第百五十一話 最後尾、声が届かない
戻れる札が見えない。
その問題をどうにか七分ほど形にした後、清洲蔵の庭には、また別の疲れが残っていた。
見えすぎても駄目。
見えなさすぎても駄目。
手当飯場の戻れる札は、札だけでは足りず、声と補助紐が必要になった。
戻れる札は曲がるため。
戻れる声は入るため。
札影が出たら、手当飯場が声で補う。
それで、手当戻り枝は少し前へ進んだ。
だが、同時崩れ大試験は、ひとつ直すと別の場所が浮く。
今日は、最後尾だった。
最後尾用小丸包み。
庄助は、それを腰へ差していた。
少し前まで、彼は言っていた。
なぜ後ろが先なのか。
前が後回しにされているように見える。
最後尾だけ飯を持つのは不公平ではないのか。
だが実際に最後尾へ立つと、庄助の顔つきは変わった。
最後尾は、ただ遅い場所ではない。
遅れを拾う場所。
切れ目を見る場所。
担架役、槍列、馬水、戻り列の尻尾を見守る場所。
最後尾が腹を空かせると、置いていかれる者が出る。
その意味を、庄助は七分ほど腹に入れていた。
けれど、七分では足りない時がある。
試験が再び動き出すと、すぐに分かった。
「戻り合図」
作兵衛の声が出る。
飯場の芯から前方の兵が動く。
水場枝では太助が人水桶を寝かせ、味噌水の布印を確かめている。
馬水枝では源太が馬を半歩外へ逃がす。
槍整え枝では半三が外目役に短く言う。
「水近い。槍、見ろ」
手当戻り枝では、きぬが戻れる札と補助紐を確認している。
その中で、庄助は最後尾に立った。
腰には小丸包み。
手には、最後尾の小札。
役目は、列の尻尾を見て、遅れを拾うこと。
最初は声が通った。
「担架、遅れなし!」
「槍、半歩待ち!」
「馬水、外へ!」
庄助の声はまだ若いが、前よりしっかりしていた。
弥平が中央から頷く。
「いいぞ。腹で言え」
「分かってる!」
庄助は返した。
しかし、同時に場が鳴り始めた。
水場枝で若い人足が人水桶を置く場所を迷う。
太助が言う。
「人水、そこじゃない。縦取っ手、枝内へ」
馬水枝で馬が鼻を鳴らす。
源太が声を出す。
「馬水、待つ。馬は悪くない」
槍整え枝では、槍戻し受けの短縄が起きる。
半三が低く言う。
「受け出す」
飯場の芯では佐助が進む飯を細くする。
「芯、細く」
手当戻り枝では、戻れる札が一瞬人影に隠れ、きぬが声を足す。
「戻れる場所、こちら!」
声が重なった。
それぞれの声は、正しい。
だが、正しい声が同時に出ると、別の声を消す。
庄助が最後尾から叫んだ。
「担架、少し遅れ!」
声は出た。
だが、前方へ届かない。
水場の声と馬水の声、槍列の声が重なって、庄助の声は途中で薄くなった。
前方の兵は気づかない。
庄助はもう一度叫ぶ。
「担架、遅れ!」
今度は声を張りすぎた。
喉が割れる。
小丸包みを食べる間もなく、庄助はさらに声を出そうとした。
弥平が中央から怒鳴った。
「飯を食え、庄助!」
「今それどころじゃない!」
「それどころだ! 声が割れてる!」
庄助は歯を食いしばった。
「食ってる間に遅れる!」
「食わないから声が届かねえんだよ!」
弥平の声は強かった。
以前なら、戻し飯を笑っていた男が、今は最後尾役に飯を食えと叱っている。
庄助は一瞬、悔しそうな顔をした。
だが、喉がもう乾いていた。
最後尾用小丸包みを取り、一口だけ噛む。
声を出すための飯。
腹を満たすためではない。
目と声を切らさないための飯。
だが、その一口を噛む間にも、担架役は半歩遅れている。
庄助は口の中の飯を急いで飲み込み、また叫んだ。
「担架、遅れ!」
少し声は戻った。
しかし、まだ届きにくい。
前方で又八が振り返る。
「何だ!」
「担架、遅れ!」
「聞こえねえ!」
庄助の顔が焦る。
最後尾は見えている。
遅れも見えている。
だが、声が届かない。
置いていかない飯を持っていても、置いていかない声が届かなければ、意味がない。
権六が文句腹帳を抱えたまま、歯を食いしばった。
