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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百五十話 戻れる札が見えない

 槍戻し受けの一拍遅れは、清洲蔵の者たちに嫌な感覚を残した。


 一拍。


 ほんの少しの遅れ。


 誰かが水場を見た。

 誰かが早足に気を取られた。

 誰かが槍尻を見るのを忘れた。


 それだけで、槍列は詰まり、早足は止まり、水場は息を殺し、飯場の芯は細くなった。


 同時崩れ大試験では、小さな遅れが小さなまま終わらない。


 枝から枝へ移る。


 枝が芯を押す。


 芯が細る。


 最後尾の声が届きにくくなる。


 それを見たばかりだった。


 だから、次に手当戻り枝が動くと聞いた時、蔵の中の空気は自然と重くなった。


 きぬは、戻れる札を両手で持っていた。


 斜め入口に置く札。


 手当飯場を見せ場にしないための札。


 必要な人には見える。

 見たくない人には圧になりすぎない。

 担架役はそれを見て手前から曲がる。

 負傷者役は、そこへ戻れると分かる。


 昨日までなら、七分以上はできていた。


 だが、今日は違う。


 飯場の芯が動く。

 水場枝が動く。

 馬水枝も動く。

 槍整え枝も動く。

 早足横渡し枝も走る。

 小雨札も出るかもしれない。

 最後尾も声を出す。


 その中で、戻れる札は本当に見えるのか。


 喜八は、手当戻り枝の少し外に立っていた。


 以前より近い。


 手当飯場の飯包みも、戻れる札も見られる。


 だが、血止め布の束が少しでも正面に出ると、まだ顔が固くなる。


 それでも逃げなかった。


 彼は小さく言った。


「今日は、見えないほうが怖い気がします」


 きぬが静かに頷いた。


「はい。今日はそれを見ます」


 権六が文句腹帳を開く。


「喜八、見えないほうが怖い」


「書くんですか」


「当然だ。前は見えすぎが怖かった。今日は見えないほうが怖い。これは進んでる」


 喜八は少し困った顔をしたが、否定しなかった。


 弥助殿が場を見渡した。


「始めろ」


 試験が再開された。


 飯場の芯は、先ほどより少し太さを戻している。


 佐助が進む飯を出す。


「進む飯、芯へ」


 太助が水場枝で人水を動かす。


「人水」


 源太は馬水枝で馬を待たせている。


 半三は槍整え枝で外目役と中受け役を分け、槍戻し受けの短縄を確認している。


 藤七は早足横渡し枝で、いつでも走れる姿勢だ。


 庄助は最後尾用小丸包みを腰に差し、弥平が中央で補助に入っている。


 きぬは戻れる札を斜め入口へ置いた。


 低すぎず、高すぎず。


 見えすぎず、見えなさすぎず。


 いつもなら、ちょうどよいはずの高さ。


 作兵衛の声が飛んだ。


「負傷者、出た!」


 担架役が動く。


 寅吉と藤七。


 藤七は早足横渡し枝から担架役へ切り替わる。


 今回は切り替えが早い。


 前回の経験があるからだ。


「担架、入ります!」


 藤七の声。


 飯場の芯が少し細くなる。


 佐助がすぐ判断した。


「芯、細く」


 進む飯を受ける者を一拍待たせる。


 太助が水場枝で人水桶の取っ手を見る。


「人水、半歩待ち。水桶置く」


 水桶を持った者が、置き場を探して迷わないよう、太助が先に声を出す。


 源太は馬の首を撫でる。


「馬水、まだ」


 半三は槍列へ低く言う。


「槍、動かすな。担架通る」


 ここまではよかった。


 寅吉と藤七が負傷者役を担架に乗せる。


 担架は大きく揺れない。


 藤七も走りすぎていない。


 寅吉も荷音を立てないよう、足を合わせている。


 きぬは手当飯場で布を見ていた。


 戻れる札は斜め入口。


 そこへ向かえばよい。


 しかし、その時、馬水枝が動いた。


 源太の馬が急に鼻を鳴らし、半歩だけ首を伸ばした。


 水を欲しがったのだ。


 源太がすぐ手綱を押さえる。


「馬水、まだだ」


 だが、その動きで馬の体がわずかに前へ出た。


 飯場の芯と手当戻り枝の間に、人影と馬影が重なる。


 戻れる札が、一瞬、見えなくなった。


 担架役の藤七が叫んだ。


「札、どこですか!」


 寅吉も足を止めかける。


 担架が揺れる。


 負傷者役が顔をしかめた。


 喜八が、手当戻り枝の外から思わず声を出した。


「見えないと怖い!」


 その声は、思ったより強かった。


 きぬの顔が変わる。


「戻れる札、こちら!」


 札を少し高く上げた。


 担架役から見えるように。


 だが、高く上げた瞬間、飯場の芯からも、槍列からも、馬水枝からも、その札が見えた。


 手当飯場が、一気に場の目を集める。


 喜八の顔が固くなる。


