第百四十一話 水場文句役、太助任命
太助は朝から、水桶を見ないようにしていた。
見ないようにしているから、余計に見ている。
清洲蔵の庭には、人水桶、味噌水桶、馬水桶、非常水札が並べられていた。
人水桶は縦取っ手。
馬水桶は横棒取っ手。
味噌水桶には布印。
非常水には、触るなという強い札。
昨日までの試験で、水場は「飯場の芯」から伸びる枝として置かれることになった。
飯場が芯。
水場が枝。
馬水は別枝。
言葉にすると整っている。
だが、実際に水桶を持てば、そんな綺麗な言葉はすぐ重さに変わる。
桶は重い。
置き場がないと焦る。
誰かに「そこは駄目だ」と言われると、腹が荒れる。
太助はそれを自分の体で知っていた。
だからこそ、弥助殿は言った。
「太助、水場文句役をやれ」
朝の蔵が、一瞬だけ静かになった。
太助は、聞かなかったことにしたいような顔で弥助殿を見た。
「……俺ですか」
「そうだ」
「俺、文句役ではありません。人足です」
「水桶を持った人足だからよい」
「権六さんがいます」
権六は文句腹帳を抱えて、少しだけ楽しそうにしていた。
「俺一人では足りん。飯場と水場が同時に動いたら、両方の文句は拾えん」
「でも、俺が拾う側になると、言う側が減ります」
「おまえは拾いながら言うだろ」
「それ、役として大丈夫なんですか」
「たぶん大丈夫だ」
「たぶん……」
太助の顔がさらに困った。
かやが笑いをこらえながら言った。
「太助さん、向いてると思うよ」
「向いてると言われても、嬉しくないです」
きぬが穏やかに言う。
「水桶を持って声が荒れた経験があるから、荒れる前の顔が分かるかもしれません」
太助は少し黙った。
それは、逃げにくい言葉だった。
手当飯場の試験で、太助は水桶を持ったまま置き場を失い、声を荒げた。
水桶を持っているだけで、腹が焦る。
早く置きたい。
でも置く場所がない。
あちらは駄目、こちらも駄目。
そうなると、言葉が尖る。
その経験が、今度は役になる。
弥助殿は言った。
「水場で怒鳴る者を、怒鳴る前に拾え」
「怒鳴る前に?」
「そうだ。怒鳴ってからでは、列が割れる。水場の文句は、飯場へ走る」
馬水で飯列が割れた。
水場の揉め事は、水場だけでは終わらない。
飯列を割り、馬を動かし、槍列を止め、手当飯場まで濡らしかねない。
だから、水場にも文句役が要る。
権六一人では足りない。
太助は水桶を見た。
諦めたように、深く息を吐く。
「分かりました。やります」
権六がうなずいた。
「よし。では水場文句役、太助。最初の文句は?」
「俺がやるのが嫌です」
「採用」
「採用しないでください」
伊三郎は真面目に書いていた。
水場文句役、太助任命。本人文句――俺がやるのが嫌。
太助が顔を覆う。
「本当に書くんですね」
「最初の腹は大事です」
伊三郎は真顔だった。
試験は、水場枝から始まった。
今日は飯場の芯も動かす。
ただし、主役は水場。
人水、馬水、味噌水、非常水。
それぞれの文句を拾い、怒鳴る前に短く返す。
水場文句役の太助は、権六から簡単な心得を受けた。
「一つ。文句を潰すな」
「はい」
「二つ。文句を長く育てるな」
「潰さず、育てすぎず?」
「そうだ。芽で拾え」
「難しいです」
「だから役だ」
「三つ目は?」
「自分も文句を言うな、とは言わん。ただし、言ったら自分で拾え」
「本当に難しいです」
権六は少し笑った。
「水場はたぶん、飯場より声が荒れる。水はこぼれるし、桶は重いし、順番が見えにくい。馬も来る。非常水は触るなと言われる。味噌水は飯係がうるさい」
佐助がすぐ反応した。
「うるさいとは何ですか」
「ほらな」
権六が太助を見る。
「今のも拾うのですか」
「拾え」
太助は小さく頷き、言った。
「佐助さんは、味噌水を雑に扱われるのが嫌」
佐助は少し考え、頷いた。
「はい。雑に扱われると飯が崩れます」
「では、『味噌水は飯の腹』と返します」
権六が目を細める。
「いいな」
太助は驚いた。
「いいんですか」
「短い。根を言ってる」
伊三郎が書く。
味噌水文句への返し――味噌水は飯の腹。
最初の試験。
人水の列が動く。
人水桶の縦取っ手を立て、短く声を出す。
「人水」
水を汲む者が入る。
水場枝は、飯場の芯を横切らない配置になっている。
