


 見ると、少し開けた場所があった。


 川へ続く道の手前。


 荷車を一台止めても、表道からは見えにくい。


 地面には轍が重なっている。


 俺は辺りを見た。


 人影はない。


 だが、木の柱に新しい傷があった。荷車が擦った跡だろうか。


 かやは地面から何かを拾った。


 短い藁。


 味噌の乾いた跡がついている。


 俺の腹が冷えた。


「昨日のか」


「たぶん」


 かやは藁を布に包んだ。


「ここで荷を開けたんだ」


「でも、人目が少ないとはいえ、誰か見ていないかな」


 俺が呟くと、護衛の男が川のほうを指した。


「川端に小屋があります。船の番をする者がいるかもしれません」


 俺たちは川へ向かった。


 小さな船着き場があった。


 大きな商いの場ではない。荷を一時的に置くための場所に見える。古い小屋が一つあり、軒下で老人が網を繕っていた。


 かやが先に声をかける。


「じいさん」


 老人は顔を上げた。


「おや、かやじゃねえか」


「知り合いか」


 俺が小声で聞くと、かやは頷いた。


「川筋は狭いんだよ」


 老人はかやを見て笑ったが、俺と護衛を見ると少し警戒した顔になった。


「何だい、今日は武士連れか」


「荷のことで聞きたい。昨日、この脇道に荷車が来なかった?」


 老人の手が止まる。


「来たな」


 あっさりだった。


 俺は思わず前へ出そうになり、かやに袖を掴まれた。


 落ち着け、という顔だった。


「どんな荷車?」


「丸に三本線の焼き印があった。伊庭屋の車だと思ったが、引いてる男は知らねえ顔だった」


「何をしてた?」


「樽を開けてたな。二人、笠をかぶった男がいた。荷引きに銭を渡してた」


 俺の手が握られる。


「笠の男、顔は?」


「片方は分からん。もう片方は……武士風だったな」


「武士?」


 かやの声が少し低くなる。


「ああ。腰つきが町人じゃなかった。刀は隠してたが、歩き方が違う」


 護衛の男が顔を険しくした。


「織田家中の者か」


 老人は肩をすくめた。


「そこまでは知らん。だが、商人だけの匂いじゃなかったな」


 商人だけではない。


 その言葉が、腹に落ちた。


 善右衛門。

 伊庭屋宗兵衛。

 そして、笠の武士風の男。


 やはり、蔵の腐りは商人だけではないのか。


 家中の誰かが関わっている。


 そう考えると、背中が寒くなった。


「じいさん、その男たちはどこへ?」


 かやが聞く。


「川下へ向かった。小舟でな」


「船?」


「ああ。樽から移した味噌を、小さな桶に詰めてた。川下の倉へ運ぶんだろ」


「どこの倉?」


 老人は少し迷った。


 かやは懐から小さな握り飯を出した。


 いつの間に持っていたのか。


「今朝の残り。味噌入り」


「おう、気が利くな」


 老人は受け取り、一口かじった。


「しょっぱいな」


「走るためだってさ」


 かやが俺を見る。


 老人も俺を見た。


「あんたが噂の腹で怒る飯炊きか」


「その噂、川まで行ってるのか……」


 俺は頭を抱えそうになった。


 老人は笑った。


「川は何でも運ぶからな。噂も運ぶ」


 そう言って、声を少し潜めた。


「川下の古い醤油倉だ。今は使ってねえはずだが、ここ数日、夜に灯りが見える」


 かやの顔が引き締まった。


「分かった。助かった」


「深入りするなよ、かや。川に沈む荷は、軽いものだけじゃねえ」


 その言葉に、俺はぞっとした。


 かやは平然と頷いたが、その目は少し硬くなっていた。


 俺たちは船着き場を離れた。


 表道へ戻る途中、俺はずっと黙っていた。


 かやが言う。


「清吉」


「何」


「今、全部背負う顔になってる」


「……家中の誰かが関わっているかもしれない」


「かもしれない、だね」


「でも」


「でも、で一人で突っ込むなよ」


 かやの声は強かった。


「古い醤油倉に行きたい顔してる」


「……してるか」


「してる。すごく」


 自分でも分かっていた。


 見たい。


 何があるのか確かめたい。


 米や味噌が、どこへ流れているのか。


 兵の腹から抜かれたものが、誰の腹へ入っているのか。


 だが、五郎兵衛殿にも弥助殿にも言われた。


 一人で全部見るな。


 荷を守れ。


 飯を守れ。


 俺は足を止めた。


「戻ろう」


 かやが少しだけ目を丸くした。


「行かないの?」


「行きたい。でも、今行ったら荷を見失う。それに、俺たちだけで行く場所じゃない」


「……少しは学んだね」


「少しだけ」


「よろしい」


 かやは笑った。


 表道に戻ると、荷車は無事だった。


 弥助殿の部下が、荷札を見せる。


 印はそのまま。


 縄も緩んでいない。


 味噌樽の蓋も開いていない。


 俺はほっと息を吐いた。


