第百三十一話 大規模試験、まずは嫌がる者を入れろ
信長様が戻し飯を食べた。
その話は、清洲蔵の中で何度も繰り返された。
誰かが大げさに言いふらしたわけではない。
むしろ、皆、慎重に扱っていた。
戻し飯は、縁起の悪い飯ではない。
信長様が最初に食べた飯だ。
退く時に死なないための飯だ。
悔しさを邪魔しない飯だ。
その言葉が、少しずつ蔵の中に馴染んでいった。
けれど、馴染んだところで、飯線が楽になるわけではない。
むしろ、次の仕事はもっと重かった。
大規模試験。
信長様が命じた、美濃前哨飯線の次の試験である。
進む飯。
戻し飯。
雨天飯。
手当飯。
四つの試作飯を、実際に人を増やし、馬を入れ、槍を持たせ、列を乱し、文句を出させながら試す。
その準備だけで、清洲蔵は朝からざわついていた。
「聞き分けのよい者だけで試すな」
弥助殿は、最初にそう言った。
その一言で、蔵の手がいくつか止まった。
太助が顔を上げる。
「聞き分けのよい者だけでは駄目なんですか」
「駄目だ」
弥助殿は即答した。
「本番には、聞き分けのよい者だけが来るのか」
「来ませんね」
「なら、試験にも入れろ」
権六が文句腹帳を開きながら、少し笑った。
「上様の言葉どおりですね。嫌がる者がいる試験でなければ、本番の役に立たない」
「そうだ」
弥助殿は頷いた。
「戻し飯を嫌がる兵。列を乱しやすい若い人足。馬水を優先したがる馬廻り。槍を置きたがらない槍持ち。手当飯を見ると顔をしかめる者。そういう者を入れる」
蔵の空気が、さらに重くなる。
かやが一本縄を手にしたまま言った。
「わざと揉める人を入れるんですね」
「揉める人ではない。揉める腹を持つ者だ」
弥助殿の言葉は、少し怖かった。
揉める腹。
誰の中にもある。
雨の日に苛立つ腹。
列で待つと疑う腹。
戻し飯を嫌がる腹。
馬を優先したくなる腹。
槍を手放したくない腹。
それを試験場へ持ち込む。
怖い。
だが、持ち込まないまま本番に出れば、もっと怖い。
伊三郎は美濃前哨飯線帳を開いた。
「参加者の腹も分類します」
「人を分類するのか」
権六が聞くと、伊三郎は少し首を横に振った。
「人を決めつけるのではなく、出やすい文句を先に置きます。戻し飯嫌い、列焦り、馬水優先、槍手放し拒否、手当飯忌避……」
「嫌な札ばかりだな」
太助が言った。
「でも、本番で出る札です」
伊三郎は静かに返す。
その通りだった。
美濃前哨飯線帳には、新しい頁ができた。
大規模試験参加腹。
一、戻し飯を嫌がる兵。
二、列を乱しやすい若い人足。
三、馬水を優先したがる馬廻り。
四、槍を置きたがらない槍持ち。
五、手当飯を見たくない者。
六、文句を我慢して黙る者。
最後の一つを見て、権六が眉を寄せた。
「文句を我慢して黙る者も入れるのか」
「はい」
伊三郎が答える。
「文句を言う者は見えます。黙る者は見えません。でも本番では、黙って崩れる者がいます」
きぬが静かに頷いた。
「不安を口に出せない人もいますね」
「そうです」
権六は文句腹帳の端を叩いた。
「黙る文句、か。厄介だな」
「それも拾う必要があります」
「どうやって拾う」
伊三郎は少し困った顔をした。
弥助殿が答える。
「顔と手だ」
「顔と手?」
「文句を言わぬ者は、顔か手に出す。飯を受け取る手が遅い。戻し飯を見て目を逸らす。水場で半歩下がる。そういうものを拾え」
太助が自分の顔を触った。
「俺、全部出そうですね」
「だからおまえは役に立つ」
作兵衛が言った。
「褒めてます?」
「褒めてる」
太助は困った顔で頷いた。
その困った顔も、今では一つの目印になっている。
昼前、試験参加者が少しずつ集められた。
