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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百五十六話 畦道、飯場の芯を曲げる

 翌朝、清洲蔵の者たちは、昨日と同じ田畑沿いの道に立っていた。


 同じ場所のはずなのに、少し違って見えた。


 昨日は、外へ出たことそのものに圧倒された。


 畦道が曲がっている。

 土が柔らかい。

 短縄が沈む。

 小川は桶ではない。

 風で札が揺れる。

 最後尾の声が曲がり道で消える。


 それらを拾うだけで精一杯だった。


 だが今日は違う。


 今日は、飯場の芯を作らなければならない。


 しかも、まっすぐではない芯を。


 佐助は飯箱を置く候補地の前で、腕を組んでいた。


 珍しく、眉間に深い皺が寄っている。


「ここに置くと、道を塞ぎます」


 飯箱を置くには、畦道の少し膨らんだ場所が必要だ。


 そこは確かに、周囲よりは広い。


 だが、広いと言っても、庭の広さとは違う。


 人が二人すれ違えば、もう肩が触れそうになる。


 そこへ飯箱を置けば、槍持ちは回りにくい。

 水場へ行く者は足を止める。

 早足は走れない。

 馬は絶対に通れない。


 藤七が足元を見ながら言った。


「飯場を置くと、早足が死にます」


 権六が文句腹帳を開く。


「また強い言い方だな」


「強く言わないと伝わりません。ここ、走ったら田に落ちます。俺は早足であって、田植え役じゃないです」


 太助が小さく笑った。


「田植え役、似合いそうですけどね」


「似合ってもやりません」


 藤七は本気で嫌そうに返した。


 半三は槍を持って畦道へ立った。


 槍先が、横の草へ触れる。


 少し角度を変えると、今度は槍尻が土の柔らかいところへ沈みかける。


「ここに槍列を入れると、稲穂や草に触れる。草ならまだいい。これが実った稲なら、兵の腹より百姓の腹を荒らす」


 権六の筆が止まった。


「半三が百姓の腹まで見たぞ」


「茶化すな」


「茶化してない。大事な文句だ」


 伊三郎がすぐ書いた。


 槍列、畦道では草・稲に触れる。兵の列だけでなく百姓の腹を荒らす危険。


 かやは小縄を持って、畦道の端を見ていた。


「飯場の芯をまっすぐ作るのは無理だね」


 佐助は頷いた。


「ですが、曲げると飯場の見え方が悪くなります。列の先が見えない。誰が受け取ったのか分かりにくい。飯が遅れているように見える」


 太助が水場枝から言う。


「水場からも見えません。曲がった先で飯が止まってるのか、進んでるのか分からないと、水を持つ人が焦ります」


 源太は馬の手綱を引きながら、少し離れたところから見ていた。


「馬水はさらに外へ出すしかない。だが、飯場の芯が曲がると、馬廻りの飯の小渡しが見えなくなる」


 又八が戻し飯の丸包みを見て言った。


「戻し飯もだ。最後尾が曲がりの向こうへ行くと、前から見えない。後ろが飯を持っているのか、遅れているのか、区別がつかん」


 庄助が頷く。


「昨日、最後尾に立って分かりました。曲がり道は、声も手も食います。飯場の芯が曲がったら、最後尾はもっと食われます」


 問題が一気に出た。


 飯場の芯をまっすぐにすると、道を塞ぐ。

 曲げると、見えなくなる。

 まっすぐ置けば邪魔。

 曲げれば不安。


 佐助は飯箱の蓋に手を置いたまま、長く息を吐いた。


「飯場の芯を曲げる、というのが、まだ腹に入りません」


 俺は佐助を見た。


「なぜですか」


「飯場は、兵の腹が向かう場所です。そこが曲がると、腹まで曲がる気がするんです。進む飯は、まっすぐ渡したい。水や馬や槍なら枝として曲げられます。でも、飯場の芯を曲げるとなると……何というか、飯の顔が歪む気がします」


