第百三十八話 信長、試験の失敗を喜ぶ
報告板は、重かった。
米俵より重いわけではない。
板そのものは薄い。
だが、そこに書かれた失敗の数が、清洲蔵の者たちの肩へずしりと乗っていた。
馬水で飯列が割れた。
槍列は半歩で崩れた。
戻し飯を笑った兵が出た。
手当飯場では、負傷者役より先に運ぶ者が疲れた。
雨なし雨天試験では、晴れているのに水を撒く理不尽さで文句が噴き出した。
水場の声は長すぎた。
槍受けは置き場になりかけた。
戻し飯の札は目立ちすぎると腹を落とした。
手当飯場は、全部を見せると怖がられ、隠しすぎると届かなかった。
黙る文句は荷箱の音に出た。
書けば書くほど、うまくいかなかったことばかりに見える。
伊三郎は報告板の前で、筆を置いたまま黙っていた。
権六も文句腹帳を抱えているが、いつものように軽口を言わない。
佐助は、試作飯の包みを並べ直しては戻している。
かやは槍受けの浅い溝を指でなぞりながら、何度も首を傾げている。
きぬは手当飯の布束を畳み直していた。
太助は、何も持っていないのに水桶を持った後のように肩を回している。
大規模試験は、失敗だらけだった。
もちろん、何も得られなかったわけではない。
馬水桶の取っ手形。
水桶の向き。
斜め入口。
槍持ち用進む飯の端芯。
槍戻し受け。
戻し飯を「置いていかない飯」として再定義したこと。
手当飯は痛む人と支える人の両方を守る飯だと分かったこと。
得たものはある。
だが、それ以上に、崩れたものが多すぎた。
「これ、上様に出すんですよね」
太助が小さく言った。
「出す」
弥助殿は短く答えた。
「全部ですか」
「全部だ」
権六が苦い顔で報告板を見た。
「失敗の見本市みたいだな」
「その通りだ」
弥助殿は、まったく慰めない。
「見本市って言葉、文句腹帳に入れますか」
伊三郎が聞くと、権六は首を振った。
「入れるな。いや……入れろ。今日の腹は、それだ」
伊三郎は書いた。
大規模試験、失敗の見本市。
権六は自分で言っておいて、さらに沈んだ顔をした。
「本当に書くんだな」
「重要ですので」
かやが小さく笑った。
その笑いも、すぐ消えた。
信長様へ報告する。
それはもう、飯線図を見せるだけのことではない。
清洲蔵の仕事が、どこで崩れたかをすべて見せるということだった。
広間へ向かう前、佐助が戻し飯の丸包みを一つ手に取った。
「これも持っていきますか」
「持っていく」
弥助殿が答える。
「手当飯も」
「持っていく」
「槍持ち用の端芯入り進む飯も?」
「持っていく」
「雨天飯も?」
「持っていく」
佐助は頷いた。
「では、失敗した飯も、直した飯も持っていきます」
「そうだ」
失敗した飯。
直した飯。
その両方を持っていく。
飯線図も、文句腹帳も、美濃前哨飯線帳も、列腹帳も、馬腹帳も、槍腹の札も、手当飯場の布印も。
全部を持って、広間へ向かった。
清洲城の広間は、いつもより静かだった。
信長様は上座に座り、こちらが報告板を並べるのを見ている。
家臣たちもいる。
前に戻し飯と手当飯を見た時よりも、表情が硬い。
大規模試験で失敗が出たことは、すでに少し伝わっているのだろう。
誰かが小声で言った。
「ずいぶん崩れたらしいな」
権六の眉がぴくりと動く。
弥助殿が一歩前へ出た。
「美濃前哨飯線、大規模試験の結果を報告いたします」
信長様は、短く言った。
「言え」
まず、伊三郎が全体を読み上げた。
大規模試験の参加者は、あえて文句の出やすい者を入れたこと。
戻し飯を嫌がる兵。
列を乱しやすい若い人足。
馬水を優先したがる馬廻り。
槍を置きたがらない槍持ち。
手当飯を見たくない者。
文句を我慢して黙る者。
それだけで、家臣たちの間に少しざわめきが起きた。
信長様は黙っている。
伊三郎は続けた。
「試験場設営時点で、文句が多数出ました。飯場が遠い、水場が近い、馬水が後回しに見える、槍の置き場がない、戻し飯の札が嫌、手当飯場を見たくない、などです」
信長様の目が、わずかに細くなる。
「よい。続けろ」
次は、馬水。
源太の文句から、人水と馬水を上下ではなく別腹に見せる必要があること。
馬水桶の取っ手形を変えたこと。
水場声が長すぎると混乱するため、「人水」「馬水」に短縮し、桶の取っ手で状態を示すようにしたこと。
馬の尻が飯列へ向くと、恐怖と避け半歩で飯列が割れること。
飯列入口は斜めにし、短縄で背を示す案になったこと。
信長様は一つだけ聞いた。
「馬水は、米を奪ったか」
「いいえ」
俺は答えた。
「しかし、飯列を割りました」
「なら、馬は飯線を食ったな」
「はい」
信長様は頷いた。
