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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百四十話 飯場の芯、水場の枝

 同時崩れ大試験の場は、形になったようで、まだ形になっていなかった。


 飯場の芯。

 水場の枝。

 馬水の別枝。

 槍整え枝。

 手当戻り枝。

 早足横渡し枝。

 荷箱小枝。


 昨日の終わりには、そう名づけた。


 名づければ、少し見える。


 だが、名づけただけで動くわけではない。


 清洲蔵の庭には、朝から小縄と札が置かれ、飯箱、水桶、馬水桶、槍受け、手当飯場の布束、戻し飯の丸包み箱が仮置きされていた。


 上から眺めれば、何となく筋は通っている。


 けれど、実際に人が歩くと、すぐおかしくなる。


 藤七が早足横渡し枝を走る。

 半三たち槍持ちが槍整え枝に入る。

 源太が馬水枝へ馬を引く。

 太助が人水桶を運ぶ。

 佐助が飯場の芯で飯を並べる。

 きぬが手当戻り枝の布束を直す。


 全員が、それぞれ正しいことをしている。


 なのに、場はすぐ詰まった。


「全部が中心になりたがるんですよ」


 太助が、水桶を下ろして言った。


 権六が顔を上げる。


「いい文句だな」


「もう文句として採用されるの慣れてきましたけど、今日のは本音です」


 太助は庭を指した。


「飯場は中心で当然って顔をしてます。水場も、飲むものだから中心に近づきたい。馬水も、馬が大事だから後ろにされたくない。手当飯場も、いざという時に見えないと困る。槍列も、飯場に近くないと流れない。早足は遠いと怒る」


「俺は怒ってない」


 藤七が即座に言った。


 太助が振り返る。


「昨日、遠いって三回言いましたよ」


「三回じゃない。二回半だ」


「半分って何ですか」


「言いかけて飲み込んだ」


 権六が文句腹帳を開く。


「飲み込んだ半分も書くぞ」


「やめてください!」


 少し笑いが起きた。


 だが、太助の言葉は笑いでは終わらなかった。


 全部が中心になりたがる。


 それは、今日の場の痛みだった。


 弥助殿は庭の端から、その一言を聞いていた。


「中心は一つでよい」


 静かな声だった。


 皆がそちらを見る。


 弥助殿は続けた。


「だが、命綱は複数要る」


 中心は一つ。

 命綱は複数。


 伊三郎がすぐに筆を取る。


「中心は飯場、ですか」


「まずはな」


 弥助殿は飯場の札を指した。


「兵の腹を動かす芯は飯場だ。だが、水がなければ飯は通らぬ。馬が動かなければ荷は動かぬ。手当場が見えなければ痛む者が置かれる。槍が崩れれば飯場へ入れぬ。だから枝が要る」


