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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百四十五話 手当飯場、見えすぎても見えなさすぎても駄目

最後尾用の戻し飯が、列の尻尾を守る飯になった翌朝。


 清洲蔵の庭には、手当飯場が置かれていた。


 飯場の芯から見れば、斜め後ろ。


 水場の枝から見れば、少し離れた横。


 馬水の別枝からは、馬の尻が向かない位置。


 槍整え枝からは、槍先が触れない距離。


 戻し飯場からは、つながりすぎず、離れすぎず。


 昨日までの配置を踏まえれば、そこがよいはずだった。


 だが、実際に布束を並べた瞬間、空気が変わった。


 手当飯。

 受け布。

 拭き布。

 血止め布。

 泥布。

 小水。

 担架役一息場。

 支え飯。


 必要なものを並べれば並べるほど、そこは「何かが起きる場所」に見えた。


 飯場とは違う。


 水場とも違う。


 槍整え枝とも違う。


 手当飯場には、まだ起きていない痛みの影があった。


 喜八が、朝から少し離れて立っていた。


 以前よりは近い。


 手当飯の飯包みは見られる。

 受け布も見られる。

 拭き布も、何とか見られる。


 だが、血止め布の束が見えると、目がほんの少し逃げる。


 きぬはそれを見て、責めなかった。


 ただ、布束の位置を少し変えた。


「見えすぎますね」


 きぬが言った。


 かやが首を傾げる。


「でも、見えないと困るよね」


「はい。困ります」


 きぬは布束を手に取った。


「だから、見えすぎても、見えなさすぎても駄目なんです」


 権六が文句腹帳を開く。


「今日の題だな」


「題ではありません」


 きぬは少し困ったように笑った。


 太助が水場枝から手当飯場を見て言う。


「正面にあると、ずっと目に入りますね」


「怖いか?」


 権六が聞く。


「俺は怖いというより、気になります。水桶を持ってる時に、あそこが目に入りすぎると、足元が疎かになりそうです」


 水場文句役になった太助は、言うことが少し変わってきた。


 ただの「嫌です」ではなく、何がどう困るかを言う。


 伊三郎がすぐ書く。


 手当飯場、正面に見えすぎると他枝の目を奪う。


 半三も槍を持ったまま言った。


「槍列から血止め布が見えすぎると、若い者は槍先を見る目が鈍るかもしれん」


 源太は馬水枝から見て、少し眉を寄せた。


「馬も、布がひらひらしていると気にすることがある」


「馬もですか」


 太助が聞くと、源太は真面目に頷いた。


「馬は、急に動く布を嫌がる」


 かやが慌てて布束の置き方を変える。


「じゃあ、布は風で動かないようにしないと」


「ただ重石を置きすぎると、使う時に遅れる」


 きぬが言った。


 まただ。


 見えすぎても駄目。

 隠しすぎても駄目。

 動きすぎても駄目。

 押さえすぎても遅れる。


 手当飯場は、本当に扱いが難しい。


 弥助殿は、庭の端から見ていた。


「まず、見えすぎる形で動かせ」


 その言葉で、試験が始まった。


 あえて、手当飯場を見えやすく置く。


 飯場の芯からも見える。

 水場枝からも見える。

 槍列からも見える。

 馬水枝からも、少し見える。


 血止め布も、拭き布も、受け布も並べる。


 喜八の顔が固くなった。


 権六がそれを見て、すぐ書く。


 喜八、手当飯場正面配置で顔固まる。


 喜八が苦い顔をする。


「顔まで書かれるんですか」


「顔に出た文句は大事だ」


 権六が答える。


 作兵衛が声を出した。


「負傷者、出た」


 喜八ではなく、今日は別の若い兵が負傷者役になった。


 担架役は寅吉と藤七。


 太助は水場で小水の準備。


 きぬとすえが布役。


 佐助が手当飯。


 試験は進んだ。


 負傷者役が運ばれる。


 手当飯場が見えやすいので、担架役は迷わない。


 そこはよかった。


 だが、周囲が見すぎた。


 飯場の芯で進む飯を受け取る者が、手当場をちらりと見る。


 槍列の若い者が、血止め布の束に目を取られる。


 藤七が担架を運ぶ時、周囲の視線が集まりすぎて、少し焦る。


 喜八は、見ているだけなのに半歩下がった。


 負傷者役の若い兵が、担架の上で小さく言った。


「見られすぎるの、嫌ですね」


 その一言で、場が止まった。


 きぬがすぐ近づく。


「どう嫌ですか」


「役だと分かってます。でも、みんなが見ると、本当に怪我したみたいで……腹が変になります」


 権六が文句腹帳へ書く。


 手当飯場、見えすぎると負傷者役が見せ物の腹になる。


 きぬは静かに頷いた。


「見せ場にしてはいけませんね」


 前から言っていた言葉だった。


 だが、実際に言われると重い。


 手当飯場は、必要な時に見つからなければならない。


 でも、そこへ運ばれる者を見せ物にしてはいけない。


