第百四十七話 同時崩れ大試験、開始
朝の清洲蔵は、いつもより早く目を覚ました。
いや、眠っていなかった者も多かったのかもしれない。
佐助は飯箱の蓋を開ける前から、包みの列を三度も数え直していた。
進む飯。
戻し飯。
雨天飯。
手当飯。
支え飯。
最後尾用小丸包み。
槍列中受け役用の小飯。
昨日までは、それぞれ別の顔をしていた。
今日は、全部が同じ場で動く。
飯場の芯に佐助が立ち、水場枝には太助、馬水別枝には源太、槍整え枝には半三、早足横渡し枝には藤七、手当戻り枝にはきぬ、戻し飯の最後尾には庄助と弥平がいる。
権六は飯場の少し横。
文句腹帳を抱えたまま、いつになく静かな顔をしていた。
「嵐の前だな」
太助が水場枝から言う。
「水場文句役が最初に縁起でもないことを言うな」
権六が返す。
「権六さんが言いそうだったので、先に言いました」
「成長したな」
「嬉しくないです」
それでも、太助の声は少し落ち着いていた。
昨日の夜よりは、腹が据わっている。
伊三郎は、帳面を一冊だけ手にしていた。
全部の帳面は持たない。
美濃前哨飯線帳の中に、今日拾うべき言葉だけを書いた札を挟んでいる。
折れる前の崩れ方を見る。
その一文が、今日の柱だった。
弥助殿が庭の中央に立った。
信長様はいない。
だが、信長様の言葉は場にある。
崩れ方を知る軍は、折れる前に戻れる。
俺はその言葉を胸の奥で繰り返した。
弥助殿が低く言う。
「始めろ」
その一言で、同時崩れ大試験が始まった。
最初に動いたのは、飯場の芯だった。
佐助が進む飯を出す。
「進む飯、芯へ」
声は短い。
飯箱は二つ。
進む飯箱と、戻し飯の丸包み箱。
雨天飯はまだ奥。小雨札も出ていない。
手当飯場は斜め後ろに控え、戻れる札はまだ眠っている。
太助が水場枝で人水桶の縦取っ手を立てた。
「人水」
若い人足が水を取る。
源太は馬水枝で馬をまだ動かさない。
横棒取っ手は寝ている。
半三たち槍持ちは、槍整え枝で角度を揃えた。
槍列中受け役は、槍戻し受けを手に持っている。
藤七は早足横渡し枝に立つが、まだ走らない。
庄助は最後尾用小丸包みを腰へ差し、少し緊張した顔で後ろを見ている。
一つずつなら見慣れた動き。
それが同時に動いている。
最初の半刻は、意外なほど順調だった。
飯列は乱れない。
水列も飯場を横切らない。
馬水も動かない。
槍列は慎重に一歩ずつ進み、早足は呼ばれるまで待っている。
手当飯場も静かだ。
戻し飯の最後尾も、まだ声を張る必要がない。
誰もが少しほっとしかけた。
だが、弥助殿の顔は変わらなかった。
権六が小声で言った。
「順調すぎるな」
俺も同じことを思っていた。
順調なのではない。
皆が慎重すぎるのだ。
怖がっている。
失敗しないように、足を遅くしている。
水桶を持つ者は慎重に置き、槍持ちは慎重に待ち、藤七でさえ走らない。
それは試験としては悪くない。
けれど、本番ではこうならない。
雨が来る。
馬が急ぐ。
槍が揺れる。
人が焦る。
誰かが文句を言う。
飯場が声を増やす。
今の場は、崩れていないのではない。
崩れないように縮こまっているだけだ。
藤七が、ついに我慢できずに言った。
「これ、本番じゃないです」
権六が顔を向ける。
「どういう意味だ」
「みんな慎重すぎます。俺も走ってない。水場も丁寧すぎる。槍列も遅い。これだと、崩れない代わりに、進みません」
半三が藤七を見る。
「慎重なのは悪いことではない」
「でも、美濃でこんなゆっくり飯を受け取れますか」
半三は黙った。
藤七は続けた。
「早足が早足じゃない。槍列が動いてるんじゃなくて、止まらないように固まってる。これで成功しても、本番で崩れます」
空気が少し尖った。
だが、誰も藤七を責めなかった。
言っていることは正しい。
太助が水場枝で頷いた。
