第百五十七話 小川の水は、桶より気まぐれ
小川は、ただ流れているだけだった。
誰かを困らせようとしているわけではない。
誰かの命令を聞くわけでもない。
昨日も流れていたし、今朝も流れている。
清洲城の水桶のように、縦取っ手を立てれば人水、横棒を倒せば馬水、布印を結べば味噌水、という顔をしてくれるわけではない。
水は水である。
その当たり前のことが、外へ出た飯線には厄介だった。
太助は小川の前で、腕を組んでいた。
昨日の夕方から、ずっと嫌そうな顔をしていたが、今日はさらに深かった。
目の前の小川は、幅はそれほどない。
大人が大股で越えようと思えば、越えられないこともない。
ただし、飯箱を持っていなければ。
槍を持っていなければ。
水桶を持っていなければ。
馬を連れていなければ。
担架を運んでいなければ。
つまり、飯線の者にとっては、簡単ではない。
川縁の土は柔らかく、草が生えている。
水は澄んでいるように見えるが、足を入れればすぐ濁るだろう。
水面は静かではない。
少しずつ流れている。
桶の水のように、そこに留まってはくれない。
太助はぽつりと言った。
「桶が恋しいです」
権六が文句腹帳を開く。
「水場文句役、桶を恋しがる」
「書かないでください」
「書く。外に出たら桶が恋しい。いい文句だ」
太助は小川を見たまま、ため息をついた。
「桶は重かったですけど、少なくとも桶でした。どこにあるか分かる。どこから汲むか分かる。取っ手で分かる。でも小川は、全部が水です。全部水なのに、全部使えるわけじゃない。そこが怖いんです」
佐助が頷いた。
「水はあるのに、使える水かどうかは別ですね」
源太は馬を少し後ろに下げていた。
馬は小川へ近づきたがらない。
耳を動かし、鼻を鳴らし、足元の柔らかさを確かめるようにしている。
「馬も嫌がっている」
源太が低く言った。
太助はそちらを見る。
「水を嫌がってるんですか」
「水ではない。足元だ。川縁が柔らかい。前足を置いた時に沈むと、馬は嫌がる」
「水は飲みたいけど、近づくのは嫌?」
「そうだ」
「面倒ですね」
「馬に言うな。地面に言え」
源太の返しに、太助は少し笑った。
「昨日までなら、馬が悪いんじゃなく馬水の道が悪い、でしたけど、今日は馬水の道そのものがない感じです」
源太は頷いた。
「作るしかない」
かやが小川沿いを歩きながら、草を少し踏み分けていた。
「作ると言っても、川縁を大きくいじるわけにはいかないよ。田畑の横だし、泥を崩したら百姓の腹を荒らす」
半三が槍を持ったまま言う。
「槍列も川縁には入れない。滑れば槍どころではない」
藤七が畦道の上から小川を見下ろす。
「早足も嫌です。川縁を走れって言われたら、田に落ちるか川に落ちるかの二択です」
権六が書く。
小川、水はあるが足場がない。
馬は水より足元を嫌がる。
早足、川縁は田か川へ落ちる二択。
「俺の言葉、だいたい情けなく書かれてません?」
藤七が言う。
「正直だからいい」
「褒めてます?」
「七分」
「微妙!」
いつものやり取りで少しだけ場が緩む。
だが、小川の問題は緩まない。
弥助殿が言った。
「今日は、水を汲むところから始めろ」
太助は顔をしかめた。
「人水からですか」
「そうだ」
「馬水は?」
「後でやる」
源太がすぐ口を挟む。
「馬水を後回しに見せるな」
太助が源太を見た。
以前なら、そこで焦ったかもしれない。
だが今は、水場文句役として少し腹ができている。
「後回しではありません。今日は人水の足場を見る先、水の順番ではなく、足場の確認順です」
源太は少し黙り、馬の首を撫でた。
「……足場の確認順なら、まだ飲める」
権六がにやりとする。
「太助、返しが育ったな」
「育ちたくて育ったわけじゃないです」
人水の試験が始まった。
桶を持った人足が、小川へ向かう。
城内では、人水桶は縦取っ手だった。
ここでも桶は持っている。
だが、水場そのものが小川なので、桶だけで人水と決めるわけにはいかない。
どこへ足を置くか。
どこから汲むか。
汲んだ水をどこへ置くか。
濁らせずに汲めるか。
他の者とぶつからないか。
人足が川縁へしゃがんだ。
その瞬間、片足が少し沈む。
「うわっ」
水桶が傾きかけた。
太助がすぐ声を出す。
「桶、まだ水を入れない!」
人足は慌てて止まる。
「足が沈みます!」
「見えました。足場が先です」
太助は川縁へ近づき、自分の足で土を押した。
柔らかい。
しかも、草があるせいで、どこが硬いか分かりにくい。
「ここは人水に向きません」
太助が言った。
若い人足が不満そうに言う。
「でも水は目の前ですよ」
