第百三十五話 槍列、半歩で崩れる
馬水で飯列が割れた翌朝、清洲蔵の庭には十数本の槍が並べられていた。
昨日の馬とは違う圧がある。
馬は生き物だから、近づくだけで腹がざわつく。
息を吐く。
尾を振る。
蹄を鳴らす。
こちらの動きに反応する。
槍は喋らない。
息もしない。
だが、長い。
ただ長い。
その長さだけで、人の動きを変える。
「今日は槍列だ」
弥助殿が言った。
半三が槍を一本持ち上げる。
槍を置きたがらない槍持ち。
昨日まで、彼は一呼吸の槍受けにずっと不満を持っていた。
槍は手の延長だ。
飯のために手を切る気はない。
そう言った男だ。
かやは、その言葉を受けて低い槍受けを作り直していた。
置き場ではない。
一呼吸の受け。
槍を完全に預けるのではなく、槍尻をほんの一瞬だけ支える浅い溝。
昨日の馬水試験の間にも、かやは木片を削り、溝の深さを変え、縄で滑りを止める案を試していた。
「今日は人数を増やす」
弥助殿が続けた。
「小規模でできたことが、大規模で崩れるかを見る」
権六が文句腹帳を開く。
「半三が昨日言ってましたね。崩れる気がするって」
半三は眉を寄せた。
「書いたのか」
「書いた。予感は文句の種だ」
「嫌な帳面だな」
「役に立つ帳面だ」
半三は言い返さなかった。
庭には槍持ち役が十二人集められていた。
前回は五人。
今日は倍以上だ。
槍持ちのほか、飯配り役、列文句役、早足役の藤七、荷箱を運ぶ寅吉、そして見張り役もいる。
実戦ほどではない。
だが、庭の圧は明らかに変わっていた。
槍が十二本あるだけで、庭が狭くなる。
槍先が空を切り、槍尻が地面の近くで動く。
人は自分の幅だけでなく、槍の幅を持つ。
太助がそれを見て、ぽつりと言った。
「槍持ちは一人で二人分くらい場所を取りますね」
「二人分で済むか?」
作兵衛が返す。
「慣れてない人なら三人分かもしれません」
権六が書く。
槍持ち、人の幅ではなく槍の幅で場所を食う。慣れない者は三人分。
半三が少し不満そうに言う。
「慣れればそんなに食わん」
「慣れた者だけで戦うのか」
弥助殿が言うと、半三は黙った。
それが今日の試験だった。
聞き分けのいい者だけで試さない。
慣れた者だけでも試さない。
まずは、前回決めた流れをそのまま試す。
受け。
納め。
次。
飯箱の前で飯を受け取る。
半歩進んで腰へ納める。
次の者が進む。
その手前に、一呼吸の槍受け。
槍尻を浅い溝へ一瞬当て、槍の角度を揃える。
置くのではない。
預けるのでもない。
支えるだけ。
かやは何度もそう説明した。
「置き場じゃありません」
半三が言う。
「分かってる」
「預け場でもありません」
「分かってる」
「手の延長を支える場所です」
半三はそこで少しだけ頷いた。
「それなら、まだ腹に入る」
その一言を聞いて、かやはほっとした顔をした。
まず五人でやる。
前回と同じ人数だ。
うまくいく。
槍受けで角度を揃える。
飯箱の前で受ける。
半歩進んで納める。
次へ流す。
多少ぎこちないが、大きな崩れはない。
権六が腕を組んだ。
「五人なら見えるな」
「問題はここからです」
伊三郎が言う。
次に八人。
少し遅れる。
声が後ろまで届きにくい。
前の者が「納め」と言う前に、後ろの者が半歩出そうになる。
だが、まだ止められる。
半三が列の横から低く言った。
「前の槍尻を見ろ。足だけ出すな」
その声で、少し戻る。
そして十二人。
すぐ崩れた。
一人目が槍受けへ入る。
二人目が続く。
三人目は前の槍の角度を見ながら、半歩遅れる。
四人目はその遅れに気づかず詰める。
五人目の槍尻が後ろの足元へ近づく。
「危ない!」
太助の声が出た。
