第百五十四話 信長、折れなかった飯線を見る
同時崩れ大試験の翌朝、清洲蔵の者たちは、誰も大きな声を出さなかった。
疲れていた。
体だけではない。
腹が疲れていた。
飯場の芯を細くし、水場枝を一息止め、馬水を外へ逃がし、槍列を待たせ、手当飯場へ戻れる声を通し、最後尾へ小丸と遅れ札を回し、列文句札に文句を逃がした。
全部が崩れかけた。
だが、折れなかった。
その結果を、今日は信長様へ報告しなければならない。
伊三郎は報告板を前に、筆を握ったまま固まっていた。
「失敗、多いですね」
太助が言った。
誰も否定しなかった。
飯列は遅れた。
水場は詰まった。
馬水は飯場へ圧をかけた。
槍列は止まりかけた。
戻れる札は影に隠れた。
最後尾の声は届かなかった。
文句役は文句で溺れかけた。
列文句札は文句を抱えすぎた。
書けば書くほど、うまくいかなかったことばかりだった。
だが、昨日までと違うところが一つだけある。
最後に、こう書けることだった。
折れなかった。
佐助は飯箱の蓋を閉じながら言った。
「飯は止まりませんでした」
権六が文句腹帳を抱えて頷く。
「文句も止まらなかったがな」
「文句は止めないほうがいいんでしょう?」
太助が言うと、権六は苦笑した。
「止めない。だが、溺れるのは困る」
きぬは戻れる札を布で包んでいた。
「今日は、見せる札ではなく、報告する札ですね」
かやが道具箱を閉じる。
「道具も全部持っていく?」
弥助殿が答えた。
「持っていく。折れなかった形を見せる」
折れなかった形。
それは、完成形ではない。
応急の跡だらけだ。
小雨札の短紐は斜めに直されている。
戻れる札には補助紐がついた。
槍戻し受けには濡れ手用の結び目がある。
最後尾遅れ札は腕掛け式になった。
列文句札は、墨の跡が濃い。
綺麗な道具ではない。
しかし、崩れた場で折れないために生まれた道具だった。
清洲城の広間へ入ると、信長様はすでに上座にいた。
前よりも、家臣の数が増えている。
美濃前哨飯線が、もう蔵の試作ではなく、戦支度の一部として見られている証だった。
俺たちは報告板を並べた。
飯場の芯の図。
水場枝の図。
馬水別枝。
槍整え枝。
手当戻り枝。
最後尾の遅れ札。
文句役の優先札。
列文句札。
信長様は、それらをひとつずつ見た。
「崩れたか」
最初の言葉が、それだった。
弥助殿が頭を下げる。
「崩れました」
「折れたか」
「折れませんでした」
信長様の目が、少し細くなった。
「言え」
伊三郎が報告を読み上げた。
最初は順調に見えたこと。
だが、それは慎重すぎるだけで、本番の動きではなかったこと。
藤七が「慎重すぎて本番じゃない」と文句を出し、そこから場を少し崩したこと。
信長様は、藤七を見た。
「おまえが言ったのか」
藤七は緊張しながら頭を下げた。
「はい。早足が早足ではありませんでしたので」
「よい」
その一言で、藤七の背中が少しだけ緩む。
次に、小雨札と馬水。
小雨札が出た直後、馬水枝が同時に鳴った。
太助が「馬が悪いのではなく、二つの枝が同時に鳴った」と返した。
枝同士が同時に動く時、飯場の芯を細くする必要があると分かった。
信長様は太助を見る。
「水場文句役か」
「はい」
「水に溺れたか」
太助は一瞬迷い、それから正直に答えた。
「半分、溺れました」
広間に小さな笑いが起きた。
信長様も少し笑った。
「半分なら、まだ立っている」
「はい」
「ならよい」
次に、槍戻し受け。
一拍遅れたことで槍列が詰まり、早足と衝突しかけた。
槍列中受け役が水場を見たため、出すのが遅れた。
槍戻し受けを出す者と、外を見る者を分ける必要がある。
出す時は、槍角度、短縄起こし、短声で場へ知らせる。
半三が前へ出た。
「槍は、声だけでは足りません。槍持ちは槍を見ます」
信長様は頷いた。
「槍持ちには槍で知らせる。よい」
次に、戻れる札。
馬影と人影で札が隠れた。
高くすると見えすぎ、手当飯場が見せ場になりかける。
低くすると担架役が迷う。
札は曲がるため、声は入るため。
「戻れる場所、こちら」の声を追加し、札影の合図と補助紐を作った。
きぬが説明を終えると、信長様は戻れる札を手に取った。
「これは、怪我を見る札ではないのだな」
「はい」
きぬは静かに答えた。
「戻れる場所を知らせる札です」
「よい。痛みを見せ物にするな」
「はい」
その言葉に、きぬは深く頭を下げた。
最後尾の報告では、庄助と弥平が前へ出た。
最後尾の声が、水場、馬水、槍、手当の声に食われたこと。
最後尾用小丸包みは声を守る飯だが、声だけでは足りないこと。
最後尾遅れ札を作り、中央に中継役、前方に受け役を置いたこと。
