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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百五十八話 泥に沈む短縄

小川の水が桶より気まぐれだと分かった翌朝、かやは短縄を抱えて黙っていた。


 いつものかやなら、道具箱を開ける時に、少し楽しそうな顔をする。


 今日は違った。


 縄を一本ずつ取り出しては、指で撫で、結び目を確かめ、また箱へ戻す。


 まるで、昨日失敗した道具へ謝っているようだった。


 清洲蔵の庭では、短縄は頼もしい道具だった。


 飯列の背を示した。

 早足の道を示した。

 槍戻し受けが出る場所を示した。

 小雨札の短紐として近い枝へ合図を送った。

 戻れる札の補助紐として、担架役の角度へ見せた。

 列を囲わず、場所を取りすぎず、でも「ここだ」と知らせる。


 市松の「場所を取るな」という文句から生まれた知恵だった。


 清洲蔵の庭では、それでよかった。


 だが外へ出ると、縄は泥に沈んだ。


 見えなくなる。

 草に紛れる。

 踏まれて土をかぶる。

 湿って重くなる。

 足に絡む。


 昨日の小川試験では、誰もが水に気を取られていた。


 しかし水を汲む場所から戻る途中、人足が足を取られ、桶の水をこぼした。


 その足元には、目印として置いたはずの短縄が、泥に半分埋まっていた。


 見えない目印は、目印ではない。


 かやはそれを誰よりも悔しがっていた。


「庭では見えたんだけどな」


 かやがぽつりと言った。


 太助が水場札を持ちながら答える。


「庭は、土が優しかったですから」


「土に優しいとかある?」


「あります。外の土は、こっちの都合を聞いてくれません」


 権六が文句腹帳を開く。


「太助、外の土は都合を聞かない」


「それは俺の文句じゃなくて土への文句です」


「土への文句も拾う」


「土は返事しませんよ」


「だから帳面へ入れる」


 太助は肩をすくめた。


 弥助殿は小川沿いの畦道を見ていた。


 今日は飯を配る前に、目印だけを試す。


 短縄。

 小札。

 木片。

 枝印。

 布印。

 踏み感。


 外で使える目印は何か。


 それを見る日だった。


 かやはまず、昨日と同じように短縄を置いた。


 飯場の曲がり芯を示すための、短い縄。


 畦道の少し柔らかいところへ置く。


 最初は見える。


 だが、数人が歩いただけで、縄の一部が土をかぶった。


 藤七が早足で近づき、足を止める。


「見えません」


 かやが顔をしかめる。


「まだ置いたばかりなのに」


「走ってたら、もっと見えません。下を見ると田へ落ちますし、前を見ると縄が見えません」


 半三が槍を持って近づく。


「槍持ちも同じだ。足元ばかり見れば槍先が草を食う」


 太助が水桶を持たずに歩く。


「水桶を持ったら、もっと下が見えません。昨日の水場と同じです」


 寅吉は荷箱を背負い、黙って短縄の上を歩いた。


 一歩。


 二歩。


 三歩目で止まった。


「踏んでも、分かりにくいです」


 かやが顔を上げる。


「踏んでも?」


「はい。見えないなら、足で分かるほうがいいと思いました。でも縄は柔らかい。泥と草と一緒になると、足裏に残りません」


 寅吉は草履の裏を見た。


「荷箱を背負っていると、下を見るより足で覚えます。ここから曲がる、ここに置く、ここは踏まない。そういうのが足裏で分かると助かります」


 権六が書く。


 寅吉、見えないなら足で分かる目印が欲しい。


 かやの目が動いた。


「足で分かる目印……」


 藤七がすぐ言った。


「足に当たるものは、早足だと怖いです」


 源太も馬を引きながら口を挟む。


「馬にも怖い」


「まだ何も置いてない!」


 かやが思わず言った。


 源太は真顔で返す。


「置く前に言っている」


 権六が笑った。


「いいぞ。置く前の文句は早い」


「早すぎる文句です」


 かやが少しむくれる。


 源太は馬の足元を見た。


「人の足に分かるものは、馬の足にも当たる。馬が嫌がるものなら使えん」


 寅吉が頷く。


「荷箱にも当たります」


「じゃあ、何も置けないじゃないですか」


 藤七が言う。


 かやは短縄を握りしめたまま黙った。


 置きたい。

 でも置けない。


 見えるようにしたい。

 でも目立たせすぎると邪魔になる。


 足で分かるようにしたい。

 でも足に当たると馬が嫌がる。


 同じ問題が、外ではまた別の形で出る。


 弥助殿が言った。


「まず、人だけで試せ」


