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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百四十二話 小雨札、早すぎると言われる

 水場文句役に任命された翌日、太助は少しだけ背筋が伸びていた。


 本人は気づいていない。


 だが、水桶を見る目が変わっている。


 昨日までは、水桶を見ると嫌そうな顔をしていた。


 今日は、嫌そうな顔をしたあとで、取っ手の向きと札の位置まで見る。


 人水桶。

 馬水桶。

 味噌水桶。

 非常水札。


 そして、今日はさらにもう一つ。


 小雨札。


 かやがそれを手に持って、試験場の端に立っていた。


 細い札だった。


 川道の黄札とは違う。

 雨天飯用の、準備開始札。


 雨が降ったら出す札ではない。


 濡れ始めたら動くための札。


 昨日までに決まった考え方だ。


 だが、今日の空は曇りに近い晴れだった。


 薄い雲はある。


 風も少し湿っている。


 けれど、雨粒は落ちていない。


 地面も濡れていない。


 竹皮も乾いている。


 そんな中で、かやは小雨札を出した。


「小雨札」


 短い声だった。


 試験場にいた者たちの動きが止まる。


 藤七が真っ先に空を見上げた。


「早くないですか」


 又八も眉を寄せる。


「まだ降ってないぞ」


 源太は馬の背を撫でながら言った。


「馬の耳も雨を感じてない」


 半三は槍を肩に乗せたまま、札を見た。


「槍も濡れていない」


 弥平が戻し飯の丸包みを腰に差し、笑いかけて、途中でやめた。


「……笑う前に聞く。何で今なんだ」


 権六が、感心したように文句腹帳を開いた。


「いいぞ。笑う前に聞いた」


「前に怒られたからな」


 弥平は肩をすくめる。


 太助は水場の横で、小雨札と人水桶を交互に見ていた。


 そして、少し困った顔で言った。


「俺も、早いと思います」


 かやは小雨札を下ろさない。


「早いから出す札です」


「それ、どういう意味ですか」


 藤七が食いついた。


「早すぎる札なら、ただの脅かしじゃないですか」


 佐助が飯場の芯から答えた。


「小雨札は、飯を変える札ではありません」


「じゃあ何の札ですか」


「心を変える札です」


 その言葉で、試験場の空気が少し変わった。


 佐助は続けた。


「雨天飯を配るのは、まだ先です。でも、小雨札が出たら、包みの置き方を変えます。竹皮を確認します。雨天飯を奥から手前へ出せるようにします。水場は泥を見ます。槍列は足元を見ます。手当飯場は布の湿りを見ます」