「高いです!」


 きぬはすぐ札を半分下げる。


 だが、下げるとまた担架役から見えにくい。


「どっちですか!」


 藤七が焦る。


 寅吉が低く言った。


「揺らすな。少し待て」


「待つと遅れます!」


 担架が再び揺れる。


 太助が水場枝から声を出す。


「水場、動かしません!」


 源太も馬を抑える。


「馬水、待つ。馬は悪くない」


 半三は槍列へ言う。


「槍、目を札へ持っていくな。槍を見る」


 しかし若い槍持ちの目が、戻れる札へ流れかける。


 札が高くなったからだ。


 見えるようにすると、見えすぎる。


 見えすぎると、他の枝の目を奪う。


 前に学んだはずのことが、同時試験でまた戻ってきた。


 権六が書く暇もなく、声を出した。


「手当場、見えすぎ!」


 きぬは頷き、札を斜めに倒す。


「担架の角度だけに見せます!」


 かやが駆け寄った。


「札の向き、馬影で隠れる! 入口を半歩ずらす!」


 戻れる札を半歩ずらす。


 だが、その半歩で、今度は早足横渡し枝へ近づく。


 藤七が担架を持ったまま言う。


「そこ、俺の帰り道です!」


「今は担架です!」


 かやが返す。


「俺、担架も早足もやってます!」


「知ってる!」


 妙なやり取りだったが、笑う余裕はない。


 戻れる札の位置が、ほんの半歩でいくつもの枝へ触れる。


 手当戻り枝は、思っていた以上に繊細だった。


 喜八がもう一度声を出した。


「札じゃなくて、声もください!」


 きぬが反応する。


「声?」


「見えない時、札だけ探すと怖いです。戻れるって声が欲しいです」


 それは、手当飯場で何度も出た言葉とつながっていた。


 少し待て、ではなく、すぐ戻る。


 置いていかない言葉。


 戻れる札も、札だけでは足りない。


 戻れる声が必要だった。


 きぬは息を吸い、担架役へ声をかけた。


「戻れる場所、こちらです!」


 藤七と寅吉が、その声で向きを取る。


 札が完全に見えなくても、声で方向を掴む。


 かやが札を斜めに調整する。


 今度は、担架役の角度からだけ見えやすい。


 飯場の芯からは目立ちすぎない。


 槍列からも、前ほど目を奪わない。


 担架が手当飯場へ入った。


 きぬが言う。


「すぐ戻れます。担架、下ろしてください」


 寅吉が担架を下ろす。


 藤七が肩で息をする。


「見えなかった……」


 負傷者役が小さく言った。


「札が見えないと、運ばれてる側も不安です」


 喜八が頷く。


「そうなんです。見えすぎるのも怖い。でも、見えないのは、もっと怖い時があります」


 権六がやっと筆を走らせた。


 戻れる札、馬影と飯場の人影で見えなくなる。

 高くすると見えすぎ、他枝の目を奪う。

 低くすると担架役が迷う。

 札だけでなく、戻れる声が必要。


 伊三郎も美濃前哨飯線帳へ書く。


 手当飯場――札と声の二重。

 札は担架角度へ見せる。

 声は「戻れる場所、こちら」。


 弥助殿はまだ止めない。


 手当飯場へ入った後も、試験は続く。


 担架役は支え飯の一息場へ向かう。


 藤七は急ぎたがる。


 きぬが声をかける。


「一人ずつ。一人は残って」


 寅吉が負傷者役のそばに残る。


 藤七が支え飯を食べる。


 佐助が小水を渡す。


 太助が水場枝から見る。


「手当小水、足りています」


 源太が馬水をまだ待たせる。


「馬水、まだ待つ。馬は悪くない」


 弥平が中央から庄助に声を飛ばす。


「最後尾、声あるか」


 庄助が返す。


「ある。でも手当場が見えん」


 弥平が言う。


「声で拾え。戻れる場所は入った」


 最後尾は、手当飯場の中までは見えない。


 でも、声で入ったことが分かる。


 これも大事だった。


 すべてを見せなくてもいい。


 声で知らせる。


 札で知らせる。


 枝ごとに、知らせ方を変える。


 少しして、弥助殿が手を上げた。


「一息」


 今度の一息は、全員に必要だった。


 藤七は担架役から早足へ戻る前に、支え飯を噛んでいた。


 寅吉は荷音を立てないように担架を整えている。


 きぬは戻れる札を両手で持ち、角度を見つめている。


 喜八は、さっきより少し近くにいた。


 太助は水場枝で人水桶の取っ手を寝かせ、馬水の横棒を確認している。


 半三は槍列へ目を戻していた。


 権六が尋ねる。


「喜八、どうだった」


 喜八は少し考えてから答えた。


「見えないと怖い。でも、見えすぎると、やっぱり怖い」


「欲張りな文句だな」


 権六が言うと、喜八は苦笑した。


「自分でもそう思います。でも、本当です」


 きぬが静かに言った。


「その本当を見に来ています」


 喜八は頷いた。


「声があると、少し違いました。札が見えなくても、戻れる場所があるって分かる」