太助は水場の横に立ち、見ている。
最初は何も起きない。
何も起きないことが、かえって怖い。
すぐに、若い人足が言った。
「人水、遠くないですか」
太助の目が動く。
権六も見る。
太助は一瞬、どう返すか迷った。
それから言った。
「遠いと思った理由は?」
「飯を受け取った後に飲みに来ると、戻るのが面倒です」
「飯を受ける前は?」
「前なら……まあ、まだましです」
太助は頷いた。
「人水は飯の前枝。飯後に戻る人は、小水で足す案を記録します」
人足は少し驚いた。
「今すぐ近づけないんですか」
「近づけると飯列を横切ります」
「……それは嫌ですね」
太助は伊三郎へ目を向けた。
「飯後小水、検討」
伊三郎が書く。
権六が小さく言った。
「悪くない」
太助は少しだけ肩の力を抜いた。
次に、味噌水。
佐助が味噌水桶の布印を確認していると、別の人足が人水桶へ近づきながら、うっかり味噌水桶へ手を伸ばしかけた。
佐助の顔が変わる。
太助は先に声を出した。
「それ、味噌水です」
人足は手を止める。
「あ、すみません」
佐助が言う前に済んだ。
太助は続けた。
「味噌水は飯の腹。人水は縦取っ手です」
人足は縦取っ手を見て頷いた。
「分かりました」
佐助は太助を見た。
「助かりました」
「怒る前でした?」
「怒る前です」
「よかったです」
権六が書く。
太助、佐助怒る前に味噌水文句を止める。
「俺の文句じゃないですよね」
佐助が少し不満げに言う。
権六は平然と答える。
「文句の芽だ」
次に、馬水。
源太が馬を連れて馬水別枝へ入る。
馬水桶は横棒取っ手。
札は横長。
人水と同じ高さ。
桶の向きは、馬の尻が飯列へ向かないように調整してある。
源太は馬水の動きに敏感だ。
太助は少し身構えた。
馬が近づくと、人水側の若い人足が半歩下がる。
それを見て、源太が言う。
「馬が来るたびに逃げるな。馬が悪いみたいだ」
若い人足がむっとする。
「怖いものは怖いです」
空気が尖る。
太助は一瞬だけ権六を見た。
権六は何も言わない。
自分で拾え、という顔だ。
太助は口を開いた。
「馬が悪いんじゃなく、馬水の道が怖いんです」
源太が太助を見る。
「何だと」
「馬が悪いんじゃありません。でも、馬水の道が人水に近いと、人は逃げます。逃げると飯列に入ります。だから、馬水の道を直します」
源太は黙った。
若い人足も黙る。
太助は続けた。
「馬水は別腹です。でも、人の腹もあります。馬を悪者にしないために、道を悪者にします」
かやが小さく笑った。
「道を悪者にする」
権六が大きく頷いた。
「それ、いい返しだ」
源太は少し考え、馬の首を撫でた。
「……道が悪いなら、直せる」
「はい」
「馬が悪いと言われるよりはいい」
若い人足も言った。
「馬が悪いとは思ってません。ただ、近いと怖い」
太助は頷いた。
「では、馬水枝を半歩外へ。人水側には、馬が来る前に横棒取っ手を見せる」
かやがすぐ小縄を動かす。
伊三郎が書く。
馬が悪いのではなく、馬水の道が怖い。馬を悪者にしないため、道を直す。
権六は満足そうだった。
「水場文句役、初日にしてはいい」
「半分?」
太助が聞く。
「七分」
「高い!」
少し笑いが起きた。
だが、試験はまだ続く。
非常水。
これは一番厄介だった。
高畑で学んだように、非常水には強い言葉が要る。
非常触るな。
しかし、美濃前哨の水場では、人水、馬水、味噌水、非常水が同時に存在する。
非常水札が強すぎると、他の水場の腹を固くする。
弱すぎると触られる。
若い兵の一人が、非常水札を見て言った。
「これ、どのくらい非常なら触っていいんですか」
太助は少し詰まった。
確かに。
非常用。
そう書けば、非常とは何かという文句が出る。
高畑では井戸番が守った。
ここでは誰が守るのか。
佐助が言う。
「負傷者の水が足りない時は?」
源太が言う。
「馬が倒れそうな時は?」
藤七が言う。
「早足が喉をやられて走れない時は?」
又八が言う。
「味噌水が切れた時は?」
権六が文句腹帳を押さえた。
「一斉に言うな。帳面が溺れる」
太助は非常水札の前で、考え込んだ。
「非常水は、誰か一人が決めると揉めます」
「なら誰が決める」
弥助殿が聞く。
太助はしばらく黙った。
そして言った。
