第百四十四話 置いていかない飯、最後尾へ回る
槍戻し受けが、邪魔者から役持ちへ戻った翌朝。
清洲蔵の庭には、戻し飯の丸包みがいつもより多く並べられていた。
丸包み。
最初は、その名を聞くだけで誰かが顔をしかめた。
戻し飯。
戻る飯。
退く飯。
縁起が悪い。
腹が後ろ向きになる。
負け癖がつく。
そんな文句を浴びてきた飯だった。
だが、信長様が最初に食べた。
弥平が笑い、そして本音を吐いた。
退く時、自分だけ置いていかれるのが怖い。
それから、戻し飯は少し意味を変えた。
戻る者の飯ではない。
戻す者の飯。
置いていかない飯。
その言葉は、清洲蔵の中ではもう馴染み始めていた。
だが、馴染んだのは清洲蔵の中だけだ。
試験場に来る兵たち全員が、同じように腹に入れているわけではない。
そのことを思い知らされたのは、朝の配り順を決めた時だった。
佐助が戻し飯の丸包みを、飯場の芯ではなく、列の後ろ側へ運んだ。
それを見た又八が眉を上げる。
「今日は、後ろからか」
「はい」
佐助が答える。
「最後尾を守る者へ、先に渡します」
その声を聞いた前方の兵が、すぐに反応した。
「何で後ろが先なんだ」
庭の空気が、ぴりっとした。
権六が文句腹帳を開く。
太助も水場枝の横から、そちらを見る。
藤七は早足横渡し枝で足踏みをやめた。
半三は槍を持ったまま、槍整え枝の中で視線だけを動かす。
源太は馬の手綱を緩め、馬水枝から見ている。
その前方の兵は、まだ若い。
名は庄助。
昨日までは大きな文句を言わなかったが、今日は違った。
「進む飯なら前が先だろう。戻し飯だって、動く者に先に配るべきじゃないのか」
別の兵も小さく頷いた。
「最後尾が先だと、前が後回しにされたみたいだ」
「前で詰まったら、後ろどころじゃないだろう」
文句が増える。
それは予想していた。
戻し飯を最後尾へ回す。
その意味を知らなければ、不満が出て当然だ。
なぜ後ろが先なのか。
なぜ前で動く者より、後ろを守る者へ配るのか。
なぜ、まだ退いてもいないのに、最後尾の飯を考えるのか。
俺が説明しようと一歩出かけた時、弥平が先に声を出した。
「前が偉いから先、後ろが遅いから後、って考えるから腹が荒れるんだ」
皆が弥平を見た。
少し前まで、戻し飯を笑っていた男だ。
負け癖がつく、と言った男だ。
その弥平が、戻し飯の丸包みを手に、前方の兵へ向き直っていた。
庄助が不満そうに言う。
「じゃあ、どう考えろってんだ」
「最後尾が腹を空かせると、置いていかれる者が出る」
弥平は短く言った。
庭が少し静まる。
その言葉は、弥平自身の腹から出たものだった。
誰かに言わされた説明ではない。
だから、重い。
「退く時、前の者は後ろが見えにくい。急いでいれば、なおさらだ。列の最後を見る者が腹を空かせて、足を止めて、声を出せなくなったらどうなる」
庄助はすぐには答えられなかった。
弥平は続けた。
「倒れた者、遅れた者、槍を引きずる者、担架を持つ者、馬を戻す者。そういう奴らを最後に見る者が腹を空かせていたら、見落とす」
又八が横から言った。
「前だけ腹を満たしても、後ろが切れたら戻れん」
戻し飯の試験を何度もやった又八も、今は説明する側に回っている。
庄助は、まだ納得しきっていない顔だった。
「でも、前が腹を空かせても崩れるだろう」
「だから前にも配る」
佐助が静かに言った。
「ただ、今日は最後尾へ先に回す試験です。最後尾が先に食べることで、列の戻り方がどう変わるかを見ます」
「後ろを贔屓するわけじゃないのか」
庄助が言う。
権六がすぐ拾った。
「贔屓に見える。いい文句だ」
「いい文句じゃない」
庄助がむっとする。
弥平が苦笑した。
「俺も前ならそう言った」
「なら、今は違うのか」
「違う。戻し飯は、退く奴の飯じゃない。置いていかない飯だ。最後尾は、置いていかないために腹を使う」
その言葉で、庭の空気が少し変わった。
太助が水場枝から小さく頷く。
「水場でも同じですね。水桶を持ってる人が後ろへ回ると、置き場がなくて声が荒れます。最後尾って、いろいろ見ないといけないのかも」
源太も言った。
「馬を戻す者も最後尾になりやすい。馬が遅れれば、荷も遅れる。馬廻りに戻し飯がないと、馬の腹まで崩れる」
半三は槍を見下ろした。
「槍列の最後もだ。最後尾の槍が乱れると、後ろから押されるように崩れる」
