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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百二十九話 敵は飯の量より、列を狙う

 負傷者飯の試作が終わった翌朝、清洲蔵には奇妙な疲れが残っていた。


 進む飯。

 戻し飯。

 雨天飯。

 手当飯。


 美濃前哨飯線帳は、まだ新しい帳面のはずなのに、もう何度も開かれ、墨の乾ききらない頁が増えている。


 飯そのものは、少しずつ見えてきた。


 だが、弥助殿がその朝に言った言葉で、蔵の空気はまた変わった。


「敵は、米の量だけを狙うとは限らん」


 権六が顔を上げる。


「米俵を奪いに来るんじゃないんですか」


「奪いにも来るだろう。だが、それより簡単な狙いがある」


「何です」


「列だ」


 列。


 その一文字で、太助が嫌そうな顔をした。


「列は嫌ですね」


「なぜだ」


 弥助殿が聞くと、太助は少し考えて答えた。


「待ってる間に、みんな腹の中で文句を育てるからです」


 権六がすぐ文句腹帳を開いた。


「いいぞ、太助」


「褒められてる気がしないんですよね」


「育ってる」


「文句役として?」


「人足役としてだ」


 太助は微妙な顔をしたが、否定はしなかった。


 弥助殿は飯線図の横に、細い小札を並べた。


 飯配りの列。

 水場の列。

 馬水の列。

 槍持ちの列。

 負傷者を運ぶ列。

 戻し飯を受け取る列。


「敵が米俵を奪えば、確かに痛い。だが、守りも厚い。ところが、列は違う。誰かが一言叫ぶだけで乱れることがある」


「一言?」


 きぬが聞く。


「馬が先だ。水が足りない。飯がもうない。負傷者が後回しにされている。あの列のほうが早い。清洲の兵だけ先に食っている」


 蔵の中が静かになった。


 どれも、実際にありそうな言葉だった。


 嘘でも効く。


 本当ならもっと効く。


 飯の量が足りていても、列が乱れれば飯は届かない。


 水があっても、水場の列が荒れれば兵は飲めない。


 手当飯が用意されていても、運ぶ列が詰まれば負傷者へ届かない。


 弥助殿は言った。


「美濃前哨では、敵は飯の量より、列を狙うと思え」


 伊三郎が美濃前哨飯線帳へ大きく書いた。


 敵は飯の量より、列を狙う。


 権六が腕を組む。


「列腹帳が要るな」


「列腹帳……」


 伊三郎が一瞬で反応した。


「作ります」


「言ってみただけなんだが」


「必要です」


 もう止まらなかった。


 清洲蔵の床に、新しい小札が置かれる。


 飯列。

 水列。

 馬列。

 槍列。

 戻り列。

 手当列。


 かやがそれを見て、少し眉を寄せた。


「列を作ると、場所を取る」


「その通りだ」


 弥助殿が頷く。


「だが、列を作らぬと混ざる」


「混ざると揉める」


 太助が言った。


「揉めると文句が育つ」


 権六が続ける。


「文句が育つと敵が刃を入れる」


 きぬが静かに締めた。


「なら、列を作りすぎず、混ぜすぎず、ですね」


 難しい。


 いつものことだ。


 飯線はいつも、二つの危なさの間にある。


 列を作れば、長くなる。

 長い列は不満を育てる。

 列を作らなければ、混ざる。

 混ざれば、誰が先かで揉める。


 川道で見た。


 待ち荷逃がしを囲いすぎれば場所を取る。

 囲わなければ荷が散る。


 だから一本縄にした。


 場所を囲わず、荷の背だけを示した。


 その考え方が、ここでも使えるかもしれない。


「列を囲わない」


 かやが呟いた。


「列を囲う?」


 太助が聞く。


「長い縄で『ここに並べ』ってやると、それだけで飯場が清洲の場所になる。市松さんなら絶対噛む」


「市松さん、ここでも出るんですね」


「出るよ。『場所を取るな』は、川道だけの文句じゃない」


 権六が文句腹帳を開いた。


「市松文句、大規模飯線にも有効。場所を取るな」


 伊三郎も列腹帳へ写す。


 市松文句――列を作る時の根。場所を取るな。


 まず庭で試した。


 飯配り場を一つ作り、兵役の者たちを十人並ばせる。


 槍持ち二人。

 馬付き二人。

 人足三人。

 連絡足一人。

 負傷者役一人。

 水役一人。


