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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百五十九話 戻れる札、風に煽られる

風は、敵ではない。


 けれど、味方でもなかった。


 清洲城の庭では、風のことをそこまで深く考えたことはなかった。


 もちろん風は吹く。

 小雨札の短紐が揺れることもある。

 戻れる札の布が少し動くこともある。


 だが、庭の中では、建物や塀が風を受け止めてくれていた。


 外は違う。


 田畑の上を渡ってくる風は、遠慮がない。


 草を揺らし、短縄に泥をかけ、札の補助紐を震わせる。


 そして今日は、手当飯場の戻れる札を煽っていた。


 戻れる札。


 手当飯場を見せ場にしないための札。


 曲がるための札。


 担架役に、ここから入れば戻れる場所があると知らせる札。


 庭では、見えすぎても駄目、見えなさすぎても駄目だと分かった。


 そこで、斜め入口へ置いた。

 補助紐をつけた。

 札影の声も作った。

 「戻れる場所、こちら」という声も加えた。


 だが、外では、札が勝手に動く。


 きぬは、戻れる札を両手で押さえながら、眉を寄せていた。


「……揺れますね」


 かやが横から札の角度を見る。


「固定を強くすれば、揺れは止まるよ」


「でも、固定しすぎると担架役から角度を変えられません」


「そこなんだよね」


 かやは札の根元を見た。


 土が柔らかい。


 清洲庭なら、札を差せばそれなりに立った。


 しかし、畦道の脇は土が柔らかく、少し風が吹くだけで札が揺れる。


 深く差すと安定する。


 だが、深く差すと動かしにくい。


 戻れる札は、状況によって半歩動かすことがある。


 馬影で隠れれば少しずらす。

 担架役の角度が変われば向きを変える。

 飯場の芯が曲がれば、見せ方も変える。


 動かせることが大事だった。


 けれど、動かせる札は、風にも動かされる。


 喜八は少し離れた場所で、その札を見ていた。


 顔が固い。


 きぬはすぐ気づいた。


「喜八さん、怖いですか」


 喜八は少し迷い、それから正直に頷いた。


「怖いというか……落ち着かないです」


「揺れるから?」


「はい。庭では、札がそこにあるって分かりました。でも外だと、風で揺れる。こっちへ来いって呼ばれてるようにも見えるし、あっちへ行けって追い払われてるようにも見えます」


 権六が文句腹帳を開いた。


「戻れる札、風で呼ぶようにも追い払うようにも見える」


 喜八は苦い顔をする。


「そんな変な言い方しましたか」


「した。だが、いい文句だ」


 きぬは戻れる札を見た。


 確かに、風に揺れる札は、ただ立っている時とは違う顔をする。


 戻れる場所を示すはずの札が、風に煽られると、不安を煽る札になる。


 太助が水場のほうから声をかけた。


「水場から見ても、揺れる札は気になります。小川の水面も動いてますし、札も動くと、どっちを見ればいいか迷います」


 藤七は担架役の位置から札を見ていた。


「担架を持って走る側からすると、揺れてくれるほうが見つけやすい時もあります。でも揺れすぎると、曲がる場所が分からないです。札が動いてるのか、入口が動いてるのか、一瞬迷う」


