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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百三十四話 馬水で飯列が割れる

 雨なし雨天試験の翌朝、試験場にはまだ泥の跡が残っていた。


 空は晴れている。


 昨日と同じように、腹立たしいほど晴れている。


 だが庭の一角には、わざと撒いた水の名残があり、土の色が少し濃い。竹皮の切れ端も、泥を吸った小札も、軒下に干されている。


 雨天飯は、天気ではなく状態で切り替える。


 その言葉は、もう美濃前哨飯線帳の雨天飯の頁に太く書き込まれていた。


 雨が降ったら、では遅い。

 濡れ始めたら動く。

 小雨札は準備開始札。

 雨札で雨天飯優先。

 大雨札で止まる飯へ切り替えを考える。


 昨日、晴れた庭で水を撒かれ、参加者たちは文句を言った。


 晴れているのに濡れるのは理不尽だ。


 だが、その理不尽が、本番の穴を見せた。


 だから、今日も皆、嫌な予感を持って集まっていた。


「今日は何を濡らすんですか」


 藤七が、朝一番にそう聞いた。


 権六が文句腹帳を開きかけて、やめた。


「先に文句を言うな。まだ何もしてない」


「昨日の流れだと、何かされるでしょう」


「まあ、されるな」


 否定できないのが、少し悲しい。


 弥助殿が庭へ入ってきた。


 後ろには、馬が二頭。


 その時点で、源太の顔つきが変わった。


 馬廻りの源太は、昨日も馬水札の位置に噛みついた男だ。


 人水と馬水を上下に見せるな。

 馬水を人水の後ろに置くな。

 馬が軽んじられて見える。


 そう言い続けた。


 結果として、人水と馬水は「別腹」として見せる案になった。


 人水札と馬水札は同じ高さ。

 桶は斜めに離す。

 馬水札は横長にして、馬上からも見えやすくする。


 昨日の段階では、そこまでだった。


 今日は、その実際の試験だ。


 弥助殿は言った。


「馬水を入れる」


 源太がすぐ頷いた。


「はい」


 その声は、飯の試験の時より明らかに強い。


 馬が関わると、源太の腹は早く動く。


 試験場には、飯場と水場が仮設されていた。


 飯場には、進む飯箱と丸包み箱。

 水場には、人水桶と味噌水桶。

 少し離して、馬水桶。

 さらに後ろに非常水札。


 かやは昨日の意見を反映して、馬水札を横長にしていた。


 源太はそれを見て、少し頷いた。


「札は昨日よりいい」


「三分の一から上がりましたか?」


 太助が聞く。


「半分だ」


「おお、上がった」


「馬を入れてからだ」


 源太の評価は厳しい。


 権六が書いた。


 源太、馬水札半分評価。馬を入れてから判断。


 弥助殿は、まず普通に水場を動かすよう命じた。


 人足が人水を汲む。

 佐助が味噌水の量を確かめる。

 飯配り役が進む飯を並べる。

 藤七は早足用の横渡し位置で足踏みしている。

 又八は戻し飯の丸包みを見て、まだ微妙な顔をしている。

 半三は槍を持ち、一呼吸の槍受けの近くに立つ。

 喜八は手当飯場の少し手前。

 寅吉は黙って荷箱を運んでいる。


 昨日より、場は少し整っていた。


 少なくとも、見た目には。


 そこへ馬が入った。


 まず、音が変わった。


 蹄が土を踏む音。

 鼻を鳴らす音。

 手綱が鳴る音。

 馬廻りの声。


 それだけで、飯場の人間が少し振り向く。


 藤七が早足用の飯を受け取る動きで、半歩遅れた。


 太助がそれを見て言った。


「馬が入ると、飯を見てる目が馬へ行きますね」


「書け」


 権六が言う。


 伊三郎が列腹帳へ書く。


 馬の入場で、飯列の目が割れる。


 馬水桶へ向かう源太は、当然のように馬を先に進めた。


 その時、人水桶へ向かっていた人足と動線が近づいた。


 交差まではしない。


 昨日の配置では横切らないようにしてある。


 だが、馬の体が大きい。


 人足は無意識に避けた。


