表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
153/160

第百五十三話 崩れた場を、折れる前に戻せ

 文句役が文句で溺れかけた翌朝、清洲蔵の庭には妙な覚悟があった。


 昨日までとは違う。


 飯場の芯も、水場枝も、馬水枝も、槍整え枝も、手当戻り枝も、最後尾も、文句役も、それぞれ一度は揺れた。


 小雨札は早すぎると言われた。

 馬水は飯列を割りかけた。

 槍戻し受けは一拍遅れた。

 戻れる札は見えなかった。

 最後尾の声は届かなかった。

 文句役は文句で溺れかけた。


 つまり、今日崩れる理由は、もう揃っていた。


 弥助殿は庭の中央に立ち、短く言った。


「今日は止めぬ」


 その一言で、空気が締まった。


 太助が水場枝で小さく呟く。


「止めないんですか」


「折れたら止める」


 弥助殿が答える。


「折れる前に戻せ」


 折れる前に戻せ。


 今日の試験のすべてが、その言葉に集まっていた。


 伊三郎は帳面の頭に、すでにその一文を書いていた。


 折れる前に戻す。


 権六も文句腹帳を抱えている。


 昨日作った列文句札もある。


 きぬの手元には戻れる札。


 太助の水場には人水、味噌水、馬水、非常水の札。


 半三の槍列には外目役と中受け役。


 庄助の腕には最後尾遅れ札。


 佐助の飯場には、進む飯、戻し飯、雨天飯、手当飯、支え飯、支え耳飯。


 かやの道具箱には、短縄、小雨札の短紐、戻れる札の補助紐、槍戻し受け。


 全部がある。


 全部があるから、崩れる。


 作兵衛が声を出した。


「開始」


 同時崩れ大試験は、最初から荒かった。


 飯場の芯に人が集まる。


 佐助が声を出す。


「進む飯、芯へ」


 水場枝では太助。


「人水」


 源太が馬水枝で馬の鼻を見ている。


 半三が槍列へ短く言う。


「槍、整え」


 藤七が早足横渡し枝を走る。


 庄助は最後尾で遅れ札を腕に通し、小丸包みを片手で引ける位置に直す。


 きぬは手当戻り枝で、戻れる札の角度を見る。


 最初から声が多い。


 慎重すぎる静けさは、もうない。


 そこへ、かやが小雨札を寝かせた。


「小雨札」


 短紐が伸びる。


 佐助が雨天飯を一段手前へ出す。


 太助が声を出す。


「小雨、泥」


 半三が言う。


「小雨、槍尻」


 源太が言う。


「小雨、馬足」


 藤七が走りながら言う。


「小雨、焦るな、言われる前に分かってます!」


 権六が思わず笑いかけたが、すぐ別の文句が飛ぶ。


「進む飯、遅いぞ!」


「飯場文句、今は芯の太さを優先!」


 権六が返す。


「遅い文句は列文句札へ。消さない、後で拾う!」


 その横で、佐助が飯の数を絞った。


「芯、細くします」


 理由はすぐに来た。


 馬水枝で馬が動いた。


 源太が手綱を押さえる。


「馬水」


 横棒取っ手が前へ倒れる。


 同時に、水場で若い人足が人水桶を取りに来る。


「人水も欲しい!」


 太助が声を張る。


「人水、半歩待ち。馬水枝が鳴っています」


「また馬が先か!」


「馬が先じゃありません。今は枝が同時に鳴っています!」


 昨日覚えた言葉だ。


 だが今日は、そこで終わらない。


 藤七が早足で水場近くを抜けようとする。


「早足、通ります!」


 太助が叫ぶ。


「早足、焦るな!」


「今は焦ります!」


 早足は止まらない。


 源太の馬が半歩外へ逃がされる。


 人水の人足が避ける。


 避けた半歩が、飯場の芯へ寄る。


 佐助が飯箱を少し引いた。


 その引きで、進む飯の列が詰まる。


 前方の兵が文句を言う。


「また飯が細くなった!」


 権六が返す。


「芯細り、記録済み! 今は折れないため!」


 その時、槍列が動いた。


 半三が低く言う。


「受け出す」


 中受け役の久助が槍戻し受けを出す。


 今回は遅れない。


 槍角度。

 短縄起こし。

 短声。


 だが、水場の人足が半歩避けたことで、槍整え枝の外目役がそちらを見る。


「水近い」


 半三が槍列へ言う。


「槍を見る!」


 若い槍持ちの目が一瞬だけ水場へ流れる。


 槍尻が揺れる。


 久助が槍戻し受けを出し直す。


 その一拍が、また早足枝へ触れる。


 藤七が声を上げた。


「槍、そこ出ますか!」