「水は目の前でも、足場が水じゃありません」
「何ですか、それ」
「俺も今言って変だと思いました。でも、足場が駄目なら水は使えません」
権六が即座に書いた。
水は目の前でも、足場が駄目なら使えない。
佐助が頷く。
「飯場と同じですね。米があっても、置く場所がなければ飯場にならない」
かやが小川沿いを少し下流へ歩く。
「こっちはどう?」
そこは草が少なく、川縁に少しだけ硬い土が見えている。
ただし、畦道からは少し遠い。
太助が歩いて確認した。
「足場はこっちのほうがいい。でも飯場から遠くなります」
藤七がすぐ言った。
「また遠くなる」
「水場の話です」
「水場が遠いと、早足も喉が渇きます」
「何でも早足に戻しますね」
「早足なので」
太助は少し考えた。
「人水は、足場を優先。飯場から遠い文句は列文句札へ……いや、外では札が見えにくい」
かやが言った。
「列文句札も外用に考えないとね」
「今そこまで増やさないでください」
太助は本気で困った顔をした。
人水を汲んだ。
硬い足場を選び、桶を低く構え、流れの上流側からそっと水を入れる。
その時、別の人足が横から近づこうとした。
太助が声を出す。
「一人ずつ! 川縁は一人!」
「遅いぞ!」
「二人入ると濁ります!」
実際に、二人目が足を踏み入れただけで、水が少し濁った。
佐助がその水を見て顔をしかめる。
「味噌水には使いたくありません」
「人水でも嫌ですよ」
太助が返す。
きぬも言う。
「手当小水には、もっと困ります」
小川の水は、流れている。
だから、少し待てば濁りは流れる。
だが、その間、使えない。
桶なら、濁りの原因を避ければ済んだ。
小川では、足を入れた者の濁りが下流へ流れる。
下流側で汲めば、汚れを受ける。
上流側で汲めば、足場が限られる。
太助は頭を抱えた。
「水の順番が、上下で決まりますね」
権六が聞く。
「どういうことだ」
「上流から手当小水、味噌水、人水、馬水……いや、馬を上流にすると全部濁る。馬は下流? でも馬水を下流にすると、源太さんが後回しと言う」
源太がすぐ言う。
「後回しではない。下流に置かれる理由があればいい」
太助は源太を見る。
「理由は、馬が足を入れると水が濁るからです」
「それは分かる」
「では、馬水は下流。ただし、後ろではなく下流です。後回しではなく、水を汚さない順です」
源太は少し考え、頷いた。
「下流なら、馬も遠慮なく飲める」
「馬が遠慮しますか」
「しない。だから人が考える」
権六が書く。
小川水場、上下流で役を分ける。馬水は後ろではなく下流。理由:濁り。
佐助も頷いた。
「味噌水は、人水より上流にしたいです。ただ、飯場から近すぎると飯場が太ります」
きぬが言う。
「手当小水は、さらに上流がいい。でも、手当飯場から遠すぎると届きません」
太助がうめいた。
「水場だけで、芯と枝がまた増える……」
弥助殿が言った。
「水場にも芯と枝がある」
全員が少し黙った。
水場にも芯と枝。
人水。
味噌水。
手当小水。
馬水。
非常水。
城内では、水場枝と呼んでいた。
だが小川へ来ると、その水場枝の中にも、さらに流れがある。
上流、下流、足場、濁り、距離。
太助は小川を見て、苦笑した。
「水場の中に、また水場があるみたいです」
「水場文句役、忙しくなるな」
権六が言う。
「嬉しそうに言わないでください」
次は馬水だった。
源太が馬を連れて、下流側の少し開けたところへ向かう。
そこは人水の足場より広い。
だが、川縁は柔らかい。
馬は鼻を伸ばして水を嗅ぐが、前足を置こうとして止める。
源太が手綱を引き、馬の首を撫でる。
「嫌がっている」
太助が近づく。
「水ですか、足ですか」
「足だ。水は欲しがっている」
かやが足場を見た。
「少し草を払えば……」
「草を払いすぎると、土が崩れる」
源太が言う。
太助はしゃがみ込み、川縁の土を触った。
「ここも柔らかいです」
「馬は人より重い」
「ですよね」
源太は苛立ちを隠せない顔で言った。
「桶なら飲ませられた」
太助が苦笑した。
「俺も桶が恋しいです」
「小川のほうが水は多いのに、飲ませられん」
その一言を、権六がすぐ拾う。
水は多いのに、飲ませられない。
源太は馬を見ながら続けた。
「馬水を下流にするのはよい。だが、下流の足場が悪ければ意味がない」
太助も頷いた。
「人水と同じです。水はあるだけじゃ水場にならない」
ここで、若い人足が言った。
「なら桶へ汲んで馬に飲ませればいいのでは?」
源太が即座に首を振る。
「馬用に汲むには量が足りん。何度も汲めば人水が遅れる」
