第百三十九話 同時に崩れる場を作れ
信長様の言葉は、清洲蔵へ戻ってからも、ずっと床の上に残っていた。
同時に崩れろ。
もちろん、そう命じられたわけではない。
けれど、意味は同じだった。
飯場だけを試すな。
水場だけを試すな。
馬水だけを試すな。
槍列だけを試すな。
戻し飯だけを試すな。
手当飯だけを試すな。
雨天飯だけを試すな。
美濃では、別々に崩れない。
同時に崩れる。
なら、試験でも同時に崩しておけ。
清洲蔵の者たちは、その言葉の重さを噛みながら、朝から庭を見ていた。
庭は広い。
だが、広くない。
米俵を置くだけなら広い。
飯場を一つ作るだけなら広い。
水桶をいくつか並べるだけなら、まだ広い。
だが、そこへ馬水を入れ、槍列を入れ、戻し飯場を入れ、手当飯場を入れ、雨天飯の準備札を入れ、文句役を入れ、早足用の横渡しまで入れようとすると、途端に庭は狭くなる。
かやは、朝から小縄と札を手に庭を歩き回っていた。
「減らしたい」
ぽつりと、かやが言った。
太助がすぐ反応する。
「何をですか」
「全部」
「それ、試験が消えます」
「分かってる。でも、多すぎる」
かやは地面へ小札を置いた。
飯場。
水場。
馬水。
槍列。
戻し飯。
手当飯。
雨天飯。
早足。
列文句。
水場文句。
槍戻し受け。
担架役一息場。
並べるだけで、目が疲れる。
権六が腕を組んだ。
「札だけで飯が食えそうだな」
「食えません」
佐助が真顔で返す。
「たとえです」
「札が多すぎると、飯を取る前に腹が疲れます」
その言葉に、皆が少し黙った。
佐助は、冗談で言ったわけではない。
飯そのものだけでなく、飯へたどり着くまでの札や道具が多すぎれば、それだけで腹が疲れる。
美濃前哨飯線は、役が増えすぎている。
だが、減らすと見分けがつかなくなる。
伊三郎は帳面を開いたまま、眉間に皺を寄せていた。
「一つにまとめるほど、役の違いが消えます」
「どういうことだ」
権六が聞く。
「飯場と戻し飯場を近づけると、進む飯と戻し飯の違いが曖昧になります。水場と手当飯場を近づけると、水役と布役が混ざります。槍列と早足を近づけると、槍の半歩と早足の焦りがぶつかります」
「離すと?」
「遠くなります。遠くなると、藤七殿が文句を言います」
藤七はすぐ言った。
「言いますよ。遠いと走る前に腹が減る」
「ほら」
伊三郎が妙に真面目に頷く。
権六は文句腹帳を開いた。
「今日も始まったな」
「まだ配置の話です」
藤七が言う。
「配置の文句が、本番の列を作るんだよ」
弥助殿は、庭の端に立っていた。
いつものように、急いで答えを出さない。
ただ、皆が揉めるのを見ている。
この人は、揉める前に止めない。
揉めて、腹の中身が見えてから手を入れる。
信長様と似ているところがある。
「全部を一つの場で同時に動かす」
弥助殿がようやく口を開いた。
「だが、全部を一つに混ぜろとは言っていない」
俺は、その言葉に顔を上げた。
全部を一つに混ぜるな。
同時に動かすことと、混ぜることは違う。
かやも同じところへ引っかかったらしく、地面へ置いた札を見直した。
「同じ場だけど、同じ腹じゃない……?」
「そうだ」
弥助殿は頷いた。
「美濃で飯場と水場と馬と槍と手当は同じ時に動く。だが、それぞれの役は違う。役が消えれば、同時に崩れる前に混ざって腐る」
伊三郎が、すぐ書いた。
同時に動かす。
だが、混ぜない。
その二行だけで、少し庭が見えやすくなった。
俺は地面の小札を見つめた。
飯場を中心に置けば、水場がぶつかる。
水場を中心に置けば、飯場が遠くなる。
馬水を離せば、源太が馬を後回しにされたと言う。
手当飯場を隠せば、必要な時に見つからない。
目立たせれば、喜八のような者が腹を固くする。
槍戻し受けを置けば、藤七が走りにくいと言う。
なくせば、槍持ちが勝手に柱へ立てかける。
全部が中心になりたがっている。
でも、中心は一つしか置けない。
俺は小札を二つに分けた。
「芯の流れと、枝の流れに分けるのはどうでしょう」
皆がこちらを見る。
俺はまず、飯場の札を中央に置いた。
「芯の流れは、飯を受け取り、次へ動く流れです。進む飯、戻し飯、雨天飯の準備、列文句役。ここは太くしすぎず、でも全員が見失わない場所に置きます」