 飯場へ着くと、受け取り役の足軽が待っていた。


 弥助殿が手配した者だ。


 荷札を確認する。

 俵の印を見る。

 味噌樽の縄を見る。

 塩袋の札を見る。


 時間はかかった。


 周りの足軽たちは文句を言った。


「早く飯にしろよ」


「腹減ってんだ」


「印なんか見てる暇があるか」


 俺は頭を下げた。


「すみません。でも、昨日、途中で味噌を入れ替えられました」


 文句を言っていた足軽たちが黙る。


「悪い味噌が混じれば、腹を壊します。少しだけ待ってください」


 すると、一人が言った。


「腹で怒る清吉が言うなら仕方ねえな」


「だから、それは」


 言いかけたが、もう遅い。


 笑いが起きた。


 笑いながら、皆が少し待ってくれた。


 飯場で味噌樽を開ける。


 匂いを見る。


 大丈夫だ。


 蔵で確認した味噌の匂い。


 米も大丈夫。


 塩も湿ってはいるが、先に使えば問題ない。


「使えます」


 俺が言うと、飯場の者たちが動き出した。


 水を煮る。

 米を洗う。

 味噌を溶く。

 椀を湯にくぐらせる。


 その流れが、前より少し自然になっている。


 俺はそれを見て、胸が温かくなった。


 飯が、ちゃんと届いた。


 蔵を出て、道を通り、飯場へ届いた。


 当たり前のことなのに、ひどく嬉しかった。


 だが、喜びは長く続かなかった。


 清洲蔵へ戻ると、弥助殿と五郎兵衛殿が待っていた。


 かやが川筋で聞いた話を伝える。


 丸に三本線の荷車。

 笠の男二人。

 一人は武士風。

 川下の古い醤油倉。

 夜の灯り。


 弥助殿の顔が険しくなった。


「武士風か」


 五郎兵衛殿も腕を組む。


「商人だけではねえな」


 俺は口を開いた。


「見に行きますか」


 弥助殿に睨まれた。


「おまえは行くな」


「でも」


「でもじゃねえ。おまえが行って何をする。米俵を担いで突っ込むのか」


「……できません」


「なら、見に行くのは俺たちの仕事だ」


 弥助殿は部下に指示を出した。


「夜に見張りをつける。川下の古い醤油倉だ。かや、場所は分かるな」


「分かる」


「案内だけ頼む。中には入るな」


 かやは少し不満そうだったが、頷いた。


「分かった」


 俺は何も言えなかった。


 行きたい。


 見たい。


 だが、弥助殿の言う通りだ。


 俺が行っても足手まといになる。


 それより、明日の荷を守らなければならない。


 蔵の米を見なければならない。


 飯場へ届く味噌を確かめなければならない。


 俺の戦場は、今ここだ。


 夜、蔵の中で粥を炊いた。


 飯場へ出せなかった洗い米の残りを使う。


 少しだけ味噌を濃くする。


 かやが案内へ出る前に、一椀渡した。


「食べてから行ってくれ」


「心配?」


「心配」


「正直だね」


「腹が空いてると、足元を見る目も鈍る」


「飯炊きらしい心配だ」


 かやは椀を受け取り、粥をすすった。


「うん。腹に収まる」


「それ、五郎兵衛殿の台詞」


「今日は借りる」


 かやは笑い、椀を返した。


「清吉」


「何」


「あんたは蔵を見てな。川はあたしが見る」


「頼む」


「頼まれた」


 かやは弥助殿の部下とともに、夜の清洲へ出ていった。


 俺は蔵の入口で、その背中を見送った。


 川は暗い。


 荷も、人も、噂も、悪事も流れる。


 俺にはまだ、その流れが見えない。


 でも、かやには見える。


 だから任せる。


 任せることも、飯を守ることなのだと、少しずつ分かってきた。


 蔵の中へ戻ると、伊三郎が帳面を書いていた。


「今日の荷、無事に飯場へ届いた、と記しておきます」


「うん」


「それから、途中で怪しい脇道あり。川下の古い醤油倉、要確認」


「それも帳面に?」


「はい。飯に関わる道ですから」


 飯に関わる道。


 いい言葉だと思った。


 米俵だけではない。


 荷車だけではない。


 道も、川も、倉も、人も、全部が飯に関わっている。


 俺は蔵の中の米俵を見た。


 少し乾いた匂い。


 まだ残る湿り。


 遠くで、夜の川の音が聞こえた気がした。


 飯が腹へ届くまで、道は長い。


 その道の途中には、まだ穴がある。


 俺はその穴を、全部一人で塞ぐことはできない。


 でも、かやが川を見る。

 伊三郎が帳面を見る。

 弥助殿が人を見る。

 五郎兵衛殿が背中を見る。

 俺は米と腹を見る。


 それで、少しずつなら進める。


 十日勝負の三日目。


 初めて、飯は無事に届いた。


 だが同時に、敵の影は蔵の外へ広がった。


 火を消すな。


 信長様の声が、腹の底で響いていた。

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