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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百五十五話 清洲外へ出る飯線

 清洲城の外へ出る。


 言葉にすれば、それだけのことだった。


 だが、清洲蔵の者たちにとって、それは蔵の戸を開ける程度の話ではなかった。


 今までの試験は、どれほど崩れたとしても、清洲城の内側で行われていた。


 庭の土は、踏み慣れている。

 桶の置き場も、札の立て方も、飯箱を並べる位置も、何度も小縄で測り直した。

 馬水が飯列を割ると言っても、どこに馬を入れるかは決められる。

 槍列が半歩で崩れると言っても、地面は平らだった。

 戻れる札が見えないと言っても、影を作るものは限られていた。


 清洲城の庭は、厳しい試験場だった。


 けれど、いま思えば、ずいぶん優しい場所でもあった。


 外へ出ると、その優しさが最初の一歩で消えた。


 城から少し離れた田畑沿いの道。


 その脇に、小川が流れている。


 春の終わりの土は、表面こそ乾いているが、足を置くと奥に湿りがある。


 畦道は細く、まっすぐではない。

 田の縁に沿って曲がり、途中で少し膨らみ、また急に狭くなる。

 小川の近くは草が茂り、足元が見えにくい。

 城内の庭のように、ここへ飯場、ここへ水場、ここへ馬水枝、と小縄を置けば済む場所ではなかった。


 かやは小縄を手にしたまま、田畑の道を見て固まっていた。


「……曲がってる」


 太助が水桶を持つ前から嫌そうな顔で言う。


「道なので、曲がりますよ」


「知ってる。でも、曲がってる」


 かやはもう一度言った。


 その声には、少しだけ絶望が混じっていた。


 清洲蔵の庭では、飯場の芯を中心にして、枝を伸ばした。


 水場枝。

 馬水枝。

 槍整え枝。

 早足横渡し枝。

 手当戻り枝。

 荷箱小枝。

 最後尾。


 小縄と札で示せば、見えた。


 だが、外の道は、こちらの図に合わせてくれない。


 畦道は、飯場の芯にまっすぐ伸びてくれない。


 小川は、都合のよい斜めに流れてくれない。


 柔らかい土は、小縄を見やすく置かせてくれない。


 かやはしゃがみ込み、短縄を畦道の端に置いた。


 次の瞬間、顔をしかめる。


「沈む」


 太助が覗き込む。


 短縄の下半分が、柔らかい土に少しめり込んでいた。


 庭なら、縄は縄として見えた。


 ここでは、土と草と泥の色に紛れる。


「これ、足元ばかり見てたら、飯場を見失いますよ」


 藤七が早足横渡しの位置を探しながら言った。


 彼はもう、畦道を走りにくそうに見ている。


「早足、無理じゃないですか」


「無理って言うな」


 権六が文句腹帳を開く。


「でも無理です。ここ、走る道じゃないですよ。足を踏み外したら田に落ちます」


 源太が馬の手綱を引きながら、低く言う。


「馬も嫌がる」


 馬は小川の匂いを感じているのか、耳を動かしていた。


 城内の馬水枝とは違う。


 ここでは水が桶ではなく、小川だ。


 馬水は、ただ桶へ近づければよいものではなくなる。


 足場。

 草。

 水音。

 泥。

 川縁の崩れ。


 すべてが馬水の一部になる。


 太助は小川を見て、ぽつりと言った。


「水場が、本物になるのが怖いです」


 権六が顔を向ける。


「いい文句だな」


「今のは文句というより、怖さです」


「文句の親だ」


 伊三郎が書く。


 太助、水場が本物になるのが怖い。


 太助は小川を見たまま続けた。


「城内の水場は、桶でした。人水、馬水、味噌水、非常水。取っ手を変えれば分かりました。でもここは、川です。流れてます。どこから取るのか、どこで馬に飲ませるのか、どこが非常水なのか……線がありません」