まず来たのは、戻し飯を嫌がる兵だった。
名は又八。
若くはないが、老いてもいない。
戦場経験がないわけではなく、むしろ中途半端に経験がある顔をしていた。
彼は戻し飯の札を見るなり、鼻を鳴らした。
「戻し飯か。食う前から足が後ろ向きになるな」
権六の目が光った。
だが、怒鳴らない。
文句腹帳を開くだけだ。
「いい。続けろ」
又八は少し驚いた。
「怒らんのか」
「怒らん。何が嫌だ」
「何がって……戻る飯なんて言われたら、負ける支度みたいだろうが」
予想通りの文句だった。
権六は頷く。
「縁起が悪い、だな」
「そうだ。戦の前にそんなもの並べられて、腹が乗るか」
「上様は最初に食った」
又八の顔が固まった。
「……本当か」
「本当だ」
権六は短く言った。
「それでも嫌なら、その嫌を試験に入れる」
又八は黙った。
完全に納得したわけではない。
だが、文句の出方が少し変わった。
信長様が食べた。
それは、やはり強い。
次に来たのは、列を乱しやすい若い人足だった。
名は藤七。
足は速いが、気も早い。
飯を受け取る前から、もう体が前へ出ている。
「俺、走る役のほうがいいんですが」
藤七は最初にそう言った。
太助が苦笑する。
「今日は待つ役もある」
「待つのは苦手で」
権六が文句腹帳に書く。
待つのが苦手。
藤七が覗き込む。
「それも書くんですか」
「書く。おまえみたいなのが本番で列を割る」
「まだ割ってません」
「割りそうだから呼ばれたんだ」
藤七は不満そうだったが、逃げなかった。
三人目は、馬水を優先したがる馬廻り。
名は源太。
前回の馬水試験にも少し参加していた男だ。
彼は最初から、馬水札を見て顔をしかめた。
「馬水が人水の後ろに見える」
「今日はまだ配置していません」
かやが言うと、源太は首を振った。
「見え方の話だ。馬が後回しにされているように見える」
いきなり鋭い。
人水、馬水、非常水。
札の位置だけで、優先順位に見える。
源太は馬を大事にしている。
だからこそ、馬が軽く扱われる気配に敏感だ。
権六が書く。
馬水札の位置が優先順位に見える。
かやがすぐ札を並べ直した。
「人水と馬水を横並びにすると、近すぎる」
源太が言う。
「離すと後回しに見える」
「斜めは?」
「斜めなら、別腹に見えるかもしれん」
別腹。
面白い言葉だった。
人水と馬水は、上下ではなく別腹。
伊三郎がすぐ書いた。
馬水――人水の後ろではなく、別腹として見せる。
四人目は、槍を置きたがらない槍持ち。
名は半三。
細身だが、槍を持つ手つきは慣れている。
庭に入るなり、低い槍受けの試作品を見て眉を寄せた。
「槍を預けるのか」
「一呼吸だけです」
かやが答える。
「置き場ではありません。飯を受け取る間、槍尻を少し預けるだけ」
「預けた時点で、槍が手から離れる」
「完全には離しません」
「でも嫌だ」
はっきり言った。
権六が書く。
槍を預けるのが嫌。
半三は権六を見た。
「それも文句か」
「大事な文句だ」
「じゃあ書け。槍は手の延長だ。飯のために手を切る気はない」
蔵の空気が少し締まった。
槍は手の延長。
槍持ちにとっては、そうなのだ。
ただの長物ではない。
飯を取りやすくするために「少し置け」と言われても、簡単には納得できない。
かやは真剣な顔で頷いた。
「分かった。預けるんじゃなくて、手の延長を支える形にする」
「どう違う」
「これから考える」
半三は少しだけ口元を動かした。
「正直だな」
五人目は、手当飯を見たくない者。
これは、予想より難しかった。
誰かに「手当飯を嫌がる役をやれ」と言えば、それは役になってしまう。
本当に嫌がる腹が見えない。
結局、弥助殿が選んだのは、若い兵の喜八だった。