次に、水場を少し斜めへ置く。
「水場は枝です。ただし、飯場へ水が入る枝。人水、味噌水、非常水。馬水はさらに別枝」
馬水札を水場の斜め外へ。
「馬水は、水場の枝からさらに分かれる。飯列を割らない向きにする」
手当飯場を、飯場の後ろではなく、戻る流れの先へ置く。
「手当飯場は戻り枝。進む列の正面ではなく、戻る者が見つけられる斜め。隠さない。でも見せ物にしない」
最後に槍列。
「槍列は、芯へ入る前の整え枝です。槍を持つ者が飯場へ入る前に、槍の角度を整える。槍戻し受けはそこへ置く。ただし、芯の流れに置かない」
かやは地面の札を見つめたまま、ゆっくり頷いた。
「全部を中心に寄せるんじゃなくて、飯場の芯へ入る枝を作る」
「はい」
伊三郎が筆を走らせる。
芯の流れ――飯場。
枝の流れ――水場、馬水、槍整え、手当戻り、早足横渡し。
権六が文句腹帳を覗き込みながら言った。
「枝が多すぎると、また絡まるぞ」
「絡まります」
俺は認めた。
「だから、枝は芯へ突っ込ませない。枝は芯を支える。芯を横切らない」
太助が水桶を見た。
「水列は飯列を横切らせない、ですね」
「そうです」
源太が馬の手綱を持ちながら口を挟んだ。
「馬水の枝は、人水の後ろではなく別腹だ」
「はい。別腹の枝です」
「なら、まだ飲み込める」
源太はすぐに納得しない。
でも、「飲み込める」と言った。
それは前進だ。
半三は槍を肩に乗せ、槍列の札を見ていた。
「槍整え枝、か。飯場の手前なら悪くない。ただし、槍戻し受けが早足の邪魔になるなら揉めるぞ」
「揉めます」
かやが答える。
「だから、枝同士もぶつけないようにしないと」
藤七がすぐ言った。
「早足の道は短くしてください」
「短くしすぎると芯へ突っ込みます」
太助が返す。
「じゃあ、曲げてください」
「曲げると遠くなります」
「面倒ですね」
権六が書く。
早足、短いと突っ込む。曲げると文句。
藤七が苦笑した。
「もう俺が言う前に書いてません?」
「言う顔をしてた」
「顔で書くのやめてください」
寅吉は黙って荷箱を持っていた。
太助がちらりと見る。
「寅吉さん、今どう思いました?」
「……言うほどじゃない」
権六が即座に反応した。
「出た」
寅吉は観念したように言った。
「枝が増えると、荷箱をどこへ置けばいいか迷う。芯の近くに置くと邪魔だし、枝に置くと取りに行くのが面倒だ」
かやが頷いた。
「荷箱は芯じゃなくて、芯の後ろの小枝ですね。出す時だけ前へ」
「小枝まで増えたぞ」
権六がうめく。
「でも、場所としては必要です」
伊三郎が書く。
荷箱小枝――常置せず、必要時だけ芯へ出す。
少しずつ、試験場の見取りが変わってきた。
前は、札と道具がただ散らばっていた。
今は、芯と枝が見える。
飯場の芯。
水場の枝。
馬水の別枝。
槍整え枝。
手当戻り枝。
早足横渡し枝。
荷箱小枝。
名前は多い。
だが、全部が中心に押しかけるよりは、ずっとましだった。
午後、実際に動線を歩く試験をした。
まだ飯は配らない。
まず、空で動く。
藤七が早足の横渡し枝を走る。
途中で槍整え枝の端に近づきすぎる。
「邪魔です!」
半三がすぐ返す。
「そっちが近い」
「俺の道がここなんです」
「槍の枝を削るな」
かやが間に入った。
「早足枝を半歩外へ」
「遠くなります!」
藤七が言う。
「半歩だけ」
「早足には半歩が大きいんです」
太助が笑う。
「槍にも半歩が大きいです」
「飯線、半歩ばっかりですね」
藤七の文句に、皆が一瞬だけ笑った。
だが、事実だった。
半歩で崩れる。
半歩で助かる。
半歩で怖くなる。
半歩で届く。
かやは早足枝をほんの少し曲げた。
距離は増えたが、槍整え枝には当たらない。
藤七は走ってみて、渋々頷いた。
「遠いけど、走りやすい」
「半分?」
権六が聞く。
「六分」
「悪くない」
源太は馬水枝を歩かせた。
馬水桶は、横長札と横棒取っ手。
馬の尻が飯場へ向かないよう、桶の向きも調整してある。
馬を入れると、やはり皆の目が動く。
だが、飯場の芯へ直接入らないため、前より飯列は割れにくい。
「馬水の別枝は、もっと外へ出せる」
源太が言う。
「外へ出しすぎると、馬廻りの飯が遠くなります」
