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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百二十八話 負傷者飯は、勝ち飯より難しい

 雨天飯の試作が終わった翌朝、清洲蔵の空気はまだ少し湿っていた。


 実際には雨は上がっている。


 けれど、昨日の雨で濡れた竹皮や布を乾かしているせいで、蔵の中には水の匂いが残っていた。


 飯包み布。

 拭き布。

 泥布。


 きぬが付けた指印のおかげで、雨の日の布は少し整理された。


 飯包みは角に二折。

 拭き布は一折。

 泥布は荒縫い。


 目でなく、指で分かる印。


 雨の日は、目より手が早い。


 その言葉は、すでに美濃前哨飯線帳へ書き込まれている。


 だが、弥助殿がその朝に持ってきた札は、昨日よりさらに重かった。


 負傷者飯。


 その四文字を見た時、蔵の中にいた者たちは、誰もすぐには喋らなかった。


 権六だけが、苦い顔で言った。


「勝つ前から、怪我人の飯か」


 その声は、いつもの文句より低かった。


 笑いにしにくい文句だった。


 太助も黙っている。


 佐助は飯台の前で手を止めていた。


 きぬは布を畳んでいた手をゆっくり下ろした。


 負傷者。


 戦へ向かう以上、考えなければならない。


 けれど、考えたくない。


 戻る飯の時もそうだった。


 戻る飯は縁起が悪い、と権六は言った。


 だが、負傷者飯はさらに腹が重い。


 戻る者は、まだ自分の足で戻れるかもしれない。


 負傷者は、誰かに支えられ、運ばれ、時には声も出せないかもしれない。


 その者にも飯が要る。


 水が要る。


 布が要る。


 そして、その者を運ぶ者にも飯が要る。


 弥助殿は、権六の文句を聞いてから言った。


「だから先に考える」


「見たくないものほど、ですか」


 きぬが静かに言った。


 弥助殿は頷いた。


「そうだ。見たくない飯ほど先に考える」


 伊三郎の筆が動いた。


 見たくない飯ほど先に考える。


 権六はその文字を見て、深く息を吐いた。


「丸だな」


「繰り返しそうですか」


 伊三郎が聞く。


「絶対、誰かが言う。勝つ前から怪我人の飯なんて縁起が悪いってな。俺も言った」


「では文句腹帳にも入れます」


「入れろ。消すと余計に悪い」


 権六は苦い顔のまま、けれど逃げなかった。


 文句役としての顔だった。


 佐助は、負傷者飯の試作を前にしていた。


 進む飯より柔らかい。

 戻し飯よりさらに喉を通りやすくしたい。

 だが、柔らかくすれば日持ちが悪くなる。


 そこが最初の壁だった。


「柔らかい飯は、傷みやすいです」


 佐助は言った。


「水分が多いので」


「硬いと?」


 俺が聞く。


「喉を通りません。痛みや熱がある者には無理です。味噌が濃いと水を欲しがります。塩が強くても同じです」


 権六が腕を組む。


「薄くて柔らかくて日持ちして腹に入る飯。そんな都合のいいものがあるのか」


「ありません」


 佐助は即答した。


 蔵が静かになる。


「だから、どこを諦めるかを決めます」


 その声は強かった。


 料理人の声ではなく、飯線の飯係の声だった。


「負傷者飯は、長く持たせる飯ではなく、早く渡す飯にすべきです。常備飯には向きません。負傷者が出たら、できるだけ早く柔らかい飯へ切り替える。そのための材料と手順を先に決めます」


