第百四十三話 槍戻し受け、邪魔者扱いされる
小雨札の翌朝、清洲蔵の庭には、妙に小さな木片が置かれていた。
槍戻し受け。
名前だけなら立派だ。
だが、見た目は本当に地味だった。
低く削った木片。
浅い溝。
槍尻を一息だけ乗せるためのもの。
槍を置く場所ではない。
槍を手放す場所でもない。
疲れた槍持ちが、勝手に柱へ立てかける前に、ほんの少しだけ槍の重さを逃がす道具。
前の試験では、必要だと思えた。
疲れた若い槍持ちが、柱へ槍を立てかけかけた。
あの時、もし半三が止めなければ、槍は倒れていたかもしれない。
だから、槍戻し受けは必要だった。
……必要だったはずなのに。
「邪魔です」
藤七が、朝一番にそう言った。
早足横渡し枝を確認するために軽く走っただけで、彼は槍戻し受けの前で足を止めた。
「ここ、俺の道です」
かやが木片を手に取る。
「昨日、ここなら槍列の邪魔にならないと思ったんだけど」
「槍列の邪魔にはならないかもしれません。でも早足の邪魔です」
半三がすぐに返した。
「槍が崩れたら、早足どころではない」
「俺が走れなかったら、連絡が遅れます」
「槍を持って飯を受ける者の手が崩れるほうが危ない」
「走る道に木片を置くほうが危ないです」
空気が、朝から尖った。
権六が文句腹帳を開きながら、半分笑って、半分ため息をついた。
「よし、今日もよく揉める」
「揉めたくて揉めてるわけじゃない」
半三が低く言う。
「俺もです」
藤七も言い返す。
弥助殿は、少し離れて見ていた。
止めない。
やはり、まず揉めさせる。
かやは木片を両手で持ち、困った顔をした。
「槍戻し受けは、槍列には必要。でも、場に置くと邪魔になる」
「だから言っただろう」
半三が言う。
「置き場にすると腐る」
「置き場じゃないって何度も言った」
「でも、場に置けば置き場に見える」
それは厳しいが、正しい。
どれだけ「一息の受けです」と説明しても、そこに置きっぱなしになれば、見る者には置き場に見える。
早足には障害物に見える。
荷箱を運ぶ寅吉には、避けるものに見える。
馬水の源太には、馬を通す時の邪魔に見える。
必要な道具が、別の枝から見れば邪魔者になる。
同時崩れ大試験では、これが起きる。
伊三郎が書いた。
槍戻し受け――槍列には必要。他枝からは邪魔者。
太助が水場枝から見て言った。
「水桶を持ってる時も怖いです。足元に低いものがあると、見落とします」
「低いから邪魔にならないと思ったんですが……」
かやが言うと、太助は首を振った。
「低いから見えにくいんです。水桶を持つと、下が見づらいので」
佐助も飯場から言った。
「飯箱を運ぶ時も同じです。低い道具は、踏みそうになります」
かやの顔が、さらに曇った。
「高くすると、槍置き場に見える。低くすると、見えない。場に置くと邪魔。なくすと槍が崩れる」
権六が文句腹帳を覗き込む。
「いいぞ。きれいに詰まった」
「よくない」
かやが即答する。
まず、折りたたみ式が試された。
場に常に置かない。
必要な時だけ出す。
かやが作った仮の折りたたみ槍受けは、小さくたためる。
使う時に開いて、地面へ置く。
槍尻を溝に乗せる。
理屈としては良かった。
しかし、半三が一度使っただけで首を横に振った。
「不安定だ」
「まだ仮です」
「仮でも分かる。開く時に手間がかかる。置いた後も少し揺れる。疲れている時に、こんなものは信用しない」
かやは悔しそうに唇を噛んだ。
「改良すれば」
「不安定なら使わない」
半三の声は冷たかった。
だが、怒っているというより、槍持ちとして本気で言っている。
「槍は、少しの揺れで腹がざわつく。受けに乗せて安心できないなら、最初から腕で支えたほうがましだ」
藤七が横から言う。
「でも場に置かれると、俺が走れない」
「だから、折りたたみは駄目だと言っている」
「じゃあどうするんですか」
「俺に聞くな」
「槍持ちでしょう」
「槍持ちだから、不安定な道具は使わないと言っている」
また尖る。
権六が間へ入った。
「根は見えたな」
「根?」
藤七が聞く。
「藤七は、走る道に置かれるのが嫌。半三は、不安定な受けを信用できない。かやは、必要な時だけ出したい」
権六は三人を順に見た。
「なら、場に置かず、不安定でもなく、必要な時だけ出るものにしろ」