 佐助らしい言葉だった。


 飯の顔。


 飯場の芯は、単なる線ではない。


 飯を受け取る者の腹が向かう場所。


 そこが歪むことに、佐助は抵抗がある。


 権六が筆を止めて、少し真面目な顔で言った。


「分かる。飯場の芯が曲がると、負けて退いてるみたいに見えるかもしれん」


 又八が低く笑う。


「また縁起か」


「縁起も腹だ。馬鹿にするな」


 弥平が又八へ言った。


 以前なら弥平が笑う側だった。


 今は、縁起の奥にある腹を軽く見ない。


 佐助は小さく頷いた。


「はい。進む飯なのに、最初から曲がっている。そう見られるのが怖いです」


 弥助殿は、そこで初めて口を開いた。


「曲がることと、退くことは違う」


 皆が振り向く。


 弥助殿は畦道を指した。


「道が曲がるなら、芯も曲がる。曲がった芯を退きと見るか、道に沿った芯と見るか。それは、場の作り方次第だ」


 佐助は黙って聞いている。


「まっすぐな芯がよいとは限らん。まっすぐ進んで田を踏めば、飯線ではなく迷惑だ。曲がっても、折れずに飯が通るなら、それは芯だ」


 昨日、俺が言った言葉に似ていた。


 だが、弥助殿の言葉はもっと重い。


 曲がっても、折れなければ芯。


 佐助は、飯箱を見つめたまま、ゆっくり頷いた。


「……折れなければ、芯」


「そうだ」


 かやがすぐ動いた。


「じゃあ、曲がった芯を“曲がり芯”として示す」


「名前がそのままだな」


 権六が言う。


「分かりやすいほうがいいでしょ」


 かやは短縄を一本で長く置くのではなく、畦道の曲がりに沿って短く区切って置いた。


 一つ目。

 二つ目。

 三つ目。


 まるで小さな点をつなぐように、飯場の芯を示す。


 長い縄だと泥に沈む。


 曲がりに合わない。


 短い縄なら、曲がる場所ごとに置ける。


 ただし、問題もある。


 藤七がすぐ言った。


「点々だと、どこを走ればいいか迷います」


「走る道じゃなくて飯場の芯だよ」


 かやが返す。


「俺も飯を受け取ります」


「それはそう」


 太助が水場から見て言った。


「水場枝から見ると、短縄が飛び飛びで、どれが飯場の芯か分かりにくいです」


 半三も言う。


「槍持ちは下ばかり見られん。点々の縄を追うと、槍先を見失う」


 かやは頭を抱えた。


「また駄目か」


「駄目ではない」


 弥助殿が言った。


「庭のように、一本で示すのをやめただけだ。次は、点をどう繋ぐかを考えろ」


 寅吉が荷箱を下ろしながら言った。


「短縄の間に、声を置くのはどうでしょう」


「声?」


「曲がりの前で、飯場役が『曲がり芯』と声を出す。道が曲がることを、先に腹へ入れる」


 伊三郎が書く。


 曲がり芯、短縄だけでなく声で知らせる。


 佐助は少し考えた。


「飯場で声が増えます」


「でも、何も言わずに曲がるよりは、腹が落ち着く」


 又八が言った。


「戻し飯の時と同じだな。意味が分からんと縁起が悪く見える。意味を言えば少し腹に入る」


 佐助は頷いた。


「では、飯場の声は短くします。『芯、曲がる』」


 藤七がすぐ顔をしかめる。


「それ、聞いたら余計に遅く感じません?」


「では?」


「『芯、続く』のほうがいいです。曲がる、だと止まるみたいに聞こえる。続く、なら先がある感じがします」


 場が少し静まった。


 藤七の言葉は、早足らしい。


 止まる言葉に敏感なのだ。


 佐助は小さく繰り返した。


「芯、続く」


 権六が文句腹帳ではなく、飯線帳のほうを見る。


「いいな。曲がることより、折れないことを言ってる」


 かやも頷いた。


「曲がり芯の声は、『芯、続く』」


 採用された。


 試しに動かしてみる。


 飯場の芯は、畦道に沿って曲がる。


 短縄が点々と置かれる。


 飯を受け取る兵が、最初の短縄へ向かう。


 佐助が声を出す。


「芯、続く」


 次の短縄へ。


 少し曲がる。


 また声。


「芯、続く」


 兵は戸惑いながらも、前へ進む。


 まっすぐではない。


 だが、止まってはいない。


 藤七が横から見て言った。


「思ったより悪くないです。でも、早足だとまだ遅い」


「早足は別に横渡し枝を作る必要がありますね」


 佐助が言う。


「畦道で横渡しって、どう作るんですか」


 藤七が聞く。


 誰もすぐには答えられなかった。


 畦道では、横が田だ。


 横渡し枝を作れば、田へ落ちる。


 少し広い場所まで早足を待たせるしかない。


 藤七は不満そうに言った。


「早足の横渡しが、待ち渡しになります」


 権六が書く。


 畦道では早足横渡しが待ち渡しになる。


 藤七がうんざりした顔をする。


「嫌な言葉ですね」


「でも分かりやすい」


 半三は槍列で曲がり芯を試した。


 槍持ちは、まっすぐ進むより曲がるほうが難しい。


 槍の先端が外側の草へ触れやすい。


 半三が声を出す。


「槍、内へ寄せすぎるな。草を避けろ」


 若い槍持ちが答える。


「内へ寄せると人に当たりそうです」


「外へ出すと草を食う」


「どっちですか」


「どっちもだ」


「無理です」


「無理を見に来てる」


 権六が聞きつけて笑った。


