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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百三十二話 試験場は、戦場より正直に揉める

 翌朝、清洲蔵の庭は、まだ何も始まっていないのに揉めていた。


「飯場が遠い」


 藤七が最初に言った。


 まだ飯箱すら置いていない。


 かやが小縄を持って、庭の端に飯場の印を置こうとしただけだった。


「遠い?」


 かやが振り向く。


「早足がここまで来て、飯を受け取って、また戻るんですか。無駄です」


「無駄って言うな」


 権六が即座に文句腹帳を開く。


「でも無駄です」


 藤七は悪びれない。


「早足は急ぐ役でしょう。なら飯場は近いほうがいい」


「近すぎると列に入って乱す」


 太助が言った。


「それは俺も分かります。でも、遠いと腹が減ったまま走ることになります」


 いきなり本音だった。


 遠いから面倒、だけではない。


 腹が減ったまま走る不安。


 伊三郎がすぐ書く。


 早足文句――飯場が遠い。根:走る前に腹が空く不安。


 権六が頷いた。


「よし。文句が一段深くなった」


「褒められてる気がしないんですが」


 藤七が言う。


「半分褒めてる」


「半分ですか」


 昨日から、皆が少しずつ市松のような言い方になっている。


 試験場づくりは、まず飯場、水場、馬水場、槍列、戻し飯受け取り場、手当飯場を置くところから始まった。


 だが、置くたびに揉める。


 飯場を中央へ置けば、槍列が近すぎると言われる。

 端へ寄せれば、早足が遠いと言う。

 水場を近づければ、飯が濡れると佐助が言う。

 離せば、馬廻りの源太が「馬水が後回しに見える」と言う。

 手当飯場を目立たないところへ置けば、きぬが「必要な時に見つかりません」と言う。

 目立つところへ置けば、喜八が顔を強張らせる。


 試験場は、戦場より正直に揉める。


 戦場なら、誰かが黙る。

 怒鳴られれば、飲み込む。

 命がかかれば、文句も出しにくい。


 だが、試験場では皆、遠慮なく言う。


 飯場が遠い。

 水場が近い。

 馬が怖い。

 槍の置き場がない。

 戻し飯の札が嫌だ。

 手当飯場を見たくない。

 列が曲がる。

 人が通りにくい。


 伊三郎の帳面は、朝の半刻で倒れかけた。


「待ってください。分類が追いつきません」


 伊三郎が珍しく声を上げた。


 権六が横に座る。


「まず、文句をそのまま拾え。分類は後だ」


「後にすると、混ざります」


「混ざる前に大きい腹だけ分けろ。飯場、水場、馬、槍、手当、戻し、早足、黙る文句」


「八つです」


「多いな」


「多いです」


「でも、全部一つよりましだ」


 伊三郎は深く息を吸った。


「はい」


 それから、小札を八つに分けた。


 飯場腹。

 水場腹。

 馬腹。

 槍腹。

 手当腹。

 戻し腹。

 早足腹。

 黙り腹。


 聞き慣れない腹が一気に増えた。


 だが、こうしないと本当に帳面が倒れる。


 弥助殿は、少し離れたところでその様子を見ていた。


 助けない。


 口も出さない。


 ただ見ている。


 たぶん、それも試験なのだ。


 清洲蔵が文句の量に耐えられるか。


 試験場を作る前に、帳面が崩れないか。


「馬水はここでは駄目だ」


 源太の声が飛んだ。


 かやが水桶の印を置いた場所を見て、源太は首を横に振る。


「人水の斜め後ろなら別腹に見えると言ったろう」


「別腹にしたつもりです」


「これは後ろだ。馬が待たされる場所に見える」


「馬が待つのは駄目ですか」


「馬が待つのはいい。馬が軽んじられているように見えるのが駄目だ」


 権六がすかさず書く。


 馬水文句――待つことではなく、軽んじられて見えることが嫌。


 佐助が水桶を見て言った。


「しかし、近づけると人水に泥が跳ねます」


「近づけろとは言っていない」


 源太が返す。


「では、同じ高さに見える位置で、距離を取る」


 きぬが提案した。


「高さ?」


「人水と馬水の札の高さです。桶は離しても、札の高さが同じなら、後ろに見えにくいかもしれません」


 かやが目を動かす。


「札の高さで別腹を見せる……」


 すぐに試した。


 人水札と馬水札を同じ高さに立てる。


 桶は斜めに離す。


 源太は少し考えてから頷いた。


「まだましだ」


「半分褒めてます?」


 太助が聞く。


「三分の一だ」


「市松さんより渋い」


 源太は少し笑った。


 飯場では、又八が戻し飯の札に噛みついていた。


「この『戻』の字、目立ちすぎる」


 伊三郎が聞く。