 伊三郎が書く。


 負傷者飯――常備ではなく即応飯。日持ちより喉通り。早く作る手順が重要。


 きぬが布を三枚並べた。


「飯だけでは足りません」


 その声に、皆がきぬを見た。


「血止め布、拭き布、飯包み布。この三つが混ざると危ないです」


 太助が少し青い顔をする。


「血止め布……」


「はい」


 きぬは怯ませるためではなく、必要だから言っていた。


 声は穏やかだが、曖昧にしない。


「怪我をした人のそばには、布が集まります。血を止める布。汗や泥を拭く布。水を含ませる布。飯を包む布。誰かが急いでいる時、全部が同じ白い布に見えたら、間違えます」


「そんな間違いをするものですか」


 若い人足が言う。


 きぬはその人足を見た。


「雨の日に、飯包みと拭き布を間違えないと言い切れますか」


 人足は黙った。


「昨日、布の印を作ったばかりです。負傷者の近くなら、もっと混ざります」


 その通りだった。


 雨だけでも布は混ざる。


 負傷者が出れば、さらに混ざる。


 慌てる。

 叫ぶ。

 水を求める。

 誰かが布を投げる。

 誰かが飯を出す。


 その場で「これは飯包みです」「これは血止めです」と言っている暇はない。


 手で分かる印が要る。


 きぬは布を指で示した。


「血止め布は、端を三折にします。拭き布は一折。飯包み布は二折。昨日の雨天布印と合わせます。ただし、血止め布だけは端を固く縫います。指で触ってすぐ分かるように」


「三折、二折、一折」


 伊三郎が書きながら復唱する。


「泥布は荒縫いですね」


「はい。泥布と血止め布は絶対に混ぜないように、置き場も分けます」


 権六が言った。


「置き場を分けると、また場所を食うぞ」


「食います」


 きぬは認めた。


「でも、混ざるよりはましです。分けすぎて運ぶ者が迷うなら、置き場ではなく包み方で分けます」


 かやが目を上げた。


「つまり、布箱を増やすんじゃなくて、布束の形を変える?」


「はい。血止め布は細長い束。拭き布は平たい束。飯包みは小さく丸める。形で分けます」


 かやが手を叩いた。


「それなら場所を食いすぎない」


 布も飯線の一部になった。


 雨天飯の時にもそうだった。


 だが負傷者飯では、布の意味がさらに重い。


 飯包みを間違えるだけではない。


 布の間違いが命に関わるかもしれない。


 弥助殿は、きぬの布を見て言った。


「きぬ、この頁はおまえが中心に見ろ」


 きぬは少し驚いた顔をした。


「私が、ですか」


「そうだ。布の腹は、おまえが一番見えている」


 きぬは一瞬だけ目を伏せた。


 それから、静かに頭を下げた。


「承知しました」


 その声は小さかったが、芯があった。


 次に、試食ではなく試動が行われた。


 負傷者役を立てる。


 もちろん、本当に怪我をした者はいない。


 太助が片腕を布で吊る役になった。


「なぜ俺なんですか」


 太助が不満そうに言う。


 権六が即答した。


「困った顔が似合うからだ」


「また顔ですか」


 きぬが申し訳なさそうに笑う。


「痛そうな顔はしなくていいです。ただ、片手が使えない状態を見たいんです」


「なら、やります」


 太助は右腕を布で軽く吊った。


 片手が使えない。


 それだけで、飯を受け取る動作がまったく変わった。


 佐助が柔らかめの飯包みを渡す。


 太助は左手だけで受け取る。


 開けようとする。


 開かない。


「戻し飯より難しいですね」


「なぜ」


「戻し飯は疲れていても両手が使える前提でした。でもこれは片手です。結び目を押さえられない」


 かやがすぐに包みを変えた。


 結びではなく、折り込み。


 指で引けば開く。


 太助が試す。


 今度は開いた。


 だが、開いた瞬間に中身が少し崩れた。


「あっ」


 佐助が眉を寄せる。


「柔らかいからですね」


「片手で開くと支えられません」


 きぬが布を一枚敷いた。


「膝の上か、手元に受け布が要ります」


「また布か」


 権六が言う。


「でも、要ります」


 きぬは穏やかに返した。


「負傷者飯は、飯と受け布を一緒に渡すべきです」


「飯包み布とは別に?」


「はい。飯を落とさないための小さな受け布です。汚れた地面に落とすより、布で受けたほうがいい」


 伊三郎が書く。


 負傷者飯――片手開封。受け布同梱。柔飯崩れ対策。


 太助が受け布を膝に置き、もう一度試す。


 今度は食べられた。


 だが、別の問題が出た。


「水が欲しいです」


 佐助の顔が曇る。


「味が濃いですか」


「濃いというか、柔らかいけど、口の中に残ります」


 佐助はすぐ飯を見直した。


「潰しすぎると粘りますね」


「粘る飯は喉に残る」


 権六が言う。


「負傷者には危ない」


 佐助は頷いた。


「もう少し粒を残します。ただし硬すぎないように」


 柔らかくすればいいわけではない。


 粘ると喉に残る。


 水を求める。


 水場が詰まる。


 負傷者飯は、勝ち飯より難しい。


 その言葉が、まだ題になる前から蔵の中に漂っていた。