戻し飯は、声と手振りと中継と一体でなければ、置いていかない飯にならないこと。
信長様は庄助へ聞いた。
「最後尾に立ったか」
「はい」
「どうだった」
庄助は少し喉を鳴らし、答えた。
「前にいた時は、後ろが飯を持つのが不公平に見えました。ですが、最後尾に立つと、飯がないと声が出ませんでした」
「そうか」
「はい。最後尾は、遅い場所ではなく、遅れを拾う場所でした」
信長様は少しだけ口元を動かした。
「よい。前しか見ぬ者に、後ろを見せろ」
弥平が横で頭を下げた。
その顔は、以前戻し飯を笑っていた時とは違っていた。
そして、文句役。
権六、太助、きぬが、それぞれ自分の場で文句に溺れかけたこと。
文句役が全部を拾おうとすると、文句役が折れること。
飯場、水場、手当飯場で優先して拾う文句を決め、それ以外は列文句札へ逃がすこと。
必ず「消さない、後で拾う」と声にすること。
文句役にも一息と支え耳飯が必要なこと。
信長様は権六を見る。
「文句役が文句で折れかけたか」
「はい」
権六は苦い顔で答えた。
「文句は、水より重い時がございます」
広間にまた小さな笑いが起きる。
信長様は笑わず、だが機嫌は悪くなさそうだった。
「よい。文句を軽く見ぬほうがよい。文句は腹の煙だ。煙を見ずに蓋をすれば、火が見えなくなる」
伊三郎が慌てて書く。
文句は腹の煙。
権六も同じ言葉を文句腹帳へ写していた。
最後に、俺が昨日の場をまとめた。
「同時崩れ大試験では、飯列が遅れ、水場が詰まり、馬水が外へ逃げ、槍列が止まりかけ、手当飯場の札が隠れ、最後尾の声が届かず、文句役が文句で溺れかけました。そこで飯場の芯を細く通し、水場枝を一息止め、馬水を外へ逃がし、槍列を一呼吸待たせ、手当飯場は声を優先し、最後尾には小丸と遅れ札を回し、列文句札は三つに絞りました」
信長様は俺を見た。
「完全に戻ったか」
「いいえ」
「では、勝ったか」
「いいえ」
「では、何を得た」
俺は一度、息を吸った。
「折れる前に戻す手順を、少し得ました」
信長様は、しばらく黙っていた。
広間も静かだった。
やがて、信長様は言った。
「崩れたが折れなかったなら、飯線は一段進んだ」
その言葉が、広間へ落ちた。
清洲蔵の皆が、目を伏せる。
疲れも、悔しさも、失敗も、その一言で少しだけ形を変えた。
信長様は続けた。
「戦で大事なのは、崩れぬことだけではない。崩れた時、折れぬことだ。崩れぬ支度をする者は多い。だが、崩れた後を考える者は少ない」
家臣たちの顔が変わる。
「馬が動く。水が詰まる。槍が遅れる。怪我人が出る。声が届かぬ。文句が湧く。そうなった時に、飯が止まれば、軍は折れる」
信長様は戻し飯の丸包みを一つ取った。
「飯が止まらぬなら、軍はまだ戻れる」
佐助が深く頭を下げた。
信長様は丸包みを開け、一口食べた。
以前と同じように、静かに噛んだ。
「まだ直せる」
「はい」
佐助の声は震えていたが、弱くはなかった。
信長様は報告板を指した。
「これを実戦手順へまとめろ」
弥助殿が頭を下げる。
「承知しました」
「清洲の庭だけで終わらせるな。次は外だ」
広間に緊張が走った。
外。
清洲蔵の庭ではない場所。
道。
川。
田畑の畦。
小さな橋。
風。
実際の泥。
信長様は言った。
「清洲外で半実戦運用を行え。城の中では見えぬ崩れを見ろ」
太助が小さく息を呑む。
かやの目が一瞬だけ輝く。
権六は文句腹帳を強く抱えた。
きぬは戻れる札を見つめる。
半三は槍を持つ手に力を入れた。
源太は馬水枝の札を思い浮かべているようだった。
信長様は最後に言った。
「美濃へ向かう前に、清洲の外で折れかけてこい」
それは、恐ろしい命だった。
だが、今の俺たちには、少しだけ分かる。
折れかけることを恐れてはいけない。
折れる前に戻すために、折れかける場を見なければならない。
報告が終わり、清洲蔵へ戻る道で、誰もすぐには話さなかった。
やがて、太助がぽつりと言った。
「外ですか」
権六が答える。
「外だな」
「水場、もっと面倒になりますね」
「文句も増える」
「嬉しそうですね」
「嬉しくはない。役だ」
かやが道具箱を抱え直した。
「外だと、短縄が泥に埋まるかも」
きぬが戻れる札を見て言う。
「外だと、札影がもっと増えます」
佐助は飯箱を抱えながら言った。
「外だと、飯の匂いも変わるでしょうね」
伊三郎は帳面を抱え、静かに呟いた。
「帳面も増えます」
権六が苦笑する。
「そこは減らせ」
「無理です」
少しだけ笑いが起きた。
蔵へ戻ると、俺たちはすぐに新しい頁を開いた。
同時崩れ大試験は終わった。
だが、美濃前哨飯線は終わらない。
次は、清洲外での半実戦運用。
庭で見えた崩れ方が、外でどう変わるか。
それを見なければならない。




