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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第十六話 十日勝負の粥

 十日というのは、短いようで長い。


 飯場の鍋なら、十日もあれば米の減り方が目に見える。


 蔵なら、十日もあれば湿った俵の匂いが変わる。


 人なら、十日もあれば文句の言い方が変わる。


 そして、腹なら。


 十日もあれば、壊す者が増えたか減ったか、嫌でも分かる。


 兵糧方の会議で、清洲蔵の改めを十日続けよと決まった翌朝から、俺たちはまた蔵の腹を開いた。


「清吉、飯場行き、今日は使える米が十二俵、洗い米が二俵」


 伊三郎が帳面を見ながら読み上げる。


「味噌は?」


「蓋直し済みの樽から一樽。昨日の分より状態は良いです」


「塩は湿りかけの袋を先に」


「すでに印を付けました」


「ありがとう」


 伊三郎は筆を止めずに頷いた。


 この数日で、伊三郎の帳面は少し変わった。


 きれいな字で整えるだけではなく、俺にも人足にも分かるように印がついた。最初は抵抗があったようだが、今では帳面の端に小さな丸や線を入れる手つきも早い。


「清吉、こっちの俵は?」


 人足の一人が声をかける。


 以前、悪い米は捨てるのかと聞いてきた男だ。名は作兵衛というらしい。


 作兵衛は、縄に二つ丸がついた俵を軽く叩いた。


「昨日より匂いはましだが、白飯には向かねえな」


 俺は俵に顔を近づけた。


 湿った匂いはまだ残っている。


 だが、腐りには入っていない。


「粥に回します。よく洗えば使える」


「分かった。洗い場だな」


 作兵衛は当然のように言って、俵を持ち上げた。


 最初の日なら、こちらが一つ一つ説明しなければ動かなかった。今は違う。人足たちのほうから、「これは洗い米だ」「これは先に出す」「これは奥に置いたら駄目だ」と言うようになっている。