「続けろ」
槍列。
小規模ではうまくいった「受け・納め・次」が、十二人では声が遅れ、半歩のずれが膨らみ、槍尻が足元へ近づいたこと。
慎重すぎると列が伸び、早足の横渡しを塞いだこと。
一呼吸の槍受けが人数増加で詰まり、二段にすると置き場になりかけたこと。
飯包みの納めにくさが槍受けを腐らせたため、槍持ち用進む飯に端芯を入れたこと。
疲れた兵が勝手に槍を立てかけかけたため、槍戻し受けが必要になったこと。
信長様は、槍受けの木片を手に取った。
「置き場ではないのだな」
かやが答える。
「はい。一呼吸、あるいは一息だけ槍尻を支えるものです。手は離しません」
「手を離せば」
「置き場になります。置き場になると、槍列が腐ります」
「よい」
かやは少しだけ肩の力を抜いた。
戻し飯。
弥平が「戻し飯なんか食うと負け癖がつく」と笑ったこと。
権六が「上様が最初に食った飯だ」と返し、笑いを止めたこと。
だが、笑いの根は縁起ではなく、退く時に自分だけ置いていかれる怖さだったこと。
戻し飯を「置いていかない飯」と再定義したこと。
戻る者だけでなく、戻す者にも必要な飯だと分かったこと。
信長様は、戻し飯の丸包みを見た。
「笑った兵は食ったか」
「食べました」
権六が答えた。
「何と言った」
「負け癖の味はしない。置いていかない味だ、と」
広間に小さな笑いが起きた。
今度は軽い嘲笑ではなく、少しだけ腹が緩む笑いだった。
信長様も口元を少し動かした。
「よい。笑いの根を見たな」
「はい」
権六は頭を下げた。
手当飯。
負傷者役より、担架役、水役、布役が先に疲れたこと。
水桶の置き場がなく、太助の声が荒れたこと。
運ぶ者用の飯があっても、藤七が「あとで」と言って食べなかったこと。
担架役一息場が必要になったこと。
しかし一息場が戻し飯場を隠す危険があること。
担架役が二人同時に離れると、負傷者役が置かれた感じを覚えたこと。
「少し待て」より「すぐ戻る」のほうが、置いていかない言葉として効いたこと。
きぬが一歩前へ出て言った。
「手当飯は、痛む人と支える人の両方を守る飯だと分かりました」
信長様は、手当飯の布束を見た。
「支える者が倒れれば、痛む者も置かれる」
「はい」
「よい」
きぬは静かに頭を下げた。
最後に、雨なし雨天試験。
晴れている日に水を撒くことで、理不尽への文句が出たこと。
雨天飯は天気ではなく状態で切り替える必要があること。
濡れ始めたら準備を始めること。
小雨札は雨天飯を配る札ではなく、準備開始札にすること。
濡れた手では折り印が滑ること。
濡れた札は形と高さで判別する必要があること。
通常の槍受けは雨で意味が変わること。
信長様は、泥をわざと塗った札を見て言った。
「晴れている時に濡らしたか」
「はい」
かやが答える。
「参加者から文句が出ました。晴れているのに濡れるのは理不尽だ、と」
「よい文句だ」
信長様は、あっさり言った。
広間にいた家臣の数人が、少し驚いた顔をした。
信長様は続けた。
「戦場は理不尽だ。晴れていても足元が濡れることはある。上流で雨が降ることもある。馬が水を跳ねることもある。理不尽に文句を言う腹が見えたなら、試験の役に立った」
ここまで報告すると、清洲蔵側はすっかり沈んでいた。
報告しながら、自分たちでどれだけ崩れたかをもう一度思い知らされたからだ。
伊三郎は板を持つ手に力を入れている。
佐助は、試作飯の横で視線を落としていた。
かやも、いつものような軽い笑顔がない。
太助は少し肩をすぼめている。
権六でさえ、文句腹帳を抱えたまま黙っていた。
信長様は、そんな俺たちを見た。
「何を沈んでいる」
誰もすぐには答えられなかった。
俺は頭を下げた。
「失敗が、多すぎました」
広間が静かになる。
信長様は、少しだけ笑った。
「よく崩れた」
その言葉に、顔を上げそうになった。
よく崩れた。
叱責ではない。
むしろ、褒めているようだった。
信長様は、飯線図の横に置かれた失敗札を指した。
「馬水で飯列が割れた。よい。水場と飯場を別に置くだけでは足りぬと分かった」
次に槍受け。
「槍列が半歩で崩れた。よい。小人数でできた声が、大人数では遅れると分かった」
戻し飯。
「戻し飯を笑う兵が出た。よい。縁起ではなく、置いていかれる怖さが根にあると分かった」
手当飯。
「運ぶ者が先に疲れた。よい。怪我人だけ見ていては手当場が崩れると分かった」
雨札。
「晴れているのに濡らされて文句が出た。よい。天気ではなく状態で動くべきだと分かった」
信長様の声は、次第に広間へ広がった。
