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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第百二十六話 槍持ちは、飯を取りにくい

 馬が帰った後の清洲蔵の庭には、まだ少しだけ馬の匂いが残っていた。


 米の匂いではない。

 味噌の匂いでもない。

 藁と土と、温かい獣の匂い。


 馬は米を食わない。


 けれど、水を食い、場所を食い、人の流れを食い、馬付きの兵の飯まで食った。


 そのことを思い知った翌朝、弥助殿はまた別のものを庭へ持ち込ませた。


 槍だった。


 十本。


 長い。


 ただ置かれているだけで、庭の見え方が変わった。


 米俵なら積める。

 水桶なら端へ寄せられる。

 味噌片なら箱へ入る。


 だが、槍は横に寝かせれば邪魔で、立てれば怖い。


 持てば手が塞がり、置けば場所を取る。


 権六が槍を見て、顔をしかめた。


「馬の次は槍か」


 太助が槍一本を持たされ、さらに顔をしかめる。


「これ、飯を取るどころじゃないですよ」


「まだ飯を持っていないぞ」


 俺が言うと、太助は槍を少し持ち直した。


「持ってるだけで手がもう忙しいんです。片手で持つと傾くし、両手だと飯が取れない」


 槍持ちは、飯を取りにくい。


 弥助殿が昨日言った言葉は、こうして見るとあまりにも当たり前だった。


 だが、その当たり前を帳面に入れなければ、戦場で列が詰まる。


 庭には、槍持ち役の若い兵が五人、弓役が二人、飯配り役が二人立っていた。


 佐助は試し飯の包みを並べている。


 進む飯。

 戻し飯。

 見張る飯。


 今日はそのうち、進む飯を槍持ちがどう受け取るかを見る。


 かやは地面に小枝で線を引いていた。


「ここが飯受け取り場。こっちが槍置き場」


「槍置き場を作るのか」


 権六が聞く。


「作りたいけど、作ると場所を食う」


「また場所か」


「うん。川道と同じ。置き場を作れば解決、ではない」


 槍持ちの若い兵が言った。


「槍は地面に置きたくありません。踏まれます」


 別の兵が頷く。


「立てかける場所がないと困ります」


 飯配り役が口を挟む。


「立てかけると、こっちが怖い。倒れたら飯どころじゃない」


 すぐ文句が出た。


 よいことだ。


 文句が出るうちは、まだ見える。


 権六は文句腹帳を開いた。


「槍は置きたくない。立てると怖い。持つと飯が取れない。いいぞ、順調に面倒だ」


「いいぞなんですか」


 太助が聞く。


「見えてるからな」


 まず、単純に試した。


 槍持ち五人が一列に並ぶ。


 槍は手に持ったまま。


 飯配り役が前に立ち、佐助の進む飯を渡す。


 一人目は、槍を左手で持ち、右手で飯を取った。


 できる。


 だが、槍の穂先が少し揺れた。


 二人目は、それを避けようとして間を空けた。


 三人目は前が詰まり、槍尻を後ろへ引いた。


 四人目の足に当たりかけた。


「止めろ」


 作兵衛の声が飛んだ。


 全員が動きを止める。


 まだ飯を一つ渡しただけで、列はもう崩れていた。


 太助が眉を寄せる。


「槍って、列を長くしますね」


「どういう意味だ」


 権六が聞く。


「人一人の幅じゃなくて、槍の揺れる幅も要るんです。だから同じ五人でも、普通の五人より長い」


 伊三郎が書く。


 槍持ち列、人の幅ではなく槍の揺れ幅を含む。


 かやが地面の線を少し広げた。


「じゃあ、飯受け取り場の前を広くする?」


 作兵衛が首を振る。


「広くすれば、そこへ人がたまる。飯場が太る」


「じゃあ、槍を一度置く?」


 槍持ちの兵が嫌そうな顔をした。


「置きたくありません」


「立てる?」


 飯配り役が首を振る。


「倒れます」


 かやは口元に手を当てて考え込んだ。


「置き場を作るんじゃなくて、流れを作る……」


 川道の時も同じことを言っていた。


 待ち荷場を作るのではなく、待ち荷逃がしにした。


 場所を取らず、使う時だけ出し、終われば消える形。


 槍でも、ただの置き場では駄目だ。


 槍を「置いて居座る場所」にしてはいけない。


「槍を預けるんじゃなく、槍を流す」


 かやが言った。


 権六が顔をしかめる。


「槍を流すな。川じゃない」


「言い方。槍を持ったまま列を曲げるんじゃなくて、一瞬だけ槍の向きを揃える」


「向き?」


 かやは槍一本を受け取り、地面に描いた線の横へ立った。


「飯を受け取る直前に、槍を縦に持つんじゃなくて、少し斜め後ろへ倒して、隣の槍と同じ向きにする。そうすると、穂先がばらばらに揺れない」