「そんな都合のいいもの……」
かやは言いかけて、止まった。
半三が槍を軽く持ち直した。
「場に置くから邪魔になる」
「はい」
「折りたたんで場へ置くから不安定になる」
「はい」
「なら、槍列の者が持てばいい」
かやが顔を上げた。
「持つ?」
「槍列の中に、槍戻し受けを持つ者を置く。槍列が動く時だけ、その者が足元へ出す。終われば持って戻る。場には残さない」
藤七がすぐ言った。
「それなら、俺の道には残らない」
太助も頷く。
「水桶を持ってる時も、場に残らないなら怖くないです」
かやの目が少しずつ輝いてきた。
「道具を場に置くんじゃなくて、槍列が持ち運ぶ……」
「ただし」
半三が釘を刺す。
「持つ者の負担が増える」
「そこです」
伊三郎が筆を走らせる。
槍戻し受け、槍列携行案。場に常置せず、槍列が必要時だけ出す。持つ者の負担増。
弥助殿が初めて口を開いた。
「槍列の中で、誰が持つ」
半三は少し考えた。
「列の先頭では駄目です。先頭は流れを見る。最後尾でも駄目。遅れる。中ほどの者がよい」
「なぜ中ほど」
「前後の詰まりが見える。槍戻し受けを出す時、列全体が止まりすぎない」
作兵衛が頷いた。
「槍列中受け役、だな」
また役が増えた。
権六が笑いそうになったが、今回は笑わなかった。
増える役には意味がある。
かやはすぐに、持ち運び用の槍戻し受けを作り直した。
折りたたみではない。
小さな木片に、手を通す紐をつける。
腰へ下げると邪魔になるので、槍列中受け役が手に持つ。
ただし、手が塞がりすぎると槍が持てない。
そこで、左手の甲に引っかける形にした。
「これなら、完全に持つんじゃなくて、手に添える感じになります」
かやが説明する。
半三が試す。
槍を持つ。
片手の甲に槍戻し受けを下げる。
必要な時だけ、足元へ置く。
槍尻を乗せる。
一息。
終わったら拾う。
少しぎこちない。
だが、折りたたみよりは安定している。
半三は二度、三度と試してから言った。
「五分」
かやが少し肩を落とす。
「低い」
「でも、ゼロではない」
半三は続けた。
「持つ者が慣れれば七分。慣れないと邪魔になる」
「慣れが要る道具ですね」
「槍もそうだ」
かやは頷いた。
藤七が早足の道を走った。
槍戻し受けが場に残っていないので、走りやすい。
「これなら邪魔じゃないです」
半三がすぐ言う。
「槍列中受け役が出す時は止まれ」
「それは分かります。出てる時は見えますから」
藤七は走りながら戻ってきた。
「置きっぱなしが嫌だったんです。出てるなら避けます」
それも大事だ。
見える危険と、見えない邪魔は違う。
出ている時だけなら、避けられる。
置きっぱなしだと、いつでも邪魔になる。
伊三郎が書いた。
槍戻し受け――常置不可。出ている時だけ避けられる。置きっぱなしは見えない邪魔。
次に、同時の流れで試した。
飯場の芯が動く。
水場枝で太助が人水と味噌水を見る。
馬水別枝で源太が馬を入れる。
早足横渡し枝を藤七が走る。
槍整え枝で半三たちが槍を揃える。
その中ほどで、槍列中受け役が槍戻し受けを持つ。
最初は、意外とうまくいった。
槍戻し受けは場に残らない。
早足も走れる。
水桶もつまずかない。
しかし、二度目で問題が出た。
槍列中受け役が、槍戻し受けを出すのを忘れた。
疲れていたわけではない。
飯場の声、馬水の声、小雨札の短紐、水場の動き。
見るものが多すぎて、自分の役を一瞬忘れたのだ。
半三が低く言った。
「遅い」
中受け役は慌てて出す。
その慌てで、槍戻し受けが少し斜めになる。
半三が槍尻を乗せるのをためらう。
列が止まる。
藤七が遠くで叫ぶ。
「止まるなら声を!」
太助が水場から言う。
「槍枝、止まりですか!」
場がざわつく。
弥助殿の声が飛んだ。
「止め」
全員が止まる。
半三は槍戻し受けを見下ろし、ため息をついた。
「持ち運ぶだけでは足りない」
かやも頷いた。
「出す合図が要る」
「合図が増えると、また混ざる」
権六が言う。
「声じゃないほうがいい」
作兵衛が槍を見ながら言った。
「槍列中受け役は、槍戻し受けを出す前に、槍を少し立てろ」
「槍角度の合図ですか」
「そうだ。槍列は槍を見る。槍を立てる。出す。戻す。声は『受け出す』だけでよい」
半三が試す。
槍列中受け役が槍を少し立てる。
