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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百三十三話 雨なし雨天試験

 翌朝の空は、腹立たしいほど晴れていた。


 雲は薄く、風も軽い。


 清洲蔵の庭には朝日が差し、昨日泥で汚れた札の端まで、妙にはっきり見えている。


 雨天試験をする日としては、最悪だった。


「晴れてますね」


 太助が空を見上げて言った。


「晴れてるな」


 権六も同じように空を見上げる。


「雨天試験だよな?」


「雨天試験です」


 伊三郎が帳面を開きながら答える。


「雨がないのに?」


 藤七が不満そうに言った。


 彼は昨日から、早足役として試験場に入っている。


 じっと待つのが苦手で、今日もすでに足が落ち着かない。


「雨が降った時にやればいいじゃないですか」


 源太も馬水札の横で頷く。


「馬も晴れているほうが動きやすい。わざわざ濡らす必要があるのか」


 半三は槍を持ったまま、庭の乾いた土を見ている。


「濡れていない地面に水を撒けば、滑り方も実際とは違う」


 又八は戻し飯の丸包みを腰に差しながら、鼻を鳴らした。


「晴れてる日に雨の飯なんて、兵の腹が白けるだけだ」


 文句が、朝からよく出た。


 権六は文句腹帳を開いて、嬉しそうではないが、どこか納得した顔で書いている。


「晴れているのに雨の飯か、か。まあ出るよな」


「出ますね」


 伊三郎も美濃前哨飯線帳へ写す。


 晴天時雨天試験への文句。

 根:実感がない。わざと濡れる理不尽さ。油断。


 弥助殿は空を見なかった。


 庭の中央に立ち、桶を二つ指した。


「水を撒け」


 かやが頷き、若い人足たちへ指示を出す。


 桶の水が、庭の一部へ撒かれる。


 乾いた土が一瞬で色を変えた。


 濡れた土は、すぐ泥にはならない。


 だが、足を置けばわずかに沈む。


 草履の裏に水気がつく。


 かやはさらに、雨天飯の包みをいくつか濡らした。


 竹皮の端に水を落とし、飯包み布を湿らせ、泥布をわざと泥に触れさせる。


 きぬは札を手に取り、泥を少し塗った。


 小雨札。

 雨札。

 大雨札。


 形で分かるように作った札だ。


 晴れている庭で、それをわざと汚す。


 藤七が露骨に嫌そうな顔をした。


「もったいない」


 かやが振り返る。


「何が?」


「せっかく乾いてるのに」


「本番で濡れる」


「本番で濡れた時にやれば」


 弥助殿の声が低く入った。


「本番で気づくな」


 藤七は口を閉じた。


 弥助殿は続ける。


「雨が降ってから、雨の支度を始める者は遅い。濡れ始めた時に、もう半分終わっていなければならん」


 その言葉は、今日の試験の芯だった。


 雨が降ったら。


 そう思っているうちは遅い。


 包みが湿り始めたら。

 草履が滑り始めたら。

 札が見えにくくなったら。

 人が軒下へ寄り始めたら。


 その時には、雨天飯の腹がもう動いていなければならない。


 佐助は雨天飯の包みを並べた。


「今日は、天気ではなく状態で見ます」


「状態?」


 又八が聞く。


「雨が降っているかどうかではなく、飯包みが濡れているか。手が濡れているか。札が泥で見えにくいか。足元が滑るか。それで切り替えます」


「晴れてても雨天飯になるのか」


「なります。飯が濡れ始めたら」


 又八は少し黙った。


「……理屈は分かる」


「腹は?」


 権六が聞く。


「納得はまだ半分だ」


「半分でもいい」


 権六は書いた。


 又八、理屈は分かるが腹は半分。


 雨なし雨天試験は、まず飯包みから始まった。


 乾いた手で開ける。


 これは簡単だ。


 次に、手を濡らして開ける。