 作兵衛が実際に若い兵たちへやらせた。


 槍を同じ角度に揃える。


 穂先は前へ出さず、斜め上へ。


 槍尻は後ろの兵の足へ当たらない距離を取る。


 その姿勢で一歩進み、飯を受け取る。


 一人目、うまくいった。

 二人目、少し迷った。

 三人目、前の槍の角度を見て合わせた。


 さっきより列は乱れない。


 だが、問題は残った。


 飯を受け取る手が右手に限られる。


 左利きの兵がいたらどうするか。

 盾や荷を持っていたらどうするか。

 雨なら滑る。

 夜なら槍の角度が見えにくい。


 槍持ちの一人が言った。


「この形は慣れればいけます。ただ、飯を取った後、包みをどこへやるか困ります」


 進む飯は、手で持ったまま食べるものではない。


 腰へ差すか、紐に引っかけるか、背負い荷へ入れる。


 だが槍を持ったままでは、それがやりにくい。


 太助が実際にやってみた。


 槍を左手で持つ。

 右手で飯を受け取る。

 腰紐へ挟もうとする。

 槍が傾く。

 飯包みが落ちかける。


「無理です」


「早いな」


 権六が言う。


「いや、できますけど、急ぐと落とします。落としたら拾う。拾うと後ろが詰まる。後ろが詰まると槍が当たる」


 作兵衛が頷いた。


「飯を受け取る場所と、飯を腰へ納める場所を同じにするな」


 高畑の半歩ずれを思い出した。


 見張り前飯の置き場が半歩ずれただけで、腰をひねり、槍が当たりかけた。


 今度は逆だ。


 受け取る場所と納める場所が同じだと、そこで詰まる。


「半歩ずらすか」


 俺が言うと、伊三郎が顔を上げた。


「半歩は危険でもあります」


「そうだな」


 半歩ずらせば流れができる。

 半歩ずらしすぎれば、また腐る。


 かやは地面に小さな印を二つ置いた。


 受け取り印。

 納め印。


 二つの印は、半歩ほどずれている。


 受け取り印で飯をもらう。


 半歩進んで、納め印で腰へ差す。


 その間、後ろの兵は受け取り印へ進まない。


 つまり、声がいる。


「受け」


 作兵衛が言った。


 兵が飯を受け取る。


「納め」


 半歩進んで、腰へ差す。


「次」


 後ろが進む。


 短い。


 高畑の札声出しに似ている。


 飲み水よし。

 味噌よし。

 非常触るな。


 今度は、


 受け。

 納め。

 次。


 槍持ちの飯声だ。


 太助が試してみた。


「受け」


 飯を受け取る。


「納め」


 半歩進んで腰へ差す。


「次」


 後ろが来る。


 一人ずつなら、うまくいく。


 五人でも、さっきよりずっといい。


 だが、権六がすぐ言った。


「声が増えるな」


「増えます」


 伊三郎が答える。


「声が増えると、省かれますね」


 高畑で学んだことだ。


 声は短くなければならない。


 腹が乗っていなければならない。


 形だけの声は腐る。


 槍持ちの若い兵が言った。


「これ、飯配り役が声を出すんですか?」


 飯配り役が嫌そうな顔をする。


「俺が全部見ながら言うのは無理だぞ」


 作兵衛が首を振った。


「列の先頭が言え」


「先頭?」


「一人目が『受け』を聞く。自分で『納め』と言う。納めたら『次』と言う。次の者が動く」


 つまり、声が列の中を流れる。


 飯配り役が全員を支配するのではない。


 槍持ち自身が、次へ渡す。


 かやが少し嬉しそうに言った。


「流れを作る、だね」


「そうだ」


 作兵衛が頷いた。


「置き場を作るより、流れを作る」


 伊三郎が書く。


 槍持ち飯配り。

 受け・納め・次。

 声は列内で流す。

 飯配り役に背負わせすぎない。

 受け取り印と納め印、半歩。ずらしすぎ注意。


 弥助殿は黙って見ていたが、そこで口を開いた。


「半歩の印は、足印にするな」


「なぜですか」


 かやが聞く。


「足印にすると、そこに足を置くことに意識が行く。槍持ちは槍を見失う」


「では何の印に?」


「飯箱の角だ」


 弥助殿は飯箱を少し動かした。


「受け取りは箱の前。納めは箱の角を過ぎたところ。地面に足を縛るな。流れの中で分かる印にしろ」


 かやが目を見開いた。


「場所じゃなくて、流れの目印」


「そうだ」


 川道の一本縄と同じだ。


 場所を囲わない。


 背を示すだけ。


 槍持ちの飯配りも、足元へ場所を作りすぎると詰まる。


 飯箱の角を使って、流れの中で半歩を作る。


 試すと、さらに自然になった。


 槍持ちは箱の前で飯を受け取り、箱の角を過ぎたところで腰へ納める。


 地面の印を見る必要がない。