 かやが小縄を持ったまま、少し考え込んだ。


「中心は一つ。でも、中心へ全部を寄せない」


「そうだ」


「中心へつなぐ枝を作る。でも枝は中心を横切らない」


「そうだ」


「枝が勝手に中心の顔をし始めたら?」


 弥助殿は短く答えた。


「腐る」


 権六がうなずいた。


「分かりやすい」


 飯場の芯を作る。


 そう決めたところで、まず飯場の位置を動かした。


 昨日は庭のほぼ中央に置いていた。


 だが、それでは水場も馬水も手当場も、全部がそこへ押し寄せる。


 今日は、飯場を少しだけずらした。


 完全な中央ではない。


 しかし、どの枝からも見失わない位置。


 佐助が飯箱を置き、周囲を見回した。


「ここなら、進む飯と戻し飯は出せます。ただ、雨天飯の準備札は横に置かないほうがいいです」


「なぜ?」


 かやが聞く。


「飯箱の横に札が多いと、飯より札を見ることになります」


 権六がすぐ書く。


 飯より札を見る場は、腹が疲れる。


 佐助は続けた。


「雨天飯は準備札です。小雨札が出たら、ここへ近づける。最初から飯場の芯に置くと、晴れていても雨の顔が出すぎます」


 又八が頷いた。


「戻し飯と同じだな。必要なのは分かるが、目立ちすぎると腹が落ちる」


「雨天飯も、常に見せる飯ではないですね」


 伊三郎が書く。


 雨天飯準備札――芯に常置せず、小雨札で枝から芯へ寄せる。


 次に水場。


 太助は、すでに顔が少し嫌そうだった。


 自分でも気づいたらしく、先に言った。


「俺、まだ任命されてませんよね」


 権六がにやりとする。


「何に」


「水場文句役です」


「近いだろうな」


「嫌です」


 弥助殿が太助を見る。


「水桶を持て」


「はい……」


 太助は素直に水桶を持った。


 人水桶。


 縦取っ手の桶だ。


 かやは水場枝を、飯場の芯から少し斜めへ伸ばした。


 水場を近づけると、飯が濡れる。

 離すと、飯前に喉が渇く者が文句を言う。

 馬水と近すぎると、馬の鼻と尻が問題になる。

 非常水を遠ざけすぎると、非常時に届かない。


 どこへ置いても文句が出る。


「水場は、飯場の横ではなく、飯場の前でもなく、斜め枝」


 かやが言った。


「飯を取る前に水へ寄りたい者もいる。飯を取った後に水へ寄りたい者もいる。でも水列が飯列を横切るのは駄目」


 太助が桶を持って歩く。


 飯場の芯へ向かう人の流れ。

 水場枝へ向かう人の流れ。


 斜めにしたことで、横切りは減った。


 ただ、別の問題が出た。


「水場へ行く人が、飯場の芯をちらちら見ます」


 太助が言った。


「なぜ」


 権六が聞く。


「飯を取り損ねるんじゃないかって思うからです。水を飲んでる間に列が進むと、置いていかれる感じがする」


 置いていかれる。


 戻し飯の時にも出た言葉だ。


 きぬが静かに言った。


「水場から飯場が見える必要がありますね」


「でも見えすぎると、水場の者が焦ります」


 太助が返す。


 かやが小縄を動かした。


「じゃあ、水場枝から飯場の芯が見えるけど、列の細かい進みまでは見えない角度」


「そんな都合よくできます?」


 藤七が聞く。


「やるしかない」


 かやは水場札の向きを変えた。


 水場へ入る時、飯場の芯は視界の端に入る。


 だが、飯列の先頭が誰かまでは分かりにくい。


 これで少しだけ、水場の焦りが減った。


 太助は水桶を置き、息を吐いた。


「まだ嫌ですけど、さっきよりましです」


「七分?」


 権六が聞く。


「六分」


「厳しいな」


「水場は厳しいんです」


 伊三郎が書く。


 水場枝――飯場の芯は見えるが、列の進みを見せすぎない角度。水場の置いていかれ不安対策。


 次は馬水。


 源太は最初から腕を組んでいた。


「馬水を枝の枝にするのは構わん。だが、後ろに回すな」


「別枝です」


 かやが言う。


「別枝でも、見た目が後ろなら後ろだ」


 源太は相変わらず厳しい。


 馬水札は横長。


 人水札と高さを合わせる。


 桶は横棒取っ手。


 馬の尻が飯列へ向かない向き。


 昨日までの修正を入れてある。


 だが、飯場の芯と水場の枝を作り直したため、馬水の位置も変わる。