列が止まる。
止まった瞬間、槍が揺れる。
揺れた槍を押さえようとして、別の槍が傾く。
飯配り役が思わず飯箱を引いた。
そこで、列は完全に崩れた。
「止め」
弥助殿の声で、全員が固まった。
庭に、嫌な沈黙が落ちる。
半三が歯を食いしばっていた。
「崩れたな」
権六が言う。
「言うな」
半三は低く返す。
「書くぞ」
「書け」
短い返事だった。
伊三郎が書く。
十二人槍列、一呼吸の受けで詰まり発生。声が後方へ遅れる。半歩のずれが槍尻接触寸前へ拡大。
かやは槍受けを見つめたまま、悔しそうに唇を噛んでいた。
「五人だと流れたのに」
「人数が増えると、声の速さが足りない」
作兵衛が言った。
「受け、納め、次。この声が一人ずつ流れる間に、後ろの腹が先へ出る」
藤七が横から言った。
「待ってると、前に出たくなります」
「おまえは特にな」
権六が言う。
「俺だけじゃないです。列の後ろほど、前が見えないから出たくなる」
それは大事だった。
前が見えないと、待てない。
槍が並ぶと、なおさら前が見えにくい。
前の動きが分からず、足だけが出る。
半歩。
その半歩が、十二人では大きな崩れになる。
太助が言った。
「半歩って、一人なら半歩ですけど、十二人なら六歩分くらいずれる感じがします」
権六が頷く。
「いい文句だ」
「文句じゃなくて感想です」
「文句の親戚だ」
伊三郎が書く。
半歩のずれ、人数で膨らむ。
弥助殿は、槍持ちたちへ言った。
「もう一度」
誰も文句を言わなかった。
ただ、空気は重い。
二度目。
今度は慎重に動く。
慎重すぎて遅い。
前の者が納めるまで、後ろが待つ。
待ちすぎて、列が伸びる。
列が伸びると、庭を食う。
飯場の横を塞ぐ。
藤七が早足用の横渡し場所へ入れなくなった。
「通れません!」
藤七が声を上げる。
半三が振り返る。
「槍列が伸びたからだ」
「俺の通り道まで食ってます」
権六が書く。
槍列、慎重すぎると伸び、早足横渡しを塞ぐ。
かやが頭を抱える。
「速いと崩れる。遅いと伸びる」
「飯線はいつもそれだ」
俺は思わず言った。
通しすぎると太る。
止めすぎると詰まる。
近すぎると怖い。
遠すぎると届かない。
見せすぎると見せ物。
隠すと噂。
槍列も同じだった。
速いと崩れる。
遅いと伸びる。
弥助殿は槍受けの前に立ち、地面を見た。
「一呼吸の受けが、一つでは足りぬ」
「増やしますか」
かやが聞く。
「増やすと場所を食う」
半三がすぐ言う。
「だが、一つでは詰まる」
作兵衛が返す。
半三は槍を握り直した。
「完全な置き場は嫌だ」
「分かってる」
かやは、槍受けを二つ並べるのではなく、少しずらして置いた。
一つ目は、槍の角度を整える浅い溝。
二つ目は、飯を受ける直前に槍尻を軽く当てる低い木片。
「二段?」
太助が聞く。
「一つで全部やるから詰まる。最初の受けで角度を整える。次の受けで飯を取る間だけ支える」
半三が見た。
「二つにすると、置き場に近づく」
「置き場じゃない。動きの中にある受け」
「言葉は分かる。だが、足は分かるか」
実際に試す。
八人では流れた。
十二人では、最初よりましになった。
だが、二つ目の受けで別の問題が出た。
疲れた槍持ちの一人が、槍尻を木片へ当てたまま、ほんの一呼吸長く止まった。
飯を腰へ納めるのに手間取ったのだ。
その槍が、置かれたように見えた。
後ろの者も、真似して少し長く置いた。
一呼吸の受けが、置き場になりかけた。
「止め!」
半三が声を上げた。
今度は弥助殿より早かった。
「そこへ置くな!」
槍持ちの若い兵がむっとする。
「置いてません。一瞬です」
「一瞬が長い」
「飯を納めるのに手間取ったんです」
