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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百二十七話 雨天飯、火を使わず腹を守れ

 雨の日の飯は、火より先に崩れる。


 そう言ったのは佐助だった。


 清洲蔵の軒先では、朝から細い雨が降っていた。


 川道を赤札で止めた時のような雨ではない。


 もっと静かで、もっと嫌な雨だった。


 屋根を叩く音は弱い。

 けれど、いつまでも止まない。


 庭の土は少しずつ柔らかくなり、草履の裏に湿りがまとわりつく。


 米俵に直接かかるほどではない。

 薪が使えなくなるほどでもない。

 だが、包みは湿る。

 手は冷える。

 兵は苛立つ。

 馬の足元は悪くなる。

 火を起こす場所は減る。


 小雨は、飯線の気を緩ませてから腹を冷やす。


「今日は火を使わない飯を考える」


 弥助殿は、そう言って清洲蔵の中央に座った。


 床には、美濃前哨飯線帳が開かれている。


 進む飯。

 止まる飯。

 戻る飯。

 見張る飯。


 その横に、新しく札が置かれた。


 雨天飯。


 太助が札を見て、少し嫌そうな顔をした。


「また増えましたね」


 伊三郎が真面目に答える。


「増えました。でも、雨は全部の飯にかかります」


「進む飯にも、戻る飯にも?」


「はい。進む飯が濡れれば進めません。戻る飯が濡れれば戻れません。見張る飯が濡れれば、見張りの腹が冷えます」


 権六が文句腹帳を開いた。


「雨の日の文句は多いぞ。飯が冷たい。包みが濡れる。火がない。水はあるのに飲み水が面倒。足が滑る。馬が臭い。人が湿る」


「最後、雑じゃないですか」


 太助が言う。


「雨の日の文句は雑になるんだよ」


 それは妙に分かった。


 晴れの日なら、文句にも筋がある。


 雨の日は、体が冷え、手が濡れ、腹が落ち着かず、何もかもが少しずつ嫌になる。


 はっきりした敵がいないのに、全員の機嫌が悪くなる。


 佐助は山裾用の火なし飯を並べていた。


 匂いを抑え、火を使わず、村の台所を取らない飯。


 だが、今日はそれを兵用に広げる必要がある。


「山裾用の火なし飯は、量が少ないです」


 佐助は言った。


「村の腹を荒らさないための飯です。兵の腹を守るには足りません」


「増やせばいいんじゃないのか」


 権六が言う。


 佐助は首を横に振った。


「増やすと、匂いが出ます。包みも大きくなります。火なし飯は、ただ火を使わないだけではありません。火を使えない状況で、腹を荒らさない飯です」


「難しくなってきたな」


「はい」


 佐助は素直に認めた。


「雨天飯は、うまい飯ではなく、崩れない飯です」


 伊三郎がすぐ書く。


 雨天飯――食べることより、崩れないこと。


 弥助殿が頷いた。


「よい」


 かやは、包み布をいくつも広げていた。


 乾いた布。

 少し油を含ませた布。

 竹皮。

 藁包み。

 さらに、濡れた布。


 きぬはその横で、小さな印を縫い付けている。


「濡れ布と飯包みは、絶対に混ぜてはいけません」


 きぬが言った。


「濡れ布?」


 太助が聞く。


「雨の日は、体を拭く布、道具を拭く布、馬の泥を拭く布、飯を包む布が近くに出ます。見分けがつかないと、濡れた布で飯を包む者が出ます」


「さすがにそれは……」


 太助が言いかけて、止まった。


 戦場なら、ある。


 雨で手元が見えにくい。

 急いでいる。

 夜。

 誰かが怒鳴っている。

 荷が混ざる。


 その中で、濡れ布と飯包み布を間違えないと言い切るほうが危ない。


「印が要りますね」


 俺が言うと、きぬは頷いた。


「はい。色だけでは駄目です。泥で汚れたら分かりません。指で触って分かる印が必要です」


「また指印か」


 かやが笑う。


「戻し飯の包みと同じだね」


「戻し飯は開け口の印でした。雨天飯は、布の種類の印です」


 きぬは三種類の布を示した。


 飯包み布。

 拭き布。

 泥布。


「飯包みには、角に小さな折りを二つ。拭き布には一つ。泥布には縫い目を荒くします」


 権六が感心したように見た。


「指で分かるのか」


「目が利かなくても、手が覚えます」


 弥助殿が言った。


「よい。雨の日は目より手が早い」


 伊三郎が書く。


 雨天布印――飯包み二折、拭き布一折、泥布荒縫い。色に頼らず指で判別。


 次に、実際に濡らした。


 かやが軒下から雨水を受けた桶を持ってきて、竹皮包みへ少しずつ水をかける。