 馬を実際に入れてみると、馬水は飯場から少し離れた。


 源太の顔がすぐ曇る。


「遠い」


 藤七が即座に言った。


「俺の早足飯場より近いですよ」


「馬は人より大きい。距離の感じ方が違う」


「そんな理屈あります?」


「ある」


 権六が書く。


 馬水距離、人と馬で感じ方が違う。


 源太は馬の首を撫でながら続けた。


「馬水が遠いと、馬廻りが飯場へ戻るのも遅れる。そうすると馬付きの飯が後回しになる」


 佐助が頷いた。


「馬付き小渡しを馬水枝の入口に置く案がありました」


「箱を置くな」


 かやが言う。


「箱ではなく、小渡し役です」


 佐助が返す。


 弥助殿が口を挟んだ。


「馬付き小渡しは、常に立てるな」


「必要時だけですか」


「そうだ。馬水枝が動く時だけ出る。終われば消える」


 市松の文句が、また出てきた。


 場所を取るな。


 必要な時だけ出て、終われば消える。


 川道の一本縄から始まった考え方は、もう清洲蔵の基本になりつつあった。


 源太は馬付き小渡しの位置を見て、ようやく頷いた。


「これなら、馬廻りが飯場へ戻りすぎなくて済む」


「七分?」


 太助が聞く。


「六分半」


「刻んできましたね」


 槍整え枝は、さらに難しかった。


 半三は、槍戻し受けを持ってきた。


 低い。

 手を離せない高さ。

 槍尻を一息だけ乗せるもの。


 かやはそれを槍整え枝の横へ置こうとした。


 藤七がすぐ言った。


「そこ、早足が曲がるところです」


 半三が返す。


「こっちは槍だ。早足が少し回れ」


「早足に回れって言うのは、川に遠回りしろって言うのと同じです」


「大げさだ」


「槍も大げさに場所を取ってます」


 空気が少し尖った。


 権六が間に入る。


「よし、二人とも文句を根まで言え」


 藤七は言う。


「早足は、曲がりすぎると勢いが死ぬ。止まると役が死ぬ」


 半三は言う。


「槍は、整え場が狭いと先に崩れる。槍が崩れれば飯場へ入れない」


 どちらも正しい。


 だから面倒だ。


 かやは槍戻し受けを固定で置くのをやめた。


「これは、場に置く道具じゃなくて、槍列の枝が動く時に出す道具にしたほうがいいかも」


 半三が眉を寄せる。


「持ち運ぶのか」


「今はまだ案です。でも、場に置くと早足の邪魔になる。なら、槍列の者が必要時だけ出す」


「不安定なら使わないぞ」


「分かってる。折りたたみは駄目かもしれない。持ち運べるが、置いた時はしっかりする形を考える」


 半三は少し考え、頷いた。


「今日のところは、場の外へ置け。使う時だけ出すなら試す」


 藤七も言う。


「常に置かないなら、まだ走れます」


 権六が書く。


 槍戻し受け、常置すると早足枝を食う。必要時だけ出す方向。


 これは次話の種にもなる問題だった。


 今日の段階では、完全には解決しない。


 だが、邪魔者扱いされる理由は見えた。


 手当戻り枝。


 きぬは、飯場の芯から少し斜め後ろへ手当飯場を置いた。


 見えすぎない。

 見えなさすぎない。

 戻る者が見つけられる。

 進む者の正面には来ない。


 喜八が実際に歩いた。


 飯場の芯から見ると、手当飯場は視界の端にある。


 気にすれば分かる。


 だが、ずっと目に入るわけではない。


「昨日よりいいです」


 喜八は言った。


「怖くない?」


 きぬが聞く。


「怖くないわけじゃないです。でも、見せられてる感じは減りました」


 きぬはほっとした顔をした。


「手当飯場は、見せ場ではありませんから」


「戻れる場所、でしたね」


「はい」


 又八が戻し飯場から声をかける。


「戻し飯場と近いな」


「近すぎますか」


 きぬが聞く。


「近すぎるというか、意味が重なる。戻し飯と手当飯が同じに見えると、また縁起が悪いって言う奴が出るぞ」


 弥平が苦笑する。


「俺か」


「おまえみたいなのだ」


 弥平は肩をすくめた。


「なら、札より流れで分けろ。手当は痛んだ者が行く枝。戻し飯は列を戻す枝。入口を変えればいい」


 以前、戻し飯を笑った弥平が、今は説明する側に回っている。


 権六が小さく笑った。


「成長したな」


「うるさい」


 伊三郎が書く。


