第百三十七話 手当飯、運ぶ者が先に倒れる
戻し飯の試験で、弥平が笑いを飲み込んだ翌朝。
清洲蔵の庭には、手当飯場が作られていた。
飯箱は二つ。
一つは、負傷者本人へ渡す柔らかい手当飯。
もう一つは、運ぶ者や支える者へ渡す小さな支え飯。
……のはずだった。
少なくとも、佐助の案ではそうなっていた。
だが実際に試験場へ並べてみると、皆の目はどうしても負傷者役へ向いた。
負傷者役。
担架。
血止め布。
拭き布。
水。
手当飯。
それらのほうが目立つ。
運ぶ者の飯は、どうしても端に置かれる。
佐助はその端の飯箱を見て、少し眉を寄せた。
「……端すぎますね」
かやが配置を見直す。
「でも中央へ置くと、手当飯場が太る」
きぬも布束を並べながら頷いた。
「負傷者本人用の飯と、運ぶ者用の飯が混ざるのも危ないです」
「混ぜない。でも遠ざけすぎない」
権六が文句腹帳を開いた。
「もう文句が出そうだな」
「まだ何も始まってません」
太助が言うと、権六は首を横に振った。
「始まる前に出る文句が、一番正直な時もある」
今日の試験は、手当飯場の実動試験だった。
負傷者役を担架で運び、手当飯場へ連れてくる。
血止め布、拭き布、水、手当飯を渡す。
必要なら戻し飯の列へつなげる。
その間、飯列と水列を邪魔しない。
聞くだけなら、できそうに思える。
しかし、これまでの経験で俺たちは知っていた。
できそうなものほど、実際にやると崩れる。
負傷者役は、喜八が務めることになった。
最初、喜八は顔を強張らせた。
「俺が、怪我人役ですか」
きぬは、無理に頷かせなかった。
「嫌なら、見る役でも構いません」
喜八は少し迷ったあと、首を横に振った。
「やります。見てるだけより、たぶん腹に入る」
その言葉に、権六が小さく頷く。
「いい文句の育ち方だ」
「褒めてます?」
喜八が聞く。
「半分」
「半分ですか」
最近、半分褒めるのが清洲蔵の妙な流行になっている。
担架役は寅吉と藤七。
水役は太助。
布役はきぬと若い女中のすえ。
飯役は佐助。
列文句役は権六。
記録は伊三郎。
かやは場と道具を見る。
半三は槍を持ったまま、手当場の横を通る槍持ち役。
源太は馬水場から手当飯場へ水の影響が出ないかを見る。
又八と弥平は戻し飯場の側で、手当飯場から戻し飯へつなぐ役だ。
弥助殿は、いつものように少し離れて見ている。
試験が始まった。
「負傷者、出た」
作兵衛の声が響く。
喜八が片足を痛めた役で、地面に座る。
寅吉と藤七が担架を持って走り寄る。
最初の動きは悪くなかった。
寅吉は力がある。
藤七は足が速い。
二人で喜八を担架へ乗せ、手当飯場へ向かう。
だが、すぐ問題が出た。
「藤七、速い!」
寅吉が低く言った。
「急がないと!」
藤七が返す。
「速すぎると担架が揺れる!」
喜八が担架の上で、少し顔をしかめる。
役だと分かっていても、揺れる担架は怖い。
藤七は速度を落とした。
すると、今度は後ろの水役である太助が詰まる。
太助は水桶を持っている。
止まると重い。
「止まるなら言ってください!」
「こっちは担架だ!」
藤七が言い返す。
権六がすぐ書いた。
担架、速すぎると揺れる。遅くすると水役が詰まる。
手当飯場へ着く前から、もう列が乱れている。
それでも、何とか喜八を手当飯場へ運んだ。
きぬが血止め布と拭き布を分ける。
「飯はまだです。先に水で口を湿らせます」
佐助が手当飯を用意する。
太助が水桶を置こうとした。
その瞬間、源太が声を出した。
「その置き方だと、馬水の道へ出る」
「今は負傷者です!」
太助が言い返す。
「負傷者でも馬が通る道へ水桶を置くな」
「じゃあ、どこへ置けばいいんですか!」
太助の声が少し荒くなる。
水桶は重い。
負傷者役は待っている。
布役は場所を欲しがる。
馬水側からは邪魔だと言われる。
太助の額に汗が滲んでいた。
きぬがすぐ言った。
「太助さん、水桶は一度こちらへ。ですが、手当飯の前には置かないでください」
「はい、分かってます、分かってますけど……」
太助は水桶を少しずらす。
その半歩が、今度は手当飯箱へ近づいた。
佐助が慌てる。
「飯箱の横は避けてください。水が跳ねます」
「じゃあ、どこならいいんですか!」
太助の声が、ついに大きくなった。
庭が静まる。
太助は、自分で声を荒げたことに気づき、すぐ頭を下げた。
