第百三十六話 戻し飯を笑った兵
槍列が半歩で崩れた翌日、清洲蔵の庭には、まだ浅い槍受けの木片が残されていた。
一呼吸の受け。
一息の受け。
槍戻し受け。
名前だけ聞けば、まるで茶の作法のようだ。
だが実際には、槍持ちが飯を受け取る時に列を崩さないための、泥臭い工夫である。
飯を食う。
ただそれだけのことが、槍を持てば難しくなる。
馬がいれば水場が割れる。
雨が降れば包みが滑る。
負傷者がいれば布が混ざる。
戻し飯を置けば、兵の腹がざわつく。
美濃前哨飯線は、飯の味だけではもう済まないところまで来ていた。
その日の試験は、戻し飯だった。
弥助殿は朝から、いつもより言葉少なだった。
試験場には、昨日から参加している又八に加えて、新しい兵が一人入った。
名は弥平。
背は高い。
声も大きい。
いかにも、周囲に影響を与える兵だった。
彼は戻し飯の丸包みを見るなり、笑った。
「これが噂の戻し飯か」
その笑い方で、庭の空気が少し変わった。
又八が顔をしかめる。
藤七が面白がるように見る。
寅吉は黙って荷箱を持ったまま、少しだけ手に力を入れた。
権六が文句腹帳を開いた。
弥平はそれを見て、さらに笑った。
「文句まで帳面にするのか。清洲蔵はずいぶん几帳面だな」
「文句役だからな」
権六は短く返した。
「なら書け。戻し飯なんか食うと、負け癖がつく」
その言葉は、庭の中を嫌な速さで走った。
負け癖。
戻し飯を嫌がる者はいた。
縁起が悪い。
腹が後ろ向きになる。
戦の前に見たくない。
それは何度も聞いた。
だが、「負け癖がつく」と笑われると、違う重さがあった。
笑いは軽い。
軽いから、広がりやすい。
藤七が少し笑いかけた。
又八が「おい」と低く言う。
喜八は手当飯場の近くで、さらに顔を固くした。
佐助は戻し飯の丸包みを見つめたまま、唇を結んでいる。
俺は一歩出ようとした。
だが、権六が手で制した。
怒鳴らない。
今日の権六は、怒鳴るために立っているのではない。
拾うために立っている。
「弥平」
権六は静かに言った。
「何だ」
「上様が最初に食った飯だ」
弥平の笑いが止まった。
庭の空気も止まる。
「……本当か」
「本当だ。進む飯より先に、戻し飯を食った」
権六は文句腹帳を閉じなかった。
開いたまま、弥平を見る。
「それでも負け癖がつくと言うなら、もう一度言え。帳面に残す」
弥平は、すぐには言わなかった。
信長様が最初に食べた。
この言葉は強い。
戻し飯にまつわる軽い笑いを、一度で止めるだけの重さがある。
だが、それで弥平の腹が納得したわけではなかった。
彼は少し顔をそむけ、吐き捨てるように言った。
「上様が食ったなら、俺は何も言えん」
「違う」
権六が言った。
「言え」
弥平が眉を寄せる。
「何だと?」
「何も言えん、で飲み込むな。嫌なら嫌と言え。文句を潰すなと言われてる」
その言葉に、周囲の兵たちが少しざわついた。
戻し飯を笑った兵を黙らせるのではない。
言わせる。
ただし、笑いのまま流させない。
弥平は権六を睨んだ。
「なら言う。戻し飯なんて、いざという時に退くことを前提にした飯だろう。そんなものを腰に下げていたら、足が後ろへ行く」
「縁起が悪い、だな」
「それだけじゃない」
弥平の声が少し低くなった。
「戻る飯があるってことは、戻る奴がいるってことだ。戻れる奴がいるってことだ」
権六の手が止まった。
弥平は続けた。
「戦場で、全員が戻れるわけじゃない」
庭の空気が変わった。
さっきまでの軽い笑いが、消えた。
「戻し飯を配られる奴はいい。戻れるからな。でも、戻れない奴はどうする。置いていかれる奴はどうする」
誰もすぐには答えられなかった。
弥平は笑っていた。
だが、その笑いの下にあったのは、縁起ではなかった。
恐怖だった。
退く時、自分だけ置いていかれるかもしれない。
戻し飯を受け取る者と、受け取れない者が出るかもしれない。
