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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百四十八話 小雨札と馬水、同時に来る

 一息の後、試験場の空気は少しだけ変わっていた。


 最初の半刻のような、妙に整った静けさはもうない。


 飯場の芯には人の熱がある。

 水場枝には桶の重さがある。

 馬水別枝には馬の鼻息がある。

 槍整え枝には槍尻の緊張がある。

 手当戻り枝には戻れる札が立ち、最後尾には庄助が小丸包みを腰に差している。


 崩れてはいない。


 だが、崩れかけた場所が、いくつも残っていた。


 水場枝の小縄は半歩外へ動いたまま。

 槍列中受け役は槍戻し受けを握り直している。

 戻れる札は、さっき高さを変えたせいで、まだ少し角度が定まっていない。

 飯場の芯は細くしたままだ。


 どれも応急の形だった。


 折れてはいない。


 ただし、完全に戻ったわけでもない。


 弥助殿はそれを見ていた。


 止めない。


 直しきる時間も与えない。


 本番なら、そうだからだ。


「続けろ」


 その一言で、試験が再び動いた。


 佐助が飯場の芯で声を出す。


「進む飯、芯へ」


 飯列が動く。


 権六は横で文句腹帳を開いたまま、筆先を湿らせている。


 伊三郎は、今日拾うべき根だけを書いた札を帳面に挟み、顔を上げて場を見ていた。


 折れる前の崩れ方を見る。


 その一文が、伊三郎の目を支えている。


 太助は水場枝で、人水桶の縦取っ手を確かめていた。


 人水。

 味噌水。

 馬水。

 非常水。


 昨日までは、ただ種類を覚えるだけでも精一杯だった。


 今日は、それらが同時に鳴る。


 太助は自分の胸を一度押さえた。


「水場、落ち着いて」


 小さく自分に言ったのが、近くにいた俺にも聞こえた。


 その時だった。


 かやが飯場の端で、空を見た。


 風が少し変わっていた。


 雨は降っていない。


 だが、さっきまでより風が重い。


 軒下に干してあった布の端が、わずかに湿り気を帯びたように見える。


 かやは迷わなかった。


 小雨札を、飯場の芯の端に寝かせた。


 短紐が、すっと伸びる。


「小雨札」


 声は大きくない。


 場を止める声ではない。


 飯場へ囁く声。


 それでも、聞こえる者には聞こえた。


 佐助はすぐ雨天飯の包みを一段手前へ出す。


 きぬは手当飯場で布の折り印を見る。


 半三が槍列へ低く言う。


「小雨、槍尻」


 太助も水場で声を出した。


「小雨、泥」


 まだ泥はない。


 でも、足元を見る。


 濡れる前に腹を変える。


 藤七は早足横渡し枝で、少しだけ顔をしかめた。


「まだ降ってませんよ」


 権六がすかさず言う。


「早すぎる文句、出た」


「文句じゃなくて事実です」


「事実の顔をした文句だ」


 藤七は言い返そうとしたが、ちょうどその時、馬水別枝で馬が強く鼻を鳴らした。


 源太の顔が変わる。


「馬水」


 横棒取っ手が前へ倒される。


 馬が水を欲しがっていた。


 さっきまで待っていた分、首を伸ばし、足を一歩前へ出す。


 小雨札が出た直後だった。


 太助の目が、札と馬水を行き来する。


 小雨、泥。

 馬水。

 人水はまだ動いている。

 飯場の芯も細いまま動いている。

 早足の藤七は、横渡し枝から次の合図を待っている。


 二つの枝が、同時に鳴った。


 太助は一瞬だけ固まった。


 その一瞬で、馬がもう一歩出る。


 人水の若い人足が半歩下がる。


 藤七がそれを見て、横渡し枝を抜けようとした。


「早足、通ります!」


「まだ!」


 太助の声が少し上ずった。


 藤七は足を止めかけたが、勢いが残る。


 水場枝の近くを走り抜けそうになる。


 源太が怒鳴りかけた。


「馬を——」


 その声が荒れる前に、太助が叫んだ。


「馬が悪いんじゃない!」


 場が一瞬止まる。


 太助は続けた。


「今は、小雨と馬水、二つの枝が同時に鳴ったんです!」