 槍の角度を保ったまま、動ける。


 太助がやってみて、頷いた。


「これなら、足元を見すぎなくていいです」


「槍を持ってる時に足元を見すぎると?」


「前の槍が怖いです」


 正直な答えだった。


 次に、弓役でも試した。


 弓は槍ほど長くはない。


 だが、弓も手を塞ぐ。


 矢筒もある。


 飯を腰へ差す時、矢筒に当たりやすい。


 弓役の兵が言った。


「槍より楽ですが、矢が邪魔です」


 権六が文句腹帳へ書く。


 弓は槍ほどではないが、矢が飯を嫌う。


「飯を嫌うって書き方でいいんですか」


 伊三郎が聞く。


「分かりやすいだろ」


「分かります」


 弓役には、飯包みを腰の前ではなく少し逆側へ差す案が出た。


 だが、これも兵ごとに装備が違う。


 美濃前哨飯線帳に「兵種別飯受け取り」の頁が生まれた。


 槍持ち。

 弓。

 馬付き。

 連絡足。

 見張り。


 全員同じ飯を同じ場所で受け取るのは、危ない。


 飯の中身だけでなく、受け取り方も兵種ごとに違う。


 昼頃、実際に十人で列を作って試した。


 槍持ち五人、弓二人、飯配り二人、連絡足一人。


 最初は混ぜた列にした。


 すぐ詰まった。


 槍が長い。

 弓の矢筒が当たる。

 連絡足が急ぎたがる。

 飯配りが声を出しすぎる。


 権六が腕を組んで言った。


「混ぜるな、だな」


 作兵衛が頷く。


「混ぜるなら、順を決める。槍、弓、連絡足を同じ腹に入れるな」


 太助が言う。


「でも戦場だと混ざりますよね」


「だから、飯場の前だけでも分ける」


 かやが小札を置く。


 槍列。

 弓列。

 早足列。


「列を増やすと場所を取る」


 俺が言う。


「でも、一つの列に混ぜると詰まる」


 かやが返す。


「だから長い列を作るんじゃなくて、短い列を三つ。川道の待ち荷逃がしみたいに、場所を囲わず、流れだけ分ける」


「列を短く見せる?」


 権六が言う。


「見せるだけじゃなく、本当に短くする。長い一列は文句が育つから」


 市松が言いそうだ。


 場所を取るな。


 清洲の飯場に人を並ばせるな。


 その文句は、美濃前哨でも効く。


 伊三郎が書いた。


 飯配り列は、長い一列にしない。兵種ごとの短列。場所を取りすぎない。列は流れで分ける。


 夕方には、全員がかなり疲れていた。


 槍は重い。


 持っていない者まで、見ているだけで肩が凝る。


 太助は槍を返しながら、深く息を吐いた。


「槍持ちの人たち、よくこれで飯まで考えられますね」


 槍持ちの若い兵が笑った。


「考えてなかったから、いつも飯場で詰まってたんだろうな」


 その言葉は大事だった。


 現場では、詰まっていた。


 ただ、それを「そういうもの」として流していただけだ。


 今、帳面に入れることで、初めて痛みとして見える。


 弥助殿が最後に言った。


「今日の結論は」


 俺は小帳面を見て答えた。


「槍持ちは、飯を取りにくい。だから、飯の中身だけでなく、受け取り方を作る必要があります。置き場ではなく流れ。受け、納め、次。飯箱の角を目印に、半歩を流れで作る。長い一列ではなく、兵種ごとの短列です」


 弥助殿は頷いた。


「よい」


「まだ粗いです」


「粗くてよい。見えたなら直せる」


 夜、清洲蔵では進む飯の試作が出た。


 今日は槍持ち用に、腰へ差しやすい細長い包みにしてある。


 権六がそれを見て言った。


「今日の飯は、槍に遠慮してる味だな」


「味で分かるんですか」


 佐助が聞く。


「形で分かる」


 太助が食べながら言った。


「これなら腰へ差しやすいです。でも、細すぎると腹に足りない気がします」


「そこですね」


 佐助は頷く。


「持ちやすさと腹持ちが喧嘩します」


 きぬが包みを見て言った。


「細い包みを二つに分けるとどうでしょう。一つはすぐ食べる。一つは後で」


 佐助の目が動く。


「分割飯……槍持ちには良いかもしれません」


 権六が文句腹帳を開いた。


「分けると、片方を落とす文句が出るぞ」


「出ますね」


 佐助は、もう文句を恐れなかった。


「なら、落ちにくい結びを考えます」


 かやが笑う。


「また結びだね」


 美濃前哨飯線帳に、新しい頁が増えた。


 兵種別飯受け取り。


 馬の次は槍。


 美濃へ向かう飯は、米の量だけではなく、手の塞がり方まで見る必要がある。


 馬は道を食った。


 槍は手を食う。


 それでも、兵は飯を食わなければならない。

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