「作るしかない」


 かやが言う。


「短縄、沈んでますけど」


「……そこを言うな」


 かやは悔しそうに縄を引き上げた。


 弥助殿は、少し離れて道全体を見ていた。


 清洲城の庭で同時崩れを見た時と同じように、急いで口を挟まない。


 外の場が、まずどんな文句を出すかを見ている。


 佐助は飯箱を背負わせた人足たちを見て、道幅を測るように歩いた。


「ここに飯場の芯を置くと、通行を塞ぎます」


 畦道の少し広いところ。


 庭なら、飯場の芯として十分に見えただろう。


 だが外では、そこは道そのものだった。


 飯場を置けば、人も荷も止まる。


 馬は通れない。


 槍は曲がる。


 水場へ行く者も詰まる。


 では、畦道の脇に置けばよいのか。


 脇は田だ。


 柔らかい土へ踏み込めば、飯箱が傾く。


 草の中へ置けば、虫も泥も入る。


 佐助の顔が険しくなった。


「飯箱を置く場所がありません」


 権六が文句腹帳へ書く。


 飯箱を置く場所がない。


 太助がすぐ言った。


「外に出て最初の文句がそれですか」


「一番大事だろう」


 権六が返す。


「飯箱を置けなければ、飯線は始まらん」


 半三は槍を持ったまま畦道へ入った。


 槍先が、横の草へ触れる。


 彼はすぐ眉をひそめた。


「狭い」


 藤七が言う。


「俺も狭いと思いました」


「おまえは走るからだ。槍は横幅が要る」


「俺も足幅が要ります」


「比べるな」


 半三は槍を少し立てた。


 すると、今度は槍先が風を受ける。


 庭ではなかった感覚だ。


 外では風がある。


 田の上を通った風が、槍をわずかに揺らす。


 半三は槍を握り直した。


「外は、槍が風を食う」


 権六が書いた。


 槍、外では風を食う。


 又八が戻し飯の丸包みを腰に差しながら笑う。


「飯線、外に出た途端に腹いっぱいだな」


 弥平が言う。


「笑ってる場合か」


「笑わなきゃ重すぎる」


「笑いの根を言えよ」


「外が怖い」


 又八は即答した。


 権六が書く。


 又八、外が怖い。


「書くなとはもう言わん」


 又八は肩をすくめた。


 清洲蔵の者たちは、まず仮の飯場を置くことにした。


 道の少し膨らんだ場所。


 畦道がほんのわずか広がり、小川へ向かう小さな踏み跡が横へ伸びている。


 そこを飯場の芯にする。


 かやが小縄を置く。


 今度は沈まないよう、草を少し払う。


 それでも縄は見えにくい。


 寅吉が荷箱を下ろしながら言った。


「縄より、足で触れるもののほうが分かるかもしれません」


「足で触れるもの?」


 かやが聞く。


「庭では見れば分かりました。でも外は下を見る余裕がありません。足に当たれば、ここから入るんだなと分かる」


 源太がすぐ反応した。


「馬が嫌がるものは駄目だ」


「まだ何も置いてません」


 かやが言う。


「足に当たるものは、馬にも当たる」


「確かに……」


 また次の問題が顔を出した。


 外では、目印は人だけのものではない。


 馬の足にも触れる。


 荷箱にも当たる。


 草に隠れる。


 泥に沈む。


 目印ひとつで、もう庭とは違う。


 弥助殿がようやく口を開いた。


「今日は、全部を直そうとするな」


 皆がそちらを見る。


「外に出た初日だ。まず、何が庭と違うかを拾え」


 権六が頷く。


「文句の収穫ですね」


「そうだ」


 弥助殿は道を指した。


「飯を配る前に、場を歩け。飯場の芯がどう歪むかを見る」


 飯場の芯が歪む。


 その言葉に、俺は小さく息を止めた。


 庭で作った芯と枝の図。


 あれは、まっすぐ描けた。


 外では、芯が曲がる。


 曲がるどころか、太くなったり細くなったり、消えかけたりする。


 それを認めなければならない。


 試し歩きが始まった。


 飯場の芯。


 まず、佐助が飯箱を持つ者を立たせる。


 そこへ進む飯を受け取る兵が並ぶ。


 畦道が狭いため、列は一列半の幅しか取れない。


「一列半って何ですか」


 太助が言う。


「一列にすると遅い。二列にすると田に落ちる」


 佐助が真面目に答えた。


「だから一列半ですか」


「はい」


 権六が書く。


 畦道、飯列は一列半。


 藤七が呟く。


「絶対、揉めますね」