 それが、俺には嬉しかった。


 俺一人の目では足りない。


 でも、蔵にいる者たちの目が少しずつ増えれば、米は守れる。


「清吉」


 かやが荷車の横から呼んだ。


「味噌樽の積み方、見て」


 俺は外へ出た。


 荷車には、飯場へ送る味噌樽と米俵が積まれている。


 かやは腕を組んで、荷台を見ていた。


「どう?」


「俺に荷のことを聞くのか」


「あんたにも見えるようになってもらわないと困る」


「厳しいな」


「十日勝負なんでしょ」


 確かに、十日勝負だ。


 俺は荷台を見た。


 重い米俵が下。味噌樽は揺れにくい場所。塩袋は水気から遠ざけて、上に竹皮をかぶせている。


 悪くない。


 いや、たぶん悪くない。


「味噌樽の縄は締まってる」


「うん」


「塩は下に置いてない」


「うん」


「米俵は……片側に寄ってない」


「うん」


「たぶん、大丈夫」


「たぶんじゃ困る」


「大丈夫」


 言い直すと、かやは満足そうに頷いた。


「よし」


「先生みたいだ」


「荷のことなら先生だよ」


「それはそうだ」


 素直に言うと、かやは少しだけ照れたように目を逸らした。


「そういうのを真っ直ぐ言うな」


「すまん」


「謝るな」


 最近、皆にそれを言われる。


 俺はそんなに謝っているのだろうか。


 たぶん、謝っている。


 身分の低い者は、謝るのが癖になる。

 怒られる前に謝る。

 邪魔だと言われる前にどく。

 分からないことを聞く前に縮む。


 でも、米は俺が謝っても乾かない。


 味噌は俺が縮んでも増えない。


 だから少しずつ、謝る前に見るようにしている。


 まだ、うまくはできないけれど。


 昼前、飯場から弥助殿が戻ってきた。


 泥のついた草鞋のまま蔵へ入り、開口一番に言った。


「減ってる」


 俺は何が、と聞きかけて、すぐ分かった。


「腹を下す人ですか」


「ああ」


 弥助殿は伊三郎の前に腰を下ろした。


「昨日の飯場で動けなくなった奴は二人。前は同じ人数に飯を食わせれば、七、八人は腹を押さえてた」


 伊三郎がすぐに帳面へ書く。


「二人……」


 俺は小さく繰り返した。


 ゼロではない。


 それでも、減っている。


 胸の奥が熱くなった。


「水を煮るのは続いていますか」


「続いてる。面倒だと文句はあるが、腹を下す奴が減ると分かれば、誰もやめろとは言わねえ」


「椀は」


「湯にくぐらせてる。おまえの言いつけ通りにな」


「俺の言いつけというより」


「清吉の言いつけだ」


 弥助殿がにやりと笑う。


「飯場の奴らはそう言ってるぞ。『清吉が腹で怒るから、椀を湯にくぐらせろ』ってな」


 かやが横で吹き出した。


「腹で怒るの、広まってる」


「やめてほしい」


「無理だね。もう名物だよ」


 俺は頭を抱えたくなった。


 だが、飯場でその言葉と一緒に椀が湯にくぐらされているなら、悪くはないのかもしれない。


 腹で怒る男。


 強そうではない。


 でも、俺には似合っている気もした。


 その日の夕方、最初の問題が起きた。


 飯場へ向かうはずの荷車が、一台戻ってきたのだ。


 かやが真っ先に気づいた。


「おかしい」


 蔵の外で、かやが低く言った。


「何が」


「車輪の泥」


 俺には、ただ泥がついているようにしか見えなかった。


 かやはしゃがみ込み、車輪を指でなぞる。


「飯場へ行く道の泥じゃない。これは川沿いの柔らかい泥だ」


「道を間違えたとか」


「この辺の荷運びが、飯場への道を間違えるわけない」


 荷車を引いていた男は、顔色を変えた。


「いや、道が混んでいたから迂回を」


 かやが男を見上げた。


「どこを?」


「ええと、南の……」


「南は今、橋の補修で通れない」


 男は黙った。


 俺の腹が冷えた。


 弥助殿が近づく。


「荷を開けろ」


「しかし、飯場へ急ぐ荷で」


「開けろ」


 弥助殿の声が低くなると、男はそれ以上逆らわなかった。


 米俵の縄を解く。


 伊三郎が帳面を開く。


「この荷は、使える米三俵、洗い米一俵、味噌半樽、湿り塩一袋のはずです」


 かやが荷を確認する。


 米俵はある。


 味噌樽もある。


 塩袋もある。


 一見、数は合っている。


 俺はほっとしかけた。


 だが、かやが味噌樽の蓋に手を置いて言った。


「これ、開けたね」


 荷引きの男が慌てた。


「開けてない!」


「じゃあ、蓋の縁に新しい味噌がついてるのは何?」


「揺れたから」


「揺れただけで、蓋の上側に味噌はつかない」


 かやが蓋を開ける。


 中の味噌は、半樽分ある。


 だが、俺は匂いで顔をしかめた。


 違う。


 これは、蔵で確認した味噌と匂いが違う。


 少し酸っぱい。


 悪い味噌が混ぜられている。


「入れ替えた?」


 俺が呟くと、荷引きの男は目を逸らした。


 弥助殿が男の胸ぐらを掴む。


「誰に言われた」


「し、知らねえ!」


「知らねえなら、なぜ川沿いの泥をつけて戻った」


「本当に知らねえんだ! 途中で声をかけられて、荷を少し見せろって……」


「誰に」


「顔は……笠をかぶってて」


 かやが冷たい声で言った。


「銭はもらった?」


 男は黙った。


 それが答えだった。


 弥助殿の手に力が入る。


 俺は味噌樽を見た。


 良い味噌の一部が抜かれ、代わりに悪くなりかけた味噌を混ぜられている。


 数は合う。


 重さも大きくは変わらない。


 飯場で急いでいれば、気づかずに使ったかもしれない。


 そうすれば、腹を壊す者がまた出る。


 そして言われるのだ。


 清吉の改めなど、役に立たない。


 腹を下す者は減らない。


 蔵をいじっても無駄だ。


「……試されたんだ」


 俺は呟いた。


 かやがこちらを見る。


「たぶんね」


 伊三郎が帳面を抱え直した。


「荷の途中で入れ替えられたとなると、蔵の中だけでは防げません」


「飯場までの道も見る必要がある」


 かやが言う。


 弥助殿は荷引きの男を突き飛ばすように放し、部下へ命じた。


「こいつを押さえろ。逃がすな」


「へい!」


 男は泣きそうな顔で座り込んだ。


 俺はその顔を見て、少し胸が痛んだ。


