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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百四十六話 同時崩れ大試験、開始前夜

 同時崩れ大試験の前夜、清洲蔵は妙に静かだった。


 人が少ないわけではない。


 むしろ多い。


 佐助は飯箱の前にいる。

 かやは道具箱の蓋を開けたまま座っている。

 伊三郎は帳面を三冊も広げている。

 権六は文句腹帳を抱え、太助は水場札の横で桶を見ている。

 きぬは戻れる札と手当飯場の布束を確かめている。


 皆、いる。


 皆、働いている。


 それなのに、蔵の中には、いつもの軽い言い合いが少なかった。


 明日、同時に動かす。


 飯場の芯。

 水場の枝。

 馬水の別枝。

 槍整え枝。

 早足横渡し枝。

 手当戻り枝。

 戻し飯の最後尾。

 小雨札。

 槍戻し受け。

 支え飯。

 列文句役。

 水場文句役。


 ひとつずつなら、見てきた。


 崩れ方も拾ってきた。


 だが、明日はそれらを一つの場で動かす。


 美濃では別々に崩れない。


 同時に崩れる。


 信長様の言葉が、まだ蔵の梁に残っているようだった。


 佐助は、進む飯、戻し飯、雨天飯、手当飯、支え飯、最後尾用戻し飯、槍列中受け役用の小飯を並べていた。


 並べるだけで、飯台が埋まる。


 太助がそれを見て、ぽつりと言った。


「飯、多いですね」


 佐助は手を止めた。


「多いです」


「どれが本命なんですか」


 太助の言葉に、佐助はすぐ答えなかった。


 進む飯を見た。


 戻し飯を見た。


 手当飯を見た。


 雨天飯を見た。


 それから、少し困ったように笑った。


「分からなくなりかけています」


 蔵の空気が、ほんの少し動いた。


 佐助が弱音を吐くのは珍しい。


 権六が文句腹帳を開こうとして、少し迷った。


「書くか?」


 佐助は頷いた。


「書いてください。たぶん、大事です」


 権六は筆を取った。


 佐助、飯の種類が増えすぎて味の芯を見失いかける。


 佐助は続けた。


「最初は、兵の腹を支える飯を考えていました。でも、今は役が増えました。進む飯、戻し飯、雨天飯、手当飯、支え飯、最後尾飯。どれも必要です。でも、増やすほど、飯が飯でなく、札や役の塊に見えてきます」