「本番で初めて崩れれば、兵が死ぬ。試験で崩れれば、帳面が増える」
権六が思わず小さく呟いた。
「帳面は増えすぎですがね」
広間の空気が一瞬固まる。
だが、信長様は笑った。
「なら、帳面を持つ腕も鍛えろ」
小さな笑いが広がった。
権六は慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません」
「よい。文句役が黙りすぎれば、文句腹帳が腐る」
権六は顔を上げられないまま、少しだけ笑っていた。
信長様は改めて言った。
「崩れ方を知る軍は、折れる前に戻れる」
その言葉で、広間の空気が変わった。
「崩れ方を知らぬ軍は、折れるまで進む。折れてから慌てる。戻る飯もなく、水場も乱れ、槍も倒れ、負傷者も置かれる」
誰も声を出さない。
「だが、崩れ方を知っていれば、折れる前に戻せる。馬水の桶を直せる。槍列の声を変えられる。戻し飯の意味を返せる。手当場に一息を置ける。雨が降る前に雨天飯を準備できる」
信長様は俺を見た。
「清吉」
「はい」
「これは失敗ではない。崩れ方の収穫だ」
胸の奥に、何かが落ちた。
失敗の見本市。
そう思っていた。
だが、信長様は、それを収穫と言った。
崩れ方の収穫。
伊三郎の筆が、震えながら動いている。
美濃前哨飯線帳に、その言葉を書いているのだろう。
信長様はさらに命じた。
「次は、実戦寄りに直せ」
「はい」
「馬を増やせ。槍を増やせ。戻し飯を笑う者だけでなく、黙って嫌がる者も入れろ。手当飯場には、支える者を先に食わせる形を入れろ。雨天飯は、小雨札から準備を始めさせろ。列文句役は、飯場の横だけでなく、水場にも置け」
権六が顔を上げる。
「水場にも、文句役でございますか」
「水場の文句が飯列を割ったのだろう」
「はい」
「なら置け」
「承知しました」
信長様は弥助殿を見た。
「次の試験は、場を一つにしろ」
「一つに、ですか」
「飯場だけ、水場だけ、槍列だけ、手当場だけではなく、同じ時に動かせ。美濃では別々に崩れぬ。同時に崩れる」
広間の空気が、また重くなる。
同時に動かす。
馬水。
槍列。
戻し飯。
手当飯。
雨天状態。
列文句。
それらが同時に動けば、今日よりさらに崩れるだろう。
だが、信長様の言葉を聞いた後では、崩れることを恐れるだけではいられなかった。
崩れ方を知る軍は、折れる前に戻れる。
それを腹に入れなければならない。
報告が終わると、信長様は最後に戻し飯を一つ取った。
広間の全員が、それを見た。
信長様は、丸包みを開け、一口食べた。
「まだ直せる」
佐助が深く頭を下げた。
「はい」
「よい飯は、完成した飯ではない。直し続ける飯だ」
佐助の目が少し赤くなった。
信長様はそれ以上何も言わず、報告を終えた。
清洲蔵へ戻る道で、皆は少しだけ軽くなっていた。
失敗が消えたわけではない。
馬水の問題も、槍列の半歩も、戻し飯の笑いも、手当飯場の疲弊も、全部残っている。
だが、それらはただの失敗ではなくなった。
崩れ方の収穫。
そう呼べるものになった。
蔵へ戻ると、伊三郎はすぐ帳面を開いた。
新しい頁の頭に、信長様の言葉を書く。
崩れ方を知る軍は、折れる前に戻れる。
権六が横から覗き込み、頷いた。
「これは文句腹帳にもいるな」
「文句ではありませんが」
「文句を拾う者の柱だ」
「では写します」
佐助は戻し飯をもう一度並べた。
「まだ直せます」
かやは槍受けと水桶札を見比べている。
「同時に動かすなら、道具の数を減らさないと混ざる」
きぬは手当飯場の布束を整えながら言った。
「支える人を先に食わせる形……考えます」
太助は水桶を見て、少し嫌そうに笑った。
「水場にも文句役ですか。権六さん、忙しくなりますね」
「おまえもやるんだよ」
「俺も?」
「水桶を持って声が荒れた者の言葉は、説得力がある」
太助は困った顔をした。
「また変な役が増えました」
「役は増える。腹も増える」
権六はそう言って、少し笑った。
夜、清洲蔵では、大規模試験で使った飯の残りを食べた。
進む飯。
戻し飯。
雨天飯。
手当飯。
支え飯。
失敗だらけの飯だった。
でも、不思議とまずくはなかった。
権六が椀を置いて言った。
「今日の飯は、崩れた味だな」
太助が聞く。
「悪い味ですか」
「いや。崩れたけど、拾えた味だ」
きぬが静かに頷いた。
「拾えたなら、直せますね」
佐助も言った。
「直します」
伊三郎は帳面を閉じた。
「次は、同時に崩れる試験です」
皆が一瞬、箸を止めた。
そして、誰かが小さく笑った。
怖い。
だが、見ないほうがもっと怖い。
清洲蔵は、また次の崩れ方を見ることになる。