太助が補足する。
「それに、馬水桶を置く場所が要ります。川縁が悪いから桶にしても、桶の置き場が悪ければ同じです」
かやが少し上流側の硬い場所を見て言った。
「馬を川縁に入れず、桶を硬い場所に置いて、そこへ川から汲む?」
源太は考える。
「馬が水を見ているのに、桶へ誘導するのは少し手間だ。でも足場が悪いよりはいい」
太助は水場札を見た。
「馬水は下流直飲みではなく、下流汲み桶案。……また桶が戻ってきましたね」
権六が笑った。
「桶、再評価」
「笑いごとじゃないです。外へ出て、桶のありがたみが分かりました」
人水、味噌水、手当小水、馬水。
それぞれを小川で試すたびに、桶では見えなかった問題が出る。
しかし、桶の便利さも見える。
外の水をそのまま使うのではなく、外の水をどう桶へ戻すか。
水場は、川と桶の間にあるのかもしれない。
昼過ぎ、非常水の話になった。
非常水。
城内では、強い札を置いた。
非常触るな。
触る時は、人の命、馬の命、火急の戻り。水場役、手当役、馬水役で判断。
だが、小川を前にすると、若い兵が言った。
「非常水って、この川全部では駄目なんですか」
太助は一瞬、返事に詰まった。
気持ちは分かる。
水は流れている。
桶一つ分ではない。
川全部が水だ。
非常時なら、どこからでも取ればいい。
そう思いたくなる。
だが、さっき見たばかりだ。
足場が悪ければ取れない。
濁れば使えない。
馬が入れば下流は汚れる。
手当小水に使うなら清い場所が要る。
非常時に慌てて川縁へ入れば、足を取られる。
太助はゆっくり答えた。
「川全部を非常水と思うと、たぶん危ないです」
「なぜですか」
「流れているから、あるように見える。でも使える場所は限られます。非常時に探すと遅い。だから、非常水も場所を決めておく必要があります」
きぬが頷いた。
「手当小水に使える上流の場所を、非常時にも使うなら、そこへ行く道を空けておかないと」
源太が言う。
「馬の非常水は別だ。馬をそこへ入れたら全部濁る」
佐助も言う。
「味噌水用の水を非常水として使うなら、飯場も止まります」
若い兵は難しそうな顔をした。
「水があるのに、使えないことがあるんですね」
太助は頷いた。
「今日、そればかりです」
権六が書く。
非常水、小川全部ではない。使える場所を決めなければ非常時に遅れる。
この日の最後に、小さな事故が起きかけた。
人水を汲んだ若い人足が、足場から戻る時に草へ足を取られた。
転びはしなかった。
だが、桶の水が大きく揺れ、半分近くこぼれた。
水はある。
だが、汲んでも運べなければ水場にならない。
太助はそれを見て、両手を膝についた。
「汲む場所だけじゃなくて、戻る道も水場です」
弥助殿が頷いた。
「よい」
伊三郎が書く。
水場は、汲む場所だけではない。戻る道まで水場。
夕方、報告をまとめた。
小川は桶より気まぐれ。
水はあるが、足場がなければ使えない。
人水は足場を優先。二人入ると濁るため、川縁は一人ずつ。
上流・下流で役を分ける必要がある。
手当小水・味噌水は上流寄り、人水は中ほど、馬水は濁りを考えて下流。ただし後回しではなく、水を汚さない順。
馬水は直飲みが難しければ、下流汲み桶案を試す。
非常水は小川全部ではない。使える場所と道を先に決める。
水はあるだけでは使える水ではない。
水場は、汲む場所だけでなく、戻る道まで含む。
弥助殿は報告を聞いて、短く言った。
「よい。明日は目印だ」
かやが顔を上げる。
「泥に沈む短縄ですね」
「そうだ」
かやは洗った短縄を握りしめた。
「庭の道具が、外で沈むのは悔しいです」
弥助殿は答えた。
「沈むなら、沈む道具のまま使うな」
夜、清洲蔵へ戻ると、太助はいつもより長く水を飲んだ。
権六がそれを見て言う。
「水場文句役、水を信じられなくなったか」
「逆です」
太助は椀を置いた。
「水を信じすぎないことを覚えました」
源太が馬具を拭きながら頷いた。
「馬も同じだ。水が見えても、足場が悪ければ飲めん」
佐助は飯を出しながら言った。
「今日の飯は、少し水の味がしますね」
藤七が首を傾げる。
「水っぽいんですか」
「いえ。水があることに安心しきれない味です」
権六が笑った。
「佐助まで変な味を言い始めた」
太助が小さく笑う。
「でも、分かります」
俺も分かった。
小川は、ただ流れている。
だが、その水を飯線に使うには、足場、濁り、戻る道、馬の腹、人の腹、非常時の道まで見なければならない。
水はあるだけでは、使える水ではない。
清洲外の飯線は、小川の前で、その当たり前をようやく腹に入れた。