「水場も同じです。みんな、俺を見てから動いてます。本番だと、水を待ってる人はもっと勝手に来ると思います」
源太も馬水枝から言った。
「馬も今は待たせている。本番なら、水を欲しがれば前へ出る」
きぬが手当戻り枝から静かに言う。
「手当飯場も、まだ誰も痛んでいません」
戻れる札は、眠ったままだ。
弥助殿が、ようやく口を開いた。
「なら、少し崩せ」
庭の空気が止まった。
太助が目を丸くする。
「崩すんですか」
「崩れ方を見る試験だ」
弥助殿は言った。
「慎重すぎて崩れぬ場は、本番の役に立たん」
藤七は少し緊張した顔で頷いた。
自分で言い出した以上、逃げられない。
弥助殿は作兵衛へ目を向けた。
「順を変えろ」
「承知」
作兵衛が短く答えた。
次の刻から、場は少しずつ崩され始めた。
まず、飯場の芯に人が増えた。
進む飯を受け取る者が二人続く。
そこへ早足の藤七が横渡し枝から呼ばれる。
「早足、渡し」
藤七が走る。
慎重だった足が、ようやく本来の速さになる。
飯場の芯へ突っ込まないよう、横渡し枝を曲がる。
だが、曲がり際で水場枝の人足と近づいた。
太助がすぐ声を出す。
「人水、半歩待ち!」
水場の人足が止まる。
止まったせいで、後ろの者が水桶を持ったまま詰まる。
「重い!」
文句が出た。
権六が顔を上げる。
「来たな」
太助は焦りかけたが、すぐ返した。
「水桶重い、見えました。人水枝、半歩だけ外へ」
かやが水場枝の小縄を少し動かす。
飯場の芯は止まらない。
だが、水場枝に少し圧が出た。
次に、槍列。
半三たちが飯場の芯へ入る。
槍整え枝から、槍角度で合図。
中受け役が槍戻し受けを持っている。
そこへ、藤七が戻る。
「早足、戻り!」
「槍、受け!」
声が重なった。
一瞬、どちらが先か分かりにくい。
半三が低く言う。
「槍、半歩待つ」
藤七が走り抜ける。
だが、早足が通った風で、槍列の若い兵が目を逸らした。
槍尻が少し揺れる。
中受け役が、慌てて槍戻し受けを出そうとした。
「まだ早い!」
半三が言う。
受けが出かけて止まる。
止まったことで、後ろの槍持ちが詰まる。
かやが息を呑む。
「槍戻し受け、出しかけも邪魔になる……」
伊三郎が書く。
槍戻し受け、出し切らなくても場を揺らす。
まだ折れてはいない。
だが、崩れ始めた。
弥助殿は止めない。
次に、馬水。
源太が馬水枝で馬を動かす。
「馬水」
横棒取っ手が前へ倒れる。
馬が水へ向かう。
ちょうどその時、人水枝の若い人足が水を取り終え、飯場の芯へ戻ろうとした。
馬の体が近い。
人足が半歩避ける。
その半歩が、飯場の芯へ触れかける。
太助が声を出す。
「馬が悪いんじゃない、馬水の道が近い!」
源太がすぐ返す。
「馬水枝、外へ半歩!」
人足も言う。
「怖いのは馬じゃない、近さです!」
前より早い。
文句が怒鳴りになる前に、形へ戻っている。
権六が文句腹帳を開きながら、少しだけ笑った。
「育ってるな、水場」
「笑ってる場合じゃありません!」
太助が返す。
「七分」
「採点しないでください!」
そこへ、作兵衛が次の声を出した。
「小雨札」
かやが、小雨札を飯場の芯の端へ寝かせた。
短紐が伸びる。
場の空気がまた変わった。
佐助は雨天飯を一段手前へ出す。
きぬは手当布の折り印を見る。
太助は水場で足元を見る。
「小雨、泥」
源太が馬の足元を見る。
「小雨、馬足」
半三が槍列へ言う。
「小雨、槍尻」
藤七が早足枝で一瞬だけ足を緩めた。
権六がにやりとする。
「小雨、焦るな」
「言わないでください、余計に意識します!」
藤七が言い返す。
それでも、走りは乱れていない。
最初の半刻とは違う。
場は動いている。
水場は詰まりかけ、槍列は揺れ、馬水が圧をかけ、小雨札が腹を変えている。
それでも、まだ折れていない。