「半三まで弥助殿みたいなことを言い始めた」


 半三は無視した。


 かやは槍列用に、曲がり芯の外側へ小さな枝印を置いた。


「槍先は、この枝印より外へ出さない」


 源太がすぐ言う。


「木片や枝印は馬が嫌がるかもしれん」


「今は槍列用です。馬水枝とは離します」


「外では離したつもりが、曲がりで近くなる」


 源太の指摘は鋭かった。


 曲がった道では、距離が変わる。


 図の上では離していても、実際に曲がると近づく。


 伊三郎が書く。


 外の曲がりでは、離した枝が近づく。


 午前の終わりには、全員が汗をかいていた。


 ほとんど飯を配っていない。


 だが、曲がった芯を作るだけで、庭の同時崩れと同じくらい頭を使った。


 佐助は飯箱の位置を変えた。


 飯箱を道の膨らみに完全に置くのではなく、少し脇へ寄せる。


 ただし、田へ入れないよう、板を一枚敷く。


 寅吉が板を見て言った。


「板があると、荷箱も少し置けます」


 源太が言う。


「馬が板を踏まないようにしろ」


 太助が水場から言う。


「水桶も置けますか」


「置きすぎると飯場が太ります」


 佐助が返す。


 また、太る問題だ。


 飯場の芯は、曲がっても太りすぎてはいけない。


 細すぎても文句が出る。


 太すぎると畦道を塞ぐ。


 佐助は板を半分だけ使うことにした。


「飯箱の足だけ板に乗せます。人は板に乗らない」


 藤七が聞く。


「なぜですか」


「人が乗ると、そこが足場になって列が太ります。飯箱を安定させるための板です」


 権六が書く。


 飯箱板、人を乗せるな。飯箱の足場であって列の足場ではない。


 太助が感心したように言った。


「道具の役を決めないと、すぐ別の役に食われますね」


 佐助が頷く。


「飯箱板が休み場になると、飯場が止まります」


 午後は、少人数で曲がり芯を実際に使って飯を配った。


 佐助が飯を出す。


「芯、続く」


 兵が曲がる。


 飯箱板で飯を受け取る。


 そのまま次の短縄へ。


 曲がって進む。


 最初は遅い。


 だが、数回で少し慣れた。


 藤七は横で見て言った。


「早足には遅いけど、普通の列なら七分」


 権六が驚く。


「高評価だな」


「まっすぐだと思うと腹が立ちますけど、最初から曲がる芯だと言われれば、まだ耐えられます」


 佐助は嬉しそうにした。


「『芯、続く』が効きましたか」


「はい。曲がるって言われるより、続くって言われたほうが足が止まりません」


 半三も槍列で試した。


 槍はまだ草を食う。


 だが、枝印を入れることで、若い槍持ちは少し気をつけるようになった。


「五分だな」


 半三が言う。


 かやが肩を落とす。


「低い」


「外の初日にしては悪くない」


「半三さん、それ褒めてます?」


「半分」


 かやは笑った。


 水場枝は、まだ本格的には動かさなかった。


 それは次の課題だ。


 太助は小川を見ながら言う。


「明日が怖いです」


 源太が横で言った。


「馬も怖がっている」


「俺と馬、同じですか」


「少しな」


「褒められてる気がしません」


 夕方、弥助殿への報告は、曲がり芯を中心にまとまった。


 畦道では、飯場の芯をまっすぐ作れない。

 まっすぐ置くと道を塞ぎ、田畑へ踏み込む。

 曲げると列の先が見えず、飯が遅れているように見える。

 「曲がる」ではなく「芯、続く」と声を出すことで、腹が止まりにくい。

 短縄は点で置き、曲がりごとに芯を示す。ただし泥に沈む問題は残る。

 飯箱は板で足だけ支える。人を乗せると飯場が太る。

 畦道では早足横渡しが待ち渡しになりやすい。

 槍列は草や稲を食わない工夫が必要。

 外では、離した枝が曲がりで近づく。

 曲がっても、折れなければ芯。


 弥助殿は報告を聞き、頷いた。


「よい。庭の芯を捨てるな。ただし、そのまま外へ持ち出すな」


「はい」


「明日は小川だ」


 太助の顔が明らかに曇った。


「来ましたね」


 権六が言う。


「来ましたね、じゃないです。怖いです」


 源太が馬を撫でながら言った。


「小川は、馬も怖い」


 弥助殿は小川のほうを見た。


「桶より気まぐれだ」


 その言葉に、太助は水場札を握り直した。


 夜、清洲蔵へ戻ると、皆の草履には昨日より多く泥がついていた。


 かやは短縄を洗いながら言った。


「曲がる芯、思ったより難しいね」


 佐助は飯箱板を拭きながら答える。


「でも、芯が曲がっても飯は渡せました」


 藤七が飯を食べながら言う。


「早足は待ち渡しになりましたけどね」


 半三が横で言う。


「槍は草を食った」


 太助が水を飲む。


「明日は水が俺を食います」


 権六が飯をかき込みながら言った。


「今日の飯は、曲がっても続く味だな」


 又八が笑う。


「それは少し分かる」


 俺も頷いた。


 飯場の芯は、まっすぐである必要はない。


 曲がっても、折れずに飯が通れば、それは芯だ。


 清洲外の飯線は、泥の上で、初めて曲がることを覚えた。

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