「なら、飯のほうを直せ」
佐助がすぐ顔を上げた。
「飯包みですか」
半三は苛立ったように言う。
「細長いのはいい。だが、腰へ差す時に引っかかる」
佐助は進む飯の槍持ち用包みを確認した。
細長い。
腰へ差しやすいはずだった。
だが、包みの端が少し柔らかく、腰紐へ入れる時に折れる。
それで手間取る。
手間取ると、槍を長く受けに預ける。
受けが置き場になる。
槍列が詰まる。
「飯包みが槍受けを腐らせた」
権六が言った。
佐助は悔しそうに頷く。
「はい。包みを直します」
飯と槍は別ではない。
槍受けだけ直しても駄目。
飯包みが納めにくければ、槍列が崩れる。
美濃前哨飯線は、どんどんつながっていく。
きぬが進む飯の包みを見て言った。
「腰へ差す端だけ、少し硬くできませんか」
「硬く?」
「全部を硬くすると食べにくい。でも、差す端だけ形が残れば、腰へ入れやすい」
かやが竹皮の切れ端を持ってきた。
「端芯を入れる?」
「端芯」
佐助が目を動かす。
「包みの片側だけ竹皮を少し厚くする。食べる時にはそこを引けば開く」
「戻し飯の指印と同じで、開け口にもなるかもしれません」
きぬが言う。
すぐ試作した。
槍持ち用進む飯。
細長い包みの片端に、薄い竹皮の芯を入れる。
腰へ差す時、その端が折れない。
引けば開け口にもなる。
半三が試す。
飯を受け、半歩進み、腰へ納める。
さっきより早い。
槍を受けに置く時間も短い。
「ましだ」
半三が言った。
「半分?」
太助が聞く。
「七分」
「今日は七分がよく出ますね」
ただし、問題は残った。
十二人が疲れてくると、声がまた遅れる。
受け、納め、次。
列内で声を流す形は、人数が多いと後ろへ遅れていく。
藤七が横から言った。
「声、前から順番に流すから遅いんじゃないですか」
「どういうことだ」
作兵衛が聞く。
「列の真ん中にも声を出す人を置く。前だけじゃなく、真ん中で受けて後ろへ渡す」
権六が目を細めた。
「列文句役みたいなものか」
「文句じゃなくて声役です」
半三が考える。
「槍列の中継ぎか」
悪くない。
十二人を一列として見るから声が遅れる。
六人ずつに分け、中ほどの者が声を受ける。
「前組、受け」
「中、納め」
「後ろ、次」
いや、まだ長い。
半三が首を振る。
「声を増やすと混ざる」
高畑でも学んだ。
馬水でも学んだ。
声は増えすぎると、腹を荒らす。
そこで作兵衛が言った。
「声ではなく、槍の角度を合図にしろ」
「槍の角度?」
「前組が槍を一段戻したら、中組が進む。中組が槍を戻したら、後ろが進む。声は最初だけ」
槍持ちたちが試す。
先頭が飯を受ける。
納めたら、槍の角度を少し立てる。
それを見て次が進む。
声は「受け」の最初だけ。
完全にはうまくいかない。
だが、声だけより、後ろが待ちやすい。
前が見えない者も、槍の角度なら少し見える。
半三は頷いた。
「槍持ちには、声より槍のほうが見える」
伊三郎が書く。
槍列、声だけでなく槍角度で合図。槍持ちは槍を見る。声を増やしすぎない。
また一つ見えた。
役ごとに、見えるものが違う。
早足は距離を見る。
馬廻りは馬水札を見る。
槍持ちは槍の角度を見る。
きぬは布の折りを見る。
権六は文句の根を見る。
同じ飯場にいても、見ているものが違う。
午後の試験では、疲れた兵が問題を起こした。
半三ではない。
別の槍持ちの若い者だ。
何度も列を繰り返すうち、彼は槍を持つ手を休めたくなったのだろう。
一呼吸の受けではなく、近くの柱に槍を立てかけた。
ほんの少し。
本人はそう思ったのだろう。
だが、槍は滑った。
大きく倒れたわけではない。
半三がすぐ手を伸ばして押さえた。