 避けた先が、飯列の入口だった。


 飯列の若い兵が一歩下がる。


 そこへ藤七が早足用の横渡しを受けに来ていた。


「ちょっと!」


 藤七が声を上げる。


「こっちは飯だ!」


 人足が言い返す。


「馬が来たんだよ!」


 源太も振り返る。


「馬が水を飲む時に前へ出るな!」


 出た。


 馬水で、飯列が割れた。


 水場の揉め事が、飯場へ流れ込んだ。


 米の量は足りている。


 飯箱もある。


 だが、人水と馬水の動線がわずかに圧をかけただけで、飯列が割れた。


 弥助殿は手を上げた。


「止め」


 全員が動きを止める。


 馬だけが、鼻を鳴らした。


 源太は不満そうだった。


「馬は悪くありません」


「誰も馬が悪いとは言っていない」


 弥助殿は静かに答える。


「だが、馬水が飯列を割った」


 源太は黙った。


 事実だった。


 かやは水場と飯場の位置を見て、眉を寄せていた。


「交差はしてないのに……」


「馬の幅だな」


 作兵衛が言う。


「線では交差していない。でも、馬の体で押される」


 太助が頷いた。


「あと、人が怖がって半歩逃げます。その半歩で飯列に入る」


 半歩。


 また半歩だ。


 高畑の見張り前飯。

 槍列の受け納め。

 雨天時の足元。

 そして馬水。


 半歩は、いつも飯線を揺らす。


 伊三郎が書く。


 馬水、人水と線上は交差せず。しかし馬幅と人の避け半歩で飯列を割る。


 権六が文句腹帳へ写した。


「馬幅、避け半歩。これは繰り返すな」


「丸ですか」


「丸だ」


 まずは声で試すことになった。


 佐助が、高畑の水札声出しを応用する案を出した。


「人水よし、馬水待て」


 人水が通る時は、馬水が待つ。


「馬水よし、人水止まる」


 馬が通る時は、人水が止まる。


 声にすれば、順番が分かる。


 理屈としては悪くない。


 だが、実際にやるとすぐ崩れた。


 飯場の声。


「槍、受け」


「早足、渡し」


「人足、受け」


 水場の声。


「人水よし、馬水待て」


「馬水よし、人水止まる」


 さらに馬廻りの声。


「寄るな」


「手綱見るぞ」


 声が多い。


 誰の声を聞けばいいのか分からない。


 藤七が耳を押さえるような顔をした。


「長い! 早足には長いです!」


 源太も不満そうだ。


「馬水待て、なんて声を馬の前で何度も出すな。馬が待たされているように聞こえる」


 又八が横から言う。


「人水止まるも嫌だな。人が止められてる感じが強い」


 権六が書く。


 水場声、長すぎる。待て・止まるの語が腹を荒らす。


 佐助は少し悔しそうだった。


「高畑の声は効いたのですが……」


「高畑は井戸場だけだった」


 俺は言った。


「ここは飯場、馬、水、列、全部の声が重なる」


 きぬが頷く。


「声が多い場では、声だけに頼ると混ざりますね」


 かやは人水桶と馬水桶をじっと見ていた。


「声じゃなくて、水桶の向きで分けたほうが早いかもしれない」


 太助が顔を上げる。


「桶の向き?」


「うん。人水桶と馬水桶が同じ形だから、近づくと混ざる。札を見ろ、声を聞け、では遅い。桶そのものが違えばいい」


 源太が少し身を乗り出した。


「どう違える」


「まず、取っ手」


 かやは桶の取っ手を示した。


「人水桶は縦取っ手。馬水桶は横棒取っ手。持つ時の手の形が違う。触れば分かる」


 きぬが続ける。


「人水桶には滑らかな縄。馬水桶には太縄を巻く。目でなく手でも分かる」


 佐助も頷いた。


「味噌水桶は、さらに別にしないといけません。味噌水は人水とも馬水とも違います」


 権六が頭を抱えた。


「桶腹帳までできそうだな」


 伊三郎はすでに書いていた。


「桶腹、仮で作ります」


「言うと思った」


 かやは仮に、馬水桶へ太縄を巻いた。


 人水桶はそのまま。

 味噌水桶には細い布を結ぶ。


 さらに、桶の向きを変える。


 人水桶は口を飯場側へ向ける。