 寅吉も頷いた。


「担架は急には曲がれません。札が揺れて入口が曖昧になると、足が合わなくなります」


 源太は馬水枝から、さらに厳しい顔で言った。


「馬も揺れるものを気にする」


 かやが振り返る。


「戻れる札は馬水枝から離してるよ」


「離していても、風で揺れるものは馬の目に入る。馬は布や札が急に動くのを嫌がることがある」


 かやは唇を尖らせた。


「外って、何でも馬が見るね」


「馬は目があるからな」


「それはそうだけど」


 権六が小さく笑った。


 だが、源太は真面目だった。


「馬が気にするなら、馬水枝が乱れる。馬水枝が乱れれば、水場が乱れる。水場が乱れれば、飯場へ来る」


 太助が頷く。


「馬が悪いんじゃなく、揺れる札の見え方が悪い、ですね」


「そうだ」


 源太は満足そうに言った。


「言えるようになったな」


「嬉しくない方向で成長してます」


 まず、きぬとかやは札を固定する方法を試した。


 札の根元を深く差す。


 確かに揺れは減る。


 しかし、担架役の角度から見にくくなった時、すぐ動かせない。


 藤七が担架役として走り込んだ。


「見えません!」


 きぬが札を動かそうとするが、抜けにくい。


 寅吉が担架を持ったまま低く言う。


「遅い」


 きぬの顔が険しくなる。


「固定しすぎると、戻れる札が戻れませんね」


 権六が書く。


 戻れる札、固定しすぎると札自身が戻れない。


 太助が笑いそうになったが、きぬが真面目な顔だったので飲み込んだ。


 次に、浅く差して、根元に石を置いた。


 動かせる。


 揺れも少し減る。


 だが、石が足元の邪魔になる。


 藤七がすぐ言った。


「早足には邪魔です」


 寅吉も言う。


「担架でも踏みそうです」


 源太は言うまでもなく首を振った。


「馬には駄目だ」


 かやが石をどかす。


「石、却下」


 権六が書く。


 石固定、人には邪魔、馬には駄目。


 今度は札を低くした。


 風の影響は減る。


 だが、担架役から見えにくい。


 喜八は少し安心した顔をしたが、藤七が叫んだ。


「低いと見落とします!」


 高くする。


 今度は見える。


 でも風を受ける。


 喜八の顔が固くなり、源太の馬が耳を動かす。


 また戻る。


 きぬは、札を持ったまま黙ってしまった。


 見えること。

 見せすぎないこと。

 揺れないこと。

 動かせること。


 全部を満たすのは難しい。


 かやも珍しく口数が減っていた。


「札だけでは足りないかも」


 きぬが小さく言った。


 権六が顔を上げる。


「声か?」


「声はあります。『戻れる場所、こちら』。でも、風が強いと声も流れます」


 太助が水場から言う。


「小川の水音もあります。昨日より風があると、水音も少し変わって聞こえます」


 藤七が担架役の位置で言った。


「担架を持ってると、自分の息と足音もあります。声だけだと遅い時があります」


 寅吉が続ける。


「でも、音があれば、札が見えない時に向きは分かるかもしれない」


 音。


 その言葉で、かやの目が動いた。


「小さな鈴……いや、鳴子?」


 源太が即座に反応した。


「馬が嫌がる」


「まだ言い切るの早くない?」


「音は馬が嫌がることがある」


「全部の音?」


「急な音、金属の音、乾いた音は特に嫌がる」


 かやは持っていた小さな鈴を出そうとして、そっと戻した。


「鈴、危ないか」


 源太は頷いた。


「人には分かりやすい。馬には怖いかもしれん」


 太助が言った。


「水場にも音は響きます。非常水の声や馬水の声と混ざると、また枝が同時に鳴ります」


 権六が書く。


 音の目印、人には助け。馬と水場には文句の種。


 きぬは考え込んだ。


「音を出し続けるのは駄目かもしれません。必要な時だけ、短く鳴るものなら?」


 藤七が言う。


「担架が近づいた時だけ鳴る?」


「はい。普段は鳴らない。戻れる札が見えない、または風で揺れて迷う時だけ」


 かやは小さな竹片を取り出した。


「金属の鈴じゃなくて、竹の鳴子なら音が柔らかいかも」


 源太はまだ難しい顔だ。


「竹でも、急に鳴れば馬は見る」


「馬水枝から離す。あと、音を小さくする」


「小さすぎると担架に届かない」


 藤七が言う。


「そうなんだよね」


 かやは竹片を二つ合わせて、小さく鳴らした。


 乾いた、軽い音。


 カ、と一度だけ。


 馬が耳を動かした。


 源太がすぐ馬の首を撫でる。


「見たぞ」


「嫌がってる?」


「まだ嫌がってはいない。だが、何だと思っている」


「それは人も同じだよ」


 太助が笑った。


「今の音、俺も見ました」


 試す価値はありそうだった。


 きぬは戻れる札の横ではなく、手当飯場側に竹鳴子を置いた。


 札に直接つけると、風で勝手に鳴る。


 だから、札とは別。


 手当飯場の者が必要な時だけ鳴らす。


 戻れる札が風で揺れ、担架役が迷った時だけ。


 まずは無風に近い時に試した。


 藤七と寅吉が担架役。


 負傷者役を乗せ、畦道から手当戻り枝へ向かう。


 戻れる札は見えている。


 鳴子は鳴らさない。


 問題なし。


 次に、風が吹くのを待った。


 田の上を風が渡り、戻れる札が揺れる。


 補助紐が震える。


 藤七が目を細める。


「入口、揺れてます!」


 きぬが短く声を出す。


「戻れる場所、こちら」


 それでも風で声が少し流れる。


 かやが竹鳴子を一度だけ鳴らした。


 カ。


 藤七がそちらを向く。


「分かりました!」


 寅吉も足を合わせる。


 担架は大きく揺れず、手当飯場へ入った。


 喜八は少し離れて見ていた。


「今の音なら、怖くないです」