 源太が眉をひそめる。


「馬は後ですか」


 太助が先に返した。


「後回しではなく、確認順です。昨日の続きです」


 源太は少しだけ目を細めたが、頷いた。


「確認順なら、よい」


 かやは小さな木片を取り出した。


 短縄より少し硬い。


 地面に置くと、草の中でも少しだけ形が分かる。


 寅吉が荷箱を背負って歩く。


 一歩。


 二歩。


 木片へ草履の端が触れる。


「分かります」


 かやの顔が少し明るくなる。


「本当?」


「はい。見なくても、ここに何かあると分かります」


 藤七が試す。


 ゆっくり歩けば分かる。


 だが、小走りに入ると、木片に足を取られかけた。


「怖い!」


 藤七が声を上げる。


「早足には駄目です。蹴ります。蹴ったら田へ落ちます」


 かやの顔がまた曇る。


 半三が槍を持って試す。


「槍列なら、ゆっくり進む場所では使える。ただし、槍戻し受けと混同する」


「混同?」


「足元に木片があると、槍尻を乗せるものか、踏むものか、一瞬迷う」


 かやは頭を抱えた。


「木片も駄目か」


「駄目ではない」


 半三が言った。


「場所を選ぶ」


 権六がすぐ書く。


 木片目印、人の足には分かる。早足には怖い。槍列では槍戻し受けと混同。


 次に、枝印を試した。


 柔らかめの細い枝を、土へ少し差す。


 立てるのではなく、斜めに寝かせる。


 目で見れば、草と違う線に見える。


 足で踏むと、わずかに折れる感触がある。


 寅吉は歩いて言った。


「これも分かります。木片より柔らかい」


 藤七が試す。


「木片より怖くないです。でも、折れたら消えます」


 太助が水場から言う。


「水桶を持って踏んだら、折れたかどうか分からないかもしれません」


 源太が馬を少し近づけ、すぐ止めた。


「馬が気にしている」


 馬は枝印の匂いを嗅ぎ、鼻を鳴らした。


「木片よりはましだが、踏ませたくない」


「馬の道には使えない?」


 かやが聞く。


「少なくとも馬水枝には使うな」


 源太ははっきり言った。


「馬が足元を疑うと、水まで嫌がる」


 その言葉で、昨日の小川が思い出される。


 水は飲みたいのに、足場を嫌がる馬。


 そこへ枝印を置けば、さらに迷う。


 かやは枝印を手に取った。


「人の飯場芯には使えるかもしれない。でも馬水枝には駄目」


「枝ごとに目印を変える必要がありますね」


 伊三郎が言った。


「また増える」


 権六がうめく。


 太助が笑う。


「でも、水場も人水と馬水で違いましたから」


「外に出ると、全部が別腹になるな」


 権六が言うと、源太がすぐ頷いた。


「馬は別腹だ」


「そういう意味じゃなかったが、まあいい」


 午前の終わりには、かやの道具箱から、いくつもの試作品が出ていた。


 短縄。

 木片。

 枝印。

 布結び。

 草を払っただけの目印。

 泥に半分埋める低い板。

 踏むと少し音がする薄い竹片。


 どれも一長一短だった。


 短縄は沈む。

 木片は早足と馬に怖い。

 枝印は折れる。

 布結びは風で動き、泥で汚れる。

 草払いは最初は見えるが、時間が経つと分からなくなる。

 低い板は安定するが、置き場が大きくなる。

 竹片は音で分かるが、馬が嫌がるかもしれない。


 かやはとうとう道端に座り込んだ。


「庭が恋しい」


 太助がにやりとする。


「俺の桶が恋しいと同じですね」


「悔しい」


「分かります」


 太助は本気で頷いた。


 庭では、道具が働いた。


 外では、道具が沈む。


 太助が桶を恋しがったように、かやは庭の地面を恋しがっている。


 権六がそれを書こうとすると、かやが先に言った。


「書いていいよ。庭が恋しい」


 権六は少しだけ優しい顔で書いた。


 かや、庭が恋しい。


 きぬが戻れる札を持って近づいた。


「目だけで分かる目印と、足で分かる目印を分けるのはどうでしょう」


 かやが顔を上げる。


「分ける?」


「はい。全部の役に同じ目印を使おうとするから、難しくなります。手当飯場も、全員に見せる札ではなく、必要な人に見える札にしました」


「つまり、飯場芯用、早足用、馬水用、槍用で目印を変える?」


「はい。ただし、増やしすぎると分からなくなります。だから種類ではなく、触り方を変える」


 きぬは短縄と枝印を並べた。


「飯場芯は、目で見る短縄と声。早足は、足に当たらない草払い。荷箱は、足で分かる枝印。槍列は、槍戻し受けと混同しないよう、枝印ではなく短縄の外側。馬水は、足元に置かず、源太さんが見る高めの目印」