 馬水桶は馬の入る方へ向ける。

 味噌水桶は飯箱の後ろへ。


「桶の口が向いている方で、流れを見せる」


 かやが言った。


「札より先に桶を見る」


 源太は馬水桶を確認した。


 取っ手を握る。


「これは分かる。馬水の桶だ」


「馬から見ても?」


「横棒は見える。近づけやすい」


 藤七が人水桶の横を通ってみる。


「さっきより避けなくていい気がします。馬水がこっちへ来ないって分かる」


 実際にもう一度動かす。


 人水の者が桶へ向かう。

 馬水は横棒取っ手の桶へ向かう。

 桶の向きが違うため、自然と入口が分かれる。


 完全ではない。


 馬が動けばやはり人は避ける。


 だが、さっきより飯列へ割れ込まない。


 源太が馬を止めながら言った。


「桶の向きはいい。だが、馬が水を飲む時、尻が飯列に向く」


 太助がすぐ反応する。


「それは怖いです」


「怖いだけじゃない。蹴るかもしれん」


 源太が当然のように言う。


「さらっと言わないでください」


 かやが馬水桶をさらに少し回した。


 馬の尻が飯列ではなく、空き場へ向くようにする。


「こう?」


 源太が馬を立たせる。


「まだ近い」


「これ以上回すと、水汲みが遠い」


「馬の尻を飯列に向けるな」


「それは分かる」


 また揉める。


 だが、揉め方が少し前進している。


 馬が軽んじられるかどうかではなく、馬の尻が飯列へ向くかどうか。


 具体的だ。


 具体的な文句は直せる。


 権六が満足そうに言った。


「いい文句になってきた」


 源太が眉をひそめる。


「文句にいいも悪いもあるのか」


「ある。直せる文句はいい」


 源太は少し考えた。


「なら、これはいい文句だ。馬の尻を飯列に向けるな」


「よし、採用」


 伊三郎が書く。


 馬水桶向き。馬の尻を飯列へ向けない。蹴り・恐怖・避け半歩の原因。


 次は、水を汲む順番だった。


 声での「人水よし、馬水待て」は長すぎた。


 そこで、桶の向きと札の高さを組み合わせる。


 人水を使う時は、人水桶の取っ手を立てる。

 馬水を使う時は、馬水桶の横棒を前へ倒す。

 使わない桶は、取っ手を寝かせる。


 かやの案だった。


「桶の取っ手で、今どっちが動いているか見せる」


 源太が試す。


「馬水の横棒が前なら、馬が入る。横棒が寝ていれば待つ」


「人水は?」


「縦取っ手が立っていれば人水。寝ていれば待つ」


 声は短くなる。


「人水」


 取っ手を立てる。


「馬水」


 横棒を前へ。


 これだけ。


 藤七が聞いて言った。


「それなら分かる」


 又八も頷く。


「止まるとか待てとか言われるよりましだ」


 佐助は少し苦笑した。


「声の言葉も大事ですね」


「大事だ」


 弥助殿が言う。


「待て、止まれは必要な時だけ使え。多用すると腹が荒れる」


 高畑の「非常触るな」は強い言葉だった。


 だが、あれは非常用水だから効いた。


 馬水のたびに「待て」「止まる」を連発すれば、腹がざらつく。


 声は短く、腹を荒らさず、動きを示す。


 伊三郎が書いた。


 水場声――人水、馬水。待て・止まるは多用しない。桶取っ手で状態表示。


 試験を繰り返すうち、少しずつ流れができた。


 人水。

 取っ手が立つ。

 人水の者が汲む。


 馬水。

 横棒が前へ倒れる。

 馬が入る。

 馬の尻は飯列へ向かない。


 味噌水。

 布印付き桶を飯箱側へ。


 非常水。

 触らない。

 高畑と同じく、声を強くする。


 藤七が早足用の飯を受け取りながら言った。


「最初より割れませんね」


「まだ割れる可能性はあります」


 太助が答える。


「馬が急に動いたら?」


 源太が言う。


「その時は馬廻りが止める。だが、飯列も馬の横を見すぎるな」


「見ますよ。怖いですから」


「だから馬の尻を飯列へ向けない」


 源太は、自分で言った文句を自分で使っていた。


 それが少し面白かった。