 わざと混ぜた列だ。


 結果は、すぐに分かった。


 槍が揺れる。

 馬付きが横を見る。

 連絡足が前へ出たがる。

 負傷者役が遅れる。

 水役が桶を置きたがる。


 列が長い以前に、列の中身が喧嘩していた。


 飯配り役が声を上げる。


「順に!」


 だが、順が何の順か分からない。


 来た順か。

 急ぐ順か。

 役目の順か。

 腹の減り具合か。


 権六がすぐ言った。


「この列は文句が育つ」


「育つどころか、もう芽が出ています」


 伊三郎が答えた。


 次に、兵種ごとに分けた。


 槍列。

 馬付き列。

 人足列。

 連絡足列。


 列は短くなった。


 それぞれの受け取り方も揃えやすい。


 だが、今度は場所を取った。


 庭の中に四つの列ができると、それだけで飯場が大きくなる。


 かやが顔をしかめた。


「これ、美濃の道端でやったら邪魔だね」


 作兵衛が頷く。


「敵が見れば、どこを乱せばいいか分かる」


「目立つ列は狙われる」


 俺が言うと、弥助殿が短く言った。


「そうだ。長い列も、目立つ列も狙われる」


 太助が言った。


「じゃあ、短い列を作って、すぐ消す?」


 かやの目が動いた。


「川道の一本縄だ」


 列を作るのではなく、列を発生させてすぐ流す。


 待ち荷逃がしと同じ。


 場所を取らず、役目だけ果たし、終われば消える。


 かやは小縄を四本出した。


 それぞれ短い。


 長く囲わない。


 飯箱の前に、小さな目印として置く。


 槍持ちはこの縄の背。

 馬付きはこの札。

 人足は飯箱の角。

 連絡足は声で呼ぶだけ。


「列を置くんじゃなくて、入口だけ分ける」


「入口だけ?」


 権六が聞く。


「うん。列そのものを長く作らない。飯を受け取る入口を分ける。あとは流す」


 試す。


 槍持ちは飯箱左の短縄から入る。

 馬付きは右の小札から入る。

 人足は正面。

 連絡足は別の小包みを受け取り、列に入らない。


 最初は混乱した。


 だが、三度繰り返すと、長い一列よりも流れた。


 飯配り役が全員に声を出すのではなく、それぞれの入口に短い声を付ける。


「槍、受け」


「馬、受け」


「人足、受け」


「早足、渡し」


 早足は連絡足のことだ。


 太助が聞いて笑った。


「早足、ちょっと格好いいですね」


「連絡足って呼ぶより短い」


 かやが答える。


 弥助殿は見ていたが、すぐに指摘した。


「入口を分けるなら、飯も分けすぎるな」


「飯も?」


「箱が増えれば場所を食う。入口だけ分け、箱は二つまでにしろ」


 佐助が頷いた。


「進む飯箱と、戻し・手当寄りの飯箱。二つに分けます」


「水は」


「水場は別です。ただし、飯場と水場を近づけすぎると詰まります」


 高畑の水札、馬水、人水、非常水。


 水場の列も考えなければならない。


 水場を試すと、また問題が出た。


 人水と馬水を分ける。


 そこまでは前回やった。


 だが、兵が増えると、人水の列と馬水の列が交差する。


 水桶を持った者と、飯包みを持った者がぶつかりそうになる。


 太助が桶役をやって、すぐ文句を言った。


「飯持ってる人の横を水桶で通るの、怖いです」


「なぜ」


 権六が聞く。


「こぼしたら怒られる。飯が濡れる。足元も濡れる。しかも重い」


「つまり、水列は飯列を横切るな」


 作兵衛が言う。


「はい。横切ると絶対揉めます」


 伊三郎が書く。


 水列、飯列を横切らせない。交差点は文句の芽。


 交差点は文句の芽。


 権六が気に入ったように頷いた。


「いい言葉だ」


「文句としては嫌な言葉です」


 太助が返す。


 次に、敵の乱し方を想定した。


 若い兵に「敵役」をやらせる。


 役目は簡単。


 列の横で、余計なことを言う。


「飯が少ないぞ」


「馬付きが先だってよ」


「戻し飯は後回しらしい」


「水はもうぬるい」


「槍持ちは別の列だ」


 ただ言うだけ。


 だが、効果はすぐ出た。


 列の中で顔が動く。


 誰かが後ろを見る。


 前の者が半歩止まる。


 後ろが詰まる。


 飯配り役が声を大きくする。


 余計に焦る。


 権六がうめいた。


「嫌な役だな」


「でも、敵がやるならこれです」