「もう揉めてる」


 権六が返す。


 水場枝。


 小川へ向かう踏み跡を太助が歩く。


 踏み跡はあるが、細い。


 桶を持てば、片側が草へ触れる。


 水を汲む場所は、小川の縁が少し崩れている。


 太助はしゃがみ込み、手で土を押した。


 指が少し沈む。


「ここ、桶を置いたら傾きます」


 源太が馬を近づけようとして、すぐ止めた。


「馬はここを嫌がる。足元が柔らかすぎる」


 太助は小川を見ながら言う。


「水はあるのに、取れない」


 権六が書く。


 水はあるのに、取れない。


 太助は続けた。


「城内なら、桶に入っている水が水でした。でも外では、川に水があっても、そのまま使えるとは限りません」


 まだ第百五十七話で深く扱う問題の種だが、ここで顔を出した。


 水はあるだけでは使える水ではない。


 馬水枝。


 源太が馬を連れて、別の川縁を探す。


 馬が嫌がらず、飯場の芯へ尻を向けず、人水とぶつからない場所。


 そんな都合のよい場所は、すぐには見つからない。


「馬水を置く場所がない」


 源太が苛立ったように言う。


 太助が返す。


「飯箱も置く場所がないそうです」


「張り合うな」


「張り合ってません。外、場所がないんです」


 場所がない。


 それも大きな文句だった。


 城内では、場所を取るなという文句が何度も出た。


 外では、そもそも場所がない。


 槍整え枝。


 半三が畦道の横で槍を整えようとする。


 槍尻を置く場所がない。


 槍戻し受けを出す短縄も、泥と草で見えにくい。


 中受け役の久助が言った。


「受けを出すと、田へ落ちそうです」


 半三は黙って槍を持ち直す。


「槍戻し受けを出す場所がないなら、槍列は庭より早く疲れる」


 かやが槍戻し受けを見て、また悩む顔をした。


「庭の道具が、そのまま使えない」


 その言葉は、今日の場全体に響いた。


 戻れる札。


 きぬが手当戻り枝を探す。


 だが、手当飯場にできそうな少し広い場所は、飯場の芯から見えすぎる。


 見えにくい場所は、草に隠れる。


 風が吹くと、補助紐が揺れる。


 喜八はそれを見て、少し顔を固くした。


「外だと、札が生き物みたいに動きますね」


 きぬが頷いた。


「風がありますから」


「揺れると、不安になります」


 この問題も、後の話へ続く。


 外では、札も静かに立っていてくれない。


 最後尾。


 庄助が畦道の曲がりに立つ。


 前方の飯場の芯は見える。


 だが、少し先で道が曲がると、前の者の背中が消えかける。


 庄助は最後尾遅れ札を上げた。


 弥平が中央へ立つ。


 だが、間に畦の曲がりと草が入ると、手振りが見えにくい。


「これ、声も手も消えます」


 庄助が言った。


 弥平は腕を組んだ。


「中継役、一人じゃ足りないかもな」


 又八が言う。


「増やす人がどこにいる」


 誰も答えなかった。


 城内では、最後尾、中継、前方受けの三つで何とか届いた。


 外では、曲がりが声と手を切る。


 置いていかない飯は、道の形にも食われる。


 昼前には、飯を本格的に配る前に、帳面が文句で埋まり始めていた。


 伊三郎が筆を止め、苦笑する。


「まだ飯を配っていません」


 権六が答える。


「飯を配る前に飯線が崩れてる」


 太助が小川を見ながら言う。


「水場なんて、まだ水を汲んでないのに怖いです」


 佐助は飯箱の位置を何度も変えている。


「飯場の芯が、決まりません」


 俺は道を見た。


 飯場の芯をまっすぐ描こうとするから苦しいのだ。


 外の道は曲がっている。


 なら、芯も曲がる。


 芯が曲がれば枝も歪む。


 それを悪いことだと思えば、試験は始まらない。


「芯は、まっすぐでなくてもよいのかもしれません」


 俺が言うと、佐助が顔を上げた。


「曲がった芯ですか」


「はい。清洲庭では、芯をまっすぐ作れました。でも外では、道が曲がっています。芯をまっすぐ置こうとすると、道を塞ぎます」


 かやが小縄を手に立ち上がる。


「道に合わせて芯を曲げる」


「ただし、折らない」


 俺は言った。


「曲がっても、飯が止まらなければ芯です。まっすぐであることより、折れないことが大事です」


 伊三郎がすぐ書いた。


 外では、芯はまっすぐでなくてもよい。