 佐助が顔をしかめる。


「やはり端から湿ります」


「竹皮だけでは足りない?」


「短時間なら持ちます。でも、美濃前哨では歩く時間が長い」


「二重にする?」


 かやが言うと、佐助は首を振った。


「二重にすると開けにくくなります。戻し飯で学びました。開けにくい包みは、苛立ちます」


「雨の日は余計にね」


 太助が言った。


「手が冷えると、結びが本当に憎くなります」


 権六が文句腹帳へ書いた。


 雨の日、固い結びは敵。


「前にも似たようなの書いたな」


「戻し飯の時です」


 伊三郎が答える。


「繰り返しだ。丸だな」


 包みは、結局三種類を試すことになった。


 一つ目。竹皮を外、布を内。

 二つ目。布を外、竹皮を内。

 三つ目。竹皮と布の間に薄い藁を挟む。


 すぐ分かった。


 布を外にすると、水を吸う。


 重くなる。


 竹皮外は、水を弾くが端から入る。


 藁を挟むと湿りは遅れるが、包みが膨らむ。


 太助が三つを腰に下げて歩いた。


「三つ目、邪魔です」


「藁入り?」


「はい。守ってくれてる感じはしますけど、腰で膨らむ。槍持ちだと当たりそうです」


 かやが頷く。


「兵種で変えないと駄目かな」


「また増えるんですか」


「増えるけど、全部を別にするんじゃなくて、雨の強さで分けるのかも。小雨用、本雨用」


 権六が嫌そうに言う。


「雨に種類を作るな」


「川道でも黄と赤がありました」


 俺が言うと、権六は黙った。


 たしかに、雨にも段階がある。


 小雨なら進めるが、飯包みは守る。

 本雨なら火を諦める。

 長雨なら動くより止まる飯を考える。


 川道の青、黄、赤がそのまま雨に写るわけではない。


 だが、考え方は使える。


 弥助殿が言った。


「雨札を作れ」


「雨札、ですか」


「小雨。雨。大雨。三つでよい」


 伊三郎が筆を取る。


「小雨は動くが包み注意。雨は火なし飯を優先。大雨は止まる飯へ切り替え、でしょうか」


 弥助殿は頷いた。


「まずはそれでよい。だが、札が増えすぎるな。川道の札と混ざらぬようにしろ」


 かやが札の形を考え始める。


「色だけだと、泥で見えにくい。形を変えましょう。小雨は細札、雨は丸札、大雨は角札」


「角札?」


「手で触れば分かる札です」


 きぬが頷いた。


「雨の日は、目より手ですね」


 その言葉は今日何度も出た。


 雨は目を奪う。


 水滴で文字が滲む。

 暗くなる。

 布が張りつく。

 人は下を向く。


 だから、手で分かる印が要る。


 次は、食べやすさだった。


 雨天飯の試作品は、山裾用火なし飯を大きくしたもの。


 だが、食べてみると問題があった。


 冷たい。


 これは仕方ない。


 だが、冷たい飯を雨の中で食べると、思った以上に腹が寂しくなる。


 権六がすぐ文句を言った。


「これは腹が暗くなる」


「暗くなる?」


 佐助が聞く。


「腹に入るけど、元気は出ない。雨の日にこれだけだと、文句が増えるぞ」


 佐助は真剣に受け止めた。


「塩を少し強くしますか」


「強いと水が欲しくなる」


「では、味噌を増やす?」


「喉が渇く」


 難しい。


 雨の日は、水があるようで飲み水は貴重だ。


 濃い味は危ない。


 だが、薄すぎると腹が暗くなる。


 きぬが言った。


「香りを少しだけ足せませんか」


「香り?」


「強い匂いではなく、食べた時に少し温かく感じるようなものです。山裾では匂いを抑えました。でも兵の雨天飯なら、少しだけ腹が起きる匂いが必要かもしれません」


 佐助は考えた。


「干し生姜をほんの少し……いや、強すぎるか。炒り味噌を薄く混ぜる?」


「火を使わずに?」


「事前に作っておけば、現場では火を使いません」


 佐助は小さな味噌片を削り、雨天飯に少しだけ混ぜた。


 食べると、ほんのり香ばしさがある。


 温かいわけではない。


 でも、冷たさの角が少し取れた。


 権六が食べて頷いた。


「さっきより腹が暗くない」


「暗くない、は合格ですか」


「雨の日なら、かなり大事だ」


 伊三郎が書く。


 雨天飯――冷たさの角を取る。濃くしすぎず、腹を暗くしない。


 太助がもう一つ試した。


「でも、これだけだと量が少ないです」


「増やすと包みが大きくなります」


 佐助が答える。


「なら、二つに分ける?」


「雨の日に包み二つは落とす危険があります」


 また喧嘩だ。


 量と携行性。

 味と水。

 包みの強さと開けやすさ。


