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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百三十話 信長、戻る飯を食う

 信長様へ見せる飯を並べることになった時、清洲蔵の空気はいつもより硬かった。


 ただ飯を出すだけではない。


 進む飯。

 戻し飯。

 雨天飯。

 手当飯。


 美濃前哨飯線の最初の試作を、信長様の前に出す。


 その意味を、誰も軽く見ていなかった。


 佐助は、朝からほとんど喋らなかった。


 進む飯の包みを確かめ、戻し飯の結びを確かめ、雨天飯の竹皮を触り、手当飯の受け布を何度も畳み直す。


 かやは小さな札を四つ用意した。


 進。

 戻。

 雨。

 手当。


 色ではなく、形も変えてある。


 進む飯は細長い札。

 戻し飯は丸みを持たせた札。

 雨天飯は角を少し削った札。

 手当飯は布の小さな結びを付けた札。


「見れば分かる。触っても分かる。できれば、迷わない」


 かやはそう言った。


 きぬは手当飯の布印を確認している。


 飯包み布は二折。

 拭き布は一折。

 血止め布は三折。

 泥布は荒縫い。


 今日、血止め布を信長様の前に出す。


 それだけで、蔵の中の空気は少し重かった。


 権六は文句腹帳を抱えたまま、戻し飯をじっと見ていた。


「やっぱり、家臣衆は嫌がるだろうな」


「戻し飯ですか」


 太助が聞く。


「戻し飯も、手当飯もだ。進む飯は分かりやすい。雨天飯も、まあ分かる。雨は降るからな。でも戻し飯と手当飯は、考えたくない者が多い」


「縁起が悪いから?」


「それもある。だが、たぶんもっと単純だ」


 権六は苦い顔で言った。


「怖いんだよ」


 誰も笑わなかった。


 怖い。


 たしかにそうだ。


 戻ること。

 怪我をすること。

 負けるかもしれないこと。

 崩れるかもしれないこと。


 それを飯の形にして目の前に置くのは、怖い。


 だが、見ないほうがもっと怖い。


 その言葉を、俺たちはもう何度も聞いている。


 佐助が静かに言った。


「怖い飯ほど、ちゃんと作らないといけません」


 権六は頷いた。


「それも文句腹帳に入れるか」


「文句ですか?」


「いや、芯だな」


 伊三郎がすぐ書いた。


 怖い飯ほど、ちゃんと作る。


 弥助殿が蔵へ来た時、四つの飯は小さな膳に並べられていた。


 進む飯は、しっかりした細長い包み。


 戻し飯は、片手でも開けやすい結び。


 雨天飯は、竹皮外包みで、指印付き。


 手当飯は、柔らかく、受け布を添えてある。


 弥助殿は一つずつ見た。


「少ないな」


「見本ですので」


 佐助が答える。


「それでよい。今日は腹いっぱいにする日ではない。役を見せる日だ」


 その言葉で、佐助の顔が少しだけ落ち着いた。


 清洲城の広間へ向かう間、誰も余計なことを言わなかった。


 太助でさえ黙っていた。


 ただ、広間へ入る直前、権六がぽつりと言った。


「戻し飯、上様は食うかな」


 俺は答えられなかった。


 信長様が、何をどう見るか。


 分かるはずがない。


 だが、ひとつだけ分かっていた。


 信長様は、見たくないものから目を逸らす方ではない。


 広間には、家臣たちがそろっていた。


 以前よりも、さらに顔ぶれが重い。


 美濃前哨飯線が、ただの蔵仕事ではなく、戦の支度として扱われているのが分かる。


 信長様は上座に座り、俺たちが膳を並べるのを黙って見ていた。


 四つの飯。


 進む飯。

 戻し飯。

 雨天飯。

 手当飯。


 その札を見た瞬間、家臣たちの間に小さなざわめきが起きた。


「戻し飯……」


「手当飯まで……」


「まだ戦も始まっておらぬのに」


 誰かが、そう漏らした。


 権六の顔が少し動く。


 文句を拾う顔だった。


 信長様は、そのざわめきを止めなかった。


 しばらく聞いてから、静かに言った。


「嫌か」


 広間が静まる。


「戻る飯を見るのは嫌か。怪我人の飯を見るのは嫌か」


 誰も答えない。


 信長様は膳へ目を落とした。