それを見て、列が半歩待つ。
槍戻し受けを出す。
半三が槍尻を乗せる。
終わったら、受けを拾い、槍の角度を戻す。
声は短く。
「受け出す」
「受け戻す」
藤七が言う。
「それなら、早足からも見えます」
「でも毎回見てられません」
太助が返す。
「だから、槍枝へ近い時だけ見る」
かやが小縄を置いた。
槍戻し受けが出る範囲を、常置ではなく、短縄で示す。
常に道具を置くのではない。
槍枝の中で、ここに出る可能性があるという背だけ示す。
また川道の一本縄だ。
場所を取らず、背だけ示す。
藤七が走って確認した。
「この短縄なら邪魔じゃないです。受けが出る場所だと分かる」
太助も水桶を持って歩いた。
「これなら、足元の木片はないので怖くないです。でも短縄は見えます」
半三は槍を動かして言った。
「槍列にも分かる」
かやは、ようやく少し笑った。
「これで六分?」
半三は考えた。
「七分」
「上がった」
「ただし、訓練が要る」
「それは書きます」
伊三郎が書く。
槍戻し受け、槍列携行。中受け役が持つ。槍角度で合図。声は短く。出る範囲は短縄で背を示す。訓練必須。
午後は、雨天状態も少し混ぜた。
小雨札を寝かせ、短紐を出す。
半三が言う。
「小雨、槍尻」
濡れた地面で、槍戻し受けを出す。
ここでまた問題が出た。
槍戻し受けを持つ紐が湿ると、手から滑る。
中受け役が拾い直す。
それだけで列が少し遅れる。
かやが頭を押さえた。
「また雨か」
きぬが紐を触った。
「紐に結び目を一つ作ると、濡れても指にかかります」
「結び目が大きいと邪魔」
半三が言う。
「小さく一つだけ」
試す。
濡れた手でも、少し持ちやすい。
太助が言った。
「水場の取っ手と同じですね。濡れた時は、手が分かる形が必要」
源太も馬水から頷いた。
「横棒取っ手もそうだ」
道具がまたつながった。
馬水桶の取っ手。
雨天飯の折り印。
手当布の太縫い。
槍戻し受けの紐結び。
すべて、濡れた手、疲れた手、焦った手のための形だった。
夕方、弥助殿への報告では、かやが前へ出た。
「槍戻し受けは、場に常置すると早足や水場の邪魔になります。折りたたみ式は不安定で、槍持ちが信用しません。そこで、槍列の中受け役が持ち運び、必要時だけ出す形を試しました」
半三が続けた。
「出す合図がないと遅れる。声だけでは混ざる。槍角度で合図し、声は短くします。出る範囲は短縄で示します。雨天時は持ち紐が滑るため、結び目を加えます」
藤七も言った。
「置きっぱなしじゃなければ、早足は避けられます。出る場所が分かっていれば、走る道を少し調整できます」
太助も水場文句役として報告する。
「水桶を持つ者には、低い木片が一番怖いです。短縄なら見えます。木片が出ている時だけなら、避けられます」
弥助殿は全員の報告を聞き、頷いた。
「よい。道具は場に置けば場所を食う。人に持たせれば人を食う。どちらを食わせるかを決めろ」
伊三郎がすぐ書いた。
道具は場に置けば場所を食う。人に持たせれば人を食う。
権六が唸った。
「また重い言葉が増えたな」
弥助殿は続けた。
「槍戻し受けは、人に食わせる道具だ。持つ者の飯も考えろ」
佐助が顔を上げた。
「槍列中受け役用の飯ですか」
「そうだ。道具を持つ役は、腹を余計に使う」
また飯が増える。
だが、誰も笑わなかった。
必要なのだ。
槍戻し受けを持つ者が疲れれば、槍列が崩れる。
なら、その者の腹も見なければならない。
夜、清洲蔵では槍持ち用進む飯に、少し小さな追加包みが添えられた。
佐助が試しに作った、槍列中受け役用の小飯だった。
半三が食べる。
「どうですか」
佐助が聞く。
「軽い」
「足りませんか」
「いや、役の途中ならこれでいい。重いと邪魔だ」
かやが槍戻し受けを横に置いた。
藤七がそれを見て言った。
「今日は邪魔じゃないです」
「場に置いてないからね」
太助も笑う。
「水桶でも怖くありません」
権六が飯を食べながら言った。
「今日の飯は、邪魔者が役に戻った味だな」
「また変な味ですね」
藤七が言う。
「でも、分かる気がします」
必要なものでも、置き方を間違えれば邪魔になる。
邪魔者扱いされた道具でも、役に戻せば場を助ける。
槍戻し受けは、まだ完成していない。
けれど、少なくとも、ただの邪魔者ではなくなった。