「すみません」
弥助殿は止めなかった。
権六も怒らなかった。
ただ書いた。
水役、置き場がなく声が荒れる。根:水桶の重さと置き場不明。
きぬが静かに言った。
「太助さん、謝るより、どこが一番困りましたか」
太助は息を整えながら答えた。
「水桶を持ったまま待つのがきついです。早く置きたい。でも、置く場所が全部駄目って言われる。そうなると、腹が焦ります」
佐助が頷いた。
「水役用の仮置き場が必要です」
「置き場を作ると場所を食う」
権六が言う。
「でも、置き場がないと水役が先に崩れます」
きぬの言葉に、皆が黙った。
先に崩れる。
そう、今日の試験はそこだった。
負傷者を助けるための手当飯場。
しかし、負傷者役の喜八より先に、水役の太助が崩れかけた。
試験は続く。
喜八に手当飯を渡す。
柔らかく、薄味で、受け布付き。
片手でも開けられる包み。
喜八はそれを受け取り、ゆっくり食べた。
「どうですか」
佐助が聞く。
「食べやすいです。でも……」
「でも?」
「俺は担架で運ばれてるだけだから、食べられる。でも運んでくれた二人は、まだ何も食べてません」
寅吉と藤七を見る。
寅吉は黙っている。
藤七は肩で息をしている。
担架を運び、止まり、また動き、水桶を避け、槍列の横を抜けた。
まだ一度目なのに、二人の息は乱れていた。
佐助が運ぶ者用の小さな飯を出す。
「これを」
藤七が受け取る。
だが、手が震えている。
「開けにくい」
佐助の顔が変わる。
「戻し飯より簡単にしたはずです」
「手が疲れてるんです。あと、急いで食べようとすると、口が乾く」
寅吉も小さく言った。
「小さすぎると、噛む前に落としそうだ」
「昨日も言っていましたね」
伊三郎が書く。
運ぶ者用飯、手が疲れていると開けにくい。小さすぎると落としそう。急ぎ食いで口が乾く。
藤七は飯を口に入れたが、すぐ水を欲しがった。
「水、少し」
太助が水桶を持とうとする。
また重い。
きぬが止めた。
「水役が毎回桶を持つと、先に倒れます。小さな水筒か、手当場用の小水が要ります」
源太が言う。
「馬水とは完全に分けろ」
「分けます」
きぬははっきり答えた。
佐助は運ぶ者用飯を見直していた。
「柔らかくしすぎると手につく。乾かしすぎると水を欲しがる。小さすぎると落とす。大きすぎると手が塞がる」
権六が苦笑する。
「手当飯、面倒だな」
きぬが静かに言った。
「面倒で済むうちに、見ておきたいです」
その一言で、権六は黙って頷いた。
二度目の試験。
今度は、運ぶ者にも先に小さな支え飯を持たせた。
寅吉と藤七の腰に、運ぶ者用飯。
小さな棒状で、端に引き印がある。
担架を持つ前に食べるのではなく、運び終えた直後に食べる想定だ。
しかし、また問題が出た。
藤七は運び終えると、すぐ次の指示を待って動こうとする。
飯を食べない。
「藤七、支え飯」
太助が言う。
「あとで!」
「あとでじゃ遅いです」
「今は次が気になるんです!」
藤七の腹は、早足だ。
止まって食べることが苦手。
運ぶ者用飯があっても、食べない。
これは大きい。
飯を用意しただけでは駄目だ。
食べる間を作らなければならない。
弥助殿が言った。
「手当場に、運ぶ者の一息を作れ」
「一息の受けみたいに?」
かやが聞く。
「そうだ。槍だけではない。人にも一息の受けが要る」
きぬが頷いた。
「担架役の一息場」
伊三郎が書く。
担架役一息場――運び終えた直後、支え飯と小水を取る場所。次へ走らせすぎない。
藤七は不満そうだった。
「早足を止めるんですか」
権六が返す。
「止めるんじゃない。次に走らせるために一息入れる」
「それ、戻し飯の時と同じですね」
藤七が言った。
「戻るために食べる。次に走るために止まる」
「分かってきたじゃないか」
藤七は少し照れたように顔をそむけた。
三度目。
今度は、手当飯場の横に小さな一息場を作る。
担架を置いた後、寅吉と藤七はそこへ行く。
支え飯を一つ。
小水を一口。
そして、次の指示。
流れはよくなった。
だが、今度は一息場が飯場の列を少し食った。
又八が戻し飯場から言う。
「そこに人が止まると、戻し飯場が見えにくい」
弥平も頷く。
「置いていかない飯が、見えなくなるぞ」
「嫌な言い方だけど正しい」
権六が書く。
一息場、戻し飯場を隠す危険。