 途端に、包みが滑る。


 竹皮の端が指にかからない。


 折り印があるのに、指が迷う。


 藤七が雨天飯を受け取って、焦ったように開こうとした。


 うまく開かない。


「開かない!」


「焦るな」


 佐助が言う。


「早足が焦らずにいられますか」


 藤七は苛立った声で返した。


 その声に、権六が反応する。


「いい文句だ。早足は濡れた包みで余計に焦る」


「俺、文句を言うために呼ばれたんですか」


「半分」


「また半分……」


 かやが藤七の手元を見ていた。


「折り印が小さいかも」


「大きくすると、包みが弱くなります」


 佐助が言う。


「印を大きくするんじゃなくて、指が引っかかる向きに変える」


 きぬが布の端を少し折り直した。


「濡れた指は、滑る方向と引っかかる方向があります。乾いた時と同じ印では駄目かもしれません」


 試す。


 折り目の向きを変える。


 藤七がもう一度開ける。


 今度は少しましだった。


「これなら、まだ開く」


「まだ、ですか」


 佐助が聞く。


「はい。早足には、まだ遅いです」


 正直だった。


 佐助は頷き、文句を受け取った。


「なら、早足用雨天飯は、さらに開けやすくする必要があります」


 伊三郎が書く。


 雨天飯、兵種差あり。早足は濡れ包みに焦る。折り印の向きを変更。


 次は札だった。


 泥を塗った札を、少し離れた位置に置く。


 小雨札、雨札、大雨札。


 形で分けてある。


 だが、晴れた庭で見ると、泥がついてもまだ分かる。


 そこで、かやが意地悪をした。


 札を影に置いた。


 さらに、濡れた布を上から少しかぶせる。


「これは見えないだろ」


 又八が言う。


「本番では、人の影、荷の影、馬の体、雨布、いくらでもかぶります」


 かやはそう返した。


 源太が馬水札を見ながら言った。


「馬水札は泥がつくと、人水札と紛れる」


「形は変えてあります」


「馬に乗って見たら、形までは見えん」


 源太の言葉で、皆が少し止まった。


 馬に乗って見る。


 地上で見るのとは違う。


 馬廻りには馬廻りの目線がある。


 かやはすぐ札の高さを変えた。


 人水札と馬水札は同じ高さにする案だった。


 だが、源太は言う。


「高さはいい。だが、馬水札は横に長いほうがいい。遠くから見ても形で分かる」


「人水は縦、馬水は横?」


「そうだ。馬の目印は、馬からも人からも見えるほうがいい」


 伊三郎が書く。


 馬水札、横長案。泥・距離・馬上目線対応。


 太助が小声で言った。


「晴れてるのに、どんどん雨の問題が出ますね」


「晴れてるから出るんだろうな」


 俺は答えた。


 実際に雨が降っていれば、皆もっと黙って動いたかもしれない。


 寒い、濡れる、早く終わらせたい。


 そう思って文句を飲み込んだかもしれない。


 だが今日は晴れている。


 だから、わざと濡らすことへの不満が出る。


 その不満が、雨天飯の穴を見せてくれる。


 試験場は、戦場より正直に揉める。


 昨日の言葉が、今日も生きていた。


 次は、足元だった。


 かやが水を撒いた土の上を、槍持ちの半三に歩いてもらう。


 半三は槍を持ち、一呼吸の槍受けへ向かう。


 乾いた時より、足が慎重になる。


 槍尻を受けに当てる瞬間、わずかに滑った。


「止め」


 作兵衛が声を出す。


 半三は眉を寄せた。


「受けの下が濡れると、槍尻が逃げる」


「木の溝が浅い?」


 かやが聞く。


「浅いのもある。だが、それ以上に、足元が滑るから手が強くなる。手が強くなると槍尻が跳ねる」


 弥助殿が頷く。


「雨は、手も変える」


 伊三郎が書く。


 雨天槍列――足元の滑りが手を強くし、槍尻が跳ねる。


 かやは槍受けの木片を見つめた。