 次に、見えにくい配置にした。


 手当飯場を少し奥へ引く。


 布束もまとめる。


 飯場の芯からは見えにくい。


 水場からも、角度によっては見えない。


 喜八の顔は少し楽になった。


「これなら、ずっと目に入らないです」


 きぬが頷く。


「では、この配置で動かします」


 作兵衛が再び声を出した。


「負傷者、出た」


 今度も担架役が運ぶ。


 だが、手当飯場が見つけにくい。


 藤七が担架を持ちながら迷った。


「どこですか!」


 寅吉も少し足を止める。


 太助が水場から叫ぶ。


「斜め後ろ!」


「どの斜めですか!」


 藤七の声が荒れる。


 担架が揺れた。


 負傷者役が顔をしかめる。


 きぬが布束の前で手を上げる。


「こちらです!」


 ようやく向かう。


 だが、遅れた。


 見えなさすぎると、必要な時に届かない。


 権六が書く。


 手当飯場、隠しすぎると担架役が迷い、揺れる。


 喜八はそれを見て、複雑な顔をした。


「見えないと、困りますね」


「はい」


 きぬが答える。


「でも、見えすぎると怖いです」


「はい」


「面倒ですね」


 喜八が言うと、きぬは少し笑った。


「面倒なところを、今見ています」


 そこで、きぬは山裾の村水火板の写しを持ってきた。


 おきよが描いた、目の絵。


 見るのは怖い。

 見ないほうがもっと怖い。


 山裾では、清洲が勝手に村を測るのではなく、村が見る人数を決めた。


 全員に見せるのではない。

 必要な者が見る。

 村の腹が決める。


 きぬはその写しを手当飯場の横へ置いた。


「山裾では、見る人数を村で決めました」


 皆が、きぬを見る。


「手当飯場も、同じだと思います。全員に見せる場所ではありません。でも、必要な人には見えなければならない」


「誰が必要な人ですか」


 太助が聞く。


「担架役、水役、布役、飯役、戻し飯場の者。そして、列文句役」


 権六が顔を上げる。


「俺もか」


「はい。文句を拾う人は、場の怖さを見ていないと拾えません」


「なるほど」


「でも、進む飯を受け取る人や、槍列の全員や、馬水の馬にまで見せ続ける必要はありません」


 源太が頷いた。


「馬に見せなくていいのは助かる」


 かやが考え込む。


「見たい人には見える。見たくない人には圧になりにくい配置……正面じゃなくて、斜めの目印?」


「はい」


 きぬは頷いた。


「手当飯場そのものを正面に見せるのではなく、斜めに目印を置きます。必要な人は、その目印を見れば分かる。でも、場そのものはずっと目に入らない」


「目印は何にする?」


 かやが聞く。


 きぬは少し考えた。


「布を大きく出すと怖いです。血止め布にも見えてしまうので。小さな白い布結びではなく、木札に布の折り印だけをつけるのはどうでしょう」


「布そのものじゃなく、布の折り印を示す札」


「はい。手当飯場の正面ではなく、斜め入口に置く」


 喜八がその案を聞いて、少し頷いた。


「血の布を見せられている感じはしません」


「でも担架役からは?」


 藤七が見る。


「斜め入口にあれば、走ってきた時に分かります。正面に場がなくても、目印があれば曲がれる」


 寅吉も言った。


「担架は急に曲がると揺れる。目印は少し手前に欲しい」


 かやが小札を置いた。


 手当飯場そのものではなく、少し手前の斜めに。


 札には、布の折り印を模した刻み。


 目立ちすぎない。


 だが、担架役が近づけば分かる。


 きぬが言った。


「手当前札、でしょうか」


 権六が少し首を傾げる。


「硬いな」


 太助が言う。


「戻れる札、はどうですか」


 きぬが目を上げる。


「戻れる札……」


 喜八が小さく頷いた。


「そのほうが怖くないです」


 佐助も言った。


「手当飯場は、怪我を見る場所ではなく、戻れる場所ですから」


 伊三郎が書く。


 手当飯場目印――戻れる札。斜め入口に置く。場そのものを正面に見せない。


 試してみる。


 手当飯場は、飯場の芯の正面には置かない。


 少し斜め後ろ。


 そのさらに手前、担架役が曲がる場所に「戻れる札」を置く。


 札は立てすぎない。


 だが、寝かせすぎもしない。


 小雨札とは違い、必要時には見えなければならない。


 低い斜め札にした。


 担架役が走る。


 藤七が札を見つける。


「戻れる札、見えました!」


 そこで少し前から曲がる。


 担架の揺れが少ない。


 寅吉も足を合わせやすい。


 手当飯場へ入る。


 周囲の者は、場そのものをずっと見ていないので、視線が集まりすぎない。


 喜八は少し離れたところで見ていたが、顔はさっきより柔らかかった。


「これなら、見られます」


 きぬが聞く。


「怖さは?」


「あります。でも、見せられてる感じじゃなくて、あそこへ戻れるんだって感じがします」


 その言葉で、きぬの肩が少し落ちた。


 よかった、という安堵だ。


