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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百四十九話 槍戻し受け、出すのが一拍遅れる

 小雨札と馬水が同時に鳴った後、試験場には妙な熱が残っていた。


 誰かが大声で怒鳴り続けたわけではない。

 誰かが倒れたわけでもない。

 飯列が完全に割れたわけでもない。


 だが、場のあちこちに、さっきの揺れが残っていた。


 小雨札の短紐は、かやが角度を変えて直したばかりだ。

 馬水枝は半歩外へ逃がしたまま。

 人水桶の縦取っ手は、少し戻りが遅い。

 藤七はまだ足に勢いが残っている。

 庄助は最後尾で小丸包みを噛みながら、声を整えている。


 折れてはいない。


 だが、折れていないだけだった。


 俺は飯場の芯から、その場全体を見ていた。


 芯と枝。


 昨日までなら、図の上では分かっていた。


 けれど実際に動くと、枝は線ではない。


 人がいて、馬がいて、槍があって、声があって、腹がある。


 小雨札と馬水が同時に来ただけで、場はあれほど揺れた。


 次は何が重なるのか。


 そう思った時、半三が槍整え枝の中で低く言った。


「槍、戻すぞ」


 それは、槍列へ向けた声だった。


 小雨札が出ている。

 足元はまだ濡れていないが、腹はすでに雨へ向いている。

 槍尻を見る必要がある。


 そして、先ほどの馬水の動きで、槍列の前にいた若い兵が少し余計に力を使っていた。


 槍戻し受けを使う頃合いだった。


 槍戻し受け。


 場に置けば邪魔になる。

 折りたたみは不安定。

 だから、槍列中受け役が持ち運び、必要な時だけ出す。


 その仕組みは、昨日どうにか七分まで来た。


 だが、今日は同時崩れ大試験だ。


 飯場の芯が動き、水場枝が動き、馬水枝が半歩外へ逃げ、小雨札が寝ている。


 その中で、槍列中受け役の若い兵――久助が、槍戻し受けを握っていた。


 久助は真面目な男だった。


 言われたことは覚えている。


 槍角度で合図。

 短く「受け出す」。

 槍戻し受けを足元へ出す。

 使い終えたら「受け戻す」。

 場に残さない。


 何度も繰り返した。


 だが、今は周囲の声が多い。


「人水、縦取っ手戻します」


「馬水、横棒戻し」


「小雨、泥見る」


「早足、次待ち!」


「最後尾、小丸あり!」


 声が重なっている。


 久助の目が、一瞬だけ水場へ流れた。


 太助が人水桶の取っ手を戻す動きが見えたのだろう。


 その一拍。


 たった一拍。


 槍戻し受けを出す手が遅れた。


「遅い」


 半三の声が落ちた。


 怒鳴りではない。


 だが、冷えた声だった。


 槍列の前が詰まる。


 槍尻を預けるはずだった若い兵が、腕で支えたまま止まる。


 腕が固くなる。


 槍先がわずかに揺れる。


 その揺れを避けようとして、後ろの兵が半歩下がる。


 半歩。


 また半歩だ。


 後ろが下がったことで、槍整え枝の尻が早足横渡し枝へ近づいた。


「通ります!」


 藤七の声。


 藤七は、ちょうど飯場の芯から早足用の小包みを受け取って戻るところだった。


 小雨札が出ているため、足元への注意でいつもより少し内側を走っている。


 そこへ、槍列の半歩が出た。


「藤七、待て!」


 太助が水場から叫んだ。


「待つと遅れます!」


 藤七はそう返したが、前に槍が見えたので足を止めかける。


 止まる足と、走る勢いが喧嘩した。


 草履が土を擦る。


 槍列の若い兵が、さらに槍尻を引く。


 半三が声を低くした。


「槍、動かすな」


 藤七が苛立つ。


「動かしてるじゃないですか!」


「動かすなと言っている」


「こっちは走ってるんです!」


「こっちは槍だ!」


 声が尖る。


 場の空気が一気に硬くなった。


 権六が筆を構えたまま、しかし書く手を止めている。


 これは文句として拾う前に、場が折れかける音だった。


 久助が慌てて槍戻し受けを出そうとする。


 だが、慌てたせいで、受けの向きが少し斜めになった。


 半三がそれを見て、さらに低く言う。


「それでは乗せられん」


 久助の顔が白くなる。


「すみません」


「謝るな。直せ」


 半三の言葉は厳しいが、正しい。


 謝っている時間がない。


 久助は受けを置き直す。


 その間にも藤七が止まり、早足横渡し枝が詰まる。


 飯場の芯で佐助が気づいた。


「芯、細くします」


 進む飯の配りを一時細くする。


 だが、芯を細くしたことで、飯場の前にいた庄助が最後尾へ声を飛ばしにくくなる。


「最後尾、声届くか!」


 弥平が中央から言う。


 庄助が返す。


「届く! でも槍で見えん!」


 戻し飯の最後尾にも影響が出た。