 手当戻り枝と戻し飯場、近いが入口を分ける。意味の混同を避ける。戻し飯は列、手当飯は痛む者と支える者。


 午前の試験を終える頃、試験場はだいぶ整理された。


 ただし、整理された分、別の怖さが出た。


 芯が強くなりすぎると、枝が従属する。


 枝が強くなりすぎると、芯を奪う。


 弥助殿が言った。


「飯場の芯は、王ではない」


 皆が少し驚いた。


「中心だからといって、全部を従わせるな。芯は流れを受ける場所だ。命令する場所ではない」


 伊三郎が筆を止めた。


「芯は、命令ではなく受ける場所」


「そうだ」


 佐助が飯箱を見て、静かに頷いた。


「飯場は、腹を受ける場所ですね」


 権六が言う。


「文句も受ける」


「水も受ける」


 太助が言う。


「馬の影も受ける」


 源太が言う。


「槍の半歩も受ける」


 半三が言う。


「痛む人も、支える人も、戻る人も」


 きぬが言う。


 飯場の芯は、強く立つための中心ではない。


 全部の枝から来る腹を、受けて流す場所。


 そう思うと、配置の意味が少し変わった。


 午後は、少しだけ飯を動かした。


 進む飯を芯から配る。


 藤七が早足横渡し枝で受け取る。


 太助が水場枝から人水を運ぶ。


 源太が馬水別枝を通る。


 半三が槍整え枝を使って飯場へ入る。


 喜八が手当戻り枝を確認する。


 寅吉が荷箱小枝から必要な箱を出し、すぐ戻す。


 全員が同時に少し動いた。


 完全ではない。


 藤七はまだ「遠い」と言った。


 源太は「馬水は六分半」と言った。


 半三は槍戻し受けを場に置かないことに不満を残した。


 太助は水桶を置く時に顔をしかめた。


 喜八は手当飯場を見て、少しだけ目を逸らした。


 寅吉は荷箱を置く音を抑えようとして、逆に時間がかかった。


 文句はある。


 だが、流れは見えた。


 飯場の芯。

 水場の枝。

 馬水の別枝。

 槍整え枝。

 手当戻り枝。


 美濃前哨飯線は、ようやく同時に動くための形を持ち始めた。


 夕方、弥助殿への報告はこうなった。


 飯場を芯とする。

 ただし、芯は王ではなく受ける場所。

 水場枝は飯場の芯を横切らない。飯場は見えるが、列の進みを見せすぎない。

 馬水は別枝。人水の後ろではなく別腹。馬付き小渡しは必要時のみ出る。

 槍整え枝は芯へ入る前に置く。槍戻し受けは常置しない方向。

 手当戻り枝は飯場の正面ではなく斜め。見せ場にしない。戻し飯場とは入口を分ける。

 荷箱小枝は必要時だけ芯へ出す。

 枝は必要時だけ伸ばし、終われば消す。

 全部が中心になりたがるため、中心は一つ、命綱は複数。


 弥助殿は最後の行を見て、頷いた。


「それを覚えておけ」


「はい」


「次は、水場文句役だ」


 太助が露骨に肩を落とした。


「やっぱり俺ですか」


「おまえだ」


「俺、普通の人足だったはずなんですが」


 権六が笑った。


「普通の人足だからいいんだよ。水桶を持って声が荒れた普通の人足だから、水場の文句が拾える」


 太助は困った顔で水桶を見た。


「水場、怖いですね」


 源太が言った。


「馬水も見ろよ」


「見ます。でも馬を怒らせないでください」


「馬が怒るんじゃない。人が怒らせる」


 権六が書こうとする。


 源太が止めた。


「今のも書くのか」


「書く。水場文句役の初日に使える」


 夜、清洲蔵では、普通の飯に少しだけ戻し飯の丸包みが添えられた。


 太助は水桶の話で頭がいっぱいなのか、箸を持ちながらぼんやりしている。


 きぬが声をかけた。


「太助さん、大丈夫ですか」


「大丈夫です。たぶん」


 権六がすぐ言う。


「たぶんは文句の入口だ」


「もう何でも文句にするじゃないですか」


「役だからな」


 かやが笑いながら言った。


「明日は太助さんが水場文句役か。少し楽しみ」


「楽しみにしないでください」


 太助は本気で困っている。


 だが、その困った顔こそ、水場で怒鳴る前の誰かを救う顔かもしれない。


 飯場の芯と水場の枝は、まだ完全ではない。


 それでも、中心と命綱の違いは見えた。


 美濃前哨飯線は、一つの大きな場へ近づいている。

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