怪我人の話になると、すぐ顔が強張る。
本人は強がっているが、目が逃げる。
きぬはその顔を見て、少し声を柔らかくした。
「喜八さん、今日は手当飯の試験にも入っていただきます」
「怪我人役ですか」
「いいえ。まずは見る役です」
「見るだけなら」
そう言いながら、喜八は手当飯の札を見なかった。
権六は書く。
手当飯を見ない。
喜八が気づいて顔を赤くした。
「見てます」
「見てない」
権六は短く言う。
喜八は言い返せなかった。
きぬは責めなかった。
「見たくないなら、それも大事です。どうして見たくないか、後で聞かせてください」
喜八は小さく頷いた。
最後に、文句を我慢して黙る者。
これは太助が選んだ。
「寅吉がいいと思います」
「誰だ」
俺が聞くと、太助は人足の一人を指した。
寅吉は、体格のよい男だった。
よく働く。
文句はあまり言わない。
ただ、疲れると手の動きが少し荒くなる。
「文句を言わないんです。でも、荷紐を結ぶ時に力が入りすぎる」
太助が言った。
「それ、よく見てたな」
作兵衛が感心する。
太助は少し照れた。
「俺も荷紐で文句が出るので」
寅吉は呼ばれると、困ったように笑った。
「俺、何かしましたか」
「まだしてない」
権六が言う。
「じゃあ、なぜ」
「黙る文句を見るためだ」
寅吉はますます困った顔をした。
「文句は、あまり言いません」
「だから呼ばれた」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
これで、大規模試験の「嫌がる者」がそろった。
戻し飯を嫌がる又八。
列を乱しやすい藤七。
馬水を優先したがる源太。
槍を置きたがらない半三。
手当飯を見たくない喜八。
文句を黙る寅吉。
見ているだけで、試験前から胃が痛くなる顔ぶれだった。
だが、権六は文句腹帳を抱えて、妙に生き生きしていた。
「いいな」
「何がですか」
伊三郎が聞く。
「文句が見える」
きぬが苦笑した。
「見えすぎて怖いです」
「見えないよりましだ」
権六は、はっきり言った。
「文句が見える試験のほうが役に立つ」
その言葉に、皆が頷いた。
午後は、試験場づくりの準備だけで揉めた。
飯場の位置。
藤七が言う。
「遠い。これじゃ早足が死ぬ」
源太が言う。
「馬水が飯場に近い。馬が嫌がる」
半三が言う。
「槍列が狭い」
又八が戻し飯札を見て言う。
「戻の札、目立ちすぎだ」
喜八は手当飯場の布を見て、何も言わずに半歩下がる。
寅吉は黙って飯箱を持ったが、荷紐を締める手に力が入りすぎている。
文句が噴き出す。
まだ試験は始まっていない。
試験場を作っているだけだ。
それでも、文句は出る。
伊三郎の帳面は、早くも倒れかけていた。
「分類します」
伊三郎は自分に言い聞かせるように言った。
「飯場の距離は列腹。馬水位置は馬腹。槍列は兵種別飯受け取り。戻し飯札は文句腹。手当飯忌避は手当腹。寅吉さんの荷紐は黙る文句……」
権六が横で支える。
「一つずつだ。文句は洪水じゃない。桶で受けろ」
「はい」
「いや、今のは書くな」
「もう書きました」
「またか」
少し笑いが起きた。
その笑いに、又八がぼそっと言った。
「こんなに揉めて、本当に試験になるのか」
弥助殿が答えた。
「なる」
「戦場なら、こんな文句言ってる暇はないでしょう」
「だから今言わせている」
又八は黙った。
弥助殿は続けた。
「本番で言えぬ文句を、今言え。今言わぬ文句は、本番で足を止める」
その言葉で、試験場づくりの空気が少し変わった。
文句を言うことが、ただのわがままではなくなる。
もちろん、何でも通るわけではない。
だが、出すことに意味がある。
藤七が飯場の距離をもう一度見て言った。