それでも、庭の空気は凍った。
「誰が立てかけた」
半三の声は低かった。
若い槍持ちは青ざめた。
「すみません。少し手が疲れて」
半三が怒鳴りかけた。
だが、権六が先に言った。
「それだ」
全員が権六を見る。
「疲れたら、勝手に立てかける。これは本番で出る」
半三は歯を食いしばった。
「槍を勝手に置くなと教えればいい」
「教えても疲れる」
権六は返した。
「疲れた時に逃げ場がないから、勝手に置くんだろ」
半三は何も言えなかった。
若い槍持ちは下を向いている。
かやが槍受けを見た。
「一呼吸の受けだけじゃなく、疲れた時に一瞬だけ槍尻を休める場所が要る」
「置き場になるぞ」
半三が言う。
「置き場じゃなくて、一呼吸より少し長い……何だろう」
太助がぽつりと言った。
「一息の受け?」
皆が太助を見る。
「一呼吸より少し長いけど、置き場じゃない。休ませるというより、息を整える場所」
かやの目が動いた。
「低い槍受けを、列の外に一つだけ置く。立てかけられない高さ。槍尻だけを乗せる。手は離せない」
半三が考える。
「手を離せないなら、置き場ではない」
「疲れたら、そこへ槍尻を乗せて息を整える。でも飯列へは入らない。戻る場所」
「槍の戻し場か」
権六が言った。
戻し飯のように。
槍も戻す場所が要る。
進むだけでは崩れる。
槍列にも戻しが必要だった。
伊三郎が書いた。
槍戻し受け――疲労時、勝手な立てかけ防止。手を離せない低さ。置き場ではなく一息の受け。
半三は若い槍持ちを見た。
「次から、勝手に柱へ立てるな。疲れたら言え」
「はい」
「言いにくいなら、槍戻し受けへ行け。ただし手は離すな」
「はい」
怒鳴らなかった。
半三も、少し変わっている。
夕方、弥助殿が報告を求めた。
俺は帳面を見ながら答えた。
「槍列は、小規模では流れましたが、人数が増えると半歩のずれが膨らみます。声『受け・納め・次』は、人数が増えると後方へ遅れます。槍角度で合図を補う案が有効です。一呼吸の受けは一つでは詰まり、二段にすると置き場化する危険があります。飯包みの納めにくさが槍受けを腐らせるため、槍持ち用進む飯に端芯を入れる案が出ました。また、疲れた兵が勝手に槍を立てかけかけたため、槍戻し受けが必要です」
弥助殿は頷いた。
「よく崩れた」
誰も笑わなかった。
それは、最近よく聞く褒め言葉だった。
崩れ方が見えた。
なら、直せる。
「次は戻し飯を笑う兵か」
権六が言った。
又八が少し顔を上げる。
「俺か?」
「いや、たぶんおまえだけじゃ足りない」
弥助殿は静かに言った。
「戻し飯を笑う者を、もう一人入れる。又八は、少し腹に入ってきている」
又八は不満そうな顔をした。
「まだ嫌だぞ」
「それでよい。だが、次は笑う者だ」
戻し飯を笑う兵。
縁起が悪いと言うだけではない。
負け癖がつく、と笑う者。
その笑いが、どれだけ周囲へ広がるかを見る。
夜、清洲蔵では槍持ち用の進む飯を食べた。
端芯入りの包み。
太助が腰へ差してみる。
「差しやすいです」
佐助がほっとする。
「食べやすさは?」
太助は開けて食べた。
「端を引けば開くので、悪くないです。でも、端芯を落としそう」
権六がすぐ書く。
「また文句ですか」
「落とす前に書く」
半三も食べて、短く言った。
「七分半」
「上がった」
かやが笑う。
「残り二分半は?」
「人数が増えた時の槍戻し受けだ」
「明日以降ですね」
槍は米を食わない。
だが、槍は手を食い、列を食い、半歩を膨らませる。
飯を渡すだけなら簡単に見える。
けれど、槍を持ったまま飯を受け取ることは、こんなにも難しい。
美濃前哨飯線帳に、槍列の頁がまた厚くなった。