飯が戻る道を示すほど、戻れない者の影が濃くなる。
それが、弥平の腹を荒らしていた。
又八が低く言った。
「……おまえ、それを最初から言えよ」
「言えるかよ」
弥平は苦い顔をした。
「怖いなんて言えるか。だから笑ったんだ」
権六は、ゆっくり文句腹帳へ書いた。
戻し飯を笑う根。
縁起ではなく、置いていかれる怖さ。
伊三郎も美濃前哨飯線帳へ写す。
俺は、戻し飯の丸包みを見た。
戻る飯は、退く者の飯。
そう思っていた。
崩れないための飯。
退く時に死なないための飯。
悔しさを邪魔しない飯。
だが、まだ足りなかった。
戻し飯は、戻れる者だけの飯ではない。
戻すための飯でなければならない。
置いていかない飯。
その言葉が、腹の底に落ちた。
きぬが静かに口を開いた。
「戻し飯は、ひとりで逃げるための飯ではありません」
弥平がきぬを見る。
「では何だ」
「戻る列を崩さないための飯です。列が崩れなければ、置いていかれる人を減らせます」
きぬは手当飯場のほうを見た。
「手当飯も同じです。怪我をした人だけではなく、運ぶ人にも飯が必要です。支える人が倒れたら、怪我をした人も置いていかれます」
弥平は黙った。
佐助も、戻し飯を一つ手に取った。
「戻し飯は、戻る人だけに渡す飯ではありません。戻る道を支える人にも渡す飯です」
「支える人?」
佐助は頷いた。
「後ろを見る者。人数を数える者。負傷者を運ぶ者。列の最後を守る者。そういう人が腹を空かせると、置いていかれる人が出ます」
権六が言った。
「つまり、戻し飯は置いていかない飯だな」
その言葉に、庭の全員が少し黙った。
置いていかない飯。
戻し飯の意味が、また少し変わった。
縁起の悪い飯ではない。
負け癖の飯でもない。
退く者だけの飯でもない。
置いていかないための飯。
弥平の顔から、笑いが消えた。
「……そう言われると、笑いにくいな」
「笑うなら笑え」
権六が返す。
「ただし、次からは根も言え。負け癖って笑いで隠すな」
弥平は舌打ちした。
だが、怒ってはいなかった。
むしろ、少し楽になったようにも見えた。
「食えばいいんだろ」
佐助が戻し飯を渡す。
丸包み。
字ではなく形で分かるようにした戻し飯。
弥平はしばらくそれを見てから、結びを解いた。
片手でも開けやすいようにしてある。
口へ入れる。
噛む。
飲み込む。
「どうだ」
又八が聞いた。
弥平は少し不満そうに言った。
「……負け癖の味はしない」
権六がすぐ書いた。
「それは書くな」
「書く。重要だ」
「腹立つな、この帳面」
藤七が横から言った。
「置いていかない飯なら、早足にも必要じゃないですか」
「どういうことだ」
俺が聞くと、藤七は真面目な顔をした。
「早足は先へ行く役です。でも、戻る時にも走るかもしれません。誰かを呼びに行くとか、後ろが詰まってるって知らせるとか。その時、腹が空いてると走れません」
「早足用の戻し飯」
佐助がすぐ反応した。
「小さく、喉を奪わず、走る前でも食べられる形ですね」
又八が苦笑する。
「また増えたな」
「増えます」
佐助はもう慣れていた。
増えることを恐れない。
ただ、増やしすぎて場を太らせないことを考える。
半三も槍を持ったまま言った。
「槍持ちにも戻し飯は要る。退く時に槍を捨てるわけにはいかん。だが、進む飯ほど重いと動きが鈍る」
源太も馬水場から声を出す。
「馬廻りにもだ。馬を戻す者が腹を空かせたら、馬も崩れる」
寅吉は黙っていたが、荷紐を結ぶ手を止めて言った。
「荷を戻す者にも、要ります」
黙る文句ではなく、声になった。
権六は満足そうに頷いた。
「見ろ。戻し飯は、戻る奴だけじゃなくて、戻す奴の飯でもある」
伊三郎が書く。
戻し飯再定義。
置いていかない飯。
戻る者と、戻す者の飯。
早足、槍持ち、馬廻り、荷戻し、手当支えにも必要。