 きぬが静かに言った。


「飯の顔が、役に隠れるんですね」


「はい」


 佐助は頷いた。


「役は大事です。でも、食べた時に腹へ落ちる飯でなければ意味がありません。明日、それを見失わないか怖いです」


 誰も笑わなかった。


 佐助の不安は、飯係の不安だった。


 役を分けるほど、飯は増える。


 けれど、兵が食べる時には、これは何番目の分類だと考えるわけではない。


 口へ入れる。


 噛む。


 腹に落とす。


 その時に支えにならなければ、どんな帳面も役に立たない。


 俺は佐助へ言った。


「味の芯は、腹を散らさないことではないでしょうか」


 佐助がこちらを見る。


「進む時も、戻る時も、濡れた時も、痛む時も、支える時も。形は違っても、飯の役は腹を散らさないことだと思います」


 佐助は少し黙った。


 それから、進む飯を一つ手に取る。


「腹を散らさない」


「はい」


「それなら、まだ見えます」


 佐助は小さく息を吐いた。


「ありがとうございます」


 今度は、かやが道具箱の前で頭を抱えた。


「こっちは道具が多すぎる」


 権六が筆を構える。


「書くぞ」


「書いて。もう書いて」


 かやは半ば投げやりに言った。


 かや、道具の数に悩む。


 道具箱の中には、ありとあらゆるものが入っていた。


 小雨札。

 短紐。

 戻れる札。

 水場札。

 馬水の横長札。

 味噌水用布印。

 短縄。

 槍戻し受け。

 槍受け用の結び紐。

 荷箱小枝の札。

 早足横渡しの目印。


 かやはひとつずつ取り出しながら言った。


「置きっぱなしにすると場所を食う。持たせると人を食う。減らすと見分けがつかない。増やすと森になる。もう、どれが正しいか分からない」


 昨日、弥助殿が言った言葉がそのまま戻ってきた。


 道具は場に置けば場所を食う。

 人に持たせれば人を食う。


 かやは、その両方に挟まれていた。


 半三が槍戻し受けを手に取った。


「これは必要だ」


「でも、早足には邪魔」


 藤七がすぐ言う。


 今日は前夜なので、試験参加者の一部も蔵に残っていた。


 又八、弥平、半三、藤七、源太、喜八、寅吉。


 皆、明日の大試験のために、自分の役の最終確認をしている。


 半三は藤七を見た。


「場に置かなければ邪魔にならん」


「中受け役が出し忘れたら、列が止まります」


「だから訓練する」


「明日ですよ」


「明日だから、今言ってる」


 また少し尖る。


 だが、以前ほど危なくはない。


 互いに、自分の腹を言葉にしている。


 かやは二人を見て、槍戻し受けを道具箱ではなく、槍列用の小袋へ入れた。


「道具箱から出すものと、役が持つものを分ける。全部を私が抱え込むと、場が遅れる」


「道具にも腹分けが要るな」


 権六が言った。


 伊三郎が顔を上げる。


「道具腹帳を作りますか」


「やめろ。いや、必要か?」


 権六が自分で迷う。


 かやが笑った。


「今夜は増やさないで。明日、帳面が倒れる」


 その伊三郎は、すでに倒れそうだった。


 美濃前哨飯線帳。

 文句腹帳。

 列腹帳。

 水場文句帳の写し。

 手当飯場の布印図。

 芯と枝の配置図。


 帳面が多い。


 伊三郎は、それを一つにまとめようとして、何度も筆を止めていた。


「伊三郎さん」


 太助が声をかける。


「大丈夫ですか」


「大丈夫ではありません」


 即答だった。


 蔵の中に小さな笑いが起きた。


 伊三郎は真面目な顔のまま続けた。


「明日、同時に動くと、どの帳面を開けばいいのか分からなくなります。飯場なら美濃前哨飯線帳。文句なら文句腹帳。列なら列腹帳。水場なら水場文句。手当なら布印図。全部同時に来たら、私の手が足りません」