 源太の口が止まった。


 藤七も足を止めた。


 水場の人足も、馬を見たまま固まる。


 太助は息を吸い、声を短くした。


「馬水、半歩外。人水、取っ手寝かせ。早足、焦るな」


 藤七が反射的に言い返す。


「またそれ!」


「今は本当に焦るな!」


 太助の声は強かったが、怒鳴りではなかった。


 藤七は舌打ちしながらも、半歩だけ足を引いた。


 源太は馬の首を押さえ、馬水枝を半歩外へ逃がす。


「馬水、外へ」


 人水桶の縦取っ手が寝かされる。


 人水は一時止まる。


 ただし、非常水ではないので、強い「止まれ」は使わない。


 太助は水場枝の小縄を足で少し動かした。


「人水、細く。馬水、先に通す」


 若い人足が不満そうに言う。


「人水が後回しですか」


 太助はすぐ返す。


「後回しじゃありません。今は馬水枝が鳴っています。人水は寝かせて待つだけです」


 源太が馬を水へ入れながら、太助を見る。


「馬を悪者にしなかったな」


「悪者にしたら、文句が増えます」


「道が悪い?」


「今日は、枝が同時に鳴ったのが悪いです」


 源太は少しだけ笑った。


「それなら直せる」


 権六が遠くで頷いている。


 伊三郎の筆が動く。


 小雨札直後、馬水枝が同時に鳴る。

 太助返し――馬が悪いのではなく、二つの枝が同時に鳴った。


 だが、これで終わりではなかった。


 小雨札が出た以上、各枝が自分の確認を始める。


 槍列は槍尻を見る。

 手当飯場は布を見る。

 水場は泥を見る。

 馬水は馬足を見る。


 確認の動作そのものが、わずかな遅れを生む。


 そこへ馬水が入ったため、遅れが重なった。


 飯場の芯で、佐助が声を出す。


「芯、細く維持!」


 進む飯を出す数を減らす。


 その代わり、戻し飯の丸包みを少し手前へ置く。


 庄助が最後尾で反応した。


「最後尾、小丸あります!」


 弥平が中央から声を飛ばす。


「食えよ、庄助。声が割れる前に」


「分かってる!」


 庄助は小丸包みを一口食べる。


 その間に、前方の兵が不満そうに言った。


「後ろは飯があるのに、こっちは待ちか」


 権六が拾う。


「前方、後回し不安」


 弥平がすぐ返した。


「最後尾が声を出せないと、前も戻れねえぞ」


 前方の兵は黙った。


 以前なら弥平自身が笑っていたはずだ。


 今は、戻し飯の意味を返す側にいる。


 その変化が、場を少し支えた。


 小雨札と馬水の同時鳴りは、水場だけで終わらなかった。


 藤七が早足横渡し枝で足踏みをしている。


「早足、まだですか」


「まだ」


 太助が言う。


「水場近いです」


「分かってます。でも遅い」


「遅いのは見えています。水場を横切ると飯列が割れます」


 藤七は不満そうに歯を食いしばった。


「早足なのに、待つことばかりだ」


 権六が遠くから言う。


「それ、昨日も聞いた」


「今日も言います!」


 半三が槍整え枝から低く言った。


「早足が今走ると、槍が揺れる」


「じゃあ、全部俺が悪いみたいじゃないですか」


 藤七の声が少し荒くなる。


 太助はすぐ言った。


「藤七さんが悪いんじゃありません。早足枝が鳴る時と、水場枝が鳴る時が重なったんです」


 藤七が太助を見る。


 その顔が少し驚いていた。


「俺も、枝ですか」


「はい。早足枝です」


「……なら、俺も悪者じゃない?」


「悪者じゃありません。重なっただけです」


 かやがそれを聞いて、はっとした顔をした。


「枝が同時に鳴る。これ、札がいるかも」


「札を増やすな」


 権六が反射で言う。


「札じゃなくて、考え方。枝が同時に鳴った時は、どちらを止めるかじゃなく、芯を細くする」


 佐助が飯場で頷いた。


「今、芯を細くしています」


「そう。枝同士を喧嘩させないために、芯を一時細くする」


 伊三郎が書く。


 枝同時鳴り――枝同士を裁く前に、飯場の芯を細くする。


 弥助殿の目が少し動いた。


 場は騒がしい。


 だが、言葉が生まれている。


 折れる前の崩れ方が、形になりつつある。