「よい。嫌で当然だ」


 その言葉に、空気が少し揺れた。


「嫌だから、先に見る」


 信長様は、まず進む飯へ手を伸ばさなかった。


 雨天飯でもない。


 手当飯でもない。


 真っ先に、戻し飯を取った。


 広間の空気が止まった。


 佐助が息を呑む気配がした。


 信長様は戻し飯の結びを見た。


「片手で開ける結びか」


「はい」


 佐助が答える。


「疲れた者、片手が塞がる者でも開けられるようにしました。強く結びすぎると苛立ちます。弱すぎると崩れます」


 信長様は結びをほどいた。


 難なく開く。


 中の飯を一口食べる。


 誰も動かない。


 噛む音さえ聞こえそうなほど、広間は静かだった。


 信長様は飲み込み、短く言った。


「まずくはない」


 佐助の肩から力が抜けかけた。


 だが、信長様は続けた。


「うまくもない」


 佐助の顔が引き締まる。


「はい」


「だが、それでよい」


 信長様は戻し飯をもう一口食べた。


「戻る飯が美味すぎれば、嘘になる。強すぎれば、腹が受けぬ。弱すぎれば、兵が嫌がる。この飯は、悔しさを邪魔しない」


 権六が目を見開いた。


 以前、権六が言った言葉だった。


 悔しさを邪魔しない。


 信長様の口からそれが出た瞬間、戻し飯の意味が広間に落ちた。


「戻る飯がまずい軍は、退く時に死ぬ」


 信長様は静かに言った。


 誰も息をしなかった。


「退くことを考えぬ者は、進む資格がない。戻る飯を嫌がる者は、戻る兵を見捨てる者だ」


 家臣たちの顔つきが変わった。


 戻し飯は、縁起の悪い飯ではなくなった。


 少なくとも、この広間では。


 信長様が食べたからだ。


 しかも、真っ先に。


 信長様は次に、手当飯を見た。


「これは」


 きぬが一歩前へ出た。


「手当飯にございます。帳面上は負傷者飯ですが、現場では手当飯と呼ぶ案です」


「なぜ呼び名を変えた」


「負傷者飯という名は正確ですが、聞いた者の腹を硬くします。手当飯なら、布と飯の役が伝わりやすいかと」


 信長様は頷いた。


「布は」


 きぬが布束を示す。


「飯包み布は二折。拭き布は一折。血止め布は三折。泥布は荒縫いです。目でなく、指で分かるようにしています」


「雨でもか」


「はい。暗くても、泥がついても、手で分かるように」


 信長様は血止め布を手に取り、指で端を触った。


 それから、飯包み布、拭き布も触る。


「分かる」


 たった一言だったが、きぬの顔に安堵が浮かんだ。


 信長様は手当飯を開いた。


 受け布も添えられている。


「柔らかいな」


 佐助が答える。


「柔らかくしました。ただし、粘りすぎると喉に残り、水を欲しがります。まだ調整中です」


 信長様は一口食べた。


 少し目を細める。


「薄い」


「はい」


「水を食わせぬためか」


「はい」


「よい。ただし、弱くなりすぎるな。怪我人は弱った腹をしているが、弱い飯ばかりが欲しいわけではない」


 佐助は深く頭を下げた。


「承知しました」


 信長様は次に雨天飯を取った。


 竹皮の包みを触り、指印を確かめる。


「雨の日は、目より手か」


「はい」


 かやが答える。


「小雨、雨、大雨の札も、形で分ける案です。色だけでは泥で見えません」


「よい」


 信長様は雨天飯を食べた。


「冷たい」


 佐助が頭を下げる。


「火を使わない前提ですので」


「腹は暗くならぬ」


 権六がまた反応した。


 これも、清洲蔵で出た言葉だった。


 腹が暗くならない。


 信長様は続ける。


「雨の日の飯は、勝ち飯ではない。腹を守る飯だな」


「はい」


 最後に進む飯。


 信長様は細長い包みを見た。


「槍持ち用か」


「はい。腰に差しやすいようにしました。ただし、細すぎると腹持ちが落ちます。分割も検討しています」


「分ければ落とす」


 権六が思わず小さく頷いた。


 信長様はそれを見て、少し笑った。


「文句腹帳にあるな」


「はい」


 権六が答える。


「分けると片方を落とす、という文句でございます」


「よい。落とす前に書いたなら、拾う手間が減る」