 きぬが聞く。


「札の揺れより?」


「はい。札が揺れると、どこへ行けばいいのか分からなくなります。でも音が一回だけなら、あっちに戻れる場所があるって分かります」


 きぬの顔が少しだけ明るくなった。


 しかし、源太はまだ馬を見ていた。


 馬は耳を動かしたが、足を乱してはいない。


「一回だけなら、まだ七分」


 かやがほっとする。


「七分もらえた」


「鳴らしすぎるな。二回三回と鳴れば馬が気にする」


 源太は厳しい。


「あと、馬水枝が動いている時は鳴らすな」


 太助が水場から言う。


「それは困ります。手当飯場が迷っている時に馬水も動くことがあります」


「だから、枝が同時に鳴るんだろう」


 源太が返す。


 また、同時鳴りの問題だ。


 音が加われば、さらに鳴る枝が増える。


 権六が文句腹帳を見ながら言った。


「音は便利だが、音も文句になる」


 きぬは頷いた。


「鳴らす条件を決めます」


「どう決める?」


 弥助殿が聞いた。


 きぬは少し考えた。


「戻れる札が風で揺れ、担架役が迷った時だけ。声で届く時は声。札で届く時は札。鳴子は最後の補いです」


 藤七が言う。


「担架役から『札揺れ』と声を出したら鳴らすとか?」


 太助が頷く。


「水場の『札影』と同じですね」


 かやが書き付ける。


 担架役が「札揺れ」と言う。

 手当飯場が「戻れる場所、こちら」と声。

 それでも迷う時、竹鳴子を一度だけ鳴らす。


 源太が付け加える。


「馬水枝が動いている時は、先に『馬水鳴る』と知らせろ。鳴子と馬水を同時に鳴らすな」


 太助が少し困る。


「水場文句役、また仕事増えましたね」


「役だ」


 権六が言う。


「俺の言葉を取らないでください」


 太助が返す。


 場に少し笑いが起きた。


 だが、実際には難しい。


 手当飯場が鳴子を持つ。

 担架役が札揺れを知らせる。

 水場文句役が馬水の同時鳴りを警戒する。

 源太が馬の反応を見る。

 かやが札と鳴子の位置を調整する。

 きぬが負傷者役の不安を拾う。


 ひとつの札が風に煽られるだけで、これだけの役が動く。


 外とはそういう場所だった。


 午後の試験では、少し強めの風を待ってから動かした。


 戻れる札が揺れる。


 補助紐が震える。


 藤七が担架を持ちながら叫ぶ。


「札揺れ!」


 きぬが声を出す。


「戻れる場所、こちら!」


 風で少し流れる。


 藤七がまだ迷う。


 かやが竹鳴子を一度鳴らす。


 カ。


 担架が曲がる。


 喜八は顔を固くしなかった。


 源太の馬は耳を動かしたが、足は乱さない。


 太助が水場から言う。


「馬水、今は止めています。鳴子一回、問題なし」


 権六が書く。


 鳴子、札・声で足りない時の最後の補い。一回。馬水同時鳴り注意。


 次に、わざと馬水枝を動かしている時に、戻れる札を揺らしてみた。


 源太が馬を水場へ誘導する。


 その時に風が吹く。


 札が揺れる。


 藤七が「札揺れ!」と言いかけた。


 太助が先に声を出す。


「馬水鳴る!」


 きぬが鳴子を持った手を止める。


 声だけで補う。


「戻れる場所、こちら!」


 藤七は少し迷ったが、補助紐を見て曲がった。


 鳴子は鳴らさない。


 源太が馬を抑えながら頷く。


「今鳴らさなかったのはよい」


 きぬは息を吐いた。


「鳴らさない判断も要りますね」


「音は出すだけが役ではない」


 権六が言った。


 伊三郎が書く。


 音は出すだけが役ではない。鳴らさない判断も役。


 夕方、報告はこうまとまった。


 戻れる札は、外では風に煽られ、見え方が変わる。

 揺れる札は、喜八には不安を煽る。担架役には見つけやすい場合もあるが、揺れすぎると入口が曖昧になる。

 固定しすぎると動かせず、浅く差すと揺れる。石で押さえると足元の邪魔になる。

 札だけでは足りない場面がある。

 声「戻れる場所、こちら」は有効だが、風や水音で流れる。

 竹鳴子を補助に使う案。金属鈴は避ける。鳴子は札と声で足りない時だけ、一度だけ。

 担架役が「札揺れ」と言い、手当飯場が声を返し、それでも迷う時に鳴らす。

 馬水枝が動く時は「馬水鳴る」を先に知らせ、鳴子を同時に鳴らさない。

 音は出すだけでなく、鳴らさない判断も役。


 弥助殿は報告を聞いて、戻れる札と竹鳴子を見た。


「よい。外では、札も声も風に食われる。音もまた食われる。食われ方を見ろ」


 伊三郎が書いた。


 札も声も風に食われる。音もまた食われる。


 夜、清洲蔵へ戻ると、喜八は戻れる札の補助紐を見ながら言った。


「今日は、音があって少し楽でした」


 きぬが微笑む。


「怖くありませんでしたか」


「一回だけなら。何度も鳴ったら、たぶん怖いです」


 源太が馬具を拭きながら言った。


「馬も同じだ」


 藤七が飯を食べながら言う。


「担架役としては助かりました。でも、鳴ると思って待つと遅れますね」


 かやが頷く。


「鳴子に頼りすぎると、今度は札を見なくなる」


 太助が水を飲みながら言った。


「何かを足すと、何かを見なくなりますね」


 権六が飯を食べて、いつものように言った。


「今日の飯は、風で揺れる札の味だな」


 又八が聞く。


「それ、食べづらいのか?」


「食べづらい。でも、音が一回鳴ると箸が進む」


「相変わらず分からん」


 小さな笑いが起きた。


 外では、風さえ飯線を揺らす。


 札は立っているだけでは足りない。


 声も、届くだけでは足りない。


 音も、鳴ればよいわけではない。


 戻れる場所を知らせるためには、見せ方、声、音、そして鳴らさない判断まで必要だった。

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