かやが配置をずらす。
「手当場、一息場、戻し飯場を一直線にしない。少し扇にする」
「扇?」
「負傷者本人、支える人、戻る列。それぞれ見えるけど、重ならない形」
きぬが手当飯場の布束を動かす。
「血止め布は奥。飯包みは手前。支え飯は横。戻し飯はその先」
喜八が見て言った。
「これなら、全部が一度に目に入らない」
「怖くないですか」
きぬが聞く。
「まだ怖いです。でも、さっきより見られます」
それも大事だった。
手当飯場は、見せ物ではない。
必要な者が必要なものを見られる配置にする。
山裾の村の目が、またここに生きている。
四度目の試験で、さらに問題が出た。
担架役が飯を食べる間、誰が負傷者役のそばにいるのか。
きぬとすえが布を見る。
佐助が飯を見る。
太助が水を見る。
だが、喜八が言った。
「担架で運んだ人が急に離れると、不安になります」
藤七が驚いた顔をした。
「俺たちが?」
「はい。運んでくれた人がすぐいなくなると、置かれた感じがします」
置かれた感じ。
戻し飯の時にも出た言葉だ。
置いていかない。
手当飯でも同じだった。
担架役が一息を取る必要はある。
だが、全員が一斉に離れると、負傷者役は不安になる。
きぬが考えた。
「担架役は二人同時に離れない。一人が一息、もう一人が声をかける」
寅吉が頷いた。
「交代で食べるならできる」
藤七は少し嫌そうだ。
「また待つんですか」
太助が笑う。
「藤七さん、待つ試験ばかりですね」
「早足なのに」
権六が書く。
担架役、一斉に離れない。交代一息。負傷者へ声を残す。
声を残す。
それも良い言葉だった。
飯や水だけではない。
声も、手当の一部になる。
喜八は担架の上で言った。
「『少し待て』じゃなくて、『すぐ戻る』のほうがいいです」
きぬが聞く。
「どう違いますか」
「少し待て、だと置かれてる感じがします。すぐ戻る、だと戻ってくる気がします」
弥平が戻し飯場から言った。
「置いていかない言葉だな」
権六がすぐ書く。
置いていかない言葉――少し待て、より、すぐ戻る。
弥助殿が静かに頷いた。
手当飯場の試験は、予定より長くなった。
そして、予定よりずっと疲れた。
負傷者役の喜八は、担架に乗っている時間が長かったが、体力的にはそこまで崩れなかった。
先に疲れたのは、運ぶ者だった。
寅吉。
藤七。
太助。
水役。
布役のすえ。
支える側が先に息を切らす。
それが今日の答えだった。
夕方、弥助殿への報告。
俺は小帳面を見ながら言った。
「手当飯は、怪我人だけの飯ではありません。負傷者本人用、担架役用、水役用、布役用、見守る者用に分ける必要があります。運ぶ者が先に疲れます。支える者が倒れれば、負傷者も置いていかれます」
きぬが続けた。
「担架役一息場が必要です。ただし、戻し飯場を隠さない配置にします。担架役は二人同時に離れず、交代で支え飯を食べます。負傷者には『すぐ戻る』と声を残します」
佐助も言った。
「手当飯は、痛む人と支える人の両方を守る飯です。本人用は柔らかく、粘りすぎず。運ぶ者用は小さく、落としにくく、水を奪いすぎない形にします」
権六が文句腹帳を叩いた。
「今日の一番は、運ぶ者が先に倒れる、ですね」
弥助殿は頷いた。
「よい」
その一言に、皆の肩が少し落ちた。
疲れたのだ。
だが、今日の疲れは無駄ではなかった。
夜、清洲蔵では手当飯と支え飯が出た。
喜八は手当飯を食べる。
寅吉と藤七は支え飯を食べる。
太助は小水用の器を見ながら言った。
「水役用の飯も要りますね」
「太助さん、今日は本当に疲れてましたからね」
佐助が答える。
「水桶って、持ってるだけで腹が焦ります」
権六が書こうとする。
太助は手を上げた。
「どうぞ。もう書いてください」
権六は少し笑った。
「成長したな」
「嬉しくない方向で」
きぬは、支え飯を見て静かに言った。
「手当飯は、痛い人だけを見ていては駄目ですね」
「はい」
俺は頷いた。
「支える人も、痛みます」
権六が手当飯を食べながら言った。
「今日の飯は、人を支える腕の味だな」
藤七が首を傾げる。
「分かるような、分からないような」
「分からなくていい。食えば分かる」
美濃前哨飯線帳に、手当飯の頁がまた厚くなった。
手当飯は、怪我人だけの飯ではない。
痛む人と、支える人。
その両方を守る飯だった。