きぬは手当戻り枝のそばで、静かに言った。
「担架役も、列の最後に近くなります。支える人が腹を空かせると、痛む人が置いていかれます」
最後尾。
それは、ただ後ろにいる者ではなかった。
後ろを見る者。
遅れを拾う者。
置いていかれそうな者に気づく者。
戻る列が切れないようにする者。
そこへ戻し飯を回す。
そう考えれば、意味は見える。
だが、それでも前方の不満は消えない。
庄助は腕を組んだ。
「理屈は分かる。でも、前から見ると、後ろが先に飯をもらってるように見える」
「それも正しい」
権六が言った。
「見え方の文句だな」
伊三郎が書く。
戻し飯を最後尾へ先配り。前方からは後ろ贔屓に見える。根:自分たちが後回しにされる不安。
佐助が丸包みを見て考え込む。
「最後尾へ渡す飯を、表から見せすぎないほうがいいかもしれません」
又八がすぐ反応した。
「隠すのか?」
「いえ。隠すのではありません。戻し飯の時と同じです。見せすぎると腹が荒れる。隠すと噂になる」
かやが小縄を持って、飯場の芯と最後尾の間に短い流れを作った。
「最後尾へ直接渡すんじゃなくて、戻り枝へ置く。最後尾役がそこから取る。前からは“配られた”より“備えてある”ように見える」
庄助が見て言った。
「備えなら、まあ……先に食ってる感じは少し減る」
「でも、最後尾役はいつ食べる?」
太助が聞く。
「列が動き出す前に一口。動きながら食べるのではなく、戻り始めの合図前」
佐助が答えた。
「最後尾が食べる間を作らないと、結局食べません」
藤七が頷いた。
「早足と同じですね。飯があっても、食べる間がないと食べない」
きぬも言った。
「担架役の一息場とも同じです」
繋がっている。
戻し飯、手当飯、早足、槍列、馬水。
全部が、食べる間の問題を持っている。
飯は、用意しただけでは届かない。
食べる間を作らなければ、腹には入らない。
試験が始まった。
今日は、戻り列を想定する。
前方兵。
中央兵。
最後尾役。
担架役。
馬廻り。
槍持ち。
早足。
列が進む。
合図で戻る。
その時、最後尾役へ戻し飯を先に回しておく。
最初に最後尾役を務めたのは弥平だった。
以前なら、笑っていた男が、今日は最後尾で丸包みを腰へ差している。
庄助は前方にいる。
わざと見える位置だ。
又八は中央。
太助は水場枝。
半三は槍列。
源太は馬水別枝。
きぬは手当戻り枝。
かやと伊三郎は流れを記録する。
権六は列文句役として横に立った。
「戻り合図」
作兵衛の声が出る。
列が戻り始める。
弥平は最後尾で、後ろを見た。
担架役が少し遅れる。
槍列の若い兵が、槍尻を直すために半歩遅れる。
馬廻りの源太が馬の向きを変える。
同時に、前方の庄助が少し振り返った。
「後ろ、遅いぞ!」
弥平が返す。
「遅れてるんじゃない。拾ってるんだ!」
その声は、よく通った。
最後尾は、ただ遅いのではない。
拾っている。
遅れを拾い、切れ目を拾い、置いていかれそうな者を拾う。
弥平は丸包みから一口だけ戻し飯を食べた。
大きく食べるのではない。
声を出せる程度に、腹を落ち着かせる。
そして、担架役へ声をかける。
「すぐ戻る。焦るな」
以前、手当飯場で出た「置いていかない言葉」だ。
少し待て、ではなく、すぐ戻る。
担架役の藤七が反応する。
「了解!」
庄助は前からそれを見ていた。
顔が少し変わる。
戻り列は、最初にしては悪くなかった。
だが、すぐ問題が出た。
最後尾役が戻し飯を持つと、周囲の者が「持っているなら分けろ」と思いやすい。
中央にいた若い兵が言った。
「最後尾だけ持ってるのか」
弥平はすぐ返した。
「最後尾用だ」
「腹が減ったら?」
「戻し飯場に行け」
「遠い」
権六が書く。
最後尾戻し飯、周囲から分けろ文句。根:見える飯への不公平感。
佐助が考える。
「最後尾役用は、他の戻し飯と形を少し変えましょう」
「また増えるのか」
又八が言う。
「増やすというより、役を見せます。最後尾用は、小さめで声を出すための飯。通常戻し飯は、戻る列全体の飯」
弥平が口を挟む。
「最後尾用は、見張り飯に近いかもな」
「確かに」
佐助が頷いた。
「腹を満たすより、声と目を切らさない飯です」
見張り飯。
北尾根の歩き飯。
そこにも繋がる。
最後尾役は、戻り列の見張りでもある。
伊三郎が書く。