 半三が返す。


「出す! 早足、半歩外!」


「水場も外なんです!」


「なら芯を細くしろ!」


 半三の声が飯場へ飛ぶ。


 佐助がすぐ返した。


「芯、さらに細くします!」


 飯場の芯がさらに細くなった。


 進む飯の配りが一時遅くなる。


 その分、飯を待つ者の腹が荒れる。


 権六が列文句札を指した。


「飯遅れ文句、列文句札へ! 消さない!」


 文句が札へ集まる。


 集まりすぎる。


 列文句札の周りに、人の視線が集まる。


 権六の顔に汗が浮かんだ。


「文句札も、太りすぎるな……」


 だが、その文句を拾う暇はなかった。


 作兵衛の声が飛ぶ。


「負傷者、出た!」


 手当戻り枝が動く。


 きぬが戻れる札を見る。


「戻れる札、準備」


 寅吉と藤七が担架役へ入る。


 藤七は早足から担架へ切り替える。


 しかし、今は早足枝が詰まり、槍戻し受けが出て、水場が半歩外へ動いた直後だった。


 藤七の足が迷う。


「どっちへ行けばいいんですか!」


 きぬが声を出す。


「戻れる場所、こちら!」


 だが、馬水枝の馬影と飯場の人影で、戻れる札がまた一瞬隠れる。


 太助が水場から叫ぶ。


「札影!」


 きぬがすぐ声を補う。


「戻れる場所、こちらです!」


 かやが補助紐を少し引く。


 担架役からだけ見える角度へ。


 藤七がそれを見て曲がる。


 しかし、担架が水場枝の近くを通ったため、太助の人水整理が止まる。


 水桶を持つ人足が文句を言う。


「重い!」


 太助が返す。


「水桶重い、見えました! でも今は担架優先! 水場文句、列文句札へ!」


「俺の腕は今重いんだ!」


「消しません! 後で拾います!」


 太助の声は必死だった。


 それでも、以前より折れていない。


 水場文句役は、溺れかけながらも文句を逃がしている。


 その時、最後尾の庄助が声を出した。


「担架、遅れ!」


 だが、声は届かない。


 水場、馬水、槍、飯場、手当の声が重なっている。


 庄助はすぐ小丸包みを一口引いて食べた。


 腕の最後尾遅れ札を上げ、横へ振る。


 弥平が中央で受ける。


「遅れあり!」


 又八が前方で受ける。


「前、半歩待て!」


 前方の列が半歩待つ。


 担架役が追いつく。


 しかし、前方でまた文句が出た。


「また待ちか!」


 権六が叫ぶ。


「前方待ち文句、列文句札へ! 今は遅れ札優先!」


 文句札がまた太る。


 場全体が、いよいよ重くなってきた。


 飯列は遅れ、水場は詰まり、馬水は半歩外へ逃げたまま、槍列は止まりかけ、手当飯場は声で補い、最後尾は札を振り、文句札は文句を抱えすぎている。


 折れる。


 俺は、そう思った。


 折れる前か。

 もう折れた後か。


 その境目に、場が立っていた。


 弥助殿の声が飛んだ。


「清吉」


「はい!」


「戻せ」


 たった一言だった。


 中止ではない。


 戻せ。


 俺は息を吸った。


 頭の中に、芯と枝の図が浮かぶ。


 飯場の芯。

 水場枝。

 馬水別枝。

 槍整え枝。

 早足横渡し枝。

 手当戻り枝。

 戻し飯最後尾。

 列文句札。


 全部を同時に直すことはできない。


 まず芯。


 飯場の芯が太すぎても細すぎても駄目だ。


 今は細くしすぎて、文句が太っている。


 だが、芯を戻す前に水場と槍を一息止めなければ、芯がまた割れる。


 俺は声を出した。


「飯場の芯、さらに細く、ただし止めない!」


 佐助が即座に応じる。


「芯、細く継続!」


 完全停止ではない。


 細く通す。


「水場枝、人水一息止め。馬水は外へ逃がしたまま。非常水は触るな!」


 太助が返す。


「人水一息止め! 馬水外! 非常触るな!」


 源太も返す。


「馬水、外で待つ。馬は悪くない!」


「槍列、一呼吸待ち。受け戻し、場に残すな!」


 半三が低く応じる。


「槍、一呼吸。受け戻す!」


 久助が槍戻し受けを拾い、短縄を戻す。


 槍列が止まりすぎないよう、半三が槍角度で合図を出す。


「早足、今は走らず担架補助へ!」


 藤七が驚いた顔をする。


「俺が?」


「足が使える。担架を戻せ!」


「はい!」


 藤七は早足ではなく、担架の補助へ回る。


 手当戻り枝が少し安定する。


「手当飯場、戻れる声を優先。札を高くしすぎない!」