「雨の日は、槍受けの下に土を噛ませる? いや、泥がつくと重くなる。縄で固定? でも縄が濡れる」


 半三が言った。


「雨の日は、槍受けを使わないほうがいいかもしれん」


「使わない?」


「濡れた時に中途半端な受けがあると、頼って崩れる。使うなら、雨用にする。ないなら、最初から槍の角度だけで受ける」


 かやは悔しそうにしながらも頷いた。


「雨用槍受けは別に考える。今日は無理に使わない判断も入れる」


 美濃前哨飯線帳に、また一つ増える。


 雨天時、通常道具をそのまま使わない。


 雨は道具の意味を変える。


 次に、手当飯場を濡らした。


 これは、皆が少し緊張した。


 きぬが飯包み布、拭き布、血止め布、泥布を並べ、わざと一部を湿らせる。


 喜八は今日も少し離れていた。


 だが昨日よりは近い。


 きぬが言った。


「喜八さん、今日は飯包みだけでなく、拭き布も触ってください」


「血止め布は?」


「今日はまだ触らなくていいです」


 喜八は頷き、飯包み布を触った。


 二折。


 分かる。


 次に拭き布。


 一折。


 これも分かる。


 だが、濡れていると、折り目が少し潰れている。


「分かりにくい」


 喜八が小さく言った。


 きぬはすぐ答える。


「ありがとうございます」


「礼を言われることですか」


「はい。分かりにくいと言ってもらえたので、直せます」


 喜八は少し戸惑い、それから言った。


「濡れると、二折と一折の差が小さく感じます」


 きぬは布を触り直す。


「では、飯包みは二折ではなく、二折の間を少し空けます。指が間に入るように」


「それなら分かるかもしれません」


 血止め布は三折。


 だが、これも濡れると固くなる。


 きぬは、布の端を少し太く縫う案を出した。


「血止め布だけは、濡れても指が引っかかるようにします」


 権六が文句腹帳へ書いた。


 手当布、濡れると折り印が潰れる。


「晴れてるのに、濡らしてよかったですね」


 太助が言うと、喜八が苦笑した。


「悔しいけど、そうだな」


 昼前には、試験場の一部が泥っぽくなっていた。


 晴れているのに。


 だからこそ、参加者たちの文句も増えた。


 藤七が言う。


「これ、晴れてるのに濡れるから余計腹が立ちます」


 又八が頷く。


「実際の雨なら諦める。晴れてると、何でわざわざって思う」


 源太も馬水桶を見ながら言う。


「馬も、晴れの日に濡れ場へ入れられると嫌がる」


 権六がまとめる。


「晴れの日の雨天試験は、理不尽への文句が出る」


 弥助殿が頷いた。


「それも本番に役立つ」


「本番で理不尽は多いですからね」


 太助がぼそっと言う。


 誰も笑わなかった。


 その通りだった。


 戦場は理不尽だ。


 晴れているのに足元が濡れることもある。


 上流の雨で川が増えることもある。


 夜露で包みが湿ることもある。


 馬が水を跳ねることもある。


 「雨が降っていないから雨天飯ではない」などと言っていられない。


 佐助は、濡れた包みを見ながら言った。


「雨天飯は、天気で切り替えるのではありません」


 伊三郎が顔を上げる。


「では、何で?」


「濡れ始めたら、です」


 佐助ははっきり言った。


「雨が降ったら、では遅い。包みが湿り始めたら。手が滑り始めたら。札が泥で見えにくくなったら。足元が水を持ったら。その時点で、雨天飯の支度へ入ります」


 弥助殿が静かに頷く。


「よい」


 権六も文句腹帳を閉じかけて、また開いた。


「これは文句じゃないが、頭に入れる」


 伊三郎は美濃前哨飯線帳へ大きく書いた。


 雨天飯は、天気ではなく状態で切り替える。

 雨が降ったらでは遅い。濡れ始めたら動く。


 午後は、その切り替えを試した。


 係を決める。


 包みを見る者。

 札を見る者。

 足元を見る者。