 広間に小さな笑いが起きた。


 重かった空気が、少しだけ動いた。


 信長様は進む飯を食べた。


「これは進める」


 短い言葉。


 だが、佐助には十分だった。


 信長様は四つの飯を見比べた。


「進む飯だけなら、勇ましい。だが、勇ましい飯だけで戦は持たぬ」


 広間の家臣たちが黙って聞く。


「戻し飯がある。雨天飯がある。手当飯がある。これを嫌がる者は、戦を半分しか見ておらぬ」


 信長様の声は、低く、はっきりしていた。


「戦は勝つためにする。だが、勝つ前に崩れた軍は、勝つ場へ届かぬ。飯は、勝つ前の腹を守る」


 俺はその言葉を腹で受け止めた。


 飯は、勝つ前の腹を守る。


 それが、美濃前哨飯線の芯になる気がした。


 信長様は弥助殿を見た。


「次は、大きく試せ」


「承知しました」


「ただし、兵を増やすだけではない。列を乱せ。雨を想定せよ。馬を入れよ。槍を持たせよ。戻し飯を嫌がる者を入れよ」


 権六が少し苦い顔をした。


 信長様は続ける。


「嫌がる者がいる試験でなければ、本番の役に立たぬ」


「はい」


 俺たちは一斉に頭を下げた。


 広間を出た後、佐助はしばらく何も言わなかった。


 清洲蔵へ戻る道で、太助がそっと聞いた。


「佐助さん、大丈夫ですか」


「はい」


 佐助は小さく笑った。


「戻し飯を、上様が最初に食べてくださいました」


「大きいですね」


「はい。たぶん、兵にも言えます。上様が最初に食べた飯だと」


 権六が頷いた。


「それは強い。縁起が悪いって文句が半分減る」


「半分ですか」


「全部は減らん。文句は強いからな」


 かやが笑った。


「でも半分減るなら十分だね」


 きぬは手当飯の布束を抱えながら言った。


「手当飯も、逃げずに出せてよかったです」


「きぬさんの説明、分かりやすかったです」


 太助が言うと、きぬは少し照れたように目を伏せた。


「怖かったですけど」


 俺は頷いた。


「でも、見ないほうがもっと怖い」


「はい」


 清洲蔵へ戻ると、伊三郎はすぐ美濃前哨飯線帳を開いた。


 今日の信長様の言葉を、丁寧に書き込む。


 戻る飯がまずい軍は、退く時に死ぬ。

 退くことを考えぬ者は、進む資格がない。

 飯は、勝つ前の腹を守る。

 嫌がる者がいる試験でなければ、本番の役に立たぬ。


 権六が文句腹帳にも書いた。


 戻し飯への文句、上様が先に食べたことで半減見込み。ただし消えず。

 手当飯への怖さ、説明で少し和らぐ。

 嫌がる者を入れた試験が必要。


 佐助は、戻し飯の残りを見ながら言った。


「戻し飯、もう少しだけ噛み切りやすくします」


「上様がよいと言ったのに?」


 太助が聞く。


「よいと言われたからこそ、直します。まだ調整中です」


 佐助の顔は、朝よりずっと落ち着いていた。


 信長様に食べられたことで満足したのではない。


 むしろ、次に進む覚悟が決まった顔だった。


 夜、清洲蔵では、四つの試作飯の残りを皆で食べた。


 進む飯。

 戻し飯。

 雨天飯。

 手当飯。


 権六は戻し飯を口に入れ、しみじみと言った。


「今日の飯は、上様の歯形がついた味だな」


「実際にはついてませんよ」


 太助が笑う。


「分かってる。でも、意味はついた」


 かやが頷いた。


「戻し飯、もう縁起悪いだけの飯じゃなくなったね」


 きぬも言った。


「手当飯も、隠さなくていい飯になりました」


 佐助は静かに頭を下げた。


「まだ、よくします」


 俺は四つの飯を順に食べた。


 進む飯は、前を向かせる。

 戻し飯は、崩れた腹を散らさない。

 雨天飯は、冷えた腹を守る。

 手当飯は、見たくない痛みに先に手を伸ばす。


 美濃前哨飯線は、ただ兵へ米を配る話ではなくなっていた。


 勝つ前に崩れないための飯。


 信長様は、それを食べて示した。


 次は、大きな試験だ。


 嫌がる者も入れる。

 馬も入れる。

 槍も入れる。

 雨も想定する。

 列も乱す。


 美濃へ向かう飯線は、また一段、本物の戦へ近づいた。

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