 きぬが答える。


「戻れる場所、こちら。札は斜め!」


「最後尾、小丸食べて遅れ札。声は中央へ渡す!」


 庄助が小丸包みを噛み、札を上げる。


 弥平が中継。


「遅れあり、でも戻る!」


 又八が前方へ送る。


「前、半歩待ち。戻れる!」


「列文句札、今は三つだけ残す! 飯遅れ、水桶重い、前方待ち。他は後!」


 権六が声を張った。


「列文句、三つ! 他は後で拾う! 消さない!」


 場が、少しずつ戻り始めた。


 完全ではない。


 まだ飯列は遅い。


 水場の人足は不満そうだ。


 馬はまだ水を欲しがっている。


 槍持ちの腕は疲れている。


 担架役は息が荒い。


 庄助の声も少し割れている。


 権六の文句腹帳は墨でぐちゃぐちゃになりかけている。


 それでも、折れていない。


 水場が完全に割れていない。

 槍が倒れていない。

 担架は手当飯場へ入った。

 最後尾の遅れ札は届いた。

 飯場の芯は細いまま通っている。

 列文句札は文句を捨てずに抱えている。


 弥助殿は、まだ見ている。


 俺はもう一度声を出した。


「水場、人水を一本戻す。飯場芯、少し太く」


 太助が返す。


「人水一本戻します!」


 佐助が続く。


「芯、少し太く!」


「槍列、半歩進め」


 半三が言う。


「槍、半歩」


「担架役、一息場へ。支え飯」


 きぬが言う。


「担架役、一人ずつ支え飯。すぐ戻る」


 藤七が支え飯を受け取り、息を整える。


「最後尾、声確認」


 庄助が少しかすれた声で言った。


「最後尾、声あり」


 弥平がすぐ言う。


「飯を食え」


「食った!」


「もう一口」


「うるさい!」


 少しだけ笑いが起きた。


 その笑いで、場の腹が少し戻った。


 弥助殿が、ここで手を上げた。


「止め」


 今度は一息ではない。


 試験の停止だった。


 全員が、その場で動きを止めた。


 そして、誰もすぐには喋らなかった。


 荒い息だけが庭に残った。


 折れなかった。


 いや、折れる寸前だった。


 水場も、槍列も、手当飯場も、飯場の芯も、最後尾も、文句役も、どれも崩れた。


 でも、折れなかった。


 弥助殿は、ゆっくり言った。


「今のを覚えろ」


 権六が膝に手をつきながら答えた。


「覚える前に、息をください」


「それも覚えろ」


 太助が水場で笑いかけて、力尽きたように座った。


「水場、溺れました。でも沈みませんでした」


 きぬが手当飯場で戻れる札を支えていた。


「戻れる場所は、まだ見えました」


 半三は槍を地面へ置かず、手に持ったまま言った。


「槍は倒れなかった」


 源太は馬の首を撫でる。


「馬も悪者にならなかった」


 庄助は最後尾札を握って言った。


「声は食われた。でも札は届いた」


 佐助は飯箱を見る。


「芯は細くなりましたが、止まりませんでした」


 伊三郎は震える手で帳面に書いた。


 場、同時に崩れる。

 飯列遅れ、水場詰まり、槍列停止寸前、手当札影、最後尾声不達、文句札膨張。

 清吉、芯と枝で戻す。

 飯場芯を細く通す。

 水場枝を一息止める。

 馬水を外へ逃がす。

 槍列を一呼吸待たせる。

 手当飯場は声優先。

 最後尾は小丸と遅れ札。

 列文句札は三つに絞る。

 完全解決ではない。

 しかし、折れずに戻る。


 弥助殿は帳面を見て、頷いた。


「それだ」


 それだけだった。


 だが、その一言で、全員の肩から少し力が抜けた。


 夜、清洲蔵では、誰もあまり喋らなかった。


 飯は出た。


 進む飯、戻し飯、支え飯、支え耳飯。


 だが、皆、ゆっくり食べた。


 今日の飯は、味を語る余裕がないほど重かった。


 それでも、権六が最後に言った。


「今日の飯は、折れなかった味だな」


 太助が水を飲みながら答える。


「それ、少し分かります」


 きぬも頷いた。


「崩れたけれど、戻れました」


 佐助は静かに飯箱を見た。


「飯が、止まりませんでした」


 俺はその言葉を腹の中で繰り返した。


 飯が止まらない。


 美濃前哨飯線が、目指してきたもの。


 勝つ飯ではない。


 勝つ前に崩れない飯。


 崩れても、折れる前に戻れる飯。


 今日、ほんの少しだけ、その形が見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