 源太が反応した。


「馬水は足元に置くな。人の目で見るものならよい」


「はい。馬の足には触れないように」


 かやは少し考えた。


「馬水枝は、高めの小札を草の外に差す。馬の足元ではなく、馬廻りの目線に置く。人水とは違う」


 源太は頷いた。


「それなら馬は嫌がりにくい」


 藤七が言う。


「早足は草払いだけ? それ、時間が経つと分からなくなりますよ」


「早足は一度通る前に、声で知らせる」


 かやが返す。


「『足、払った』とか?」


 藤七は首を振った。


「変です。『早足道、空き』のほうがいい」


 太助が笑う。


「早足、自分の声には厳しいですね」


「足が止まる声は嫌なんです」


 採用。


 早足道、空き。


 飯場芯は「芯、続く」。

 水場は「人水足場」「馬水足場」。

 早足は「早足道、空き」。

 槍は「槍、草見る」。

 荷箱は足で分かる枝印。

 馬水は高めの小札。


 目印だけでなく、声も組み合わせる。


 外では、目だけに頼れない。


 足だけにも頼れない。


 声だけにも頼れない。


 目、足、声。


 それぞれの役に合わせて組み合わせる必要がある。


 午後、試験をやり直した。


 飯場の曲がり芯には、短縄を点で置く。


 その周りの草を軽く払う。


 佐助が声を出す。


「芯、続く」


 兵は曲がりを受け入れやすくなる。


 早足道は、足に当たる物を置かない。


 草を少し払うだけ。


 藤七が走る前に、かやが声を出す。


「早足道、空き」


 藤七が走る。


「これなら走れます。草が戻ったら駄目ですけど、今はいい」


 荷箱小枝には、寅吉の提案で、柔らかい枝印を置く。


 寅吉は荷箱を背負って歩き、足裏でそれを感じる。


「ここは分かります」


 ただし、早足道と馬水枝には置かない。


 槍列は、枝印ではなく短縄の外側を目印にし、半三が声を出す。


「槍、草見る」


 若い槍持ちが、槍先を少し内へ寄せる。


 馬水枝には、高めの小札。


 源太が馬を引いて確認する。


 馬は足元を気にしない。


「これならよい」


 太助が聞く。


「馬水何分ですか」


「七分」


「高い」


「足元に余計なものがないからだ」


 かやはようやく少し笑った。


「馬水七分、久しぶりに嬉しい」


 だが、問題は残る。


 風が吹くと、高めの小札が揺れる。


 源太がすぐ言う。


「揺れすぎると馬が気にする」


「そこは明日の戻れる札にもつながるね」


 きぬが言った。


 戻れる札、風に煽られる。


 次の問題が、もう顔を出している。


 夕方、弥助殿への報告は、かやが中心になった。


「短縄は、外では泥に沈みます。庭のように目だけで使えません。木片は足で分かりますが、早足には怖く、馬が嫌がります。枝印は柔らかいですが折れます。布印は風と泥に弱いです」


 かやは道具を並べて続けた。


「外では、目印を全役共通にしません。飯場芯は短縄と『芯、続く』の声。早足は足に当たるものを置かず、草払いと『早足道、空き』。荷箱は足で分かる枝印。槍列は短縄の外側と『槍、草見る』。馬水は足元ではなく、馬廻りの目線に高めの小札を置きます」


 寅吉も一言加えた。


「荷を持つ者は、足で分かる目印があると助かります。ただし、他の道へ置くと邪魔になります」


 源太が続ける。


「馬の足元へ目印を置くな。馬が疑えば、水も嫌がる」


 藤七も言った。


「早足道には、踏むものを置かないでください。声と草払いでいいです」


 太助が頷く。


「水場も、足場そのものが目印になります。柔らかい場所へ目印を置いても意味がありません」


 弥助殿は報告を聞き、短く言った。


「よい。外では、目印は目だけのものではない」


 伊三郎が書いた。


 外では、目印は目だけのものではない。足、声、馬の腹にも関わる。


 その一文に、かやは少しだけ満足そうな顔をした。


 完全な解決ではない。


 短縄はまだ沈む。


 枝印は折れる。


 馬水の小札は風に揺れる。


 それでも、庭の道具が外で沈んだ理由は見えた。


 道具が悪いのではない。


 外の土が違う。


 役ごとに、見えるもの、踏むもの、嫌がるものが違う。


 そこへ合わせれば、まだ直せる。


 夜、清洲蔵へ戻ると、かやは泥のついた短縄を洗いながら言った。


「沈むなら、沈まない使い方を考えればいいんだね」


 太助が笑う。


「桶が恋しくても、小川を使うしかないのと同じですね」


「太助さん、今日はちょっと頼もしい」


「水場で苦労してますから」


 源太が馬具を拭きながら言う。


「馬水札は、足元に置くなよ」


「分かってる。高め、小さめ、揺れすぎない」


 きぬが戻れる札を見つめる。


「明日は、その揺れですね」


 喜八が小さく顔を固くした。


「風、嫌ですね」


 権六が飯を食べながら言った。


「今日の飯は、泥に沈んだ縄を引っ張り上げた味だな」


 藤七が笑う。


「泥臭いですね」


「飯線は、もう泥臭くていい」


 かやが頷いた。


「泥に沈んでも、見つければ使える」


 清洲外の飯線は、庭の道具をそのまま持ち出す段階を、少しだけ越えた。


 外では、目印すら役ごとに違う腹を持つ。


 短縄は沈んだ。


 だが、その沈み方が、次の道具を教えてくれた。

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