佐助が返す。
「馬廻り用の飯は、馬水枝の入口で渡せばいい」
「それだと飯箱が増えます」
「箱ではなく、小渡し役でいい」
藤七が口を挟む。
「早足の横渡しと同じですね」
馬廻り用の小渡し。
また一つ枝が増える。
だが、箱を増やすよりはいい。
かやは小さな札を置いた。
馬付き小渡し。
権六が頭を抱えた。
「枝が森になるぞ」
弥助殿が言った。
「森にするな。枝は必要な時だけ伸ばせ」
「必要な時だけ?」
「札を置きっぱなしにするな。小渡し役が立つ時だけ出す。終われば消す」
川道の一本縄と同じだ。
使う時だけ出る。
終わったら消える。
場所を取らない。
市松の文句が、また生きる。
場所を取るな。
清洲の顔を太くするな。
手当戻り枝も試した。
喜八が負傷者役ではなく、今日は手当場を見る役として立つ。
きぬは手当飯場を、飯場の正面ではなく斜め後ろへ置いた。
布束は全部見せない。
飯包みと受け布は手前。
血止め布は布役の側。
支え飯は一息場の横。
戻し飯場へつなぐ道は、芯の後ろから伸びる。
喜八は少し見てから言った。
「昨日より怖くないです」
「見えにくいですか」
きぬが聞く。
「必要なら分かります。でも、ずっと目に入るわけじゃない」
それは、山裾の「見る人数を村で決める」に近かった。
見たい人には見える。
見たくない人を押し潰さない。
でも、隠さない。
手当飯場は、見せ場ではなく戻れる場所。
まだ先の話だが、その形が少し見えた。
夕方になる頃、試験場の地面には、小縄と札で奇妙な図ができていた。
上から見れば、木の根のようにも見える。
太い幹ではない。
中央に飯場の芯があり、そこから枝が伸びたり、枝が芯へ戻ったりしている。
伊三郎はその図を見て、ようやく少しだけ表情を緩めた。
「帳面が、少し立ちました」
「倒れてたのか」
権六が聞く。
「倒れかけていました。全部を並べようとすると、何が何だか分からなくなりました。でも、芯と枝なら書けます」
「じゃあ今日の収穫は芯枝帳だな」
「美濃前哨飯線帳の中に入れます」
「また増える」
「でも、倒れません」
伊三郎がそう言い切ったので、権六は何も言わなかった。
弥助殿への報告は、こうまとまった。
同時崩れ大試験は、全部を同じ場で動かすが、混ぜない。
飯場を芯の流れにする。
水場は枝。馬水は別枝。
槍列は芯へ入る前の整え枝。
手当飯場は戻り枝。
早足は横渡し枝。
荷箱は必要時だけ芯へ出す小枝。
枝は芯を横切らない。
枝は必要時だけ伸ばし、終われば消す。
道具を減らしすぎると役が消える。増やしすぎると森になる。
芯と枝で、同時に動かしながら混ぜない。
弥助殿は報告板を読み、頷いた。
「よい」
「まだ配置だけです」
俺が言うと、弥助殿は答えた。
「配置が崩れれば、飯は始まる前に崩れる」
その通りだった。
今日、飯はほとんど動かしていない。
それでも、何度も揉めた。
早足と槍。
馬水と飯場。
手当飯場の見え方。
荷箱の置き場。
場を作るだけで、腹は動く。
夜、清洲蔵では普通の飯が出た。
豪華ではない。
麦飯と味噌汁、少しの漬物。
だが、皆やけに黙って食べた。
今日は試作飯の味ではなく、場を作る疲れが腹に残っていた。
権六が味噌汁をすすって言った。
「今日の飯は、枝の味だな」
太助が首を傾げる。
「木の味ですか?」
「違う。どこから食えばいいか迷う味だ」
かやが笑った。
「それ、失敗じゃない?」
「いや、最後には食えた。だから六分」
「権六さんまで採点するようになった」
伊三郎は帳面を閉じながら言った。
「明日は、飯場の芯と水場の枝をもっと詰める必要があります」
「水場か……」
太助が嫌そうな顔をした。
弥助殿がその顔を見る。
「太助」
「はい」
「水場を見る目を鍛えておけ」
「え、俺ですか」
「水桶で声を荒げた者は、水場の腹を知っている」
権六がにやりと笑った。
「水場文句役、近いな」
太助は本気で困った顔をした。
「嫌な予感しかしません」
その困った顔が、また誰かの腹を救うのかもしれない。
同時崩れ大試験の場は、まだ形になったばかりだ。
だが、飯場の芯と枝の流れが見えたことで、清洲蔵はようやく次の大きな崩れへ向かう準備を始められた。