「水場役と手当役と馬水役、三つで決める。飯の味噌水には使わない。人の命、馬の命、火急の戻り。この三つだけ」
源太がすぐ言う。
「馬の命を入れたな」
「入れます。馬が倒れたら荷が動きません」
佐助が聞く。
「味噌水には使わない?」
「はい。味噌水は飯の腹ですが、非常水は命の腹です。飯が崩れるのも怖いですが、非常水を味噌へ回すと揉めます」
佐助は少し悔しそうに、しかし頷いた。
「分かりました」
きぬが言った。
「負傷者用の小水は、手当飯場に別で置くべきですね。非常水を毎回見ないように」
「はい」
太助は続けた。
「非常水は触るな。でも、触る時の決め方は先に決めておく」
権六が感心したように言った。
「おまえ、本当に水場文句役になってるぞ」
「嬉しくないけど、今のは自分でも少し腹に入りました」
伊三郎が書く。
非常水――命の腹。人の命、馬の命、火急の戻り。味噌水には使わない。水場役・手当役・馬水役の三者で判断。触るな、だけでなく触る時の決め方を先に置く。
午前の終わりには、太助の顔はかなり疲れていた。
水桶を持ったわけではない。
だが、文句を受けるだけでも疲れる。
権六が水を渡した。
「飲め」
「ありがとうございます」
「水場文句役が水を飲み忘れるな」
「はい」
源太が横から言った。
「人水か?」
太助は桶を見て答えた。
「人水です。縦取っ手」
「よし」
源太が真面目に頷いたので、太助は少し笑った。
午後は、飯場の芯と水場の枝を同時に動かした。
佐助が進む飯を出す。
藤七が早足横渡し枝を走る。
半三が槍整え枝に入る。
源太が馬水枝で馬を水へ入れる。
喜八が手当戻り枝の位置を見る。
寅吉が荷箱小枝から水替え用の桶を出す。
その中で、太助は水場の横に立った。
若い人足が人水を汲もうとして、飯列を見て焦る。
太助が言う。
「飯は逃げません。人水、先に一口」
馬廻りが馬水を急がせる。
太助が言う。
「馬水、横棒前。人水は今止まりません。道を分けます」
佐助が味噌水へ目を光らせる。
太助が言う。
「味噌水は飯の腹。布印を見て」
非常水札の近くへ誰かが寄る。
太助が声を低くする。
「非常触るな。触る時は三者で決める」
権六が少し離れて見ていた。
完全ではない。
太助は何度か言いよどんだ。
一度は、源太と言い合いになりかけた。
「馬水枝を半歩外へ」
「外へ出しすぎだ」
「人水が怖がります」
「馬が後回しに見える」
「後ろじゃない、別腹です」
「別腹なら札をもっと見せろ」
「札を大きくすると目立ちすぎます」
そこで太助は一度止まり、深呼吸した。
「馬が悪いんじゃなく、馬水の見え方が悪い。札の向きを変えます」
源太は、少しだけ頷いた。
「それなら直せる」
この言葉が、水場の合言葉のようになった。
人が悪いのではない。
馬が悪いのではない。
道が悪い。
見え方が悪い。
置き方が悪い。
なら、直せる。
夕方、弥助殿への報告で、太助は緊張した顔で立った。
「水場文句役、太助。報告します」
権六が横でにやにやしている。
太助は見ないようにした。
「人水は飯場から見えるが、列の進みを見せすぎると焦ります。飯後の小水が必要かもしれません。味噌水は飯の腹として扱い、布印を徹底します。馬水は、馬が悪いのではなく馬水の道が怖い、と返すことで、人足と馬廻りの文句が少し落ち着きました。非常水は、触るなだけではなく、触る時の決め方が必要です」
弥助殿は頷いた。
「よい」
太助の肩から、少し力が抜ける。
「水場文句役を続けろ」
「……はい」
今度は、あまり嫌そうに聞こえなかった。
権六が言う。
「任命継続だな」
「嬉しくないです」
太助はそう言ったが、声は朝より軽かった。
夜、清洲蔵では水場試験の後らしく、薄めの味噌汁が出た。
佐助がわざと薄くしたらしい。
「今日は水を考えすぎたので、味噌を濃くしすぎないようにしました」
権六が一口飲む。
「今日の飯は、水の文句の味だな」
太助が笑った。
「味が薄そうです」
「薄い。でも、腹に入る」
源太も味噌汁を飲み、言った。
「馬水も、明日はもう少しよくなる」
太助が頷く。
「馬が悪いんじゃなく、馬水の道を直します」
源太は少し笑った。
「それでいい」
水場文句役、太助。
最初は嫌がっていたその役が、清洲蔵の同時崩れ大試験に、ひとつ新しい耳を増やした。




