第百五十二話 文句役、文句で溺れる
最後尾の声が、場の声に食われた。
その事実は、清洲蔵の者たちに思った以上の重さを残した。
声を出せば届くわけではない。
飯を持たせれば動けるわけではない。
札を作れば見えるわけではない。
道具を置けば助かるわけではない。
同時に動く場では、何か一つが正しくても、隣の枝に食われる。
最後尾用小丸包みは、声を守る飯だった。
だが、声は水場、馬水、槍、手当の声に食われた。
だから、最後尾遅れ札を作った。
飯と声と手振り。
置いていかない飯は、また一歩、形になった。
その翌朝、弥助殿が言った。
「今日は文句役を見る」
その一言で、権六の顔が曇った。
「文句役を、ですか」
「そうだ」
「文句を拾うのではなく?」
「拾う者が崩れるかを見る」
太助が水場枝で、露骨に嫌そうな顔をした。
「俺もですよね」
「おまえもだ」
「昨日から分かってましたけど、改めて言われると嫌ですね」
権六が文句腹帳を開こうとして、やめた。
「自分の文句まで拾ってると、始まる前に溺れるぞ」
きぬは手当戻り枝のそばで静かに立っていた。
戻れる札。
補助紐。
手当飯。
支え飯。
布束。
手当飯場にも、文句は出る。
見えすぎる。
見えない。
怖い。
急げ。
揺れる。
水がない。
布が分からない。
それを拾うのは、きぬだ。
きぬは自分の手を見た。
布を畳む手。
飯包みを渡す手。
戻れる札を支える手。
その手が、今日は文句も受ける。
俺は少し不安になった。
これまで、文句役は頼もしかった。
権六がいる。
太助がいる。
きぬがいる。
そう思っていた。
だが、支える者が先に倒れることを、手当飯場で見たばかりだ。
文句役も同じなのだ。
文句を拾う者が崩れれば、文句は再び場へ流れ込む。
飯列を割り、水場を荒らし、槍を止め、手当飯場を怖い場所に戻す。
弥助殿が言った。
「始めろ」
試験が動いた。
最初から、場はやや荒れていた。
飯場の芯で佐助が進む飯を配る。
権六がその横に立つ。
水場枝では太助が人水、味噌水、馬水、非常水を見ている。
手当戻り枝では、きぬが戻れる札を調整し、喜八が少し離れて見ている。
槍整え枝では半三が外目役と中受け役を分け、槍戻し受けの短縄を確認している。
最後尾では庄助が腕掛けの遅れ札をつけ、弥平が中央中継に立つ。
作兵衛の声。
「戻り合図」
場が動く。
最初の文句は飯場から出た。
「進む飯、少ないぞ」
若い兵が言った。
佐助が飯を出しながら顔を上げる。
権六がすぐ拾う。
「少なく見える、だな。今は芯を細くしてる」
「何で細いんだ」
「水場と槍が同時に動くからだ」
「腹は細くならないぞ」
周囲から小さな笑いが起きる。
権六は笑わず、文句腹帳へ書く。
進む飯、芯細りで少なく見える。根:腹は細くならない。
「いい文句だ」
「褒められても腹は減る」
若い兵が返す。
権六が答える。
「芯が戻れば飯も戻す。今は折れる前に細くしてる」
何とか収まる。
だが、次がすぐ来た。
水場から声が上がる。
「人水が遠い!」
太助がそちらへ顔を向ける。
「遠い理由は?」
「飯を受けた後に戻るのが面倒だ!」
「飯後小水はまだ試験中です。今は人水枝を横切らないでください」
「じゃあ喉が渇いたまま待てってことか!」
太助の顔が少し焦る。
そこへ、源太が馬水枝から言う。
「馬水を先に動かす。馬が鼻を伸ばしてる」
別の人足が言う。
「人より馬が先か!」
源太の声が荒れかける。
「馬が悪いと言うな」
太助が慌てて入る。
「馬が悪いんじゃありません。人水と馬水が同時に鳴っています!」
「だからどっちが先だ!」
文句が太助へ集まる。
人水。
馬水。
喉。
順番。
遠さ。
馬への不満。
太助は一瞬、言葉を失った。
権六が飯場からそちらを見た。
助けに行こうとするが、飯場にも文句が来る。
「戻し飯、最後尾ばかり持ってるぞ!」
別の兵が言った。
権六の足が止まる。
飯場を離れれば、飯場の文句が腐る。
水場へ行かなければ、太助が溺れる。
権六の顔に、初めて迷いが出た。
「拾いきれん」
小さな声だった。
だが、俺には聞こえた。
権六が、文句腹帳を抱えたまま、初めて漏らした言葉。
拾いきれん。
その瞬間、手当戻り枝でも文句が出た。
「戻れる札、見えない!」