 藤七も言った。


「担架役としては、札が見えないと迷います。でも、声があれば向きを取れます。ただ、声が遅いと揺れます」


 寅吉が続ける。


「札は手前に欲しい。声は少し奥から欲しい。札で曲がって、声で入る」


 かやが目を輝かせた。


「それだ」


 戻れる札は、曲がるためのもの。

 戻れる声は、入るためのもの。


 役が分かれた。


 きぬも頷いた。


「戻れる札は入口。戻れる声は受け入れ」


 伊三郎が書く。


 戻れる札――曲がるため。

 戻れる声――入るため。

 札だけでは足りない。


 源太が馬水枝から言った。


「馬影で隠れたのも問題だ」


「はい」


 かやが答える。


「戻れる札は、馬水枝の影に入らない高さと角度が必要です。ただし高すぎると見せ場になる」


「馬水が動く時は、手当飯場へ声を渡す」


 太助が言った。


「水場から?」


「はい。馬水が札を隠しそうなら、『札影』って短く」


 半三が顔を上げる。


「札影?」


「戻れる札が影に入ったという声です」


 権六が少し考えた。


「短いな」


 きぬが頷いた。


「札影、と聞いたら、手当飯場が声で補います」


 かやが戻れる札の横に、小さな補助紐をつける案を出した。


「小雨札の短紐とは違って、これは担架役の角度から見える細紐。馬影で札が隠れた時、紐だけ少し見えるようにする」


 喜八が見た。


「紐なら怖くないです」


 藤七が担架役の角度から見る。


「曲がる目印にはなります」


 太助が水場から見る。


「水場からはあまり目立ちません」


 源太も確認する。


「馬は気にしない」


 採用された。


 戻れる札は、札本体と補助紐、そして声の三つで支えることになった。


 午後の再試験では、馬水枝がわざと動く中で負傷者役を出した。


 今度も一度、戻れる札が人影に隠れた。


 太助が水場から叫ぶ。


「札影!」


 きぬがすぐ返す。


「戻れる場所、こちら!」


 担架役の藤七は補助紐を見て、手前から曲がる。


 寅吉が足を合わせる。


 担架は大きく揺れない。


 喜八は見ていた。


 顔は固いが、逃げない。


「今のは、見えました」


 短い一言。


 だが、きぬには十分だった。


 弥助殿は頷いた。


「よい。次へ」


 次へ。


 試験は止まらない。


 戻れる札の問題が七分ほど見えたところで、次は最後尾の声が届かなくなる。


 それを、場はまだ知らない。


 夕方前の一息で、報告をまとめた。


 戻れる札は、同時崩れの場では馬影・人影で見えなくなる。

 高くすると見えすぎ、手当飯場が見せ場になる。

 低くすると担架役が迷い、担架が揺れる。

 札は曲がるため。声は入るため。

 「戻れる場所、こちら」の声が有効。

 馬水・水場側から札が隠れた時は「札影」と短く知らせる。

 戻れる札に補助紐をつけ、担架役の角度からだけ見えやすくする。

 手当飯場は、見せ場ではなく戻れる場所。

 同時試験では、札だけでなく声と影の知らせが必要。


 権六が筆を置き、言った。


「今日の文句は、欲張りだったな」


 喜八が苦笑する。


「見せるな。でも見せてくれ、ですからね」


 きぬは首を横に振った。


「欲張りではありません。手当飯場には必要なことです」


 太助が頷いた。


「水場も似てます。見えないと困る。でも見えすぎると焦る」


 半三が槍を見て言う。


「槍戻し受けもそうだ。出ている時は見えろ。出ていない時は邪魔になるな」


 佐助が飯場で言った。


「飯も、必要な時に出る。出すぎれば場を食います」


 全部、同じだった。


 見えることと、見せすぎることは違う。


 隠すことと、圧を減らすことも違う。


 同時崩れ大試験は、その違いを一つずつ突きつけてくる。


 夜、清洲蔵では手当飯と支え飯が少しずつ出た。


 喜八は手当飯を食べながら、戻れる札の補助紐を指で触っていた。


「これ、紐だけだと怖くないですね」


 きぬが微笑む。


「札が見えない時の、手がかりです」


 藤七が支え飯を食べながら言う。


「札で曲がって、声で入る。明日は忘れないようにします」


 権六が茶を飲みながら言った。


「今日の飯は、見えない札の味だな」


 太助が聞く。


「どんな味ですか」


「食いながら探す味だ」


 佐助が苦笑した。


「食べにくそうですね」


「でも、見つけたら腹に落ちる」


 きぬは戻れる札を布で包んだ。


 見えすぎても、見えなさすぎても駄目。


 それは、飯場にも、水場にも、槍にも、戻し飯にも通じる言葉だった。


 同時崩れ大試験は、まだ折れていない。


 だが、次の崩れは、もうすぐそこに来ていた。

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