 文句は、拾われると道具になる。


 午後には、馬水が飯列を割る場面を何度も再現した。


 一度目ほど大きくは割れない。


 だが、源太がわざと馬を半歩前へ出すと、やはり人足が避ける。


 避け半歩が出る。


 その半歩が飯列へ触れそうになる。


 かやは飯列の入口を少し斜めにした。


「馬の圧が来ても、飯列が横へ割れないように、入口を真正面にしない」


「斜め入口?」


 太助が試す。


 飯列へ入る人は、少し斜めに入る。


 馬水側から押されても、列がそのまま横へ割れにくい。


 ただし、入口が分かりにくくなる。


 又八が言った。


「分かりにくい」


「札を付ける?」


 かやが聞く。


「札が多い」


 権六がうめく。


「入口の縄を短く置く?」


「川道の一本縄みたいに?」


「そう。囲わず、背だけ示す」


 市松の文句が、またここへ来た。


 場所を取るな。


 列を囲うな。


 入口だけ示せ。


 かやは短い縄を置いた。


 飯列の入口の背。


 そこから斜めに入る。


 やってみると、意外に分かりやすい。


 藤七が言った。


「これなら走り込まないで済む」


「走り込むつもりだったのか」


 太助が聞く。


「急ぐと、まっすぐ行きたくなるんですよ」


 権六が書く。


 早足、入口が真正面だと走り込みたくなる。斜め入口で速度を殺す。


 美濃前哨飯線帳は、また厚くなった。


 夕方には、全員がかなり疲れていた。


 馬そのものは二頭だけ。


 だが、水場と飯列の衝突を何度も見たことで、精神的に疲れた。


 源太は馬の首を撫でながら言った。


「馬水の札、悪くない」


 かやが顔を上げる。


「半分から上がった?」


「七分」


「おお」


「残り三分は、明日馬が増えたら変わる」


「厳しい」


 でも、それでいい。


 今日二頭でうまくいっても、本番ではもっと増える。


 弥助殿は最後に報告をまとめさせた。


 馬水で飯列が割れる。

 原因、馬幅・人の避け半歩・馬水札の後回し感・声の長さ。

 声案「人水よし、馬水待て」「馬水よし、人水止まる」は長く、待て・止まるが腹を荒らす。

 水桶の取っ手形で判別。人水は縦取っ手、馬水は横棒、味噌水は布印。

 桶の向きで流れを示す。馬の尻を飯列へ向けない。

 人水・馬水は上下でなく別腹。札の高さを揃え、馬水札は横長。

 取っ手の状態で今動く水を示す。声は「人水」「馬水」に短縮。

 飯列入口は斜め。短縄で背を示す。

 早足は真正面入口だと走り込む。斜め入口で速度を殺す。

 馬水は飯列を割る。水場と飯場は別でも、腹はつながっている。


 弥助殿はその最後を読んで、頷いた。


「よい。水は飯ではないが、飯列を割る」


 権六が言った。


「馬は米を食わぬが、飯線を食う。今日は水で食われましたね」


「そうだ」


 弥助殿は短く答えた。


「次は槍だ。人数を増やす」


 半三が槍を軽く持ち直した。


「槍列か」


「小規模ではできた。大規模で崩れるか見る」


 半三は少し笑った。


「崩れる気がする」


 権六がすぐ書こうとする。


 半三は慌てた。


「今のも書くのか」


「当然だ。予感は文句の種だ」


 夜、清洲蔵では、進む飯と雨天飯が出た。


 馬水試験の日なのに、馬は米を食わない。


 しかし、馬廻りの源太はしっかり飯を食べていた。


 権六がそれを見て言う。


「馬は米を食わぬが、馬廻りは米を食う」


 源太が箸を止める。


「食わなきゃ馬を見られん」


「いい言葉だ」


「それも書くのか」


「書く」


 皆が笑った。


 今日の飯は、水で割れた列の味がした。


 水桶の向き。

 馬の尻。

 避け半歩。

 短い声。

 斜め入口。


 飯そのものは変わっていない。


 だが、水が乱れれば飯列も乱れる。


 美濃前哨飯線は、また一つ、腹のつながりを知った。

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