「伊三郎の手も飯線に食われてるな」


 権六が言う。


「笑い事ではありません」


「笑ってない。半分しか」


「半分笑っています」


 伊三郎は小さくため息をついた。


 そこで、きぬが提案した。


「明日は、全部を書こうとしないほうがよいのではありませんか」


 伊三郎が目を上げる。


「書かない?」


「書かないのではなく、最初に拾うものを決めるんです。全部を同時に書くと、手が止まります」


 権六が頷いた。


「文句腹帳でも同じだ。全部拾うと溺れる。まず根を拾う」


「明日の根は何でしょう」


 伊三郎が聞く。


 蔵の中が静かになる。


 明日の根。


 同時崩れ大試験で、一番拾うべきもの。


 俺は配置図を見た。


 飯場の芯。

 枝。

 枝同士の衝突。

 水場文句。

 小雨札。

 手当飯場。

 戻し飯。

 槍戻し受け。


 多すぎる。


 だが、根はひとつかもしれない。


「折れる前の崩れ方」


 俺が言うと、皆がこちらを見た。


「明日は成功させる試験ではありません。崩れ方を見る試験です。でも、完全に折れたら遅い。折れる前にどこで戻せるかを見るのが根ではないでしょうか」


 伊三郎は、ゆっくり頷いた。


「折れる前の崩れ方」


 筆が動く。


 明日の記録の頭に、それを書いた。


 折れる前の崩れ方を見る。


 それなら、全部の帳面に共通する。


 飯も、道具も、文句も、列も、水も、手当も。


 どこで折れる前に戻せるか。


 それを拾えばいい。


 権六も文句腹帳へ同じ言葉を書いた。


「これなら、明日の文句も拾えるな」


 太助は水場札を見ていた。


 明日、彼は水場文句役として本格的に動く。


 今日までに少し自信がついたように見えたが、前夜になると不安が戻ってきたらしい。


「俺、水場で怒鳴られたら返せますかね」


 源太がすぐ言った。


「怒鳴るなと言われても、水場では怒鳴りたくなる」


「やめてください。前夜に怖いこと言わないでください」


「でも本番はそうだ」


 源太は真面目だった。


「馬が水を欲しがる。人水が詰まる。非常水に手を出そうとする。味噌水と人水を間違える。そうなれば声は荒れる」


 太助は肩を落とす。


「分かってます」


 きぬが言った。


「太助さんは、全部を止めようとしなくていいと思います」


「え?」


「怒鳴りを消すのではなく、怒鳴る前の一言を拾う役です。全部を背負うと、太助さんが先に倒れます」


 手当飯場で見たことだ。


 支える人が先に倒れる。


 文句役も同じだ。


 拾う者が全部を抱え込めば、先に潰れる。


 権六が真面目な顔で頷いた。


「きぬの言う通りだ。太助、文句役は全部解決する役じゃない。文句を見える場所へ置く役だ」


「見える場所へ置く」


「そうだ。水場で揉めたら、おまえが全部裁かなくていい。人水の文句か、馬水の文句か、味噌水の文句か、非常水の文句かを見えるようにする。あとは役の者が直す」


 太助は少しだけ息を吐いた。


「それなら……たぶん、できます」


「たぶんは?」


 権六が聞く。


「文句の入口でしたね」


「よし」


 太助は苦笑した。


 佐助は飯の試食を始めた。


 全員に少しずつ配る。


 進む飯。

 戻し飯。

 雨天飯。

 手当飯。

 支え飯。

 最後尾用小丸包み。

 槍中受け役用の小飯。


 全部を少しずつ。


 腹いっぱいにはしない。


 明日の役を、味で確かめるだけだ。


 藤七は早足用の支え飯を食べて言った。


「これ、走る前ならいいです。でも走った後だと、もう少し水が欲しい」


 太助がすぐ反応する。


「水場に来るなら、飯場の芯を横切らないでください」


「役に入るの早いですね」


 藤七が笑う。


 半三は槍中受け役用の小飯を食べる。


「悪くない。重くない」


 佐助が頷く。


「槍戻し受けを持つ役は、腹を重くしすぎないほうがよいと思いました」


 源太は馬付き用の小渡し飯を見て言った。


「馬水枝で受け取れるならよい。ただし、馬の鼻先で食うな」


「なぜ?」


 太助が聞く。


「馬が欲しがる」


「米を?」


「食わせんが、鼻を寄せる」


 権六が書く。


 馬付き飯、馬の鼻先で食うな。


 弥平は最後尾用小丸包みを食べて、庄助を見る。


「明日、おまえも最後尾やれよ」


 庄助は嫌そうな顔をした。


「またか」


「前にいるだけじゃ分からん」


「分かったよ。七分くらいは」


「明日八分にしろ」


「勝手に上げるな」


 又八が戻し飯を食べながら笑った。


「おまえら、戻し飯で揉めなくなったな」


 弥平が肩をすくめる。


「揉めてる。揉め方が変わっただけだ」


 権六が頷く。


「それでいい。文句は消えなくていい。腐らなければいい」


 夜が深くなる。


 蔵の外は静かだった。


 虫の声が少し聞こえる。


 清洲城の夜は、昼の騒ぎが嘘のように落ち着いている。


 だが、蔵の中にいる俺たちの腹は、落ち着いていなかった。


 明日、崩れる。


 たぶん、うまくいかない。


 馬水が飯列を割るかもしれない。

 槍戻し受けが出遅れるかもしれない。

 小雨札が早すぎると言われるかもしれない。

 手当飯場が見つからないかもしれない。

 水場文句役の太助が先に詰まるかもしれない。

 伊三郎の帳面が倒れるかもしれない。

 佐助の飯が役に隠れるかもしれない。

 かやの道具が森になるかもしれない。

 権六の文句腹帳が文句で溺れるかもしれない。


 それでも、明日やる。


 弥助殿が、蔵の入口に立っていた。


 いつからそこにいたのか分からない。


 全員が、自然とそちらを見る。


「明日崩れれば、明後日直せる」


 弥助殿はそれだけ言った。


 短い。


 けれど、その言葉が、蔵の中の重さを少し動かした。


「明日崩れなければ」


 権六が聞く。


「本番で崩れる」


 弥助殿は即答した。


 誰も笑わなかった。


 でも、怖さの形が変わった。


 崩れることが怖いのではない。


 崩れないまま本番へ行くことが怖いのだ。


 俺は、美濃前哨飯線帳の配置図を見た。


 飯場の芯。


 そこから伸びる枝。


 水場、馬水、槍、手当、早足、戻し。


 その全部が明日、同時に動く。


 そして、たぶん崩れる。


 その崩れ方を見て、折れる前に戻すために、俺たちはこの夜を越える。


 伊三郎が最後に帳面を閉じた。


 完全には閉じない。


 すぐ開けるよう、紐を緩めに結ぶ。


「明日は、折れる前の崩れ方を拾います」


 佐助が飯箱の蓋を閉じた。


「腹を散らさない飯を出します」


 かやが道具箱を閉じた。


「森にしないようにします」


 権六が文句腹帳を抱え直した。


「文句の嵐、来るなら来い」


 太助が水場札を見て、少しだけ笑った。


「水場で溺れないようにします」


 きぬが戻れる札を布で包んだ。


「見せ場ではなく、戻れる場所にします」


 それぞれが、自分の不安に名前をつけた。


 名前をつければ、少しだけ持てる。


 持てれば、明日、場へ出せる。


 清洲蔵の灯が一つ消えた。


 同時崩れ大試験の前夜は、静かに更けていった。

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