担架役の藤七が叫ぶ。
きぬがすぐ返す。
「戻れる場所、こちら!」
しかし、喜八が同時に言った。
「高くしすぎないでください!」
負傷者役が続ける。
「担架、揺れてます!」
水役が言う。
「小水、どこですか!」
きぬの顔が固まった。
戻れる札を見せる。
見せすぎない。
担架を入れる。
負傷者役を安心させる。
水役へ小水の場所を示す。
血止め布を見せすぎない。
手当飯場の文句が、きぬへ集まる。
きぬは一つずつ返そうとした。
「戻れる札は——」
「小水は——」
「担架は——」
言葉が重なり、自分でもどれを先に言うべきか迷う。
手当飯場が一瞬、止まった。
弥助殿はまだ止めない。
試験場は、文句で満ち始めていた。
飯場の権六。
水場の太助。
手当場のきぬ。
三人の文句役が、それぞれ自分の場で溺れかけている。
文句が多いだけではない。
文句が同時に来る。
しかも、どれも間違っていない。
進む飯が少なく見えるのも本当。
人水が遠く感じるのも本当。
馬水を後回しにできないのも本当。
戻れる札が見えないのも本当。
見えすぎるのが怖いのも本当。
小水の位置が分からないのも本当。
本当が多すぎて、場が沈む。
権六が歯を食いしばった。
「飯場文句、三つまで!」
突然の声だった。
周囲が少し止まる。
権六は続けた。
「今拾うのは、飯が少なく見える、戻し飯が最後尾へ寄る、芯が細い。この三つ。他は一息後!」
若い兵が言い返す。
「こっちの文句は後か!」
「後だ! 消すんじゃない、後で拾う!」
その声に、少しだけ場が戻る。
文句を潰していない。
ただ、順番をつけた。
太助がそれを見て、真似た。
「水場文句、今は二つです!」
声が少し震えている。
だが、出た。
「人水が遠い。馬水と重なる。この二つ! 喉の文句は飯後小水で後で拾います!」
源太が言う。
「馬水は?」
「馬水は今拾ってます!」
若い人足が言う。
「人水は?」
「人水も拾ってます! だから二つです!」
太助の顔は必死だった。
それでも、水場の文句が少し整理される。
きぬも息を吸った。
「手当飯場、今拾うのは三つです」
声は静かだが、芯がある。
「戻れる札が見えない。札が高すぎると怖い。小水の位置。この三つです。担架の揺れは、藤七さんと寅吉さん、足を合わせてください。後で拾います」
藤七が担架を持ったまま返す。
「後でですね!」
「はい。消しません。後で拾います」
負傷者役が少し安心した顔をした。
「消さないなら、待てます」
その言葉が大きかった。
文句は、今すぐ解決されなくても、消されないと分かれば少し待てる。
権六がそれを聞いて、文句腹帳へ大きく書いた。
消さない。後で拾う。
文句役、優先順位をつける。
伊三郎も同時に書く。
文句役が全て拾おうとすると溺れる。
今拾う文句を絞る。
残りは「後で拾う」と明言する。
場が少し落ち着いた。
だが、完全ではない。
文句を後へ回された者は、まだ不満そうだ。
権六の額には汗が滲んでいる。
太助は水桶を見ながら、手が少し震えている。
きぬは戻れる札を直す手を、ゆっくりにしている。
支える側が倒れかけている。
そのことを、きぬ自身が一番早く気づいた。
「文句役にも、一息が要ります」
きぬが言った。
弥助殿が目を動かす。
「続けろ」
「手当飯場で、担架役に一息場を作りました。支える人が倒れないためです。文句役も同じです。全部を受け止めると、文句役が先に倒れます」
権六は苦笑した。
「俺が倒れるのか」
「倒れかけています」
きぬは遠慮なく言った。
権六は言い返せなかった。
太助も小さく頷く。
「水場、今かなりきついです」
「だから、文句役にも受け渡しが必要です」
きぬは言った。
「飯場文句役、水場文句役、手当文句役。それぞれが全部を抱えず、今拾う文句と後で拾う文句を分ける。さらに、溢れたら列文句役へ流す」
権六が首を傾げる。
「列文句役へ?」
「はい。飯場、水場、手当場だけで処理できない文句は、列全体の文句です。権六さん一人に戻すのではなく、列文句札を立てる」
かやがすぐ小札を取った。
「列文句札?」
「今すぐ解決しないが、場全体の文句として残す札です」
権六が少し嫌そうな顔をした。
「札を増やすなと言いたいが……これは要るかもしれん」
太助が言う。