「目立つと悪いですか」


「悪いというか、腹が落ちる。進む飯の横に戻の札があると、足を引っ張られる感じがする」


「隠したほうがいいですか」


 佐助が聞くと、又八はすぐ首を振った。


「隠すのはもっと嫌だ。隠してある戻し飯なんて、なおさら縁起が悪い」


「では?」


「字じゃなくて、包みで分けられないか」


 かやが反応した。


「札じゃなくて包みの形?」


「戻し飯って言葉を見ると嫌だ。でも、必要な飯だとは分かってる。なら、字を前に出しすぎないほうがいい」


 権六が文句腹帳に書く。


 戻し飯文句――隠すな。だが字が目立ちすぎると腹が落ちる。


 これは大きい。


 隠すな。


 でも目立たせすぎるな。


 山裾と同じだ。


 見せるが、見せ物にしない。


 戻し飯も、必要だと見えるが、兵の腹を下げすぎない形が必要だった。


 佐助は戻し飯の丸い札を見つめた。


「現場では『戻』の字ではなく、丸札と包み形で分けるほうがいいかもしれません。帳面には戻し飯と書く。現場では、丸包み」


「丸包み?」


 又八が口の中で転がすように言った。


「そのほうがまだいい」


 太助が笑う。


「名前がかわいいですね」


「かわいくするな」


 又八が睨む。


 だが、嫌そうではなかった。


 槍列のほうでは、半三が槍受けを見ていた。


 昨日出た「一呼吸の受け」。


 槍を置くのではなく、槍尻を一瞬だけ支える低い受け。


 かやは浅い溝をつけた木片を用意していた。


 半三は、それを足で軽く押した。


「動く」


「まだ仮です」


「動く受けに槍は預けられない」


「預けるんじゃなくて、支える」


「言葉はいい。木片が動くのが駄目だ」


 かやは素直に頷いた。


「地面に刺す?」


「刺すと置き場になる」


「じゃあ、飯箱の足に付ける?」


 半三は少し考えた。


「飯箱が重ければ動かない。だが、飯箱に槍を寄せるのは怖い」


 飯配り役も同意した。


「槍が飯箱に集まると怖いです」


 また壁だ。


 槍を支える場所が欲しい。

 だが、槍が集まる場所は怖い。

 置き場にすると場所を食う。

 木片だけでは動く。


 作兵衛が槍を一本持ち、低い声で言った。


「槍受けは、飯場の前ではなく、飯場の少し手前だ」


「手前?」


「槍の姿勢を整えてから飯を受ける。飯の前で直すから詰まる」


 かやが地面に印をずらす。


 飯場の手前に、浅い溝の槍受け。


 そこで槍の向きを揃える。


 半歩進み、飯を受け取る。


 さらに半歩で納める。


 半三が実際に動く。


 悪くない。


 だが、半三はすぐ言った。


「人数が増えたら、ここで詰まる」


「では、槍受けも一つではなく、二つ?」


 かやが言うと、権六が唸る。


「増やすと場所を食う」


「でも一つだと詰まる」


「美濃前哨、全部それだな」


 権六の文句に、誰も反論できなかった。


 手当飯場では、喜八がまだ少し離れていた。


 きぬは、無理に近づけない。


 手当飯の札、飯包み、受け布、血止め布、拭き布を一つずつ置いている。


 喜八は、飯包みだけなら見られる。


 受け布も見られる。


 だが、血止め布を見ると顔が固まる。


 きぬは言った。


「喜八さん、血止め布を見なくても、手当飯は受け取れます」


「でも、同じ場所にある」


「だから、場を分けすぎず、目線を分けます」


「目線?」


「飯を渡す者からは、飯包みと受け布が見える。布役には血止め布が見える。全部を全員が見る必要はありません」


 喜八は少し驚いたようだった。


「見なくていいものもあるんですか」


「はい。ただし、必要な人は見えるようにします」


 それは大事だった。


 見ないほうがもっと怖い。


 そう言ってきた。


 だが、全部を全員に見せることが正しいわけではない。


 山裾でも、見る人数を村が決めた。


 手当飯場も同じだ。


 必要な者が見る。


 見たくない者に全部を押しつけない。


 権六が書く。


 手当飯場――全部を全員に見せない。必要な者が見える場。見せ物にしない。


 山裾の経験が、ここにも来た。


 寅吉は黙って荷箱を運んでいた。


 相変わらず文句は少ない。


 だが、太助が横で見ていると、荷箱を置く時に少し強く置いた。


 どん、と鈍い音がする。


「寅吉さん」


「ん?」


「今、音が強かったです」


「そうか?」


「疲れてます?」


「いや、まだ大丈夫だ」


 寅吉は笑う。


 でも、手は少し強張っている。


 太助は踏み込んだ。


「大丈夫って言う時、荷箱の音が大きくなるんですか」


 寅吉は、しばらく黙った。


 それから、少し困った顔で言った。


「……飯場と水場の間を何度も運ぶのが、少し面倒だと思ってた」