 伊三郎が言った。


「米を奪わず、列の腹を揺らす」


 どう止めるか。


 敵役を捕まえるだけでは足りない。


 実際の場では、敵か味方か分からない者もいる。


 ただの不満かもしれない。

 ただの勘違いかもしれない。

 本当に飯が少ないかもしれない。


 全部を怒鳴って潰せば、文句が消える。


 消えた文句は、あとで腐る。


 権六が言った。


「列の横に、文句を拾う者が要る」


「飯配り役とは別に?」


 俺が聞く。


「別だ。飯配り役が文句まで聞いたら詰まる。列の横で、『何が不安だ』って短く拾う者がいる」


「文句役を列に置く?」


 太助が目を丸くする。


 権六は少し照れたように咳払いした。


「大声で説教するんじゃない。文句を拾って、必要なら札へ回す。繰り返しなら記録。嘘ならその場で正す」


 弥助殿が頷いた。


「よい。列文句役だ」


「また役が増えた……」


 権六は自分で言っておいて、少し苦い顔をした。


 列文句役。


 飯を配る者ではない。

 列を守る者でもない。

 列の腹を聞く者。


 市松のような文句を、敵より先に拾う役。


 試しに、権六が列の横に立った。


 敵役が叫ぶ。


「飯が少ないぞ!」


 権六がすぐ返す。


「少ないと思う者、列を乱すな。飯箱は二つ。今見える。足りぬなら文句腹帳へ入れる」


 敵役が続ける。


「馬付きが先だ!」


「今日は人先札だ。馬は次。札を見ろ」


「戻し飯は後回しだ!」


「戻し飯は別箱だ。後回しじゃない。役が違う」


 声が強い。


 だが、怒鳴り潰すのとは違う。


 情報を短く返している。


 列の顔が前へ戻る。


 太助が感心したように言った。


「権六さん、すごい」


「文句が来ると元気になるな」


 かやが笑う。


 権六は照れた顔で言った。


「普段から文句を聞いてるからな」


 伊三郎が書く。


 列文句役――列の横で不安を拾い、短く返す。飯配り役と分ける。文句を潰さず、列を止めすぎない。


 この試験で、敵が列を狙う怖さがはっきり見えた。


 米が足りているかどうかではない。


 足りていると見えるか。

 誰が先か分かるか。

 水と飯の列が交差しないか。

 文句を拾う者がいるか。

 列が長く育つ前に流せるか。


 飯線とは、米の流れではなく、人の列の流れなのかもしれない。


 俺がそう言うと、弥助殿は頷いた。


「ようやくそこへ来たな」


「はい」


「米は俵に入れれば動かせる。人は腹で動く。腹が乱れれば、列が乱れる」


 夕方、報告板をまとめた。


 敵は飯の量より列を狙う。

 長い列、目立つ列、混ざる列は危険。

 列は入口を分け、長く育てない。

 飯箱は増やしすぎない。

 水列は飯列を横切らせない。

 交差点は文句の芽。

 敵の乱し言葉想定。

 列文句役を置く。

 飯配り役と文句拾い役を分ける。

 市松文句「場所を取るな」は美濃飯場にも有効。


 弥助殿は報告板を読み、最後に言った。


「次は上様へ試作飯を見せる」


「進む飯、戻し飯、雨天飯、手当飯ですか」


「そうだ。家臣たちは嫌がるだろう。特に戻し飯と手当飯を」


 権六が苦笑する。


「俺も嫌でしたからね」


「だからよい。嫌がるところを見せる」


 信長様が戻る飯をどう見るのか。


 それを考えると、少し背筋が伸びた。


 夜、清洲蔵では、試験で残った飯を食べた。


 今日は列を乱さないように、わざと短い順で配る。


 権六が列の横に立ち、冗談めかして言った。


「飯はある。文句もある。だが列は乱すな」


 太助が笑った。


「文句はあるんですね」


「あるに決まってる」


 佐助が飯を配りながら言った。


「でも、文句があると分かっているほうが、配りやすいです」


 きぬも頷いた。


「不安が見えると、手当てできます」


 俺は飯を受け取り、少し離れて食べた。


 今日の飯は、列の味がした。


 待つ者の足。

 水桶の重さ。

 槍の揺れ。

 馬の鼻息。

 敵役の嫌な声。

 それを拾う権六の声。


 美濃前哨飯線は、また一つ見えた。


 敵は米だけを狙わない。


 列を狙う。


 なら、こちらは米だけでなく、列の腹を守らなければならない。

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