「最後尾、声が食われてる」
伊三郎が書く。
最後尾の声、水場・馬水・槍・手当の声に食われる。
弥助殿はまだ止めない。
この崩れ方も、見なければならないからだ。
庄助はさらに声を張ろうとした。
その時、弥平が中央から手を大きく振った。
上へ一回。
横へ二回。
庄助が一瞬、目を丸くする。
弥平が叫ぶ。
「手で送れ!」
「手?」
「声が食われるなら、手で送れ!」
庄助は反射的に、小札を持った手を上げた。
上へ一回。
横へ二回。
弥平がそれを受け、前方へ同じ手振りを送る。
又八が中央前で気づいた。
「担架遅れか!」
弥平が頷く。
「そうだ!」
又八が前方へ声を出す。
「前、半歩待て! 担架遅れ!」
ようやく届いた。
前方の列が半歩だけ待つ。
担架役の寅吉と藤七が追いつく。
庄助は肩で息をしていた。
声は届かなかった。
だが、手振りがつながった。
弥助殿が手を上げる。
「一息」
場が止まった。
庄助は悔しそうに、最後尾用小丸包みを握っていた。
「声、届かなかった」
弥平が近づく。
「届かなかったな」
「飯、食えって言われたけど、食ってる間に遅れると思った」
「俺も前ならそう言った」
弥平は苦笑した。
「でも、おまえの声、割れてた。割れた声は遠くへ行かない」
庄助は黙った。
弥平は続ける。
「最後尾用の飯は、声を出すための飯だ。食う間も役のうちだ」
「でも、見えてるのに声が届かないのは、きつい」
「だから手が要る」
弥平は自分の手を上げた。
「今みたいな手振り。声が食われた時の合図」
太助が水場から言った。
「水場でも使えそうです。声が重なると届きません」
半三も頷く。
「槍列にも手合図はある。だが、最後尾のものは分けたほうがいい」
源太が馬水枝から言う。
「馬廻りにも見える合図なら、馬水を止めるか外へ逃がすか判断できる」
きぬも手当戻り枝から言った。
「担架役には、声より手が見える時があります。担架を持っていると、耳より目で拾うこともあります」
権六が文句腹帳へ書いた。
最後尾声、届かない時は手振り必要。
声を届ける仕組みがなければ、置いていかない飯は働かない。
伊三郎がそれを美濃前哨飯線帳へ写す。
「最後尾用小丸包みは、声を守る飯。ですが、声だけでは足りない」
「そうだ」
弥平が言った。
「飯と声と手だ」
庄助が顔を上げる。
「飯と声と手」
「最後尾は、それで拾う」
かやが小札を取り出した。
「合図札も要るかもしれません」
権六が即座に言う。
「札を増やすな」
「増やすというより、最後尾の小札を合図に使う」
かやは庄助が持っていた最後尾札を見た。
「今は持っているだけです。これを手振り用にする。上げると見える形、横へ振ると遅れ、丸く振ると戻り、みたいに」
「複雑にするな」
半三が言う。
「槍でも複雑な合図は遅れる」
太助も頷く。
「水場でも、三つ以上は無理です」
きぬが言った。
「最後尾の合図は、一つか二つでよいのでは」
弥平が提案した。
「遅れあり、だけでいい。最後尾が一番知らせたいのは、切れそうだってことだろ」
庄助は頷いた。
「はい。まず、遅れあり。それが届けば、前は半歩待てる」
又八も言った。
「前方は詳しい理由までいらん。まず待つか、進むかだ」
かやが最後尾札に短い布を結んだ。
高く上げれば目に入る。
横へ振れば、遅れあり。
振らなければ通常。
たったそれだけ。
名前はすぐ決まった。
最後尾遅れ札。
権六が「硬い」と言いかけたが、今回は止めた。
分かりやすさが大事だった。
再試験。
庄助が最後尾に立つ。
腰には小丸包み。
手には最後尾遅れ札。
弥平は中央で中継役。
又八は前方寄りで受け役。
作兵衛が声を出す。
「戻り合図」
列が動く。
飯場の芯、水場枝、馬水枝、槍列、手当戻り枝が同時に動く。
今回は、わざと声を多くする。
太助が水場で言う。
「人水、細く」
源太が言う。
「馬水、外へ」
半三が言う。
「槍、待ち」
きぬが言う。
「戻れる場所、こちら」