 源太は馬に水を飲ませながら、太助に言った。


「馬水、終わる」


 太助が返す。


「馬水、横棒戻し。人水、縦取っ手立てます」


 人水が再開する。


 藤七がようやく走る。


 その時、半三が槍列へ声を出す。


「槍、待ちすぎるな。早足通す」


 槍列は半歩待つ。


 藤七が通る。


 水場枝の近くを抜けるが、さっきより危なくない。


 藤七は走り抜けながら言った。


「遅いけど、通れた!」


 太助が返す。


「通れれば七分!」


「採点返すな!」


 権六が笑った。


 しかし、笑っていられるのは一瞬だった。


 小雨札の短紐が、誰かの草履に引っかかりかけた。


 寅吉が荷箱小枝から箱を出した時だった。


 短紐は短くしたはずだが、同時に場が動くと、足の数が増える。


 寅吉はすぐ足を止めた。


「小雨紐、踏みそうです」


 かやが駆け寄る。


「短くしたのに」


「短いけど、芯が細くなったから通る場所が寄っています」


 太助が水場から見て言った。


「芯を細くすると、足が紐へ寄るんですね」


 佐助が悔しそうに言う。


「芯を細くすれば安全というわけではない……」


 かやは小雨札の紐を少し斜めへ逃がした。


「小雨紐は、芯を細くした時の足元も考える」


 伊三郎が書く。


 小雨短紐、芯細り時に踏まれやすい。紐逃がし角度必要。


 同時に動かすと、前に解決したはずのものが、別の形で戻ってくる。


 小雨札は強すぎると文句が出る。

 弱すぎると見落とす。

 短紐で解決した。

 だが、芯を細くすると、その短紐が足元の邪魔になる。


 解決は、次の問題の種になる。


 権六がそれを言うと、佐助が頷いた。


「飯も同じです。持ちやすくすると、食べにくくなる。食べやすくすると、崩れやすくなる」


 きぬが手当戻り枝から言った。


「見えやすくすると、見えすぎる。隠すと、見つからない」


 半三が槍を持ち直す。


「支えると、置き場になる。持たせると、人を食う」


 太助が水場で言う。


「馬を避けると、飯列へ寄る。水を止めると、桶が重い」


 皆が、自分の枝の悩みを言葉にした。


 それを聞きながら、俺は思った。


 これが同時崩れなのだ。


 問題が一つずつ来るのではない。


 解決も一つずつでは済まない。


 枝同士が鳴り、芯が細り、別の紐が足にかかる。


 弥助殿が手を上げた。


「一息」


 場が止まる。


 今回は、前より空気が荒れていた。


 太助は水場枝で膝に手をついている。


 藤七は息を切らしている。


 源太は馬の首を撫でている。


 佐助は飯箱の前で額の汗を拭う。


 かやは小雨紐を直し、半三は槍戻し受けを握り直す。


 権六は文句腹帳を閉じず、筆を置いただけだった。


「どうだった」


 弥助殿が聞く。


 太助が最初に答えた。


「水場だけじゃ無理です。小雨札と馬水が同時に来ると、水場の中だけで判断しても間に合いません。飯場の芯を細くする声が要ります」


 佐助が頷く。


「芯を細くしましたが、小雨紐の足元が危なくなりました」


 かやが続ける。


「小雨札は、芯が太い時と細い時で紐の角度を変える必要があります」


 源太が言う。


「馬水は、馬が悪いと言われる前に、枝が鳴ったと返すのがよい。馬を悪者にしない」


 藤七が少し不満げに言った。


「早足も悪者にしないでください。早く走るのが役なので」


 太助が頷いた。


「早足枝も鳴っただけです」


 権六が大きく頷く。


「今日の根だな」


 伊三郎が書いた。


 枝は悪者ではない。

 同時に鳴るから崩れる。

 芯を細くし、枝を裁く。


 弥助殿はそれを見て、短く言った。


「よい」


 まだ試験は続く。


 小雨札と馬水の同時鳴りは、場を折らなかった。


 だが、明らかに揺らした。


 次は、槍戻し受けが一拍遅れる。


 その時、今日よりさらに場は詰まる。


 まだ誰も知らないが、清洲蔵の者たちの腹は、すでにそれを予感していた。

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