 又八が腕を組む。


「つまり、降る前に腹だけ雨に向けるってことか」


「はい」


 佐助は頷いた。


「雨が降ってから腹を変えると遅いです」


 藤七は納得しきれない顔だった。


「でも、早すぎるとみんな気が散りますよ。まだ晴れてるのに雨の顔をされたら、足が鈍る」


「それも文句として正しい」


 権六が言う。


「小雨札が早すぎると、腹が散る」


 伊三郎が書いた。


 小雨札、早すぎると腹が散る。

 根:まだ濡れていないのに警戒させられる理不尽。


 太助は水場から少し歩き、飯場の芯を見る。


「水場も同じです。小雨札が出たら、みんな水桶を気にします。足元が濡れる前から、濡れる気がして、動きが少し遅くなる」


「なら出すな、か」


 弥助殿が聞いた。


 太助は首を横に振った。


「いえ。出さないと、昨日みたいに包みが湿ってから慌てます。でも、出し方が強すぎると困ります」


「強すぎる?」


「小雨札なのに、雨札みたいな顔をしているんだと思います」


 かやが札を見る。


 細い札。


 形は小雨。


 けれど、出す時の声と立て方が、少し強かったのかもしれない。


 川道の黄札は「待て」だった。


 赤札は「戸締まり」だった。


 小雨札は、そのどちらでもない。


 雨天飯の準備を始めるための、腹の向きを変える札。


 なら、出し方も違うはずだ。


 きぬが言った。


「小雨札は、立てる札ではなく、寝かせる札ではどうでしょう」


「寝かせる?」


 かやが聞き返す。


「雨札や大雨札は立てて見せる。小雨札は、飯場の端に寝かせて置く。気づく人は気づく。でも、場全体を止める顔にはしない」


 太助が頷いた。


「それなら、水場から見ても焦りにくいです」


 藤七も言う。


「走ってる最中に立った札を見ると、止まれって言われた気になる。寝てる札なら、準備してるんだなって感じです」


 かやは小雨札を地面に置いた。


 立てるのではなく、飯場の芯の端に寝かせる。


 細い札なので、目立ちすぎない。


 だが、飯場の者には見える。


 佐助がそれを見て、雨天飯の包みを奥から一段手前へ出した。


 まだ配らない。


 ただ、出せる位置へ動かす。


 権六が言った。


「小雨札は、場へ怒鳴る札じゃなくて、飯場へ囁く札か」


「囁く札」


 伊三郎がすぐ書く。


 小雨札――立てずに寝かせる案。場を止めず、飯場へ囁く準備札。


 半三は槍を軽く持ち直した。


「槍列からは見えにくい」


「小雨札は槍列へ直接見せなくてもいいのでは」


 かやが言う。


「ただし、槍整え枝の者には知らせたい。足元を見る準備が要る」


 半三は少し考えた。


「なら、札ではなく声でいい。『小雨、足元』くらいなら短い」


 藤七がすぐ反応した。


「声が増えます」


「全部に言う必要はない。槍列の中だけだ」


 作兵衛が頷いた。


「枝ごとに、小雨の受け方を変えろ。飯場は札。槍は足元声。水場は泥を見る。手当は布を見る」


 弥助殿が静かに言った。


「よい。小雨札は一つでも、小雨の受け方は枝で違う」


 また一つ、見えた。


 同時崩れ大試験では、札ひとつの意味も枝ごとに違う。


 飯場には準備。

 水場には泥と滑り。

 馬水には足元と馬の嫌がり。

 槍列には槍尻の滑り。

 手当飯場には布の湿り。

 早足には焦りを増やさないこと。


 小雨札は、雨天飯だけの札ではなかった。


 場全体の腹を、少しだけ雨へ向ける札だった。


 試験を始めた。


 小雨札を寝かせる。


 佐助が雨天飯を一段手前へ出す。


 きぬが飯包み布の二折を確認する。


 太助が水場で足元を見る。


 源太が馬の蹄周りを見る。


 半三が槍列へ短く言う。


「小雨、足元」


 藤七は早足横渡し枝を走るが、札が立っていないせいか、さっきほど苛立たない。


「これなら、まだいいです」


「何分?」


 権六が聞く。


「七分」


「おお」


 かやが嬉しそうに小雨札を見る。


 だが、問題はすぐ出た。


 小雨札が寝ていると、飯場から離れた者が気づかない。


 寅吉が荷箱小枝から箱を出した時、小雨札を見落とした。


 雨天飯用に濡れを避ける置き方へ変えるべきところを、普段通りに置いた。


 佐助が気づいた。


「寅吉さん、その箱は小雨扱いです」


 寅吉は驚く。


「出てましたか」


 藤七が言う。


「寝かせると、気づかない人がいる」


 太助も頷いた。


「水場からは焦らないけど、見落としはあります」


 かやは悩んだ。


「立てると強すぎる。寝かせると見落とす」


 いつものことだ。


 強すぎると腹が荒れる。


 弱すぎると届かない。


 きぬが小さな布紐を出した。


「小雨札に、短い紐をつけてはどうでしょう」


「紐?」


「立てない。でも、飯場の芯から枝へ、短い紐を一本だけ伸ばす。小雨札が出ていることを、近い枝だけに知らせる」


 かやの目が動いた。


「小雨の糸?」


「はい。長くすると場所を取ります。短く、芯の端だけ」