最後尾戻し飯――声と目を切らさない飯。通常戻し飯と区別。
二度目の試験。
今度は、最後尾用の小さな丸包みを用意した。
通常の戻し飯より小さい。
だが、喉を奪いにくく、片手で開けやすい。
弥平ではなく、又八が最後尾役を務める。
弥平は中央で、説明役を見る。
庄助はまた前方。
戻り合図。
列が動く。
又八は最後尾で、小丸包みを一口食べ、後ろを見る。
槍列が少し詰まる。
「槍、半歩待て!」
半三が返す。
「見えてる!」
馬水枝で源太が馬を回す。
馬が少し嫌がる。
「馬水、別枝へ逃がす!」
太助が水場から声を出す。
「人水、止めません。道を分けます!」
声が重なる。
だが、前より混ざらない。
最後尾役の又八は、戻し飯を持っているからか、声が落ち着いている。
前方の庄助が、また振り返った。
「後ろばかり声を出してるな」
弥平が中央から言った。
「後ろが見てくれてるから、前が戻れるんだ」
庄助は、今度は言い返さなかった。
ただ、少しだけ頷いた。
三度目は、庄助を最後尾にした。
「俺が?」
庄助は露骨に嫌な顔をした。
権六が言う。
「文句を言った者が、次は役をやる。清洲蔵の決まりみたいなものだ」
「そんな決まり、聞いてない」
「今できた」
太助が笑った。
「俺もそれで水場文句役になりました」
「笑えないな」
庄助は渋々、最後尾用の小丸包みを受け取った。
戻り合図。
庄助は最後尾で後ろを見る。
最初はぎこちない。
前にいた時は、後ろが遅いと苛立っていた。
だが、後ろに立つと、違うものが見えた。
担架役が遅いのは、怠けているからではない。
槍持ちが半歩遅れるのは、槍尻を人に当てないためだ。
馬廻りが斜めへ逃がすのは、馬の尻を飯列へ向けないためだ。
水場が少し止まるのは、非常水を触らせないためだ。
後ろは、後ろで忙しい。
戻る列の尻尾は、ただの尻尾ではない。
切れないように、いくつも見ている。
庄助は小丸包みを一口食べた。
そして、少し驚いた顔をした。
「食いやすいな」
佐助が頷く。
「声を出せるようにしています」
庄助は後ろを見て、ぎこちなく声を出した。
「担架、すぐ戻る。槍、半歩待つ。馬水、別枝」
完璧ではない。
声も少し硬い。
だが、言えた。
戻り列が終わった時、庄助は丸包みを見下ろしていた。
権六が聞く。
「どうだった」
庄助は少し迷ってから言った。
「前から見た時は、後ろが先に飯をもらってるように見えた。でも後ろに立つと、飯がないと声が出ない」
「それを書け」
伊三郎がすぐ書いた。
最後尾、飯がないと声が出ない。
弥平が庄助の肩を軽く叩いた。
「分かったか」
「少しな」
「半分?」
太助が聞く。
庄助は苦笑した。
「七分」
庭に笑いが起きた。
七分なら十分だ。
夕方、報告をまとめた。
戻し飯を最後尾へ優先して配ると、前方から「なぜ後ろが先だ」という文句が出る。
根は、後回しにされる不安、後ろ贔屓に見える不公平感。
最後尾は、ただ遅い者ではなく、遅れを拾う者。
最後尾が腹を空かせると、置いていかれる者が出る。
最後尾用戻し飯は、通常戻し飯より小さく、声と目を切らさない飯。
見張り飯に近い。
最後尾は戻る者だけでなく、戻す者。
前方兵にも最後尾役を経験させると理解が進む。
戻し飯は、置いていかない飯としてさらに実戦的に使う。
弥助殿は報告を聞き、頷いた。
「よい」
「次は手当飯場ですね」
俺が言うと、弥助殿は頷いた。
「見えすぎても、見えなさすぎても駄目な場だ」
喜八が少し顔を固くした。
きぬがそれを見て、静かに言った。
「大丈夫です。見せ場にはしません」
手当飯場は、次の問題を待っている。
夜、清洲蔵では、普通の飯に小さな戻し飯が添えられた。
最後尾用の小丸包み。
庄助がそれを食べながら言った。
「これ、前で食うと少ないな」
佐助が答える。
「最後尾用ですので」
「声を出す飯、か」
弥平が笑う。
「置いていかない飯だ」
庄助は、今度は否定しなかった。
権六が飯を食べながら言った。
「今日の飯は、列の尻尾の味だな」
太助が首を傾げる。
「また変な味ですね」
「尻尾が切れなきゃ、体は戻れる」
きぬが静かに頷いた。
「最後尾も、大切な場所ですね」
戻し飯は、また意味を深めた。
退く飯ではない。
戻す飯。
置いていかない飯。
そして、最後尾の目と声を守る飯になった。