 槍列の半歩は、早足を止め、水場を緊張させ、飯場の芯を細くし、最後尾の視界まで食った。


 槍は米を食わない。


 だが、場を食う。


 俺は思わず、小さく息を吸った。


 弥助殿はまだ止めない。


 見ている。


 折れる前か、折れた後か。


 その境を見ている。


 太助が水場から声を出した。


「水場、今動かしません!」


 源太が馬水枝から頷く。


「馬水、待つ。馬は悪くない」


 太助が返す。


「ありがとうございます!」


 水場枝が止まった。


 馬水枝も待った。


 それで、場の声が少し減った。


 かやが槍整え枝へ走り寄る。


「久助、受けを出す場所、短縄の内側!」


「はい!」


「向きは飯場じゃなく、槍列に合わせて!」


「はい!」


 半三が槍角度を少し立てた。


「槍、待ち」


 槍列全体が半歩待つ。


 藤七が顔をしかめる。


「今ですか?」


 半三が返す。


「今だ。槍を整えなければ、おまえも通れん」


 藤七は歯を食いしばり、足を止めた。


 だが今度は、完全に止まった。


 中途半端に走りながら止まるのではない。


 権六がすぐ言う。


「藤七、今のはいい止まり方だ」


「褒めるなら後で!」


「七分半」


「採点も後で!」


 このやり取りで、ほんの少しだけ場の腹が緩んだ。


 久助が槍戻し受けを正しく出す。


「受け出す」


 短い声。


 槍尻が乗る。


 半三が確認する。


「よし」


 槍を一息だけ戻す。


 手は離さない。


 槍先の揺れが収まる。


「受け戻す」


 久助が受けを拾う。


 場に残さない。


 藤七が通る。


「早足、通ります!」


「通せ」


 半三が答える。


 藤七が走り抜ける。


 今度は槍に近づきすぎない。


 水場も動かない。


 飯場の芯は細いままだが、折れていない。


 場が、かろうじて戻った。


 弥助殿が手を上げた。


「一息」


 全員が止まった。


 久助は槍戻し受けを握ったまま、肩で息をしていた。


 半三は彼を見た。


「遅れたな」


「はい」


「なぜだ」


 久助は少し迷った。


 怒られるのが怖い顔だった。


 だが、ここで黙れば文句が腐る。


 権六が静かに言った。


「言え。言ったほうが直る」


 久助は頷き、口を開いた。


「水場を見ました」


「なぜ」


「太助さんの声が聞こえて、人水の取っ手が動いたので……そちらを見てしまいました」


 太助が水場で顔を上げる。


「俺の声ですか」


「はい。水場も大事だと思って」


 久助は必死に言った。


「槍だけ見ていればいいのは分かってます。でも、同時に動いていると、どこかが荒れたら見ないといけない気がしました」


 それは、責めにくい言葉だった。


 自分の役だけ見ていろ。


 小規模試験ならそう言えた。


 だが、同時崩れでは、周囲が荒れる。


 見ないと危ない。


 でも見すぎると、自分の役が遅れる。


 半三はしばらく黙ってから言った。


「槍列中受け役は、水場を見るな」


 久助の顔が固くなる。


 だが半三は続けた。


「見る者を別に置く。おまえは槍を見る」


 かやがすぐ反応した。


「槍列にも外を見る者が要る?」


「槍列の外を見る者と、槍戻し受けを出す者を同じにするな」


 半三は、はっきり言った。


「中受け役に、外まで見せると遅れる」


 伊三郎が書く。


 槍列中受け役、外を見ると一拍遅れる。外を見る役と受けを出す役を分ける必要。


 権六が唸る。


「また役が増えるな」


 かやが困った顔で言う。


「増やしすぎると森になる」


 太助が水場から言った。


「でも、水場でも同じです。俺が全部見ると詰まります。人水、馬水、非常水、味噌水、全部一人で見たら溺れる」


 きぬも手当戻り枝から言う。


「手当飯場も、飯を見る人と布を見る人は分けました」


 佐助が飯場から頷く。


「飯場の芯も、飯を出す役と文句を拾う役を分けています」


 なら、槍列もそうなる。


 槍戻し受けを出す役。

 外の枝を見る役。


 同じ槍列の中に、二つの目が必要になる。


 半三は少し苦い顔をした。


「槍列外目役」


 権六がすぐ笑った。


「名前が硬いな」


「笑うな」


「でも分かる」


 かやが小さな札を取った。


「外目役は、槍列の端にいる。水場や早足が近づいた時だけ、短く知らせる。中受け役は、それを聞いても外を見ない」


「声が増える」


 藤七が言った。


 かやは頷く。


「だから短い声にする。『水近い』『早足近い』くらい」


 太助が言う。


「水場からも、槍へ言う時は『槍、水近い』でいいですか」


 半三は頷いた。


「長い声はいらん。水近いで分かる」


 作兵衛が低く言う。


「槍列は、槍を見る。外は外目役が見る。役を分けろ」


 弥助殿が頷いた。


「よい」


 また一つ、形が生まれた。