 市松の文句がまた生きる。


 場所を取るな。


 でも見えるようにしろ。


 小雨札に短い紐をつける。


 札は寝たまま。


 紐が飯場の芯の端から少しだけ伸びる。


 荷箱小枝から見れば、紐で気づく。


 遠くの早足や馬水には強く見えない。


 試すと、寅吉は今度は気づいた。


「紐があると分かります」


「邪魔ですか」


 かやが聞く。


「長いと邪魔。でもこのくらいなら」


 権六が書く。


 小雨札、寝かせ札+短紐案。強すぎず、近枝へ知らせる。


 源太は馬水枝から見て言った。


「馬水からは見えない」


「見える必要がありますか」


 太助が聞く。


「馬水には別の合図が要る。馬の足元を見るだけなら、源太殿が見ればいい」


 源太は少し考えて頷いた。


「馬水枝は、札より蹄を見る。小雨札が出たと聞けば、こちらで馬足を見る」


「では、水場文句役から馬水へ短く伝えます。『小雨、馬足』」


 太助が言うと、源太は頷いた。


「それなら分かる」


 半三も言う。


「槍列は『小雨、槍尻』のほうがいい。足元だけだと槍受けを忘れる」


「小雨、槍尻」


 伊三郎が書く。


 枝ごとの小雨声。

 水場――小雨、泥。

 馬水――小雨、馬足。

 槍列――小雨、槍尻。

 手当――小雨、布。

 飯場――小雨札寝かせ+短紐。


 藤七が手を上げた。


「早足は?」


 権六がにやりとする。


「小雨、焦るな」


「それ、俺への説教じゃないですか」


 皆が笑った。


 だが、悪くない。


 早足には、小雨が出ると焦りが増える。


 なら、短い声はそれでいいのかもしれない。


 藤七は不満そうにしたが、最後には言った。


「……言われたら、ちょっと腹が止まるかもしれません」


 採用された。


 早足――小雨、焦るな。


 午後は、遅すぎる場合も試した。


 小雨札を出さずに、かやがこっそり飯包みに水を少し落とす。


 包みの端が湿る。


 手が滑る。


 藤七が早足用の包みを受け取り、開けにくそうにした。


「滑る!」


 佐助がすぐ言った。


「遅いです」


 かやが小雨札を出す。


 だが、その時にはもう飯場が少し慌てている。


 寅吉が荷箱を動かす。


 水場で太助が泥に気づく。


 半三が槍尻を見て舌打ちする。


 遅れると、一気に全部の枝が焦る。


 小雨札は早すぎると文句が出る。


 遅すぎると、場が滑る。


 その間を探る札だった。


 又八が言った。


「小雨札って、飯を変える札じゃなくて、人の腹を少し早めに濡らす札なんだな」


 佐助が頷く。


「はい。実際の飯が濡れる前に、腹を雨へ向ける札です」


 権六が文句腹帳へ書く。


 小雨札――腹を少し早めに濡らす札。


「表現が悪くないですね」


 伊三郎が言う。


「悪くないが、少し嫌だな」


 藤七が言う。


「それが小雨札の役かもしれません」


 きぬが静かに答えた。


「少し嫌なうちに準備する。嫌すぎる時には、もう遅いのかもしれません」


 その言葉に、皆が少し黙った。


 小雨札は、心地よい札ではない。


 早すぎると言われる札だ。


 だが、嫌がられるくらい早く出ないと、雨天飯は間に合わない。


 夕方、弥助殿への報告をまとめた。


 小雨札は、雨天飯を配る札ではなく、準備開始札。

 さらに、参加者の腹を雨へ向ける札。

 早すぎると腹が散る。遅すぎると場が滑る。

 小雨札は立てると強すぎるため、飯場では寝かせ札。

 近枝へ知らせるため短紐をつける。

 枝ごとに小雨の受け方を変える。

 水場――小雨、泥。

 馬水――小雨、馬足。

 槍列――小雨、槍尻。

 手当――小雨、布。

 早足――小雨、焦るな。

 小雨札は、心を変える札。飯が濡れる前に腹を雨へ向ける。


 弥助殿は報告板を読み、頷いた。


「よい」


「まだ早すぎると言われます」


 かやが言う。


「言われてよい」


 弥助殿は答えた。


「小雨札は、早すぎると言われるくらいでなければ役に立たぬ。ただし、強すぎる顔をするな」


「はい」


 夜、清洲蔵では雨天飯ではなく、普通の飯が出た。


 ただ、膳の端に小さな細札が置かれていた。


 小雨札ではない。


 佐助が、今日の試験を忘れないように置いたものらしい。


 藤七がそれを見て言った。


「飯の時まで札ですか」


 佐助が少し笑う。


「今日は食べる札ではありません」


 権六が言った。


「今日の飯は、小雨の前の味だな」


 太助が聞く。


「どんな味ですか」


「まだ濡れてない。でも、腹だけ少し空を見る味だ」


 きぬが小さく頷いた。


「小雨札らしいですね」


 俺は飯を食べながら、庭に寝かされた細い札を思い出した。


 早すぎると言われる札。


 けれど、遅ければ包みは湿る。


 美濃前哨飯線は、雨が降る前から、雨の腹を持たなければならない。

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