「早足用の飯だけ、別に小さく置けませんか」
「場所を増やすと詰まる」
かやが返す。
「じゃあ、飯場じゃなくて、受け渡し役が動く」
「動く?」
「早足が列に入ると乱すので、早足用だけ、列の横で渡す」
弥助殿が頷いた。
「案として残せ」
源太は馬水札の位置を見ながら言った。
「人水の後ろじゃなく、斜め別腹ならまだ飲み込める」
かやが札を動かす。
「こう?」
「もう少し離せ。馬の鼻が人水へ行く」
「離すと後回しに見える」
「なら札を大きくする」
「大きくすると目立つ」
「面倒だな」
「それを見に来たんです」
源太は一瞬黙り、それから笑った。
「確かに」
半三は槍受けをじっと見ていた。
「これは置き場じゃないな」
「一呼吸の受けです」
かやが言う。
「名前は悪くない。だが、低すぎると槍尻が外れる」
「高くすると置き場に見える」
「なら、浅い溝だ。預けるというより、滑り止め」
かやの目が輝く。
「それ、使える」
喜八は、きぬの手当飯場に近づけずにいた。
きぬは無理に呼ばなかった。
代わりに、手当飯の布束を一つずつ離して置いた。
「見たくないものが一度に並ぶと、余計に怖いですか」
喜八は、少し驚いてきぬを見た。
「……はい」
「では、最初は飯包みだけ見てください。血止め布は後でいいです」
「それなら」
喜八は手当飯だけを見た。
まだ顔は硬い。
でも、半歩は戻った。
寅吉は相変わらず黙っている。
太助が横に立ち、荷紐を見た。
「寅吉さん、締めすぎです」
「そうか?」
「はい。ほどく人が困ります」
「緩いと落ちると思って」
「落ちる不安ですね」
寅吉は少し目を丸くした。
「……そうかもしれん」
黙る文句が、少し声になった。
権六がそれを見て、小さく頷いた。
「拾えたな」
夕方になる頃、試験場はまだ完成していなかった。
だが、文句は山ほど取れた。
飯場。
水場。
馬水。
槍列。
戻し飯札。
手当飯場。
早足受け渡し。
黙る文句。
伊三郎は疲れた顔をしていたが、倒れてはいない。
文句腹帳と美濃前哨飯線帳を横に並べ、分類しながら書いている。
「聞き分けのよい者だけなら、今日の半分も出なかったでしょう」
伊三郎が言った。
権六が頷く。
「見ろ。面倒な者ほど役に立つ」
又八が眉を上げる。
「俺たちのことか」
「そうだ」
「褒めてるのか」
「半分」
「半分か」
太助が笑った。
「市松さんみたいになってます」
夜、清洲蔵では戻し飯と進む飯が少しずつ出された。
又八は戻し飯をしばらく見ていたが、結局食べた。
「どうですか」
佐助が聞く。
「……思ったより、腹は後ろ向きにならん」
権六がすぐ書く。
又八、戻し飯試食。腹は後ろ向きにならん。
「それ書くのか」
又八が苦笑する。
「書く。重要だ」
藤七は飯を食べ終えると、すぐ立とうとした。
太助が止める。
「まだ列の話が残っています」
「じっとしてるの苦手なんだよ」
「それも明日の試験で出ますね」
藤七は嫌そうな顔をした。
源太は馬水札の絵をかやと相談している。
半三は槍受けの浅い溝を指でなぞっている。
喜八は手当飯の飯包みだけなら、見られるようになった。
寅吉は荷紐を少し緩めに結び直していた。
文句は多い。
だが、見えている。
それだけで、試験はもう始まっているようなものだった。
弥助殿は最後に言った。
「明日は試験場を組む」
「今日も組んでいたようなものですが」
太助が言うと、弥助殿は首を横に振った。
「今日は腹を集めた。明日は場を組む」
腹を集めた。
確かに、今日はそういう日だった。
大規模試験は、聞き分けのよい者だけでは役に立たない。
嫌がる者を入れろ。
文句が見える試験のほうが、本番に近い。