声が重なる。
庄助の声はやはり食われる。
担架役が半歩遅れる。
庄助は叫ぶ前に、小丸包みを一口食べた。
弥平が見て頷く。
庄助は最後尾遅れ札を高く上げ、横へ振った。
弥平が中央で同じ動きをする。
又八が前方で受ける。
「遅れあり! 前、半歩待て!」
今度は早かった。
前方の列が半歩待つ。
担架役が追いつく。
藤七が担架を持ちながら言った。
「今の、分かりやすい!」
庄助は、少しだけ顔を明るくした。
だが、問題はすぐ出た。
最後尾遅れ札を振ると、戻し飯の小丸包みを食べる手が止まる。
飯と札、同時に扱えない。
庄助が言った。
「手が足りない」
権六がすぐ書く。
最後尾役、飯・声・札で手が足りない。
弥平が笑う。
「今度は手が足りねえか」
「笑うな。結構大変だぞ」
「分かってる」
庄助は息を吐いた。
「最後尾用小丸包み、もっと片手で食べやすくならないですか」
佐助がすぐ反応する。
「包みを腰から引ける形にします。片手で口へ持っていけるように」
かやも言う。
「札は手に持つより、腕に通せるようにしましょう。普段は腕、振る時だけ手首を使う」
きぬが頷く。
「布紐で落ちないようにできます」
最後尾役の道具が、また変わる。
小丸包みは、腰差しから片手引きへ。
最後尾遅れ札は、手持ちから腕掛けへ。
声だけでなく、手も飯も使う役だから、道具もその前提にしなければならない。
午後の試験では、その改良を入れた。
庄助は腕に最後尾遅れ札を通す。
腰には片手で引ける小丸包み。
声が届きにくい場面で、小丸包みを一口引いて食べ、腕の札を横へ振る。
弥平が中継。
又八が前方へ伝える。
完全ではない。
でも、前よりずっと早い。
最後尾の声が食われても、最後尾の意図は届くようになった。
弥助殿は最後に言った。
「置いていかない飯は、声を届ける仕組みと一体だな」
伊三郎が書く。
置いていかない飯――声・手振り・中継と一体。飯だけでは届かない。
庄助は小丸包みを見つめた。
「前は、後ろが先に飯を持つのが嫌でした」
弥平が聞く。
「今は?」
「持ってないと、怖いです」
それは、最後尾役をやった者の言葉だった。
前から見れば不公平。
後ろから見れば命綱。
役が変われば、飯の見え方も変わる。
夕方、報告は長くなった。
最後尾の声は、水場・馬水・槍・手当の声に食われる。
最後尾用小丸包みは、声を守る飯。だが食べる間が必要。
声だけでは届かないため、最後尾遅れ札を作る。
最後尾札は高く上げ、横へ振る。意味は「遅れあり」。
中央に中継役、前方に受け役が必要。
小丸包みは片手引き型へ。
遅れ札は腕掛け型へ。
置いていかない飯は、声・手振り・中継と一体。
弥助殿は報告を聞き、頷いた。
「よい。次は文句役だ」
権六の顔が、少し嫌そうになった。
「私ですか」
「おまえと太助ときぬだ」
太助が水場枝で顔を引きつらせる。
「俺もですか」
「水場文句役だろう」
「はい……」
きぬは静かに手当飯場を見る。
「文句役が崩れる番ですね」
権六が苦笑した。
「嫌な言い方だが、その通りだ」
同時崩れ大試験は、ついに文句を拾う側にも牙を向ける。
夜、清洲蔵では最後尾用小丸包みが出た。
庄助はそれを片手で引く練習をしながら食べていた。
弥平が横で言う。
「食え。声が割れるぞ」
「もう分かってる」
「分かってても言う」
又八が笑った。
「すっかり最後尾の兄貴だな」
弥平は肩をすくめた。
「笑ってた俺が、笑われる側か」
権六が飯を食べながら言った。
「今日の飯は、届かない声の味だな」
太助が聞く。
「苦いですか」
「苦い。でも、手を振れば少し甘くなる」
「よく分かりません」
「俺もだ」
少し笑いが起きた。
最後尾の声は、まだ完全には届かない。
だが、声が食われることは見えた。
見えたなら、合図を作れる。
合図があれば、前は半歩待てる。
半歩待てれば、置いていかれる者は減る。
戻し飯は、また一歩、置いていかない飯に近づいた。