 次に、運ぶ者の飯を考えた。


 これを忘れかけていた。


 負傷者を運ぶ者にも飯が要る。


 担架役。

 支える者。

 布を持つ者。

 水を持つ者。


 彼らは、自分の飯を後回しにしがちだ。


 だが、腹が空けば力が落ちる。


 力が落ちれば、負傷者を落とす。


 作兵衛が言った。


「運ぶ者の飯は、手を止めずに食えるものが要る」


「歩き飯ですか」


 佐助が聞く。


「北尾根の歩き飯に近い。だが、乾きすぎると水を食う」


 また同じ問題だ。


 乾かせば持つ。

 柔らかくすれば食べやすい。

 だが、運ぶ者は手が塞がる。


 太助が片腕を吊ったまま言った。


「運ぶ人用の飯は、負傷者飯より硬くていいけど、小さくないと駄目ですね」


「なぜ?」


「口に放り込める大きさじゃないと、両手が使えない時に困る」


 かやが頷く。


「小粒飯?」


「小さすぎると落とすぞ」


 権六がすぐ文句を出す。


「落としたら拾えない。拾う暇もない」


 佐助は考えた。


「では、細長くして、端から噛めるようにします。北尾根歩き飯より柔らかく、雨天飯より崩れにくく」


「注文が多いな」


 権六が言う。


「負傷者飯ですから」


 佐助は短く答えた。


 その声は、前よりずっと強かった。


 午後には、負傷者飯の仮分類ができた。


 一、負傷者本人用。柔らかいが粘りすぎない。薄味。受け布付き。片手開封。

 二、運ぶ者用。手を止めず噛める。小さすぎず、落としにくい。

 三、水役用。味を濃くしすぎず、喉を奪わない。

 四、布役用。飯包みと布束を混ぜない印。


 権六は文句腹帳へ別欄を作った。


 負傷者飯への文句予想。


 縁起が悪い。

 考えたくない。

 柔らかすぎて腹に頼りない。

 水が欲しくなる。

 布が多すぎる。

 運ぶ者の飯を忘れがち。

 落とす。

 開かない。

 粘る。


「文句だけで腹が減らなくなるな」


 権六が言う。


 太助が片腕を解きながら答えた。


「でも、先に出しておいたほうがいいですね」


「おまえ、文句役の素質が本当に育ってるぞ」


「嬉しくないです」


 きぬは血止め布の束をまとめていた。


 その手つきは丁寧だった。


 いつもの針仕事と同じなのに、今日は少しだけ空気が違う。


「怖いですか」


 俺が聞くと、きぬは手を止めずに答えた。


「怖いです」


 少し間を置いて、続ける。


「でも、見ないほうがもっと怖いです」


 おきよの言葉。


 今度は、きぬの声で聞くと、さらに重かった。


「血止め布を用意するのは、怪我を望むことではありません。負傷者飯を考えるのは、負けを望むことではありません」


「はい」


「でも、そう見える人もいると思います」


「いるでしょうね」


「だから、言葉を間違えないようにしたいです」


 きぬは布束を置いた。


「負傷者飯ではなく、助け飯、では軽すぎますか」


 権六が顔をしかめる。


「軽いな」


 佐助も考える。


「現場では、負傷者飯のほうが分かりやすいです。けれど、兵に見せる時は言い方を考えたほうがいいかもしれません」


 弥助殿が言った。


「帳面では負傷者飯。現場では手当飯でもよい」


「手当飯」


 きぬが小さく繰り返した。


「それなら、布とも飯ともつながります」


 伊三郎が書く。


 正式分類――負傷者飯。

 現場呼称候補――手当飯。


 戻る飯が現場では戻し飯になったように、負傷者飯にも現場の言葉が必要だった。


 言葉は腹を動かす。


 間違えると、文句が増える。


 正しく置けば、怖いものを少し扱いやすくする。


 夕方、弥助殿が全体をまとめた。


「今日の結論」


 俺は小帳面を見ながら答えた。


「負傷者飯は、勝ち飯より難しいです。柔らかければよいわけではなく、粘りすぎても駄目。味が濃いと水を食う。飯包み、血止め布、拭き布、泥布の区別が必要。片手開封と受け布が必要。負傷者本人だけでなく、運ぶ者の飯も考える必要があります」


 弥助殿は頷いた。


「よい」


 権六が低く言った。


「見たくない飯ほど、先に考える」


 弥助殿は権六を見た。


「それを文句腹帳の頭に置け」


「はい」


 権六は、今度は嫌がらなかった。


 夜、清洲蔵では手当飯の試作品を少しずつ食べた。


 温かい飯ではない。


 勝ち飯でもない。


 けれど、口に入ると、柔らかく、薄く、静かに腹へ落ちた。


 権六が目を閉じて言った。


「今日の飯は、怖い味だな」


 佐助が少し緊張する。


「悪い意味ですか」


「いや。怖いことを先に見た味だ」


 太助が頷いた。


「食べたい飯ではないけど、あったら助かる飯ですね」


 きぬが静かに言った。


「それでいいのだと思います」


 俺は手当飯をもう一口食べた。


 勝つための飯だけでは、戦は支えられない。


 戻る飯。

 雨天飯。

 負傷者飯。


 見たくない飯が増えていく。


 だが、それを見ずに美濃へ向かうほうが、もっと怖い。

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