 飯はいつも、何かと何かが喧嘩する。


 弥助殿が言った。


「雨天飯は、腹いっぱいにするな」


「足りませんが」


 権六が言う。


「足りぬ。だが、雨の日に腹いっぱい食わせると動きが鈍る。雨天飯は腹を守る飯だ。勝ち飯ではない」


 腹を守る飯。


 これも大事な言葉だった。


 雨天飯は、兵を元気いっぱいにする飯ではない。


 冷えすぎず、崩れすぎず、文句を爆発させず、次の温かい飯まで腹を守る。


 伊三郎が美濃前哨飯線帳へ大きく書いた。


 雨天飯――腹を満たすより、腹を守る。


 午後、外庭で雨天飯配りの試験をした。


 雨はまだ細く降っている。


 わざわざ軒下を離れ、庭に仮の飯配り場を作る。


 槍持ち役、馬付き役、人足役、見張り役。


 皆、少しずつ濡れた状態で飯を受け取る。


 すぐ問題が出た。


 手が濡れていると、包みが滑る。


 竹皮が硬く、指に引っかからない。


 布の折り印は分かるが、泥がつくと触りにくい。


 飯を受け取った後、雨を避けようとして軒下へ人が寄る。


 軒下が詰まる。


 権六が叫んだ。


「ほら、雨の日は軒下を食うぞ!」


 意味は分かる。


 雨は場所を食う。


 皆、濡れたくないから、屋根の下へ寄る。


 結果として、飯場が詰まる。


 川道の待ち荷逃がし、高畑の井戸場、馬水場、槍持ち列。


 全部と同じだ。


 人は、少しでも楽な場所へ流れる。


 雨の日は、それが軒下になる。


 かやがすぐに小縄を取り出した。


「軒下全部を使わせない。飯を受け取る場所と、食べる場所を少し分ける」


「濡れるぞ」


 槍持ち役の兵が言う。


「少し濡れても、詰まるよりいい」


 弥助殿が言った。


「雨天では、濡れぬことを最優先にするな。詰まらぬことを優先しろ」


 雨の日に、濡れない場所を求める。


 自然だ。


 だが、全員がそこへ入れば詰まる。


 詰まれば飯が崩れる。


 だから、少し濡れても流れを守る。


 雨天飯は、飯そのものだけでなく、雨の日の人の流れを含んでいた。


 試験が終わる頃には、皆少し濡れていた。


 太助は髪から水を払いながら言った。


「雨の日の飯、嫌ですね」


「文句としては?」


 権六が聞く。


「全部が少しずつ嫌です。飯が冷たい、手が滑る、包みが開かない、濡れたくない、でも軒下は詰まる」


「いい文句だ」


「全然嬉しくないです」


 佐助は雨天飯の包みを見ていた。


「でも、今日見えてよかったです。晴れた蔵の中で考えた雨天飯は、半分しか雨に濡れていませんでした」


 きぬが頷いた。


「実際に濡らすと、布の印も変わります」


 かやも言った。


「札も濡れる。縄も滑る。人も軒下へ寄る」


 伊三郎はびっしょり濡れた小帳面を見て、少し悲しそうだった。


「帳面も濡れます」


 権六が笑う。


「それも文句腹帳に入れろ」


「入れます」


 本気だった。


 夕方、弥助殿への報告は長くなった。


 雨札案。

 小雨、雨、大雨。形で判別。

 飯包み布、拭き布、泥布の指印。

 竹皮外包み有効。ただし端湿り。

 藁入りは守るが膨らむ。兵種に不向きあり。

 雨天飯は腹を満たすより腹を守る。

 冷たさの角を取る味が必要。濃すぎて水を食わぬよう注意。

 軒下が詰まる。雨は場所を食う。

 濡れぬことより、詰まらぬことを優先する場面あり。

 帳面も濡れる。記録方法要検討。


 最後の一文で、弥助殿が少しだけ笑った。


「帳面も飯線の一部だからな」


 伊三郎は真剣に頷いた。


「雨用の記録板を考えます」


「よい」


 夜、清洲蔵では雨天飯の試作品を食べた。


 温かい汁は出なかった。


 あえてだ。


 火を使わない飯として食べる必要がある。


 権六が一口食べ、少し黙った。


「どうですか」


 佐助が聞く。


「うまいとは言わん」


「はい」


「でも、雨の中なら、これで腹が折れずに済むかもしれん」


 佐助はほっとした顔をした。


 太助も頷いた。


「腹いっぱいにはなりません。でも、冷えた腹が少し戻ります」


 きぬが言った。


「雨天飯は、勝つための飯というより、崩れないための飯ですね」


 誰も反論しなかった。


 雨の日は、火が使えない。


 包みが濡れる。


 足が滑る。


 文句が増える。


 でも、腹だけは守らなければならない。


 美濃前哨飯線帳に、また一頁が増えた。


 雨天飯。


 火を使わず、腹を守れ。

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