 次に、飯場の芯から見た。


 進む飯を受け取る者には、戻れる札は視界の端に入る。


 手当飯場そのものは見えすぎない。


 水場枝からは、太助が見る。


「水役には札が見えます。でも布束までは見えない。必要になったら向かえる」


 源太は馬水枝から見る。


「馬には布が見えない。札も気にしていない」


 半三は槍整え枝から見る。


「槍列からは札だけ。これなら槍先の目を奪いにくい」


 又八と弥平は戻し飯場から見る。


 又八が言った。


「戻し飯場から手当場への道が分かる。隠れてはいない」


 弥平も頷いた。


「置いていかない場所に見える」


 戻れる札。


 それは、手当飯場の意味を変えた。


 血や痛みを見せる札ではない。


 戻れる場所を示す札。


 手当飯場は「見せ場」ではなく「戻れる場所」になる。


 その後、さらに細かい問題が出た。


 戻れる札が斜めにあると、早足が横渡し枝から近道したがる。


 藤七が実際にやりかけた。


「そこを通ると、担架道に入ります」


 きぬが言う。


「近いので」


 藤七が答える。


 権六が即座に書く。


 戻れる札、早足が近道に使いたがる。


 かやが戻れる札の根元に短い横縄を置いた。


「これは入口であって、通り道ではない。横縄で背を示す」


「また縄ですか」


 藤七が言う。


「川道からの伝統です」


 太助が笑った。


 次に、戻れる札が目立ちすぎると、喜八が少し固くなった。


 札の高さを少し下げる。


 下げすぎると担架役が見落とす。


 そこで、札の上に小さな斜め刻みを入れた。


 遠くからでは目立たないが、担架役の角度から見ると光る。


 かやの細工だった。


 半三が感心したように言った。


「見せたい者にだけ見せる細工か」


「全部には無理だけど、方向で少し変えられる」


 きぬが頷いた。


「手当飯場には、そういう見え方が必要です」


 午後には、手当飯場の流れがだいぶ整った。


 負傷者役が出る。

 担架役が戻れる札を見つける。

 少し手前から曲がる。

 手当飯場へ入る。

 飯包みと受け布は手前。

 血止め布は布役の側。

 支え飯は一息場。

 戻し飯場への道は横へつながる。


 全部が見えるわけではない。


 でも、必要な者には見える。


 見たくない者には、圧になりにくい。


 完全ではない。


 喜八はまだ、血止め布を見ると顔が固くなる。


 藤七は近道をしたがる。


 太助は水桶を持つと戻れる札の横縄を踏みそうになる。


 源太は馬が札に慣れるまで警戒している。


 だが、最初よりずっとよかった。


 夕方、弥助殿への報告は、きぬが中心になった。


「手当飯場は、見えすぎると見せ物になります。負傷者役も、周囲の者も、腹が固くなります。見えなさすぎると、担架役が迷い、揺れます」


 きぬは戻れる札を示した。


「山裾で、見る人数を村で決めた考えを応用しました。手当飯場は、全員へ正面から見せるのではなく、必要な者が見つけられるようにします。斜め入口に戻れる札を置き、手当飯場そのものは正面に出しすぎません」


 喜八も一歩前へ出た。


「戻れる札なら、見られます。血止め布がずっと見えているより、怖くありません」


 藤七が言った。


「担架役からは見えます。手前から曲がれるので、担架が揺れにくいです」


 太助も続ける。


「水場からも札は見えます。ただ、通り道と間違えないよう横縄が要ります」


 源太が言う。


「馬には布を見せないほうがいい。戻れる札なら、馬はあまり気にしません」


 半三も頷く。


「槍列からは、札だけでいい。布束まで見えると、若い者の目が散る」


 弥助殿は一通り聞き、短く言った。


「よい」


 それだけで、きぬは少しだけ安堵した。


「手当飯場は、戻れる場所か」


「はい」


「なら、その名で帳面へ入れろ」


 伊三郎が書いた。


 手当飯場――見せ場ではなく、戻れる場所。


 夜、清洲蔵では手当飯と支え飯が少しずつ出た。


 喜八は手当飯を食べながら、戻れる札を見ていた。


「これ、あるだけで少し違いますね」


 きぬが聞く。


「怖くないですか」


「怖いです。でも、怖い場所じゃなくて、戻れる場所に見える」


 権六が飯を食べながら言った。


「今日の飯は、見えすぎず、隠れすぎずの味だな」


 太助が首を傾げる。


「味で分かりますか」


「分かるような気がする。見せつけられると喉が詰まる。隠されると腹が疑う。ちょうどいいと、食える」


 佐助が静かに頷いた。


「飯も同じですね」


 手当飯場は、まだ完成ではない。


 だが、戻れる札ができたことで、ひとつ大事な芯が見えた。


 痛みを見せ物にしない。


 でも、隠さない。


 必要な者が見つけられる。


 見たくない者を押し潰さない。


 手当飯場は、戦場の痛みを受け止める場所ではなく、そこから戻れる場所でなければならなかった。

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