 手元を見る者。


 誰か一人に背負わせない。


 高畑の戻し役と同じだ。


 包み係が言う。


「包み湿り」


 札係が言う。


「札泥」


 足元係が言う。


「足水」


 手元係が言う。


「手滑り」


 四つのうち二つが出たら、小雨札。


 三つで雨札。


 全部なら大雨札を検討。


 まだ粗い。


 だが、天気ではなく状態を見る形になってきた。


 藤七が聞いて言った。


「声が多い」


「多いな」


 権六が同意する。


「これ、本番で全部言ってたら遅いです」


 藤七は続ける。


「早足なら、包み湿り、で十分です。あとは見て分かるようにしてほしい」


 かやが頷く。


「声を全部出すんじゃなくて、最初の合図だけ声。あとは札」


「小雨札を早く出す?」


「うん。雨札まで待つと遅い」


 佐助が言った。


「小雨札が出た時点で、雨天飯の準備を始める。配るのは雨札からでも、準備は小雨札」


 弥助殿がまた頷いた。


「それだ」


 伊三郎が書く。


 小雨札――配飯切替ではなく、準備開始札。

 雨札――雨天飯優先。

 大雨札――止まる飯へ切替検討。


 川道の黄札にも似ている。


 黄は待て。


 すぐ赤ではない。


 だが、青でもない。


 小雨札も同じだ。


 まだ雨天飯を配る段階ではないかもしれない。


 しかし、準備は始める。


 その差が、崩れ方を変える。


 夕方、試験場は泥と水で、晴天とは思えない状態になっていた。


 参加者たちは疲れていた。


 しかも、空が晴れているせいで、疲れ方が妙だった。


 雨に濡れた疲れではない。


 わざわざ濡らされた疲れ。


 藤七が文句を言う。


「これ、本当に腹に来ますね」


「何が?」


 太助が聞く。


「晴れてるのに濡れてることです。納得しにくい」


 又八も頷く。


「理不尽の飯だな」


「嫌な名前ですね」


 佐助が言うと、又八は首を振った。


「でも、戦場はそういうものだろ」


 昨日まで戻し飯を嫌がっていた又八が、そう言った。


 少し変わったのかもしれない。


 少なくとも、試験場の文句が腹に落ち始めている。


 弥助殿への報告は、また長くなった。


 雨なし雨天試験。

 晴天で行うため、理不尽への文句が出る。

 雨天飯は天気ではなく状態で切り替える。

 濡れ始めたら動く。

 小雨札は準備開始札。

 雨札で雨天飯優先。

 大雨札で止まる飯検討。

 濡れた手では折り印が滑る。折り向き・間隔調整。

 泥札は形と高さが重要。馬水札は横長案。

 雨天槍受けは通常と別検討。濡れ時に通常道具を信用しすぎない。

 手当布は濡れると折り印が潰れる。血止め布は太縫い案。

 雨は目、手、足、声、道具の意味を変える。


 弥助殿は最後の行を読んで言った。


「よい。雨は天から降るだけではない。場に生まれる」


 その言葉も書かれた。


 夜、清洲蔵では雨天飯が出た。


 今日は、あえて火を使わない。


 晴れているのに。


 藤七がそれを見て苦笑した。


「また晴れてるのに雨の飯ですか」


 佐助が答える。


「今日は、晴れていても濡れた飯です」


 又八が一口食べて言った。


「腹は暗くならん」


 権六が満足そうに頷く。


「よし」


 喜八も少し食べた。


「手が濡れてると、これでもありがたいかもしれません」


 源太は馬水札の横長案をまだ考えている。


 半三は雨用槍受けをどうするか、かやと話している。


 寅吉は濡れた荷箱を置く時、音を立てないようにしていた。


 晴れているのに、雨の文句が見えた。


 雨が降ってからでは遅い。


 濡れ始めたら、腹を動かす。


 美濃前哨飯線帳に、雨天飯の頁がまた厚くなった。

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