 曲がっても、折れなければ芯。


 弥助殿が遠くから頷いた。


「よい」


 その一言で、皆の目が少し変わった。


 かやは小縄をまっすぐ置くのをやめた。


 畦道の曲がりに沿って、短い縄を少しずつ置く。


 一本の長い線ではない。


 短い目印を、曲がる場所ごとに置く。


 短縄は泥に沈むため、見えにくい。


 だが、まずは芯の曲がりだけを示す。


 飯場の芯は、畦道の広いところを通り、少し曲がって、飯箱へ向かう。


 水場枝は、小川へ向かう踏み跡に沿う。


 馬水枝は、今は仮にもっと下流へ伸ばす。


 手当戻り枝は、飯場の正面ではなく、畦道の曲がりの少し先へ。


 槍整え枝は、草の少ない側に寄せる。


 最後尾の中継は、曲がりの手前に置く。


 まだ仮だ。


 問題だらけだ。


 それでも、さっきより場が見える。


 午後、ようやく少しだけ飯を動かした。


 進む飯を少数へ配る。


 飯場の芯は曲がっている。


 兵たちは戸惑う。


「まっすぐ並ばないんですか」


 若い兵が言った。


 権六が返す。


「道がまっすぐじゃない」


「飯列が曲がると、前が見えません」


「いい文句だ。曲がった芯は、声と目印が要る」


 藤七が早足横渡しを試す。


 畦道の曲がりで、速度を落とさざるを得ない。


「早足が早足になりません!」


「今日二度目だな」


 権六が言う。


「外ではもっと言います!」


 半三は槍を持って曲がった芯の横を通る。


 槍先が草へ触れる。


「槍、草を食う」


「風も食いますよね」


 太助が言う。


「食いすぎだ」


 半三が不満そうに返す。


 水場では、太助が水を汲まずに足場だけを見る。


「ここ、明日やったら絶対揉めます」


 源太が馬を見て答える。


「明日で済むか。今日でも馬は嫌がってる」


 きぬは戻れる札を風に当て、揺れ方を見ている。


 喜八が横で言う。


「揺れると、呼ばれている感じがして怖いです」


 きぬは静かに頷いた。


「その文句も、明日以降きちんと見ます」


 庄助は曲がり道の最後尾に立ち、弥平へ声を送る。


「聞こえますか!」


「半分!」


 弥平が返す。


「半分じゃ困る!」


「外だと半分食われる!」


 外は声も食う。


 風、草、曲がり、距離。


 庭とは違うものが、声を奪っていく。


 夕方、弥助殿への報告は、失敗というより、外との初対面の記録になった。


 清洲外の田畑沿いでは、飯場の芯がまっすぐ作れない。

 畦道は狭く、曲がり、土が柔らかい。

 短縄は泥に沈み、見えにくい。

 飯箱を置く場所がない。

 水場は桶ではなく小川になり、線が消える。

 馬水は足場と川縁で難しくなる。

 槍は風と草を食う。

 戻れる札は風で揺れる。

 最後尾の声と手振りは道の曲がりで消える。

 外では、芯はまっすぐでなくてもよい。曲がっても、折れなければ芯。

 庭で作った芯と枝の図は、外では歪む。


 弥助殿は報告を聞き、頷いた。


「今日は、外に挨拶しただけだ」


 権六が苦笑する。


「挨拶だけでこれですか」


「外は、庭より無口ではない」


 その言葉も帳面に書かれた。


 夜、清洲蔵へ戻った時、皆の足には泥がついていた。


 ほんの少しの泥。


 だが、その泥が、城内の庭とは違う現実を連れて帰ってきた。


 佐助は飯箱を拭きながら言った。


「今日の飯は、外の匂いがしました」


 太助が水を飲む。


「水場は、まだ始まってないのに怖かったです」


 かやは短縄を洗いながら、悔しそうに言った。


「沈むんだよなあ……」


 きぬは戻れる札の補助紐を乾かしている。


「風も、考えなければいけません」


 庄助は喉を押さえていた。


「声、半分持っていかれました」


 権六が飯を食べながら言った。


「今日の飯は、泥に足を入れた味だな」


 藤七が笑う。


「おいしくなさそうですね」


「いや、必要な味だ」


 俺は泥のついた短縄を見た。


 清洲庭で得た知恵は、外へ出た途端に歪んだ。


 だが、歪むことが失敗ではない。


 外に出れば、芯も枝も曲がる。


 曲がっても、折れなければよい。


 清洲外の飯線は、ようやく泥の上に最初の線を引いた。

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