「言えばいいのに」


「言うほどじゃないと思った」


 それだ。


 黙る文句。


 言うほどじゃないと思った文句が、荷箱の音になる。


 権六はそれを聞いて頷いた。


「言うほどじゃない文句ほど、積もる」


 伊三郎が書く。


 黙り文句――言うほどじゃないと思った不満が、手の荒さ・荷音に出る。


 昼過ぎ、試験場はようやく形になり始めた。


 飯場は中央から少しずらした場所。


 進む飯箱と丸包み箱。


 雨天飯と手当飯は別だが、遠すぎない。


 水場は飯場を横切らない位置。


 人水と馬水は札の高さを揃え、桶は斜め別腹。


 槍列は飯場手前で一呼吸の槍受け。


 早足用は列に入らず、横渡し。


 手当飯場は、飯を受ける者の目線と布役の目線を分ける。


 完璧ではない。


 むしろ、まだ文句だらけだ。


 しかし、何も置けなかった朝よりは、ずっとましだった。


 弥助殿は試験場全体を見て、ようやく口を開いた。


「戦場より正直に揉めたな」


 権六が苦笑する。


「揉めすぎです」


「よい。戦場で黙って崩れるより、試験場で喋って揉めろ」


 又八が戻し飯の丸包みを見て言った。


「これなら、まあ……最初の札よりはましだ」


 佐助が頭を下げる。


「明日、実際に受け取ってください」


「食うかどうかは別だぞ」


 権六がすかさず言う。


「食う文句も取る」


「おまえ、本当に文句を逃さないな」


「役だからな」


 源太は馬水札を見て、まだ不満そうだった。


「馬水は、もう少しだけ人水から見えるようにしたい」


「明日試しましょう」


 かやが言う。


 半三は槍受けを見ている。


「一呼吸の受け、名前は悪くない」


「使えそうですか」


「まだ分からん。人数が増えたら崩れるかもしれん」


「それを見るのが明日です」


 半三は頷いた。


 喜八は手当飯の飯包みを一つ手に取った。


 血止め布は見ていない。


 でも、昨日より近い。


 寅吉は荷箱を置く時、少し音を抑えた。


 藤七は早足用の横渡し場所を見て、少しだけ満足そうだった。


 それでも言った。


「もう半歩近いほうがいい」


 太助が笑う。


「その半歩が危ないんです」


「分かってる。でも言う」


「言ってください。試験なので」


 夕方、伊三郎は帳面を整理した。


 分類が増えすぎて、指が墨で黒くなっている。


「倒れずに済みました」


「ギリギリだな」


 権六が言う。


「はい。文句腹帳がなければ倒れていました」


「文句が役に立ったか」


「はい」


 伊三郎はまっすぐ答えた。


「文句が多すぎる時ほど、分類が要ります。今日はそれが分かりました」


 弥助殿は報告板を読んだ。


 飯場腹――早足には遠い。通常列には近すぎる。

 水場腹――人水と馬水は別腹に見せる。札の高さを揃える。

 馬腹――馬水の後回し感を避ける。

 槍腹――一呼吸の受け。人数増加で再試験必要。

 戻し腹――戻し飯札は目立ちすぎると腹が落ちる。丸包み案。

 手当腹――全部を全員に見せない。必要な者が見える場。

 早足腹――列に入れず横渡し案。

 黙り腹――言うほどじゃない文句が荷音に出る。


 弥助殿は頷いた。


「明日は雨天試験だ」


 太助が空を見た。


「明日、雨ですか」


「晴れだ」


「晴れなのに?」


 弥助殿は当然のように言った。


「晴れている時に雨を作る。雨が降ってから慌てるな」


 かやが桶を見た。


「水を撒きますか」


「撒く。布を濡らせ。札を泥で汚せ。晴れているからこそ油断が出る」


 藤七が嫌そうな顔をした。


「晴れの日に濡れるんですか」


 権六が文句腹帳を開いた。


「その文句、明日の頭だな」


 夜、清洲蔵では試験場づくりの疲れを抱えたまま飯を食べた。


 今日は進む飯と丸包みの戻し飯。


 又八が丸包みを一口食べ、言った。


「名前を見ないと、少し食いやすいな」


 佐助が頷いた。


「でも、隠してはいません」


「そこがいい」


 喜八は手当飯ではなく普通の飯を食べていた。


 きぬがそれを見て、何も言わない。


 寅吉は黙っていたが、荷箱の話を自分からした。


「俺、音に出るんだな」


 太助が笑った。


「出ますね」


「気をつける。でも、言うほどじゃない文句も、少し言うようにする」


 権六が満足そうに頷いた。


「いいぞ」


 試験場は、まだ完成していない。


 だが、今日の揉め方は無駄ではなかった。


 戦場では言えない文句が、試験場では出る。


 その正直な揉め方が、美濃前哨飯線を少しだけ本物に近づけていた。

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