 銭をもらって荷を見せたのだろう。


 悪い。


 悪いが、たぶんこの男だけが悪いわけではない。


 裏で誰かが動いている。


 俺たちの十日勝負を、潰そうとしている誰かが。


「清吉」


 弥助殿が俺を見た。


「この味噌、使えるか」


 俺はもう一度匂いを嗅いだ。


 酸味が強い。


 だが、完全に腐ってはいない。


 薄めて使えば腹に悪いかもしれない。

 けれど、しっかり火を通し、少量を別にすれば、味噌漬け用や家畜用には回せるかもしれない。


「飯場の汁には使いません」


 俺は答えた。


「兵には?」


「出せません」


「分かった」


 弥助殿は頷いた。


「では、これは証拠として残す」


 伊三郎がすぐに帳面へ記す。


 荷車戻り。

 川沿いの泥。

 味噌入れ替え疑い。

 飯場使用不可。


 俺はその字を見ながら、腹の奥が重くなるのを感じた。


 十日勝負は、ただ良い米を飯場へ出せば済む話ではなかった。


 蔵から飯場まで。


 その道中にも穴がある。


 米は勝手に歩かない。


 人が運ぶ。


 人が数える。


 人が抜く。


 人が守る。


 坂井蔵人殿の言葉が、腹に戻ってきた。


「かや」


「何」


「飯場へ行く道を、全部知ってるか」


「全部ではない。でも、荷運びに聞けば分かる」


「安全な道と、見張りがいる場所を知りたい」


「分かった」


「伊三郎」


「はい」


「蔵を出た時の印だけじゃなくて、飯場に着いた時にも印を確認できるようにしたい」


「受け取り印ですね」


「それ、できるか」


「できます。飯場側にも簡単な印を渡せば、字が読めない者でも」


「お願い」


 伊三郎は頷いた。


「弥助殿」


「何だ」


「飯場で受け取る人を決められますか。誰でも受け取るのではなくて、印を見る人を」


「できる。腹で怒る清吉の名を出せばな」


「それはやめてください」


「もう遅い」


 弥助殿は少し笑った。


 だが、その目は笑っていなかった。


「向こうも動いてきたな」


「向こう」


「善右衛門の残りか、伊庭屋の手か、ほかの誰かか。いずれにせよ、おまえの十日を邪魔したい奴がいる」


 怖い。


 そう思った。


 正面から怒鳴られるより、ずっと怖い。


 米に小石を混ぜる。


 味噌を入れ替える。


 荷車を途中で止める。


 そういうやり方は、姿が見えない。


 俺は槍どころか、誰を見ればいいのかも分からない。


 その時、かやが俺の肩を軽く叩いた。


「清吉」


「何」


「顔が、また全部背負う顔になってる」


「……そうか」


「これは荷の途中の話。あたしの目も使う。伊三郎の帳面も使う。弥助の人も使う。あんた一人で道に立たなくていい」


 俺は息を吐いた。


 そうだ。


 一人で見ようとすると、背中からやられる。


 かやが言っていたことだ。


「うん」


「うん、じゃない。ちゃんと頼む」


「頼む。助けてくれ」


 かやは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、満足そうに笑った。


「よろしい」


 その日の夜、蔵では急ぎの決まりを増やした。


 蔵を出る荷には、俵と樽に印を付ける。

 荷車にも伊三郎が簡単な札をつける。

 飯場側で受け取った者が、同じ印を確認する。

 違っていれば使わず戻す。

 途中で誰かに止められても、蓋を開けない。

 どうしても開けろと言われたら、荷を戻す。


 面倒だ。


 人足たちは当然、文句を言った。


「手間が増える」


「飯場が遅れる」


「印を間違えたらどうする」


 俺はその文句を聞いて、頭を下げた。


「手間を増やしてすみません」


 弥助殿が横で顔をしかめる。


 また謝った、という顔だ。


 でも、これは謝るべきだと思った。


「ただ、今日の味噌は飯場に出せませんでした。もし出していれば、腹を壊す者が出たかもしれません。手間は増えます。でも、その手間で誰かの腹を守れます」


 人足たちは黙った。


 作兵衛が頭をかいた。


「まあ、腹下して藪に走るよりはましか」


 誰かが笑った。


「違いねえ」


「椀を湯にくぐらせるのも、最初は面倒だったしな」


「清吉が腹で怒るし」


「だから、それはやめてくれ」


 笑いが広がった。


 その笑いの中で、新しい決まりはどうにか受け入れられた。


 夜が深くなり、皆が散ったあと、俺は戻された味噌樽の前に座っていた。


 良い味噌に、悪い味噌が混ぜられている。


 ひどいことをする。


 味噌は生き物だ。


 母はそう言っていた。


 手をかけて仕込み、時間をかけて育てる。


 それを、帳尻合わせのためだけに混ぜる。


 腹立たしかった。


 だが、今日学んだこともある。


 蔵だけでは足りない。


 道も見なければならない。


 飯が腹へ届くまでの道を、全部。


「清吉」


 五郎兵衛殿が隣に腰を下ろした。


「眠らんのか」


「少しだけ」


「味噌を睨んでも、犯人は出てこねえぞ」


「分かっています」


「なら寝ろ」


「五郎兵衛殿」


「何だ」


「飯を守るのは、思っていたより広いです」


 五郎兵衛殿は少し笑った。


「今さらか」


「はい。今さらです」


「飯は人の口に入るまでが飯だ。途中で抜かれりゃ、それはもう飯じゃねえ」


「はい」


「だが、今日のは見つけた。見つけたなら、次は防げる」


「防げるでしょうか」


「一人なら無理だ」


 はっきり言われた。


「だが、おまえは一人じゃない」


 五郎兵衛殿は立ち上がり、腰を叩いた。


「それを忘れるな。腹に力を入れるのと同じくらい大事だ」


 そう言って、蔵の奥へ歩いていった。


 俺はしばらく味噌樽を見ていた。


 それから、蓋を閉めた。


 明日も早い。


 十日勝負は、まだ始まったばかりだ。


 腹を壊す兵は減り始めた。


 だが、腹を空かせる穴は、まだあちこちにある。


 蔵に。


 荷車に。


 道に。


 人の懐に。


 俺は、その穴を一つずつ見つけなければならない。


 火を消さずに。


 飯が、本当に腹へ届くまで。

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