「水場で抱えきれない時、列文句札に逃がせるなら助かります」
きぬが頷いた。
「逃げではありません。文句を捨てずに置く場所です」
文句の置き場。
それは、荷の待ち荷逃がしと似ていた。
水場で処理できない文句を、そのまま水場に抱え続ければ、水場が溺れる。
飯場で処理できない文句を飯場が抱えれば、飯場が止まる。
手当飯場が全部抱えれば、支える人が先に倒れる。
だから、文句にも逃がしが要る。
捨てるのではない。
後で拾うために置く。
かやが小札を作った。
列文句札。
大きくはない。
だが、見える。
そこへ、一時的に文句を置く。
試験再開。
飯場で文句が出る。
「進む飯が遅い!」
権六が返す。
「飯場文句、今拾う三つを超えた。列文句札へ。消さない、後で拾う」
若い兵は不満そうだが、列文句札を見て少し黙る。
水場で文句が出る。
「人水、やっぱり遠い!」
太助が返す。
「水場文句、今は馬水重なり優先。人水距離は列文句札へ。後で拾います」
手当飯場で文句が出る。
「担架、揺れる!」
きぬが返す。
「今は戻れる札と小水を優先します。担架揺れは列文句札へ。後で拾います。消しません」
不満は残る。
だが、場は止まらない。
文句が消されていないと分かるだけで、少し待てる。
権六の顔も少し戻ってきた。
「これ、文句の待ち荷逃がしだな」
かやが笑った。
「また川道に戻った」
「市松に怒られずに済むか?」
「文句は場所を取りますからね」
太助が言う。
「水桶より重いかもしれません」
権六は頷いた。
「今日、それを思い知った」
午後には、文句役の優先順位が少し形になった。
飯場文句役は、飯の量、配り順、芯の太さを優先。
水場文句役は、人水・馬水衝突、非常水、味噌水誤認を優先。
手当文句役は、戻れる札、小水、負傷者不安を優先。
それ以外は列文句札へ一時置き。
必ず「後で拾う」と声に出す。
弥助殿が一度だけ手を上げた。
「一息」
場が止まる。
今回は、文句役のための一息だった。
権六はその場に座り込みかけた。
「本当に溺れるな、文句は」
太助も水場で桶にもたれるようにして言った。
「水より溺れます」
きぬは手当飯場で支え飯を三つ持ってきた。
「文句役も食べてください」
権六が驚く。
「俺たちに?」
「はい。支える人ですから」
太助が受け取る。
「水場文句役用の飯ですか」
佐助が少し考え込む。
「必要かもしれません」
「また増えた」
権六が言う。
しかし、誰も笑わなかった。
文句役が倒れれば、場が割れる。
なら、文句役の腹も支えなければならない。
弥助殿への報告は、権六、太助、きぬの三人で行った。
権六が言う。
「文句役が全部拾おうとすると、拾いきれず溺れます。飯場では、飯の量、配り順、芯の太さを優先します」
太助が続ける。
「水場では、人水と馬水の衝突、非常水、味噌水の誤認を優先します。人水が遠いなどの文句は、状況によって列文句札へ逃がします」
きぬが最後に言う。
「手当飯場では、戻れる札、小水、負傷者の不安を優先します。担架揺れなどは消さず、後で拾うと伝えて列文句札へ置きます。文句役にも一息と支え飯が必要です」
弥助殿は三人を見た。
「よい」
そして、こう言った。
「文句を拾う者が折れれば、場は折れる。文句にも飯と逃がしを与えろ」
伊三郎が書いた。
文句にも飯と逃がし。
夜、清洲蔵では、小さな支え飯が三つ並んだ。
権六用。
太助用。
きぬ用。
もちろん、まだ正式ではない。
試しだ。
権六はそれを見て、苦い顔で笑った。
「文句役飯か」
太助が言う。
「嫌な名前ですね」
きぬが少し考えて言った。
「支え耳飯、ではどうでしょう」
権六が目を瞬かせた。
「耳?」
「文句を聞く耳を支える飯です」
太助が笑う。
「きぬさんらしい」
佐助は真面目に頷いた。
「支え耳飯、仮名で帳面に入れます」
権六はその小さな飯を食べた。
「今日の飯は、文句で溺れた味だな」
太助が聞く。
「おいしいですか」
「溺れた後だから、何でもうまい」
きぬが静かに言った。
「明日は、場そのものがもっと崩れますね」
誰も否定しなかった。
文句役は、今日折れかけた。
それでも、優先順位と列文句札で何とか戻った。
次は、場全体が折れかける。
折れる前に戻せるか。
それが、明日の試験だった。