 しかし、かやはまだ槍戻し受けを見ていた。


「出す時を場全体へ知らせる必要もあります」


 半三が眉を寄せる。


「さっき、藤七が近づいた。受けが出る時に、早足が知らないと危ない」


「声だけでは足りない」


 かやは短縄を指した。


 槍戻し受けが出る範囲を示す短縄。


 これまで、短縄はただの目印だった。


「受けを出す時、短縄の位置を少し起こす」


「起こす?」


「普段は寝かせておく。受けを出す時だけ、中受け役が足で短縄を少し立てる。早足や水場からも、あそこに出ると分かる」


 藤七が見に来る。


「走っている時に見えますかね」


 かやが試す。


 短縄の端に小さな木片をつけ、踏むと少し立つ。


 派手ではない。


 だが、地面にただ寝ている時より、少し目に入る。


 藤七が早足枝から見て言った。


「これなら、近づいたら分かります」


 太助も水桶を持って見る。


「低すぎる木片よりは見えます。縄が起きてるなら、そこに受けが出ると分かる」


 半三が試す。


 槍角度で合図。

 足で短縄を起こす。

 「受け出す」。

 槍戻し受けを出す。

 槍尻を一息乗せる。

 「受け戻す」。

 受けを拾い、短縄を戻す。


 少し手順が増える。


 だが、場への知らせが増えた。


 声だけではない。


 槍角度。

 短縄。

 短声。


 三つで知らせる。


 権六が書く。


 槍戻し受け、出す時を場へ知らせる。槍角度+短縄起こし+短声。


 藤七が言う。


「これなら、俺も突っ込まずに済みます」


 半三が返す。


「最初から突っ込むな」


「早足なんで」


「理由になってない」


「役です」


 言い合いはしたが、さっきほど尖っていなかった。


 久助は槍戻し受けをもう一度持った。


 外目役には、別の槍持ちが立つ。


 水場が近づく。


「水近い」


 外目役が言う。


 久助は水場を見ない。


 槍を見る。


 半三が頷く。


 早足が近づく。


「早足近い」


 久助は槍角度を見たまま、まだ受けを出さない。


 必要な時だけ、出す。


 今度は遅れない。


 試験は再開された。


 場はまた動く。


 小雨札は寝ている。

 馬水は今は静か。

 水場は人水を細く動かす。

 飯場の芯は少しずつ太さを戻す。

 槍列は外目役と中受け役を分け、槍戻し受けを出す。

 藤七は横渡し枝を走る。


 一度、早足と槍戻し受けの出る時が近づいた。


 外目役が言う。


「早足近い」


 久助は槍を見たまま待つ。


 藤七が通る。


 その後で、短縄を起こし、受けを出す。


 半三が槍尻を乗せる。


「よし」


 今度は、通った。


 完全ではない。


 動きはまだ硬い。


 だが、一拍の遅れで折れかけた場が、少し戻った。


 弥助殿はその様子を見て、ようやく頷いた。


「一拍は小さい。だが、場では大きい」


 伊三郎が書いた。


 一拍の遅れは、枝を越えて場を食う。


 夕方の報告では、半三が珍しく自分から前へ出た。


「槍戻し受けは、持てばよいだけではありません。出す時を場へ知らせる必要があります。中受け役が外を見ると遅れるため、外目役を分けます。水場や早足が近い時は、短く知らせます」


 かやが続けた。


「短縄は、出る範囲を示すだけでなく、受けを出す時に少し起こして場へ知らせます。槍角度、短縄、短声を合わせます」


 藤七が少し不満そうに、しかし認めるように言った。


「それなら早足も避けられます。出すなら出すと分かれば」


 太助も頷いた。


「水場も同じです。低い道具が突然出ると怖いですが、短縄が起きれば分かります」


 弥助殿は短く言った。


「よい。次は、戻れる札だ」


 喜八の顔が、また少し固くなった。


 きぬは戻れる札を見た。


 同時崩れの場で、本当に見えるのか。


 次の試験は、それを見ることになる。


 夜、清洲蔵では、槍中受け役用の小飯が少しだけ改良されて出た。


 佐助が久助に渡す。


「今日は疲れたでしょう」


 久助は深く頭を下げた。


「遅れてすみませんでした」


 半三が横から言う。


「謝るな。明日直せ」


 久助は顔を上げる。


「はい」


 権六が飯を食べながら言った。


「今日の飯は、一拍遅れの味だな」


 藤七が笑う。


「苦そうですね」


「苦い。でも、飲み込めば覚える」


 かやが槍戻し受けを見ながら言った。


「一拍って、怖いね」


 太助が頷いた。


「水場でも、一拍遅れると桶が重くなります」


 きぬが静かに言った。


「手当飯場でも、一拍遅れると不安になります」


 同時崩れ大試験は、まだ続く。


 小さな遅れが、場全体へ広がる。


 一拍。


 たったそれだけで、飯線は折れかける。


 だが、見えたなら直せる。

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