弥助殿は、しばらく黙って聞いていた。
やがて、低く言った。
「よい」
その一言で、庭の空気が少し落ち着く。
「戻し飯を笑う者を入れた意味があったな」
権六が頷く。
「笑いの根が見えました」
「笑いは軽い。だが、軽いからこそ怖い。根を見ろ」
「はい」
その後、戻し飯の受け取り試験を行った。
今度は、弥平を列の中に入れる。
わざと周囲へ聞こえるように、軽口を言わせる。
「おい、戻し飯だぞ。負け癖がつくんじゃねえか」
前なら空気が揺れただろう。
だが今度は、又八がすぐ返した。
「上様が最初に食った飯だ」
藤七が続ける。
「置いていかない飯だろ」
半三が槍を持ったまま言う。
「戻る時に槍列を崩さない飯だ」
源太も言った。
「馬を戻す者にも要る」
弥平は苦笑した。
「総攻撃かよ」
権六が横で腕を組んでいる。
「笑いが広がる前に、意味を広げる。悪くない」
ただし、問題も出た。
戻し飯を「置いていかない飯」と言い直すと、今度は手当飯との境が近くなる。
喜八が手当飯場の前で言った。
「じゃあ、手当飯と何が違うんですか」
きぬが答える。
「手当飯は、痛む人と支える人の飯。戻し飯は、戻る列を崩さない飯です。重なるところはありますが、場が違います」
「場が違う」
「はい。手当飯は手当場。戻し飯は戻る列。どちらも置いていかないためにあります」
喜八は少し考えて頷いた。
「それなら分かります」
彼は、以前より手当飯場を見られるようになっている。
まだ血止め布を見ると顔が固くなる。
だが、逃げなくなった。
午後には、戻し飯の札も少し変わった。
「戻」の字を大きく出しすぎると腹が落ちる。
かといって隠すと縁起が悪くなる。
そこで、丸包みに加えて、小さな「戻し」印を内側に付けることになった。
受け取る時には丸包みで分かる。
開けると内側に戻し印。
隠すのではない。
必要な者が確かめられる位置に置く。
又八がそれを見て言った。
「表にでかでかと戻って書かれるよりましだ」
弥平も頷いた。
「負け癖って笑う隙が減る」
「笑いたいのか」
権六が聞く。
「怖い時は笑いたくなる」
弥平は正直に言った。
権六はそれも書いた。
怖い時は笑いたくなる。
文句腹帳に新しい根が増えた。
夕方、弥助殿への報告で、俺は今日の流れをまとめた。
「戻し飯を笑った兵の本音は、縁起ではなく、退く時に置いていかれる怖さでした。戻し飯は、戻る者だけの飯ではなく、戻す者の飯、置いていかない飯として再定義しました。又八殿、弥平殿、藤七、半三、源太、寅吉、それぞれの役にも戻し飯が必要です」
弥助殿は頷いた。
「よい」
権六が続ける。
「笑いで文句が広がる前に、意味を返す必要があります。上様が食った飯だ、という言葉は強い。ただ、それだけでは根が残ります。置いていかれる怖さを拾わないと、また別の笑いで出ます」
弥助殿は権六を見た。
「文句役らしくなったな」
権六は少し照れた。
「……文句を言われる側の気分も、少し分かってきました」
「それでよい」
夜、清洲蔵では戻し飯が出た。
今日は、参加者全員に配られた。
弥平も食べる。
又八も食べる。
藤七は小さめの早足用戻し飯を試している。
半三は槍を横に置かず、手元に立てたまま食べる。
源太は馬廻り用に、片手で食べられる形を佐助に注文している。
寅吉は荷紐を緩めすぎず、きつすぎず結んでいた。
権六が戻し飯を食べながら言った。
「今日の飯は、笑いを飲み込んだ味だな」
「おいしくなさそうですね」
太助が言う。
「いや、悪くない。笑ってごまかすより、腹に入る」
弥平が苦笑した。
「俺のことか」
「おまえのことだ」
「なら、書けよ」
権六は少し驚いた顔をした。
弥平は戻し飯をもう一口食べた。
「負け癖の味はしない。置いていかない味だ」
権六は頷き、文句腹帳へ書いた。
戻し飯は、置いていかない味。
戻し飯の頁は、また少し強くなった。