俺は、その様子を見ながら、胸の奥で小さく息を吐いた。
崩れ始めた。
やっと、本当の試験になってきた。
だが、安心するには早すぎた。
手当戻り枝は、まだ動いていない。
戻し飯の最後尾も、まだ本当の声を出していない。
雨天飯は準備に入っただけ。
槍戻し受けは出しかけて止まっただけ。
馬水も二頭だけ。
この程度で済むはずがない。
弥助殿は、静かに言った。
「負傷者、出せ」
喜八の顔が、少し固くなる。
きぬが戻れる札を見る。
戻れる札は、まだ斜め入口にある。
見えすぎず、見えなさすぎず。
だが、場がこれだけ動いている中で、本当に見えるのか。
作兵衛の声が飛んだ。
「負傷者、出た!」
担架役の寅吉と藤七が動く。
藤七は早足から担架役へ切り替わる。
その切り替えが、少し遅れた。
太助が水場から叫ぶ。
「水場、人水一時細く!」
半三が槍列へ言う。
「槍、待ちすぎるな!」
源太が馬を抑える。
「馬水、半歩外!」
佐助が飯場で声を落とす。
「芯、細くします!」
飯場の芯が、少しだけ細くなる。
進む飯の配りを減らし、戻し飯の丸包みを一つ最後尾へ回す。
庄助が最後尾でそれを受け取る。
「最後尾、小丸!」
弥平が中央から声を出す。
「庄助、飯を食え。声が割れるぞ」
「分かってる!」
庄助は小丸包みを一口食べ、後ろを見る。
担架役が、戻れる札へ向かう。
だが、飯場の芯の人影と馬水枝の動きで、戻れる札が一瞬隠れた。
きぬが声を上げる。
「戻れる札、こちらです!」
札を少し高くする。
喜八が言う。
「高すぎると、見えすぎます!」
きぬはすぐ高さを半分戻す。
「斜めだけ見せます!」
そのやり取りも、場の一部だった。
同時に動くと、ひとつ直すだけでは済まない。
見えるようにすれば、見えすぎる。
隠せば、見えない。
水を止めれば、飯が詰まる。
飯を細くすれば、前方が不安になる。
槍を待たせれば、早足が通る。
早足を通せば、槍が揺れる。
場は、完全に穏やかな試験ではなくなっていた。
弥助殿はまだ止めない。
ただ見ている。
折れる前の崩れ方を。
しばらくして、最初の大きな波が過ぎた。
負傷者役は手当戻り枝へ入り、担架役は支え飯の一息場へ移る。
飯場の芯は細いままだが、動いている。
水場枝は少し詰まったが、割れてはいない。
馬水は外へ逃がした。
槍列は一度詰まったが、止まりきっていない。
最後尾の庄助は、声を出せている。
藤七は肩で息をしながら、苦笑した。
「やっと本番っぽくなってきましたね」
半三が槍を持ち直して言う。
「本番はもっと悪い」
「前夜に言ってくださいよ」
「言ったら眠れなかっただろう」
太助が水場で水を飲み、言った。
「俺は眠れませんでした」
権六が文句腹帳を閉じずに笑った。
「いいぞ。今日の文句は生きてる」
佐助は飯場の芯で、少し汗を拭った。
「慎重すぎる時は、飯が見えませんでした。今は、崩れそうだからこそ、どの飯が必要か見えます」
きぬも戻れる札を直しながら頷いた。
「怖いですが、見えます」
伊三郎は震える筆で書いていた。
同時崩れ大試験、開始。
最初の半刻は順調。ただし慎重すぎ。
藤七指摘――慎重すぎて本番ではない。
弥助殿命――少し崩せ。
水場、馬水、槍列、小雨札、手当戻り、最後尾が順次動く。
場は崩れ始めたが、まだ折れていない。
弥助殿が一度だけ手を上げた。
「一息」
全員が止まる。
完全な休みではない。
一息だ。
槍戻し受けと同じ。
担架役の一息場と同じ。
場全体にも、一息が必要だった。
太助が水場で言う。
「一息も、場に必要なんですね」
権六が返す。
「文句役にもな」
「本当に」
皆が少しだけ笑った。
けれど、笑いは長く続かなかった。
まだ試験は始まったばかりだ。
今のは、崩れの入口。
次は、小雨札と馬水が同時に来る。
それを、まだ誰も知らない。




